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半七捕物帳(はんしちとりものちょう)09 春の雪解
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「時代推理小説 半七捕物帳(一)」 |
光文社時代小説文庫、光文社 |
1985(昭和60)年11月20日 |
1986(昭和61)年12月1日第5刷 |
一
「あなたはお芝居が好きだから、河内山の狂言を御存知でしょう。三千歳の花魁が入谷の寮へ出養生をしていると、そこへ直侍が忍んで来る。あの清元の外題はなんと云いましたっけね。そう、忍逢春雪解。わたくしはあの狂言を看るたんびに、いつも思い出すことがあるんですよ」と、半七老人はつづけて話した。「勿論お話の筋道はまるで違いますがね。舞台は同じ入谷田圃で、春の雪のちらちら降る夕方に、松助の丈賀のような按摩が頭巾をかぶって出て来る、その場面の趣があの狂言にそっくりなんですよ。まあ、聴いてください。わたくしの方は素話で、浜町の太夫さんの粋な喉を聴かせるなんていうわけには行かないんですから、お話に艶はありませんがね」 慶応元年の正月の末であった。神田から下谷の竜泉寺前まで用達に行った半七は、七ツ半(午後五時)頃に先方の家を出ると、帰り路はもう薄暗くなっていた。春といっても此の頃の日はまだ短いのに、きょうは朝から空の色が鼠に染まって、今にも白い物がこぼれ落ちそうな暗い寒い影に掩われているので、取り分けて夕暮が早く迫って来たように思われた。先方でも傘を貸してやろうと云ってくれたが、家へ帰るまで位はどうにか持ちこたえるだろうと断わって、半七はふところ手でそこを出ると、入谷田圃へさしかかる頃には、鶴の羽をむしったような白い影がもう眼先へちらついて来たので、半七は手拭を出して頬かむりをして、田圃を吹きぬける寒い風のなかを突っ切って歩いた。 「ちょいと、徳寿さん。おまえさんも強情だね。まあ、ちょいと来ておくれと云うに……」 女の声が耳にはいったので、半七はふと見かえると、どこかの寮らしい風雅な構えの門の前で、年頃は二十五六の仲働きらしい小粋な女が、一人の按摩の袂をつかんで曳き戻そうとしているのであった。 「お時さん。いけませんよ。きょうはこれから廓にお約束があるんですから、まあ堪忍しておくんなさいよ」と、按摩は逃げるように振り切って行こうとするのを、お時という女はまた曳き戻した。 「それじゃああたしが困るんだからさ。按摩さんはほかにも大勢あるけれども、花魁はお前さんが御贔屓で、ほかの人じゃあいけないと云うんだから、素直に来てくれないと、あたしが全く困るんだよ」 「御贔屓にして下さるのはまことにありがたいことで、いつもお礼を申しているのでございますが、きょうは何分にも前々からのお約束がありますので……」 「嘘をおつきよ、お前さんは此の頃毎日そんなことを云っているんだもの。花魁だってあたしだって本当に思うかね。ぐずぐず云ってないで早く来ておくれよ。焦れったい人だねえ」 「でも、いけませんよ。まったくきょうばかりは堪忍して下さい」 どっちもなかなか強情で、容易に埒が明きそうにもなかった。しかし格別に面白そうな事件でもないので、半七は好い加減に聞き流して通り過ぎた。雪は景色ばかりで、家へ帰りつく頃には歇んでしまったが、それから陰った日が二日ほどつづいた。三日目に半七はふたたび竜泉寺前へ行かなければならない用事が出来た。 「きょうこそはあぶねえ」 かれは雨傘を用意してゆくと、大きい雪が果たして落ちて来た。帰りはやはり七ツ過ぎになって、入谷の田圃はもう真っ白に埋められていた。重い傘をかたげて、このあいだの寮の前まで来ると、日和下駄の前鼻緒があいにく切れた。半七は舌打ちをしながら塀ぎわに身を寄せて、間にあわせにつくろっていると、雪を踏む下駄の音がきこえて、門の中からこの間の女が飛石伝いに出て来た。 「まあ、いつの間にか積ったこと」 独り言を云いながら、彼女は人待ち顔にたたずんでいたが、傘を持っていない彼女は髪を打つ雪に堪えないと見えて、やがて内へ引っ返してしまった。 手が亀縮んでいるので、鼻緒を立てるのに暇がかかって、半七はようように下駄を突っかけて、泥だらけの手を雪で揉んでいるころへ、このあいだの按摩が馴れた足取りですたすた歩いて来た。その下駄の音を聞き付けたとみえて、女は待ち兼ねたように内からぬけ出して来た。前に懲りたのであろう。今度は傘をすぼめて差していた。 「徳寿さん。きょうは逃がさないよ」 呼びかけられて、按摩はおびえたように立ち停まったが、きょうも何か頻りに云い訳して摺り抜けて行こうとするのを女はまた曳き戻した。こうした捫着がたびたび続くので、半七も少しおかしく思って、もうつくろってしまった泥下駄を再びいじくるような風をして横眼でそっと窺っていると、按摩はあくまでも強情に振り切って、きょうも逃げるように此処を立ち去ってしまった。 「ほんとうにしようのない人だねえ」 口小言を云いながら女は内へ引っ込んだ。そのうしろ姿の消えるのを見送って、半七はもう五、六間ゆき過ぎている按摩の傘の白い影を追った。