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半七捕物帳(はんしちとりものちょう)12 猫騒動

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-8-28 9:41:19  点击:  切换到繁體中文


     二

 神明の祭礼まつりの夜であった。おなじ長屋に住んでいる鋳掛いかけ錠前直しの職人の女房が七歳ななつになる女の児をつれて、神明のお宮へ参詣に行って、四ツ(午後十時)少し前に帰って来ると、その晩は月が冴えて、明るい屋根の上に露が薄白く光っていた。
「あら、阿母おっかさん」
 女の児はなにを見たか、母の袂をひいて急に立ちすくんだ。女房もおなじく立ち停まった。猫婆の屋根の上に小さい白い影が迷っているのであった。それは一匹の白猫で、しかも前脚二本を高くあげて、後脚二本は人間のように突っ立っているのを見た時に、女房もはっと息をのみ込んだ。かれは娘を小声で制して、しばらくそっと窺っていると、猫は長い尾を引き摺りながら、踊るような足取りで板葺こけら屋根の上をふらふらと立ってあるいた。女房はぞっとして鶏肌とりはだになった。猫が屋根を渡り切って、その白い影がおまきの家の引窓のなかに隠れたのを見とどけると、彼女は娘の手を強く握って転げるように自分の家へかけ込んで、引窓や雨戸を厳重に閉めてしまった。
 亭主は夜遅く帰って来て戸をたたいた。女房がそっと起きて来て、今夜自分が見とどけた怪しい出来事を話すと、祭礼の酒に酔っている亭主はそれを信じなかった。
「べらぼうめ、そんなことがあるもんか」
 女房のめるのもきかずに、彼はおまきの台所へ忍んで行って、内の様子を窺っていると、やがておまきの嬉しそうな声がきこえた。
「おお、今夜帰って来たのかい、遅かったねえ」
 これに答えるような猫の啼き声がつづいて聞えた。亭主もぎょっとして、酒の酔いが少しさめて来た。彼はぬき足をして家へ帰った。
「ほんとうに立って歩いたか」
「あたしも芳坊も確かに見たんだもの」と、女房も顔をしかめてささやいた。小さい娘のお芳もそれに相違ないとふるえながら云った。
 亭主もなんだか薄気味が悪くなって来た。ことに彼は猫を捨てに行った一人であるだけに、いよいよ好い心持がしなかった。彼はまた酒を無暗に飲んで酔い倒れてしまった。女房と娘とはしっかり抱き合ったままで、夜のあけるまでおちおち睡られなかった。
 おまきの家の猫はゆうべのうちにみな帰っていた。ことに鋳掛屋の女房の話を聴いて、長屋じゅうの者は眼をみあわせた。普通の猫が立ってあるく筈はない、猫婆の家の飼猫は化け猫に相違ないということに決められてしまった。その噂が家主の耳へもはいったので、彼も薄気味が悪くなった。彼は再びおまき親子にむかって立ち退きを迫ると、おまきは自分の夫の代から住み馴れている家を離れたくない。猫はいかように御処分なすっても好いから、どうか店立たなだてをゆるして貰いたいと涙をこぼして家主に嘆いた。そうなると、家主にも不憫が出て、たってこの親子を追い払うわけにも行かなかった。
「ただ捨てて来るから、又すぐ戻って来るのだ。今度は二度と帰られないように重量おもしをつけて海へ沈めてしまえ。こんな化け猫を生かして置くと、どんな禍いをするか知れない」
 家主の発議で、猫は幾つかの空き俵に詰め込まれ、これに大きい石を縛りつけて芝浦の海へ沈められることになった。今度は長屋じゅうの男という男は総出になって、おまきの家へ二十匹の猫を受け取りに行った。重量をつけて海の底へ沈められては、さすがの猫ももう再び浮かび上がれないものとおまきも覚悟したらしく、人々にむかって嘆願した。
