三
「尼さんには用のねえ商売だが、男か女の髪結いで、ここの家へ心安く出這入りをする者がありますかえ」と、半七は訊いた。
伊助は小間物屋であるだけに、その人をよく識っていた。それは隣り町に住んでいるお国という女髪結で、善昌とは古いなじみでもあり、もちろん信者の一人でもあるので、ふだんから近しく出入りをしている。これも独り者で、年頃は四十を一つ二つ越しているかも知れないと云った。
「それじゃあすぐに呼んでください」
「かしこまりました」
伊助は怱々出て行ったが、やがて引っ返して来て、お国はゆうべから家へ帰らないと云った。独り者であるから、いつも朝から家を閉めて商売に出歩いている。親類の家へ泊まるとか云って、夜も帰らないことがしばしばある。きのうも夕方に帰って来て、湯に入ってから何処へか出かけたぎりで帰らない。大かた親類へでも泊まりに行って、きょうは藪入りで商売は休みであるから、どこかを遊び歩いているのであろうとのことであった。
「それじゃあ、いつ帰るか判らねえ」
思案しながら半七は、再び善昌の死骸に眼をやると、首のない尼は白い麻の法衣を着て横たわっていた。半七はその冷たい手を握ってみた。
もしもお国が帰って来たらば、そっと自分のところまで知らせてくれと頼んで置いて、半七はひと先ずここを引き揚げることになった。暑い時分のことであるから、信者たちがあつまってすぐに死骸の始末をすると五兵衛は云っていた。
「勿論このまま打っちゃっても置かれめえが、火葬にするのはお見合わせなさい。この死骸について、後日又どんなお調べがないとも限りませんから」と、半七は注意した。
「では、土葬にいたして置きます」
五兵衛と伊助に見送られて、半七はここを出た。
さっきから余ほどの時間が経ったようであるが、七月なかばの日はまだ沈みそうもなかった。片蔭のない竪川の通りをふたりは再び汗になって歩いた。
「蝶合戦のあったというのはここらだな」
「そうでしょう」と、熊蔵は云った。「わっしは見なかったが、なんでも大変な評判でしたよ」
「むむ。評判だけは俺も聴いている」と、半七は立ちどまって川の水をながめていたが、やがて子分にささやいた。「おい、おめえはさっきあの木像を嗅いで、どんな匂いがした」
「なんだか髪の油臭いような匂いがしましたよ」
「むむ」と、半七はうなずいた。「善昌は尼だ。髪の油に用はねえ筈だ。なんでも油いじりをする奴があの木像に手をつけたに相違ねえ」
「すると、そのお国とかいう女髪結がいじくったかも知れませんね」
「おめえはあの死骸を誰だと思う」
「え」と、熊蔵は親分の顔をながめた。
「おれの鑑定では、あれがお国という女髪結だな」
「そうでしょうか」と、熊蔵は眼を見はった。「どうしてわかりました」
「あの死骸の手にも油の匂いがしている。梳き油や鬢付けの匂いだ。元結を始終あつかっていることは、その指をみても知れる。善昌は三十二三だというのに、あの肉や肌の具合が、どうも四十以上の女らしい。足の裏も随分堅いから、毎日出あるく女に相違ねえ」
「それじゃあお国の首を斬って、その胴に善昌の法衣を着せて置いたんでしょうか」
「まずそうらしいな。お国はゆうべから帰らねえというが、おそらく来年の盆までは娑婆へ帰っちゃあ来ねえだろうよ」と、半七はにが笑いをした。「それにしても、なぜお国を殺したかが詮議物だ。お国を自分の替え玉にして残して置いて、本人の善昌はどこにか隠れているに相違ねえ。おめえはこれから引っ返して、お国という女の身許や、ふだんの行状をよく洗って来てくれ。そうしたら何かの手がかりが付くだろう」
「ようがす。すぐに行って来ます」
「いや、待ってくれ。おれも一緒に行こう。こんなことは早く埒をあける方がいい」
ふたりは連れ立って又引っ返した。
お国の家は弁天堂の隣り町で、これも狭い露路の奥の長屋であった。近所でだんだん聞きあわせると、お国の評判はどうもよくない。若いときから二、三人の亭主をかえて、今では独身で暮らしているが、絶えず一人ふたりの男にかかり合っているらしく、親類の家へ泊まりにゆくというのも嘘かほんとうか判らない。その菩提寺の住職が去年死んで、その後は若い住職に変ったが、その僧とも何かの係り合いが出来て、ときどきにそっと泊まり込みにゆくらしいという噂もある。それらの事実を探り出して、ふたりはここを立ち去った。
「さあ、もうひと息だ」
半七は先に立って歩いた。お国の菩提寺は、中の郷の普在寺であると聞いたのを頼りに訪ねてゆくと、その寺はすぐに知れた。小さい寺ではあるが、門内の掃除は綺麗に行きとどいて、白い百日紅の大樹が眼についた。入口の花屋で要りもしない線香と樒を買って、半七はそこの小娘にそっと訊いた。
「ここのお住持はなんという人だえ」
「覚光さんといいます」
「本所からお国さんという髪結さんが時々来るかえ」
「ええ」と、娘はうなずいた。
「泊まって行くこともあるかえ」
娘はだまっていた。
「それから、やっぱり本所の方から尼さんが来やあしないかえ」
「ええ」と、娘は又うなずいた。
「なんという人だえ」
娘はなにか云おうとする時に、婆さんが手桶をさげて帰って来た。かれは娘を眼で制しながら、半七らに向ってひと通りの世辞などを云い出した。そのうちに又ひと組の参詣人が花や線香を買いに来たので、半七は思い切って店を出た。
「この線香をどうしますえ」と、熊蔵は小声で訊いた。
「捨てるわけにも行くめえ。無縁の仏にでも供えて置こう」
残暑の強い此の頃ではあるが、墓場にはもう秋らしい虫が鳴いていた。半七は何物かをたずねるように石塔のあいだを根気よく縫い歩いていると、墓場の奥の方に紫苑が五、六本ひょろひょろ高く伸びていて、そのそばに新らしい卒堵婆が立っているのを見つけた。卒堵婆は唯一本で、それには俗名も戒名も書いてなかったが、きのう今日に掘り返された新らしい墓であることはひと目に覚られた。
「ここに新ぼとけがある。ここらへ供えて置きましょうか」と、熊蔵は手に持っている樒と線香とを見せた。
「馬鹿。飛んでもねえことをするな」と、半七は叱った。「それほど邪魔になるなら、どこへでも打っちゃってしまえ。手前のようなどじはねえ。そんなものはこっちへよこせ」
熊蔵の手から樒と線香とを引ったくって、半七はすたすた歩き出した。
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