三
こんな商売をしていながら、割合に人摺れのしていないお吉は、半七に嚇されてもう息も出ないくらい顫え上がっていた。しかし彼の武士たちの身許はどうしても知らないと云った。なんでも麻布辺にお屋敷があるということだけは聞いているが、そのほかにはなんにも知らないと強情を張っていた。それでも半七に嚇したり賺したりされた挙句に、お吉はようようこれだけのことを吐いた。
「なんでもあの人達は仇討に出ているんだそうでございます」
「かたき討……」と半七は笑い出した。「冗談じゃあねえ。芝居じゃああるめえし、今どきふたり揃って江戸のまん中で仇討もねえもんだ。だが、まあいいや、かたき討なら仇討として置いて、あの二人の居どこはまったく知らねえんだね」
「まったく知りません」
この上に責めても素直に口を開きそうもないので、半七もしばらく考えていると、熊蔵が階子のあがり口から首を出してあわただしく呼んだ。
「親分。ちょいと顔を貸しておくんなせえ」
「なんだ。そうぞうしい」
わざと落ち着き払って、半七は階子を降りてゆくと、熊蔵は摺り寄ってささやいた。
「伊勢屋じゃあ金のほかに、べんべら物を三枚と鮫の皮を五枚奪られたそうです」
「鮫の皮……」と、半七は胸を躍らせた。「それは泥鮫か、仕上げの皮か」
「さあ、そりゃあ訊いて来ませんでしたが……。もう一遍きいて来ましょうか」
熊蔵は又急いで出て行った。やがて引っ返して来て、それはみな磨きの白い皮で、露月町の柄巻師から質に取ったものだと報告した。泥鮫でないと聞いて、半七はすこし的がはずれた。彼はゆうべ伊勢屋へ押し込んだ浪人者と、きょう泥鮫を売りに来た武士とを、結びつけて考えることが出来なくなってしまった。
「どうも判らねえ」
なにしろもう午に近くなったので、半七は熊蔵を連れて近所へ飯を食いに行った。
「あのお吉の奴は、よっぽどあの武士の一人にござっているらしいな」と、半七は笑いながら云った。
「そうです。そうです。それですからどうも巧く行かねえんですよ。あいつ思うさま嚇かしてやりましょうか」
「いや、おれも好い加減おどかして置いたから、もうたくさんだ。あんまり嚇かすと却って碌なことはしねえもんだ。まあ、もう少し打っちゃって置け」
二人は銜え楊枝で帰って来ると、一人の若い武士が湯屋の暖簾をくぐって出るのを遠目に見つけた。彼はさっき日蔭町へ泥鮫を売りに行った武士に相違なかった。彼は萠黄の風呂敷につつんだ一個の箱のようなものを大事そうに抱えているらしかった。
「あ、野郎が来ましたよ。あの箱を一つ抱え出したらしゅうがすぜ」と、熊蔵は眼をひからして伸び上がった。
「ちげえねえ。すぐ尾けてみろ」
「よがす」
熊蔵はすぐに彼のあとを尾けて行った。半七は引っ返して湯屋にはいって、念のために二階にあがって見ると、お吉の姿がいつの間にか消えていた。更に戸棚をあらためると、かの怪しい二つの箱も見えなかった。
「みんな持ち出してしまいやあがったな」
二階を降りて来て番台の男に訊くと、お吉はたった今階子を降りて奥へ行ったらしいと云うので、半七もつづいて奥へ行った。釜の下を焚いている三助の話によると、お吉はちょいとそこまで行って来ると云って、そそくさと表へ出て行ったとのことであった。
「なにか抱えていやしなかったか」
「さあ、知りましねえ」
山出しの三助はぼんやりしていて何も気がつかなかったのである。半七は思わず舌打ちした。自分達が飯を食いに行っている間に、丁度かの武士が来たので、お吉はかれと諜し合わせて、めいめいに秘密の箱を一つずつかかえて、裏と表から分かれ分かれに脱け出したに相違ない。一と足違いで飛んでもないどじを踏んだと、半七は自分の油断をくやんだ。
「こうと知ったら、いっそお吉の奴を引き揚げて置けばよかった」
彼はまた引っ返して、番台の男にお吉の家を訊いた。明神前の裏に住んでいると云うので、すぐにそこへ追ってゆくと、兄は仕事に出て留守であった。正直そうな母が一人で襤褸をつづくっていて、お吉は今朝いつもの通りに家を出たぎりでまだ帰らないと云った。母の顔色には嘘は見えなかった。狭い家であるから何処にも隠れている様子もなかった。半七はまた失望して帰った。帰ると、やがて熊蔵も詰まらなそうな顔をして帰って来た。