「今度こそはながの別れでございますから、猫に何か食べさしてやりとうございます。どうぞ少しお待ち下さい」
 彼女は二十匹の猫を自分のまわりに呼びあつめた。きょうは七之助も商売を休んで家にいたので、おまきは彼に手伝わせて何か小魚こざかなを煮させた。飯と魚とを皿に盛り分けて、一匹ずつの前にならべると、猫は鼻をそろえて一度に食いはじめた。彼等は飯を食った。肉を食った。骨をしゃぶった。一匹ならば珍らしくない、しかも二十匹が一度に喉を鳴らし、牙をむき出して、めいめいの餌食を忙がしそうにくらっているありさまは、決して愉快な感じを与えるものではなかった。気の弱いものにはむしろ凄愴ものすごいようにも思われた。白髪しらがの多い、頬骨の高いおまきは、伏目にそれをじっと眺めながら、ときどきそっと眼を拭いていた。
 おまきの手から引き離された猫の運命は、もう説明するまでもなかった。万事が予定の計画通りに運ばれて、かれらは生きながら芝浦の海の底へ葬られてしまった。それから五、六日を経っても猫はもう帰って来なかった。長屋じゅうの者はほっとした。
 併しおまきは別にさびしそうな顔もしていなかった。七之助は相変らず盤台をかついで毎日の商売に出ていた。その猫を沈められてから丁度七日目の夕方におまきは頓死したのであった。
 それを発見したのは、北隣りの大工の女房のお初で、亭主は仕事からまだ帰って来なかったが、いつもの慣習ならいで彼女は格子に錠をおろして近所まで用達に行った。南隣りは当時空家あきやであった。したがって、おまきの死んだ当時の状況は誰にも判らなかったが、お初の云うところによると、かれが外から帰って来て、路地の奥へ行こうとする時に、おまきの家の入口に魚の盤台と天秤棒とが置いてあるのを見た。七之助が商売から戻って来たものと推量した彼女は、その軒下を通り過ぎながら声をかけたが、内には返事がなかった。秋の夕方はもう薄暗いのに、内には灯をともしていなかった。暗い家のなかは墓場のようにしんと沈んでいた。一種の不安に襲われて、お初はそっと内をのぞくと、入口の土間には人がころげているらしかった。怖々こわごわながら一と足ふみ込んで透かして視ると、そこに転げているのは女であった。猫婆のおまきであった。お初は声をあげて人を呼んだ。
 その叫びを聞き付けて近所の人も駈けて来た。猫婆が死んだという噂が長屋じゅうから裏町まで伝わって、家主もおどろいて駈け付けた。一と口に頓死というけれど、実際は病気で死んだのか、人に殺されたのか、それがまだ判然はっきりしなかった。
「それにしても息子はどうしたんだろう」
 盤台や天秤棒がほうり出してあるのを見ると、七之助はもう帰って来たらしいが、どこに何をしているのか、この騒ぎのなかへ影を見せないのも不思議に思われた。ともかくも医者を呼んで来て、おまきの死骸をあらためて貰うと、からだに異状はない、頭の脳天よりは少し前の方に一ヵ所の打ち傷らしいものが認められるが、それも人から打たれたのか、あるいは上がりはなから転げ落ちるはずみに何かで打ったのか、医者にも確かに見極めが付かないらしく、結局おまきは卒中そっちゅうで倒れたということになった。病死ならば別にむずかしいこともないと、家主もまず安心したが、それにしても七之助のゆくえが判らなかった。
「息子はどうしたんだろう」
 おまきの死骸を取りまいて、こうした噂が繰り返されているところへ、七之助が蒼い顔をしてぼんやり帰って来た。隣りちょうに住んでいる同商売の三吉という男もついて来た。三吉はもう三十以上で、見るからに気の利いた、威勢の好い男であった。
