時代推理小説 半七捕物帳(二) |
光文社時代小説文庫、光文社 |
1986(昭和61)年3月20日 |
1997(平成9)年3月20日第11刷 |
一
「いつかは弁天娘のお話をしましたから、きょうは鬼むすめのお話をしましょうか」と、半七老人は云った。
馬道の庄太という子分が神田三河町の半七の家へ駈け込んで来たのは、文久元年七月二十日の朝であった。
「お早うございます」
「やあ、お早う」と、裏庭の縁側で朝顔の鉢をながめていた半七は見かえった。「たいへん早いな、めずらしいぜ」
「なに、この頃はいつも早いのさ」
「そうでもあるめえ。朝顔の盛りは御存じねえ方だろう。だが、朝顔ももういけねえ、この通り蔓が伸びてしまった」
「そうですねえ」と、庄太は首をのばして覗いた。「時に親分。すこし耳を貸して貰いてえことがあるんですよ。わっしの近所にどうも変なことが流行り出してね」
「なにが流行る、麻疹じゃあるめえ」
「そんなことじゃあねえので……」と、庄太はまじめにささやいた。「実はわっしの隣りの家のお作という娘がゆうべ死んでね」
「どんな娘で、いくつになる」
「子供のような顔をしていたが、もう十九か二十歳でしょうよ。まあ、ちょいと渋皮の剥けたほうでね」
それが普通の死でないことは半七にもすぐに覚られた。かれはすぐに起ちあがって、茶の間へ庄太を連れ込んだ。
「そこで、その娘がどうした。殺されたか」
「殺されたには相違ねえんだが……。そいつが啖い殺されたんですよ」
「化け猫にか」と、半七は笑った。「いや、冗談じゃあねえ。ほんとうに啖い殺されたのか」
「ほんとうですよ。なにしろわっしの隣りですからね。こればかりは間違い無しです」
庄太の報告はこうであった。
今から半月ほどまえの宵に、馬道の鼻緒屋の娘で、ことし十六になるお捨というのが近所まで買物に出ると、白地の手拭をかぶって、白地の浴衣を着た若い女が、往来で彼女とすれ違いながら、もしもしと声をかけた。なに心なく振りかえると、その女はうす暗いなかで薄気味のわるい顔をしてにやにやと笑った。年のわかいお捨は俄かにおそろしくなって、返事もしないで一生懸命に逃げ出した。勿論それぎりの話で、その若い女はまさかに幽霊や化け物でもあるまい、おそらく気ちがいであろうという噂であった。
それから又五、六日経つと、更におそろしい出来事が起った。やはり同じ町内の酒屋の下女で、今年二十一になるお伝というのが、裏手の物置へ何か取り出しにゆくと、やがてきゃっという声をあげて倒れた。その悲鳴を聞きつけて、内から大勢が駈け出してみたが、薄暗い灯ともし頃で、そこらに物の影もみえなかった。お伝は何者にか喉笛を啖い切られて死んでいた。それだけでもすでに怖ろしい出来事であるのに、それにもう一つの怪しい噂が付け加えられて、更に近所の人々をおびやかしたのである。
それはこの晩、かの鼻緒屋のお捨を嚇したという怪しい娘によく似た女が、あたかもそれと同じ時刻に酒屋の裏口を覗いていたのを見た者があるというのであった。前後ともに暗い時刻であるので、よくその正体を見とどけることは出来なかったが、前の女も後の女もおなじく白地の手拭をかぶって、白地の浴衣を着ていて、どうも同じ人間であるらしいと思われた。そうして、その怪しい女とお伝の死と、そのあいだにも何かの関係があるらしく思われて来た。鼻緒屋の娘は運よく逃れたが、酒屋の下女は運わるく啖い殺されたのではあるまいか。こういう風に二つの事件をむすび付けて解釈すると、かれは一種のおそろしい鬼女であるかも知れない。鬼婆で名高い浅茅ヶ原に近いだけに、鬼娘の噂がそれからそれへと仰々しく伝えられて、残暑の強いこの頃でも、気の弱い娘子供は日が暮れると門涼みに出るのを恐れるようになった。
それでも鬼女の奇怪な事実はまだ一般には信じられなかった。ある人々はそれを臆病者の噂と聞き流して、いわゆる高箒を鬼と見るたぐいに過ぎないと冷笑っていた。しかもそれから又十日と経たないうちに、強い人々もいよいよ臆病者の仲間入りをしなければならないような事件が重ねて出来した。鬼娘が又もや一人の女を屠[#ルビの「ほふ」は底本では「ほう」]ったのである。それは山の宿の小間物屋の女房で、かれは誰も知らない間に、裏の井戸端で啖い殺されていた。勿論それも同じ鬼娘の仕業であることに決められてしまった。
諸人の不安がだんだん募って来た時、鬼娘は更に第三の生贄を求めた。それは庄太のとなりに住んでいるお作という娘であった。庄太の家はかの酒屋から遠くない露路のなかで、そこには裏店としてやや小綺麗な五軒の小さい格子作りがならんでいた。庄太の家は露路の口から四軒目で、隣りの長屋にお作という娘が母のお伊勢と二人で暮らしていた。その奥は空地になっていて、そこには大きい掃溜めがあった。昔から栽えてある大きい桜が一本立っていた。お作は浅草の奥山の茶店に出ているが、そのほかに内々で旦那取りをしているとかいうので、近所の評判は余りよくなかった。そんな噂もあるだけに、母子はいつも身綺麗にして、不足もないらしく暮らしていた。隣り同士でもあり、殊に庄太の商売を知っているので、お作親子はふだんから愛想よく彼に附き合って、いろいろの物をくれたりした。
