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半七捕物帳(はんしちとりものちょう)04 湯屋の二階
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時代推理小説 半七捕物帳(一) |
光文社文庫、光文社 |
1985(昭和60)年11月20日 |
一
ある年の正月に私はまた老人をたずねた。 「おめでとうございます」 「おめでとうございます。当年も相変りませず……」 半七老人に行儀正しく新年の寿を述べられて、書生流のわたしは少し面食らった。そのうちに御祝儀の屠蘇が出た。多く飲まない老人と、まるで下戸の私とは、忽ち春めいた顔になってしまって、話はだんだんはずんで来た。 「いつものお話で何か春らしい種はありませんか」 「そりゃあむずかしい御註文だ」と、老人は額を撫でながら笑った。「どうで私どもの畑にあるお話は、人殺しとか泥坊とかいうたぐいが多いんですからね。春めいた陽気なお話というのはまことに少ない。しかし私どもでも遣り損じは度々ありました。われわれだって神様じゃありませんから、なにから何まで見透しというわけには行きません。したがって見込み違いもあれば、捕り損じもあります。つまり一種の喜劇ですね。いつも手柄話ばかりしていますから、きょうはわたくしが遣り損じた懺悔話をしましょう。今かんがえると実にばかばかしいお話ですがね」
文久三年正月の門松も取れて、俗に六日年越しという日の暮れ方に、熊蔵という手先が神田三河町の半七の家へ顔を出した。熊蔵は愛宕下で湯屋を開いていたので、仲間内では湯屋熊と呼ばれていた。彼はよほど粗忽かしい男で、ときどきに飛んでもない間違いや出鱈目を報告するので、湯屋熊のほかに、法螺熊という名誉の異名を頭に戴いていた。 「今晩は……」 「どうだい、熊。春になっておもしれえ話もねえかね」 半七は長火鉢の前で訊いた。 「いや、実はそれで今夜上がったんですが……。親分、ちっと聞いてお貰い申してえことがあるんです」 「なんだ。又いつもの法螺熊じゃあねえか」 「どうして、どうして、こればかりは決して法螺のほの字もねえんで……」と、熊蔵はまじめになって膝を揺り出した。「去年の冬、なんでも霜月の中頃からわっしの家の二階へ毎日遊びに来る男があるんです。変な奴でしてね、どう考えてもおかしな奴なんです」 三馬の浮世風呂を読んだ人は知っているであろう。江戸時代から明治の初年にかけては大抵の湯屋に二階があって、若い女が茶や菓子を売っていた。そこへ来て午睡をする怠け者もあった。将棋を差している閑人もあった。女の笑顔が見たさに無駄な銭を遣いにくる道楽者もあった。熊蔵の湯屋にも二階があって、お吉という小綺麗な若い女が雇われていた。 「ねえ、親分。それが武士なんです。変じゃありませんか」 「変でねえ、あたりまえだ」 武士が銭湯に入浴する場合には、忌でも応でも一度は二階へあがって、まず自分の大小をあずけて置いて、それから風呂場へ行かなければならなかった。湯屋の二階には刀掛けがあった。 「けれども、毎日欠かさずに来るんですぜ」 「勤番者だろう。お吉に思召しでもあるんだろう」と、半七は笑った。 「だって、おかしいじゃありませんか。まあ聴いておくんなせえ。去年の冬からかれこれもう五十日も毎日つづけて来るんですぜ。大晦日でも、元日でも、二日でも……。なんぼ勤番者だって、屋敷者が元日二日に湯屋の二階にころがっている。そんな理窟がねえじゃありませんか。おまけに、それが一人でねえ、大抵二人連れでやって来て、時々どこかへ出たり這入ったりして、夕方になるときっと一緒に繋がって帰って行く。それが諄くもいう通り、暮も正月もお構いなしに、毎日続くんだから奇妙でしょう。どう考えてもこりゃあ尋常の武士じゃありませんぜ」 「そうよなあ」と、半七は少しまじめになって考えはじめた。 「どうです。親分はそいつ等をなんだと思います」 「偽者かな」 「えらい」と、熊蔵は手を拍った。「わっしもきっとそれだと睨んでいるんです。奴らは武士の振りをして何か仕事をしているに相違ねえんです。で、昼間は私の家の二階にあつまって、何かこそこそ相談をして置いて、夜になって暴っぽいことをしやがるに相違ねえと思うんだが、どうでしょう」 「そんなことかも知れねえ。その二人はどんな奴らだ」 「どっちも若けえ奴で……。一人の野郎は二十二三で色の小白い、まんざらでもねえ男っ振りです。もう一人もおなじ年頃の、片方よりは背の高い、これもあんまり安っぽくねえ野郎です。相当に道楽もした奴らだとみえて、茶代の置きっ振りも悪く無し、女を相手に鰯や鯨の話をしているほどの国者でも無し、実はお吉なんぞはその色の小白い方に少しぽうと来ているらしいんで……。呆れるじゃありませんか。