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半七捕物帳(はんしちとりものちょう)30 あま酒売
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時代推理小説 半七捕物帳(三) |
光文社時代小説文庫、光文社 |
1986(昭和61)年5月20日 |
1997(平成9)年5月15日第11刷 |
一
「また怪談ですかえ」と、半七老人は笑った。「時候は秋で、今夜は雨がふる。まったくあつらえ向きに出来ているんですが、こっちにどうもあつらえむきの種がないんですよ。なるほど、今とちがって江戸時代には怪談がたくさんありました。わたくしもいろいろの話をきいていますが、商売の方で手がけた事件に怪談というのは少ないものです。いつかお話した津の国屋だって、大詰へ行くとあれです」 「しかし、あの話は面白うござんしたよ」と、わたしは云った。「あんな話はありませんか」 「さあ」と、老人は首をかしげて考えていた。「あれとは又、すこし行き方が違いますがね。こんな変な話がありましたよ。これはわたくしにも本当のことはよく判らないんですがね」 「それはどんなことでした」と、わたしは催促するように云った。 「まあ、待ってください。あなたはどうも気がみじかい」 老人は人をじらすように悠々と茶をのみはじめた。秋の雨はびしゃびしゃというような音をたてて降っていた。 「よく降りますね」 外の雨に耳をかたむけて、あたまの上の電燈をちょっと仰いで、老人はやがて口を切った。 「安政四年の正月から三月にかけて可怪なことを云い触らすものが出来たんです。それはどういう事件かというと、毎日暮れ六ツ――俗にいう『逢魔が時』の刻限から、ひとりの婆さんが甘酒を売りに出る。女のことですから天秤をかつぐのじゃありません。きたない風呂敷に包んだ箱を肩に引っかけて、あま酒の固練りと云って売りあるく。それだけならば別に不思議はないんですが、この婆さんは決して昼は出て来ない。いつでも日が暮れて、寺々のゆう六ツの鐘が鳴り出すと、丁度それを合図のようにどこからかふらふらと出て来る。いや、それだけならまだ不思議という段には至らないんですが、うっかりその婆さんのそばへ寄ると、きっと病人になって、軽いので七日や十日は寝る。ひどいのは死んでしまう。実におそろしい話です。その噂がそれからそれへと伝わって、気の弱いものは逢魔が時を過ぎると銭湯へも行かないという始末。今日の人達はそんな馬鹿な事があるものかと一と口に云ってしまうでしょうが、その頃の人間はみんな正直ですから、そんな噂を聞くと竦毛をふるって怖がります。しかも論より証拠、その婆さんに出逢って煩いついた者が幾人もあるんだから仕方がありません。あなた方はそれをどう思います」 私にはすぐに返事が出来ないので、ただ黙って相手の顔を見つめていると、老人はさもこそといったような顔をして、しずかにその怪談を説きはじめた。 その怪しい婆さんを見た者の説明によると、かれはもう七十を越えているらしい。麻のように白く黄いろい髪を手拭につつんで、頭のうしろでしっかりと結んでいた。筒袖かとも思われるような袂のせまい袷の上に、手織り縞のような綿入れの袖無し半纒をきて、片褄を端折って藁草履をはいているが、その草履の音がいやにびしゃびしゃと響くということであった。しかしその人相をよく見識っている者がない。かれに一度出逢った者も、うす暗いなかに浮き出している梟のような大きい眼、鳶の口嘴のような尖った鼻、骸骨のように白く黄いろい歯、それを別々に記憶しているばかりで、それを一つにまとめて人間らしい者の顔をかんがえ出すことは出来なかった。 かれは唯ふらふらと迷い歩いているのではない、あま酒を売っているのである。なんにも知らずにその甘酒を買った者もたくさんあったが、その甘酒に中毒したものはなかった。又その甘酒を買った者がことごとく病みついたというわけでもなかった。往来でうっかり出逢った者のうちでも、なんの祟りも無しに済んだものもあった。つまりめいめいの運次第で、ある者は祟られ、ある者は無難であった。いずれにしても婆さんの方は何事を仕向けるのでもない。ただ黙ってゆき違うばかりで、不運の者はその一刹那におそろしい災難に付きまとわれるのであった。 眼にも見えないその怪異に取り憑かれたものは、最初に一種の瘧疾にかかったように、時々にひどい悪寒がして苦しみ悩むのである。それが三日四日を過ぎると更に怪しい症状を表わして来て、病人はうつむいて両足を長くのばし、両手を腰の方へ長く垂れて、さながら魚の泳ぐような、蛇の蜿くるような奇怪な形をして這いまわる。さりとて家じゅうを這いまわるのでもない。大抵は敷蒲団の上を境として、その上を前へうしろへ、右へ左へ蜿うつのである。それが魚というよりむしろ蛇に近いので、看病の人たちはうす気味悪がった。思いなしか病人の眼は蛇のように忌らしくみえて、口から時々に紅い舌をへらへらと吐く。こうした気味の悪い病症を三日五日も続けた後に、病人の熱は忘れたように冷めてけろりと本復するが、病中のことはなんにも記憶していない。なにを訊いても知らないという。