二
これで問題もまず解決したと安心していた町内の人たちは、その夜なかに又もや半鐘の音におどろかされた。半鐘はあたかも権太郎の冤罪を証明するように鮮かな音を立てて響いた。このあいだから撞木は取りはずしてあるのに、誰がどうしたのか半鐘はやはりいつものように鳴った。
もうこうなると人間業ではないらしくなって来た。一町内の者はまたおびえて、再び総出で火の見梯子を警戒することになったが、その警戒のきびしい間は半鐘もおとなしく黙っていた。警戒が少しゆるむと、半鐘は又すぐに叫び出した。こんな不安な状態が小ひと月もつづいたので、人間の方も疲れて来た。もうこの上はどうしていいか判らなくなった。
「お寒くなりました」
「おお、半七さんか。まあこっちへ」
自身番にちょうど詰めていた家主が笑い顔をつくって半七を迎えた。それは半七老人が今この話をしている時と同じような、十一月はじめの時雨れかかった日で、店さきの大きい炉には炭火が紅く燃えていた。半七は店へあがって炉に手をかざした。
「なんだか騒々しいことがあると云うじゃありませんか。御心配ですね」
「おまえさんも大抵お聞き込みだろうが、実に困っているんですよ」と、家主は顔をしかめて云った。「どうでしょう。お前さんのお見込みは……」
「そうですねえ」と、半七も首をかしげていた。「実はわたくしも詳しい話は知らないんですが、その権とかいう悪戯小僧じゃないんですね」
「権を縛って置いても、半鐘はやっぱり鳴るんだから仕方がない。で、権は先ず主人の方へ帰してやりましたよ」
この間からの詳しい事情を家主から聞かされて、半七は眼をつむって考えていた。
「わたくしにもまだ見当が付きませんが、まあ何とか工夫して見ましょう。もっと早く出るとよかったんですが、ほかに急ぎの御用があったもんですから、つい遅くなりました。そこで先ずその半鐘というのを一度見せてお貰い申したいんですが、あがって見ても宜しゅうございますかえ」
「さあ、さあ、どうぞ」
家主は先に立って表へ出た。半七は火の見を仰いでちょっと考えていたが、すぐにするすると梯子を伝ってのぼった。彼は半鐘をあらためて又すぐに降りて来て、更に近所を見まわった。火の見梯子から三軒ほどゆくと、そこには狭い路地があって、化け物に出逢ったという囲い者のお北はその路地の中程に住んでいた。路地の奥には可なりに広い空地があって、片隅に古い稲荷の社が祀られていた。あき地には近所の男の児が独楽をまわしていた。路地を出る時にふと見ると、お北の家には貸家の札が貼ってあった。気の弱い囲い者は化け物におどされて三日目に、早々ほかへ引っ越してしまったと家主が話した。
半七はそれから鍛冶屋の前へ行った。表からそっと覗いてみると、親方らしい四十ぐらいの男が指図して、三人の職人が熱い鉄挺から火花を散らしていた。その傍でぼんやりと鞴を吹かせている小僧は、この間ひどい目に遭った権太郎だと家主が教えてくれた。権太郎は四角張った顔をまっ黒に煤らせて、大きな眼ばかりを光らせている様子が、見るからに悪戯そうな餓鬼だと半七は思った。
「いろいろ有難うございました。まだ少しほかに仕かけている御用がありますから、二、三日中にまた参ります」と、半七は家主に別れて帰った。
ほかに手放すことのできない用を抱えていたので、二、三日という約束が四、五日に延びて、半七はその町内へ足を向けることが出来なかった。すると、四、五日のあいだに又いろいろの事件が生み出されて、町内の人たちを驚かした。
まず第一におびやかされたのは、町内の煙草屋のお咲という今年十七の娘であった。お咲は本所の親類へ行って、六ッ半(午後七時)頃に帰って来ると、冬の日はとうに暮れてしまって、北風が軽い砂を転がして吹いてゆくのが夜目にも白く見えた。このごろ不思議の多い自分の町内へ近づくにしたがって、若い娘の胸は動悸を打った。もっと早く帰ればよかったと悔みながら、お咲は俯向いて両袖をしっかりと抱きあわせて、小刻みに足を早めて歩いて来ると、うしろから同じく刻み足に尾けて来るような軽いひびきが微かにきこえた。お咲は水を浴びたようにぞっとしたが、とても振り返って見る勇気はないので、すくみ勝ちの足を急がせて、ようよう自分の町内の角を曲がったかと思うと、あたかも白い砂が渦をまいてお咲の足もとから胸のあたりまで舞いあがって来たので、彼女は両袖で思わず顔をおさえたその途端に、うしろから尾けて来たらしい怪しいものは、旋風のように駈け寄って来てお咲を突き飛ばした。