彼はうしろから声をかけた。 「おい、按摩さん。徳寿さん」 「はい、はい」 聞き慣れない声に按摩は少し首をかしげて立ち停まると、半七は傘をならべて立った。 「徳寿さん。寒いね。べらぼうに降るじゃあねえか。おまえにゃあ廓で二、三度厄介になったことがあったっけ。それ、このあいだも近江屋の二階でよ」 「はあ、左様でございましたか。年を取りますと、だんだんに勘がわるくなりまして、御贔屓様に毎々失礼をいたして相済みません。旦那もこれから廓へお出かけでございますか。こういう晩にお通いもまたお楽しみなものでございます。わが物と思えば軽し傘の雪とか申しましてね。ははははは」 こっちの出鱈目を知っているのか、知らないのか、徳寿は如才なく調子をあわせた。 「なにしろ悪く寒いね」 「この二、三日は冴え返りました」 「これから田圃を突っ切るのは楽じゃあねえ。どうだい、あすこで蕎麦の一杯も啜り込んで威勢をつけて行こうじゃねえか。おまえも附き合わねえか。廓へはいるのはまだちっと早かろう」 「はい、はい、どうも御馳走さまでございます。わたくしは下戸でございますけれど、御酒を召しあがるお方は一杯あがらなければ、この田圃はちっと骨が折れます。はい、はい、ありがとうございます」 一町ばかりを引っ返して、半七は小さな蕎麦屋の暖簾をくぐると、徳寿は頭巾の雪をはたきながら、古びた角火鉢へ寒そうに咬り付いた。半七は種物と酒を一本あつらえた。 「これはあられでございますね。江戸前の種物はこれに限ります。海苔の匂いも悪くございませんね」と、徳寿は顔じゅうを口にして、蕎麦のあたたかい匂いを嬉しそうに嗅いでいた。 蕎麦屋の女房は門の行燈に灯を入れると、その薄暗い灯かげに照らされて、花びらのような大きい雪が重そうにぼたぼた落ちているのが暖簾越しに見えた。一本の酒をやがて半分ほど飲んだ頃に、半七は話し出した。 「徳寿さん。おまえが今あすこで立ち話をしていたのは何処の寮だえ」 「旦那はあの辺においでなさいましたか。ちっとも存じませんで。はははは。いえ、あすこは廓の辰伊勢という家の寮でございますよ」 「先方じゃあ頻りに呼び込もうとするのを、おまえは無暗に逃げていたじゃあねえか。廓の寮ならば好いお得意様だ」 「ところが、旦那。どうもあすこは工合が悪いんでしてね。いえ、別に代をくれないの何のという訳じゃないんですが、なんですかこう、気味の悪いような家でしてね」 半七は飲みかけた猪口をおいた。 「気味の悪い家……。そりゃあどういうんだね。まさかに化けものが出る訳でもあるめえ」 「へえ、別にそんな噂もないんですが、わたくしはどうも気味が悪うございまして……。あすこで呼ばれると何だがぞっとして、逃げるように断わって来るんですよ」と、徳寿は鼻の頭の汗を手の甲で拭きながら云った。 「変な話だね」と、半七は笑った。「どういうわけで気味が悪いんだろう。判らねえな」 「わたくしにも判りません。ただ何となしに襟もとから水を浴びせられたように、からだ中がぞっとするんです。眼が見えませんからなんにも判りませんけれど、なにかこう、おかしなものが傍にでも坐っているような工合で……。まったく変でございますよ」 「一体あの寮には誰が来ているんだね」 「誰袖さんという花魁でございます。二十一二の勤め盛りで、凄いような美い女だそうでございますが、去年の霜月頃から用事をつけて、あの寮へ出養生に来ているんでございますよ」 「暮から春へかけて店を引いているようじゃあ、よっぽど悪いんだろうね」 それ程でもないらしいと徳寿は云った。勿論、盲人の彼には詳しい様子もわからないが、いわゆるぶらぶら病いで寝たり起きたりしているらしいとの事であった。それにしても、その辰伊勢の寮がなぜそれほどに気味が悪いというのか、その仔細が半七には判らなかった。徳寿がもうたくさんだと辞退するのを、無理に蕎麦の代りを取らせて、かれは酒を飲みながらおもむろにその仔細を訊き出そうとした。 「それが何と云って、お話のしようもないんですよ」と、徳寿は顔をしかめてささやいた。 「まあ、旦那。聞いてください。わたくしが奥へ通されて、花魁の肩を揉んでいますと……大抵いつも夜か夕方ですが……花魁のそばに何か来て坐っているような工合で……。いいえ、それが新造衆や女中達じゃありません。そんな人達ならば何とか口を利くでしょうが、初めから終いまで一度も口を利いたこともないので、座敷のうちは気味の悪いほどにしんとしているんです。まあ、早く云えば、幽霊でも出て来て、黙っているんじゃないかと思われるようで……。わたくしは身体がぞっとして、どうにもこうにも我慢が出来ないんでございます。それですから、仲働きのお時さんには気の毒ですけれども、この頃は無理に振り放して逃げてくるので……。いえ、もう、一軒のお得意ぐらいはしくじっても仕方がございません」 なんだか理窟があるような、理窟がないような、一種奇怪な物語をこの盲人から聞かされて、半七も黙ってかんがえていた。日が暮れても雪はまだ降りやまないらしく、白い花びらが暖簾をくぐって薄暗い土間へときどき舞い込んで来た。
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