時代推理小説 半七捕物帳(二) |
光文社時代小説文庫、光文社 |
1986(昭和61)年3月20日 |
1997(平成9)年3月20日第11刷 |
一
江戸っ子は他国の土を踏まないのを一種の誇りとしているので、大体に旅嫌いであるが、半七老人もやはりその一人で、若い時からよんどころない場合のほかには、めったに旅をしたことが無いそうである。それがめずらしく旅行したということで、わたしが訪ねたときは留守であった。老婢の話によると、宇都宮の在にいる老人の甥の娘とかが今度むこを取るについて、わざわざ呼ばれて行ったということであった。それから十日ほど経つと、老人から老婢を使によこして、先日は留守で失礼をしたが、きのう帰宅しました、これはめずらしくもない物だが御土産のおしるしでございますと云って、日光羊羹と乾瓢とを届けてくれた。
その挨拶ながら私が赤坂の家をたずねたのは、あくる日のゆう方で、六月なかばの梅雨らしい細雨がしとしとと降っていた。襟に落ちる雨だれに首をすくめながら、入口の格子をあけると、老人がすぐに顔を出した。
「はは、ばあやにしてはちっと早い。きっとあなただろうと思いました」
いつもの笑顔に迎えられて、わたしは奥の横六畳の座敷へ通った。ばあやは近所へ買物に行ったということで、老人は自身に茶を淹れたり、菓子を出したりした。ひと通りの挨拶が済んで、老人は機嫌よく話し出した。
「あなたは義理が堅い。この降るのによくお出かけでしたね。あっちにいるあいだも、とかく降られ勝ちで困りましたよ」
「なにか面白いことはありませんでしたか」と、わたしは茶を飲みながら訊いた。
「いや、もう」と、老人は顔をしかめながら頭をふってみせた。「なにしろ、宇都宮から三里あまりも引っ込んでいる田舎ですからね。いや、それでもわたしの行っている間に、雀合戦があるというのが大評判で、わたくしも一度見物に出かけましたよ。何万羽とかいう評判ほどではありませんでしたが、それでも五六百羽ぐらいは入りみだれて合戦をする。あれはどういう訳でしょうかね」
「東京でも曾てそんな噂を聴いたことがありましたね」
「雀合戦、蛙合戦、江戸時代にはよくあったものです。この頃そんな噂の絶えたのは、雀や蛙がだんだんに減って来たせいでしょう。あいつらも大勢いると、自然縄張り争いか何かで仲間喧嘩をするようになるのかも知れません。人間と同じことでしょうよ。ははははは」
それから枝がさいて、江戸時代の蛙やすずめの合戦話が始まった頃に、ばあやが帰って来た。雨の音が又ひとしきり強くきこえた。
「よく降りますね」と、老人は雨の音に耳をかたむけながら又云い出した。「今もお話し申した雀合戦、蛙合戦のほかに螢合戦、蝶合戦などというのもあります。螢合戦もわたくしは一度、落合の方で見たことがあります。それから蝶合戦……。いや、その蝶合戦について一つのお話がありますが、まだお聴かせ申しませんでしたかね」
「まだ伺いません。聴かしてください」と、私は一と膝のり出した。「その蝶合戦が何か捕物に関係があるんですか」
「大ありで、それが妙なんですよ」
これが口切りで、わたしは今夜もひとつの新らしい話を聴き出すことが出来た。
万延元年六月の末頃から本所の竪川通りを中心として、その附近にたくさんの白い蝶が群がって来た。はじめは千匹か二千匹、それでも可なりに諸人の注意をひいて、近所の子ども等は竹竿や箒などを持ち出して、面白半分に追いまわしていると、それが日ましに殖えて来て、六月晦日にはその数が実に幾万の多きに達した。なにしろ雪のように白い蝶の群れが幾万となく乱れて飛ぶのであるから、まったく一種の奇観であったに相違ない。
「蝶々合戦だ」と、みな口々に云った。
むらがる蝶は狂っているのか戦っているのか能く判らなかったが、ともかくも入りみだれて追いつ追われつ、あるいは高く、あるいは低く、もつれ合って飛んでいる。疲れたのか傷ついたのか、水の上にはらはらと舞い落ちるのもある。風に吹きやられて大空にひらひらと高く舞いあがるのもある。そこらは時ならぬ花吹雪とも見られる景色であるので、屋敷の者も町屋の者も総出になって、この不思議なありさまを見物しているうちに、誰が云い出すともなく、こんな噂がそれからそれへとささやかれた。
「やっぱり善昌さんの云うのはほんとうだ。弁天さまのお告げに嘘はない。これは何かのお知らせに相違あるまい」