娘の悲鳴を聞きつけて、近所の者が駈け付けてみると、お咲は気を失って倒れていた。彼女の島田の髷はむごたらしくかきむしられていた。膝がしらを少し摺り剥いただけで、ほかに大した怪我もなかったが、あまりの驚愕にお咲は蘇生の後もぼんやりしていた。その晩から熱が出て、三日ばかり床に就いた。
妖怪か、人間かという議論がまた起った。鍛冶屋の権太郎が質屋の隣りの垣根へのぼったのを目撃したのはこのお咲で、それが彼女の口から世間へ洩れたのであるから、自身番でひどい目に逢わされた悪戯小僧は、その復讐のためにお咲のあとを尾けたのではないかという疑いも起ったが、それはすぐに打ち消された。権太郎はその時刻にたしかに自分の店にいたと親方が証明した。ほかにも権太郎が夜なべをしているのを見たという者もあった。いくら悪戯者でも身体が二つない以上、今度の事件を権太郎になすり付けることは出来なかった。その不思議もとうとう要領を得ずに終った。
「夜はもう外へ出るんじゃないよ」
日が暮れると、女や子供はいよいよ表へ出ないことになった。すると、今度は意外の禍いが男の上にも襲いかかって来た。第二の打撃をうけたのは自身番の親方佐兵衛であった。佐兵衛は先ず冬という敵に襲われて、先月の末頃から持病の疝気に悩まされていたが、なにぶんにも此の頃は町内が騒がしくて、毎日のように町役人の寄合いがあるので、彼は出来るだけ我慢して起きていた。それがどうしても堪えられなくなって、昼から温石などで凌いでいたが、日が暮れると夜の寒さが腹に泌み透って来た。かれは痙攣の来る下腹をかかえて炉のそばに唸っていた。
「医者様でも呼んで来ようか」
手下の伝七と長作とが見兼ねて云った。
「まあ、もう少し我慢しようよ」
自身番のおやじや番太郎には金作りが多かった。医者の薬礼を恐れる彼は、なるべく買い薬で間にあわせて置きたかったのであるが、夜のふけるに連れて疼痛はいよいよ強くなって、彼はもう慾にも得にも我慢が出来なくなった。それでも医者を呼ぶのを嫌って、こっちから医者の家へ行こうと云った。
「それじゃあ私が送って行こう」
伝七がついて行くことになった。強い痙攣で、満足には歩けそうもない佐兵衛を介抱しながら、ともかくも表へ出ると、町には夜の霜が一面に降りていた。伝七は病人の手をひいて、隣り町の医者の門をくぐった。医者は薬をくれて、あたたかにして寝ていろと注意した。礼を云って医者の家を出たのは、もう四ツ(午後十時)に近い頃であった。
「御町内はこのごろ物騒だというから、途中もよく気をつけてな」と、帰りぎわに医者が云った。
その親切な注意が二人の胸にはまた一入の寒さを呼び出した。帰り途にも佐兵衛は手を引かれて歩いた。
「木戸の締まらないうちに早く行こう。番太にあけて貰うのも面倒だから」
風もない、月もない、霜の声でもきこえてきそうな静かな夜であった。町内にももう灯のかげは疎らであった。佐兵衛は下腹をおさえながら屈み勝ちにあるいていた。二人は町内にはいって二、三軒も通り過ぎたかと思うと、質屋の天水桶のかげから何かまっ黒な影があらわれた。それが何であるかを認める間もなしに、その黒い物は地を這うように走って来て、いきなり佐兵衛の足をすくった。屈んでいた彼はすぐに滑って倒れた。ふだんからおびえていた伝七はきゃっと云って逃げ出した。
この臆病者の報告を聴いて、長作は棒を持ってこわごわ出て来た。伝七も得物をとって再び引っ返して来たが、もうその時には黒い物の影も見えなかった。佐兵衛は転んだはずみに膝を痛めた。まだそのほかに、相手にぶたれたのか、あるいは自分で打ったのか、彼は左の額に石で打ったようなかすり傷をうけていた。
調べてみると、その晩も権太郎は外出しないという証拠が確かに挙がった。こうして、悪戯小僧にかかる疑いは漸次に薄れて来たが、それと同時にこの不思議に対する疑いはいよいよ濃くなった。臆病の伝七の云い立てによると、どうも河童らしいというのであったが、町なかに河童が出る筈はないと云って誰もそれを信用しなかった。
「どうも人間らしい」
この頃は方々の家で食い物を盗まれた。ことにお咲をおどかした遺り口といい、佐兵衛を襲った手段といい、妖怪がだんだんに人間味を帯びて来たことは誰にもうなずかれた。権太郎以外のいたずら者がこの町内へ入り込んで来るに相違ないというので、又もや町内総出で毎晩の警戒を厳重にすることになった。
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