お作が啖い殺されたのは、ゆうべの六ツ半(午後七時)を過ぎた頃であった。いつもの通りに奥山の店から帰って来て、かれは台所で行水を使っていた。母のお伊勢は小さい庭にむかった奥の縁側で蚊いぶしをしていると、台所で娘の声がきこえた。お作は何者かを咎めるような口ぶりで、「誰、そこから覗くのは誰」と云っているのが耳にはいったので、おそらく近所の若い者が戯ってでもいるのであろうと思いながら、お伊勢は蚊いぶしを煽いでいる団扇の手をやめて、台所の方を見かえると、うす暗いところに一人の女が立っている姿がぼんやりと浮かんで見えた。女は白地の手拭をかぶって、おなじ白地の浴衣を着ているらしかった。お作はまた咎めた。
「なにを覗いているのよ、おまえさんは……」
その声が終らないうちにお作はきゃっと叫んだ。おどろいてお伊勢は台所へ駈け付けてみると、赤裸の彼女は大きい盥からころげ出して倒れている。お伊勢は再び奥へ引っ返して、行燈を持ち出して来た。その灯に照らされた行水の湯は真っ紅に染まっていて、それが娘の喉からあふれ出る血であることを知った時に、お伊勢は腰をぬかすほどに驚いた。かれは表通りまで響くような声をあげて人を呼んだ。
近所の人達もすぐに駈け付けた。町内の医者もすぐに来たが、お作は何者にか喉笛を啖い破られているので、もう手当てを加える術もなかった。お伊勢は夢のようで、なにがどうしたのかちっとも判らなかった。お作の行水をうかがっていたらしい女は、このどさくさのあいだに何処へか消え失せてしまった。しかし前後の事情から考えると、お作を殺した疑いは先ず第一にその女のうえに置かれなければならなかった。白地の浴衣を着た女、酒屋の下女を啖い殺した女、小間物屋の女房を啖い殺した女、それが又もやここにあらわれて、赤裸の若い女を啖い殺したのであろうとは、誰の胸にもすぐに浮がび出る想像であった。鬼娘が又来たという噂はたちまち拡がって、近所の人達をいよいよおびやかした。庄太の女房もゆうべはおちおち眠らなかった。
「その時におめえは家にいたのか」と、半七は訊いた。
「ところが、親分。その時わっしは表の足袋屋の店へ行って、縁台で将棋をさしていたんですよ。この騒ぎにおどろいて帰って来た時には、長屋の者が唯わあわあ云っているばかりで、ほかには誰もいませんでした。白地の浴衣を着た女なんぞは影も形も見えませんでした」
「あの露路は抜け裏か」
「以前は通りぬけが出来たんですが、もともと広い露路でもなし、第一無用心だというので、おととし頃から奥の出口へ垣根を結ってしまったんですが、もういい加減に古くなったのと、近所の子供がいたずらをするのとで、竹はばらばらに毀れていますから、通りぬけをすれば出来ますよ」
「むむ」と、半七は考えていた。「無論、検視もあったんだろうが、なんにも手がかりは無しか」
「どうも判らねえようですね。今も田町の重兵衛の子分に逢いましたが、重兵衛はなにか色恋の遺恨じゃあねえかと、専らその方を探っているそうです。なるほど、お作はあんな女ですから、そこへ眼をつけるのも無理はありませんが、刃物で突くとか斬るとかいうなら格別、啖い殺すのがどうもおかしい。それもお作一人でなし、ほかに二人も死んでいるんですからね。田町の子分共もこれにはちっと行き悩んでいるようでしたよ」
「喉笛へ啖い付くとはよくいうことだが、なかなか出来る芸じゃあねえ」と、半七はまた考えていた。「ほんとうに啖い殺したのかしら、鉄砲疵には似たれども、まさしく刀でえぐった疵、とんだ六段目じゃあねえかな」
「さあ」と、庄太も少し考えていた。「わっしも死骸をみましたがね。喉笛はたしかに啖い切られていたようでしたよ。医者もそう云い、検視でもそう決まったんですが……。お前さんには何かほかの見込みがありますかえ」
「いや、おれにもまだ見当はつかねえが、どうにも腑に落ちねえようだな。それにしても、その鬼娘というのは何者だろう」
「それも判りませんよ」
「わからねえじゃあ困る。おれも考えてみるから、おめえも考えてくれ」
云いかけて、半七はふと何事かを思い出したらしく、持っている団扇を下に置いた。
「だが、なにしろ一度は行ってみよう。家にばかり涼んでいちゃあ埒があかねえ。重兵衛の縄張りをあらすようだが、おめえも土地に住んでいるんだ。おれが手伝って、おめえの顔を好くしてやろうか」
「ありがたい。何分ねがいます」
親分を案内して、庄太が出ようとすると、半七の女房がうしろから声をかけた。
「庄さん。どこへ」
「親分を引っ張り出して浅草へ……」と、庄太は笑った。「方角が悪いが、朝っぱらだから大丈夫ですよ」
「朝っぱらからでも昼っぱらからでも、おまえさんじゃあ油断が出来ない。おかみさんがお盆に来て愚痴を云っていたよ」
女房に笑われて、庄太は頭をかいていた。
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