気の早いのは松坂町の弁天堂へ駈けつけて、おうかがいを立てるのもあった。松坂町はかの吉良上野介の屋敷のあった跡で、今はおおかた町屋となっている。その露路の奥に善昌という尼が住んでいる。以前は小鶴といって、そこらを托鉢の比丘尼であったが、六、七年前から自分の家に弁財天を祭って諸人に参拝させることにした。本所には窟の弁天、藁づと弁天、鉈作り弁天など、弁天の社はなかなか多いのであるが、かれが祀っているのは光明弁天というのであった。かれ自身の云うところによれば、ある夜更けに下谷の御成道を通ると、路ばたの町屋の雨戸の隙間からただならぬ光りが洩れているので、不思議に思って覗いてみると、それは古道具屋で、店先にかざってある木彫りの弁天の像から赫灼たる光明を放っていた。いよいよ不思議を感じて帰って来ると、その夜の夢にかの弁財天が小鶴の枕もとにあらわれて、我を祀って信仰すれば、諸人の災厄をはらい、諸人に福運を授けると告げたので、かれは翌朝早々に下谷へ行ってその尊像を買い求めて来たのである。その話が世間に伝わって、それを拝みに来る者がだんだんに殖えて来た。
小鶴はその名を善昌とあらためた。今までは長屋同様の小さい家であったのを建て換えて、一つの弁天堂のように作りあげた。かれは托鉢をやめて、堂守のような形でそこに住んでいたが、参詣者の頼みに因っては一種の祈祷のようなこともした。身の上判断もした。彼女がこうして諸人の信仰や尊敬をうけるようになったのは、弁財天の霊験あらたかなるに因ること勿論で、二、三年前にもこういう実例があった。ある日の午後、独身者の善昌が近所へ用達しに出ると、その留守へやはり近所のお国という女が参詣に来た。
ここでお国をおどろかしたのは、一人の若い男が仏前に倒れ苦しんでいることであった。男は口からおびただしい血を吐いて、虫の息で倒れている。お国はびっくりして声をあげると、近所の人たちも駈け集まって来て、一体どうしたことかと詮議したが、男はもう口を利くことが出来なかった。彼はそこにころげている餅や菓子を指さしたままで息が絶えた。それからだんだん調べてみると、かれは賽銭箱の錠をこじあけて賽銭をぬすみ出したのである。そればかりでなく、仏具のなかでも金目になりそうな物を手あたり次第にぬすみ取り、風呂敷につつんで背負い出そうとしたが、それでもまだ飽き足らないで、仏前にそなえてある餅や菓子を食い、水を飲んだ。そうして何かの毒にあたって死んだらしいということが判った。
取りあえずそれを善昌の出先きへ報らせてやると、かれも驚いて帰って来た。かの男はどうして死んだのか判らないが、仏前の餅や菓子に毒のはいっている筈はないと善昌は云った。かれは諸人のうたがいを解くために、かれらの見ている前でその餅や菓子を食ってみせたが、別になんにも変ったことはなかった。そんならかの男はなぜ死んだか。かれは盗人で、賽銭をぬすみ、仏具をぬすみ、あまつさえ仏前の供物まで盗み啖ったので、たちまちその罰を蒙って供物が毒に変じたのであろうと、諸人は判断した。かれらは今更のように弁財天の霊験あらたかなるに驚嘆して、信心いよいよ胆に銘じた。その噂がまた世間にひろまって、信者は以前に幾倍するようになった。諸方からの寄進も多分にあつまって、弁天堂は再び改築されたので、狭い露路の奥にありながらも、その赫灼たる燈明のひかりは往来からも拝まれて、まことに光明弁天の名にそむかないように尊く見られた。
その善昌が今年の三月、弁財天のお告げであると称して、一種の予言めいたことを信者たちに云い聞かせた。今年はおそるべき厄年であって、井伊大老の死ぐらいは愚かなことであり、五年前の大地震、四年前の大風雨、二年前の大コロリ、それにも増したる大きいわざわいが江戸中に襲いかかって来るに相違ない。但しそれには必ず何かの前兆があるから、いずれも用心を怠ってはならぬというのであった。付近の信者はみなそれを信じた。大地震、大風雨、大コロリ、黒船騒ぎ、大老邀撃、それからそれへと変災椿事が打ちつづいて、人の心が落ち着かないところへ、又もやこの恐ろしい御託宣を聴かされたのであるから、かれらの胸に動悸の高まるのも無理はなかった。
かならず何かの前兆があると善昌は云った。その警告におびえている彼等の眼のまえに、不思議の蝶合戦が起ったのである。気の早い者はあわてて弁天堂へかけ着けると、仏前の燈明はすべて消えていた。幾匹かの白い蝶がどこからか飛んで来て、燈明の火を片端から消してしまったのであると、善昌は不思議そうに話した。
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