それですから奴らが二階でどんな相談をしているか、お吉に訊いてもどうも正直に云わねえようです。私がきょうそっと階子の中途まで昇って行って、奴らがどんな話をしているかと、耳を引っ立てていると、一人の奴が小さい声で、『無暗に斬ったりしてはいけない。素直に云うことを肯けばよし、ぐずぐず云ったら仕方がない、嚇かして取っ捉まえるのだ』と、こう云っているんです。ねえ、どうです。これだけ聞いても碌な相談でないことは判ろうじゃありませんか」 「むむ」と、半七はまた考えた。 黒船の帆影が伊豆の海を驚かしてから、世の中は漸次にさわがしくなった。夷狄を征伐する軍用金を出せとか云って、富裕の町家を嚇してあるく一種の浪人組が近頃所々に徘徊する。しかも、その中にほんとうの浪人は少ない。大抵は質の悪い御家人どもや、お城坊主の道楽息子どもや、或いは市中の無頼漢どもが、同気相求むる徒党を組んで、軍用金などという体裁の好い名目のもとに、理不尽の押借りや強盗を働くのである。熊蔵の二階を策源地としているらしい彼の二人の怪しい武士も、或いはその一類ではないかと半七は想像した。 「じゃあ、なにしろ明日おれが見とどけに行こうよ」 「お待ち申しています。午ごろならば奴らも間違いなく来ていますから」と、熊蔵は約束して帰った。 あくる朝は七草粥を祝って、半七は出がけに八丁堀同心の宅へ顔を出すと、世間がこのごろ物騒がしいに就いて火付盗賊改めが一層厳重になった、その積りで精々御用を勤めろという注意があった。これが半七を刺戟して、いよいよ彼の注意を熊蔵の二階に向けさせた。彼がそれからすぐに愛宕下の湯屋へ急いで行ったのは朝の四ッ半(十一時)頃で、往来には遅い回礼者がまだ歩いていた。獅子の囃子も賑やかにきこえた。 裏口からそっとはいると、熊蔵は待っていた。 「親分、ちょうど好い処です。一人の野郎は来ています。なんでも湯にへえっているようです」 「そうか。それじゃあ俺も一ッ風呂泳いで来ようか」 半七は更に表へ廻って、普通の客のように湯銭を払ってはいると、まっ昼間の銭湯はすいていた。武者絵を描いた柘榴口のなかで都々逸の声は陽気らしくきこえたが、客は四、五人に過ぎなかった。半七は一と風呂あたたまるとすぐに揚がって来て、着物を肌に引っ掛けたままで二階へあがると、熊蔵もあとからそっと付いて来た。 「あの、水槽に近いところにいた奴だろう」と、半七は茶を飲みながら訊いた。 「そうです、あの若けえ野郎です」 「あれは偽者じゃあねえ」 「ほんとうの武士でしょうか」 「足を見ろ」 武士は常に重い大小をさしているので、自然の結果として左の足が比較的に発達している。足首も右より大きい。裸でいるところを見届けたのだから間違いはないと半七は云った。 「じゃあ、御家人でしょうか」 「髪の結いようが違う。やっぱり何処かの藩中だろう」 「なるほど」と、熊蔵はうなずいた。「そこで親分。きょうは彼奴らが何だか風呂敷包みのようなものを重そうに抱えて来て、お吉に預けている処をちらりと見たんですが。ちょいと検めて見ましょうか」 「そういえば、お吉は見えねえようだが、どうした」 「今時分は閑なもんだから、子供のように表へ獅子舞を見に行ったんですよ。ちょうど誰もいねえから一応あらためて置きましょう。又どんな手がかりが見付からねえとも限りませんから」 「そりゃあそうだ」 「なんでもお吉が受け取って、貸し切りの着物棚のなかへ押し込んだようでしたが……。まあ、お待ちなせえ」と、熊蔵はそこらの戸棚を探して、一つの風呂敷包みを持ち出して来た。濃い藍染めの風呂敷をあけると、中には更に萠黄の風呂敷につつんだ二個の箱のようなものが這入っていた。 「ちょいと下を見てきますから」 熊蔵は階子を降りて、又すぐに昇って来た。 「あいつがもし湯から揚がったら、咳払いをして知らせるように、番台の奴に云いつけて置きましたから大丈夫です」 二重につつんだ風呂敷の中からは、一種の溜め塗りのような古い箱が二個あらわれた。箱は能楽の仮面を入れるようなもので、底から薄黒い平打ちの紐をくぐらせて、蓋の上で十文字に固く結んであった。幾分の好奇心も手伝って、熊蔵は急いでその一つの箱の紐を解いた。 蓋をあけても中身はすぐに判らなかった。中にしまってある品は、魚の皮とも油紙とも性の得知れない薄黄色いものに固く包まれていた。 「べらぼうに厳重だな」 包みを解いて熊蔵は思わずあっと叫んだ。ふたりの眼の前に現われたものは人間の首であった。併しそれは幾千百年を経過したか容易に想像することを許さないほどに枯れ切った古い首で、皮膚の色は腐った木の葉のように黒く黄ばんでいた。半七や熊蔵の眼には、それが男か女かすらも殆ど判断が付かなかった。 二人は息を嚥んで、この奇怪な首をしばらく見つめていた。
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