しかしそれらは軽い方で、重いのになるとその奇怪の症状を幾日も続けているうちに、とうとう病み疲れて藻掻き死にの浅ましい終りを遂げる者もあった。それが僅かに一人や二人であったならば、蛇を殺した祟りとでも云われそうなことであったが、なにをいうにも大勢であるために、その病人をことごとく蛇を殺した人間と認めるわけにも行かなかった。殊にそのなかには蛇を殺すどころか、絵に描いた十二支の蛇を見てさえも身をすくめるような若い娘たちもあったので、蛇の祟りと決めてしまうことは出来なかった。 「と云っても、あの蜿くる姿はどうしても蛇だ」 こっちに祟られるような覚えがなくても、向うから祟るのであろう。蛇に魅こまれるという伝説は昔からたくさんある。どう考えてもあの婆さんはやはり蛇の化身で、なにかの意味で或る男や或る女を魅こむに相違ない。この説が結局は勝を占めて、怪しい老婆の正体は蛇であると決められてしまった。それが更に尾鰭を添えて、ある剛胆な男がそっと彼の婆さんのあとをつけて行くと、かれは不忍池の水を渡ってどこへか姿を隠したなどと、見て来たように吹聴する者もあらわれて来た。不忍の弁天に参詣して巳の日の御まもりをうけて来た者は、その禍いを逃がれることが出来るなどと、まことしやかに説明する者もあらわれた。 それが町方の耳にはいると、役人たちも打っちゃって置くわけには行かなくなった。由来、かような怪しい風説を流布して世間を騒がす者は、それぞれ処罰されるのが此の時代の掟であったが、それが跡方もない風説とのみ認められないので、先ずその本人のあま酒売りを詮議することになった。しかし、彼女の立ち廻る場所がどの方面とも限られていないので、江戸じゅうの岡っ引一同に対してかれの素姓あらためを命ぜられ、次第によっては即座に召し捕って苦しからずということであった。 八丁堀同心伊丹文五郎は半七を呼んでささやいた。 「今度の一件を貴様はどう思うか知らねえが、悪くすると磔刑のお仕置ものだぞ。その積りでしっかりやってくれ」 「クルスでございますかえ」 半七は人差指で十字の形を空に書いてみせると、文五郎はうなずいた。 「さすがに貴様は眼が高い。蛇の祟りなんぞはどうも真に受けられねえ。ひょっとすると切支丹だ。奴らがなにか邪法を行なうのかも知れねえから、そこへ見当をつけて詮索してみろ」 こっちも内々それに目星をつけたので、半七はすぐに受け合って帰った。しかし、どこから先ず手を着けていいのか、彼もさすがに方角が立たないので、家へ帰ってからも眼をとじて考えていたが、やがて台所の方にむかって声をかけた。 「おい、誰かそこにいるか」 「あい」 台所につづいた六畳の間に、大きい火鉢を取りまいていた善八と幸次郎とがばらばらと起って来た。 「おめえたちはあま酒売りの婆さんを知っているか」と、半七は訊いた。 「出っくわしたことはありませんが、噂だけは聞いています」と、善八は答えた。 「伊丹の旦那からのお指図だ。どうにかしにゃあならねえ。この一件は俺ばかりじゃねえ、みんなも総がかりでやる仕事だから、なんでも早い勝ちだ。そこであんまり知恵のねえ話だが、まあお定まりの段取りで仕方がねえ。おめえ達はこれから手わけをして、甘酒の卸し売りをする問屋をみんな探してくれ。婆だって自分の家であま酒を作るわけじゃあるめえ。きっとどこかで毎日仕入れて来るんだろうから、そういう変な婆が来るか来ねえか、方々の店で聞き合わせてくれ。こんなことは誰もがみんな手をつけることだろうが、こっちも心得のために一応は念をついて置かにゃあならねえ」 ふたりの子分を出してやって、半七は午飯を食ってしまうと、三月末の春の日はうららかに晴れていた。家にぼんやりと坐ってもいられないので、半七はどこをあてとも無しに神田の家を出て、百本杭から吾妻橋の方角へ、大川端をぶらぶらと歩いてゆくと、向島の桜はまだ青葉にはなり切らないので、遅い花見らしい男や女の群れがときどきに通った。その賑やかな群れのあいだを苦労ありそうにしょんぼりとうつむき勝ちに歩いている一人の若い男が、その蒼ざめた顔をあげて半七の姿をふと見付けると、なんだか臆病らしい眼をしながら彼のあとをそっと尾けて来るらしかった。 最初は素知らぬ顔をしていたが、こっちの横顔をぬすむように窺いながら三、四間ほども付いて来るので、半七も勃然として立ち停まった。 「おい、大哥。わっしになにか用でもあるのかえ。花見どきに人の腰を狙ってくると、巾着切りと間違げえられるぜ」 睨み付けられて男はいよいよ怯えたらしい低い声で、ごめんなさいと丁寧に挨拶して、そのままそこに立ちすくんでしまった。気障な野郎だと思いながら、半七もそのまま通り過ぎたが、よほど行き過ぎてから彼はふと考えた。あの若い男の人相や風体は巾着切りなどではないらしい。勿論こっちで見覚えのない男であるが、或いは向うではこっちの顔を見知っていて、なにか話し掛けようとしながらも、つい気怯れがしてそのままに云いそびれてしまったのではあるまいか。もしそうならば暴い詞をかけるのではなかったと、半七は少し気の毒になって元来た方をふり返ると、男の姿はもう見えなかった。
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