「親分、いけねえ、途中で友達に出っくわして、ちょいと一と言話しているうちに、奴はどこかへか消えてしまやあがった」
「馬鹿野郎。御用の途中で友達と無駄話をしている奴があるか」
今更叱っても追っ付かないので、半七はじりじりして来た。
「泣いても笑っても今日はもう仕方がねえ。お吉の奴が家へ帰るかどうだか能く気をつけていろ。それからもう一人の武士が来たらば、今度こそしっかりと後をつけて、よくその居どこを突き留めて置け。てめえの種出しじゃあねえか、少し身を入れて働け」
その日はそのまま別れて帰ったが、なんだか疳が昂ぶって半七はその晩おちおち寝付かれなかった。明くる朝はひどく寒かった。彼はいつもの通りに冷たい水で顔を洗って家を飛び出すと、朝日のあたらない横町は鉄のように凍って、近所の子供が悪戯にほうり出した隣りの家の天水桶の氷が二寸ほども厚く見えた。
半七は白い息を噴きながら、愛宕下へ急いで行った。
「どうだ、熊。あれぎり変ったことはねえか」
「親分。お吉の奴は駈け落ちをしたようですよ。とうとうあれぎりで家へ帰らねえそうで、今朝おふくろが心配らしく訊きに来ましたよ」と、熊蔵は顔をしかめてささやいた。
「そうか」と、半七の額にも太い皺が描かれた。「だが、まあ仕方がねえ。もう一日気長に網を張っていてみよう。もう一人の奴がやって来ねえとも限らねえから」
「そうですねえ」と、熊蔵は張り合い抜けがしたようにぼんやりしていた。
半七は二階にあがると、けさはお吉がいないので其処には火の気もなかった。熊蔵の女房が言い訳をしながら火鉢や茶などを運んで来た。朝のあいだは二階へあがる客もないので、半七は煙草をのみながら唯ひとりつくねんと坐っていると、春の寒さが襟にぞくぞくと沁みて来た。
「お吉の奴め、この頃は浮わついているんで、障子も碌に貼りゃあがらねえ」と、熊蔵は窓の障子の破れを見かえりながら舌打ちした。
半七は返事もしないで考えつめていた。おととい此の二階で発見した人間の首、動物の頭、きのう日蔭町で見た泥鮫の皮、それが一つに繋がって彼の頭の中を走馬燈のようにくるくると駈け廻っていた。魔法つかいか、切支丹か、強盗か、その疑いも容易に解決しなかった。それに付けても、昨日かの武士の後を尾け損じたのが残念であった。熊蔵のようなどじを頼まずに、いっそ自分がすぐに尾けて行けばよかったなどと、今更のように悔まれた。
親分の顔色が悪いので、熊蔵も手持無沙汰で黙っていた。芝の山内の鐘がやがて四ツ(午前十時)を打った。下の格子があいたと思うと、番台の男が「いらっしゃい」と、挨拶する声につづいて、二階に合図をするような咳払いの声がきこえた。二人は顔をみあわせた。
「野郎。来たかな」と、熊蔵があわてて起って下をのぞく途端に、背の高い一人の若い武士が刀を持って階子を足早にあがって来た。
「おあがり下さいまし。毎日お寒いことでございます」と熊蔵はわざと笑顔を粧って挨拶した。
「どうぞこちらへ。けさは女が休んだものですから、二階も散らかって居ります」
「女は休んだか」と、武士は刀掛けに大小をかけながらちょっと首をひねった。そうして、
「お吉は病気かな」と、仔細ありげに訊いた。
「さあ、まだ何とも云ってまいりませんが、流行感冒でも引いたんでございましょう」
武士は黙ってうなずいていたが、やがて着物をぬいで階子を降りて行った。
「あれが連れの奴か」と、半七が小声で訊くと、熊蔵は眼でうなずいた。
「親分、どうしましょう」
「まさか、いきなりにふん縛るわけにも行くめえ。まあ、ここへ上がって来たら、てめえがなんとか巧く云って連れの武士のことを訊いてみろ。その返事次第でまた工夫もあるだろう。なにしろ相手が武士だ。無暗に振りまわされるとあぶねえから、その大小はどこへか隠してしまえ」
「そうですね。誰か加勢に呼びましょうか」
「それにも及ぶめえ。多寡が一人だ。何とかなるだろう」と、半七はふところの十手を探った。
二人は息を嚥んで待ち構えた。
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