「いや、どうも皆さん。ありがとうございました」と、三吉も人々に挨拶した。「実は今、七之助がまっ蒼になって駈け込んで来て、商売から帰って家へはいると、おふくろが土間に転がり落ちて死んでいたが、一体どうしたらよかろうかと、こう云うんです。そりゃあ俺のところまで相談に来ることはねえ、なぜ早く大屋おおやさんやお長屋の人達にしらせて、なんとか始末を付けねえんだと叱言こごとを云ったような訳なんですが、なにしろまだ年が若けえもんですから、唯もう面喰らってしまって、夢中で私のところへ飛んで来たという。それもまあ無理はねえ、ともかくもこれから一緒に行って、皆さんに宜しくおねがい申してやろうと、こうして出てまいりましたものでございますが、一体まあどうしたんでございましょうね」
「いや、別に仔細はない。七之助のおふくろは急病で死にました。お医者の診断では卒中だということで……」と、家主はおちつき顔に答えた。
「へえ、卒中ですか。ここのおふくろは酒も飲まねえのに、やっぱり卒中なんぞになりましたかね。おっしゃる通り、急死というのじゃあどうも仕方がございません。七之助、泣いてもしようがねえ、寿命だとあきらめろよ」と、三吉は七之助を励ますように云った。
 七之助は窮屈そうにかしこまって、両手を膝に突いたままで俯向いていたが、彼の眼にはいっぱいの涙を溜めていた。ふだんから彼の親孝行を知っているだけに、みんなも一入ひとしおのあわれを誘われた。猫婆の死を悲しむよりも、母をうしなった七之助の悲しみを思いやって、長屋じゅうの顔は陰った。女たちはすすり泣きをしていた。
 その晩は長屋じゅうの者があつまって通夜をした。七之助はまるで気抜けがしたようにぼんやりとして、隅の方に小さくなっているばかりで碌々口も利かなかった。それがいよいよ諸人の同情をひいて、葬式とむらい一切のことは総て彼の手を煩わさずに、長屋じゅうの者がみんな始末してやることにした。七之助はおどおどしながら頻りに礼を云った。
「こうして皆さんが親切にして下さるんだから、何もくよくよすることはねえ。猫婆なんていうおふくろは生きていねえ方が却って好いかも知れねえ。お前もこれから一本立ちになってせいぜい稼いで、みなさんのお世話で好い嫁でも持つ算段をしろ」と、三吉は平気で大きな声で云った。
 仏の前で掛け構い無しにこんなことを云っても、誰もそれを咎める者もないほどに、不運なおまきは近所の人達の同情をうしなっていた。さすがに口を出して露骨には云わないが、人々の胸にも三吉とおなじような考えが宿っていた。それでも一個の人間である以上、猫婆は飼猫とおなじような残酷な水葬礼には行なわれなかった。おまきの死骸を収めた早桶は長屋の人達に送られて、あくる日の夕方に麻布の小さな寺に葬られた。
 それは小雨こさめのような夕霧の立ち迷っている夕方であった。おまきの棺が寺へゆき着くと、そこにはほかにも貧しい葬式があって、その見送り人は徐々に帰りかかるところであった。おまきの葬式は丁度それと入れ違いに本堂に繰り込むと、前に来ていた見送り人はやはり芝辺の人達が多かったので、あとから来たおまきの見送り人と顔馴染みも少なくなかった。
「やあ、おまえさんもお見送りですか」
「御苦労さまです」
 こんな挨拶が方々で交換された。そのなかに眼の大きな、背の高い男がいて、彼はおまきの隣りの大工に声をかけた。
「やあ、御苦労。おまえの葬式とむれえは誰だ」
「長屋の猫婆さ」と、若い大工は答えた。
「猫婆……。おかしな名だな。猫婆というのは誰のこった」と、彼はまた訊いた。
 猫婆の綽名の由来や、その死にぎわの様子などを詳しく聴き取って、彼は仔細らしく首をかしげていたが、やがて大工に別れを告げて一と足さきに寺の門を出た。かれは手先の湯屋熊であった。

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