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廿九日の牡丹餅(にじゅうくにちのぼたもち)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-8-27 18:14:52  点击:  切换到繁體中文


     二

 千生はそれから小半時こはんときほども話して帰ると、入れちがいに今戸の中田屋という質屋の亭主金助が来た。金助は晦日みそかまえで、蔵前くらまえ辺に何かの商売用があって出て来たついでに、延津弥の家へちょっと立寄ったのである。表向きは独り者といっても、延津弥がこうした旦那の世話になっているのは、その当時において珍しいことでもなかった。
 金助は二階の六畳へ通された。きょうは晦日のお手当を持って来たのであるから、延津弥は取分けて愛想よく彼を迎えた。かれはお熊に言い付けてかの牡丹餅を持ち出させた。
「ああ、ここにも牡丹餅があるね。きょうは内でも食わされた。」と、金助は笑った。
「まあ、ここのも一つ食べてください。まさかに毒もはいっていませんから。」
 女にすすめられて、金助はその牡丹餅を一つ食った。延津弥も食った。晦日まえで忙しいというので、金助は長居もせずに帰った。事件はこれから出来しゅったいしたのである。
 金助はそれから二、三ヵ所の用達しを済ませて、その日の七つ(午後四時)ごろに今戸の店へ帰ったが、途中から胸が苦しくなって、わが家へころげ込むと共に倒れた。家内の者もおどろき騒いで、すぐに近所の医者を呼びにやると、医者は暑気あたりの霍乱かくらんであろうと診察した。そういうことのない呪禁まじないに、きょうは黄粉の牡丹餅を食ったのであるが、その効のなかったのを人びとは嘆いた。医者もいろいろの手当てを加えたが、金助は明くる晦日の夜明け前にとうとう息を引取った。
 最初は霍乱と診立みたてた医者も、後には普通の暑気あたりではないらしいと言い出した。何かの食い物の中毒ではないかというのである。二十九日の出先は判っているので、中田屋ではそれぞれに問い合せの使を出したが、残暑の強い折柄であるから、どこでも茶のほかには何も出さなかった。但し午飯ひるめしはどこで食ったか判らなかった。延津弥のことは本人も秘密にしていたので、家族も知らなかった。
 閏七月二日の朝五つ時(午前八時)に金助の葬儀は小梅の菩提寺でいとなまれた。その会葬者のうちに延津弥との関係を知っている者があって、中田屋の大将が死んでは師匠も困るだろう、お前さんがその後釜を引受けてはどうだなどと、冗談まじりに話していたのが、ふと町方まちかたの耳にはいった。
 それからだんだん探索すると、延津弥の一件が明白になったばかりでなく、金助が当日金龍山下をたずねた事も判った。まだその上に延津弥もその晩から暑気あたりで寝ているというのである。但し延津弥の病気は差したる重態でもなく、二、三日の後は起きられるであろうとの事であった。
 女中のお熊も調べられた。金助と延津弥が同時に発病したのを見ると、あるいはかの牡丹餅に何かの子細があるのではないかと疑われた。お熊もその残りを食ったのであるが、これには別条もなかった。ともかくもその牡丹餅は田原町の千鳥から貰って来たものであるというので、千鳥の女房お兼をはじめ、家内の者一同も代るがわるに取調べを受けた。当日の牡丹餅は他へ分配はしてはならないということになっているので、お熊が貰いに来た時に、お兼はいったん断ろうと思ったのであるが、千生さんのお指図によって来ましたというので、かれもいなみかねて十一ばかりの牡丹餅を持たせてやった。それから飛んだ引合いを食って、千鳥の店ではひどく迷惑した。もちろん千鳥の店の者は何の障りもなかったのである。
 殊におどろいたのは千生の長之助で、自分もどんな巻添まきぞいを受けるかも知れないという恐怖から、七月二日以来、どこかへ身を隠してしまった。
 七月六日の暗い宵に、千鳥のお兼がそっと金龍山下の師匠をたずねた。お兼は四十三で、年よりも若いといわれていたのであるが、今度の一件と、それからいて大事のひとり息子の家出の苦労で、わずか四、五日のうちにめっきりけて見えた。
 お熊は近所の湯屋へ行って留守であった。延津弥はきのうから起きたが、髪はまだ櫛巻きにして、顔の色も蒼ざめていた。知合いの仲であるから、お兼はすぐに通されたが、今夜の対面は双方とも余り快くなかった。お兼の方からまず口を切った。
「今度はおたがいさまに、飛んだ迷惑で困りました。そこで早速ですが、せがれの長之助はその後にこちらへ参りましたろうか。」
「いいえ。」と、延津弥はすげなく答えた。「二十九日から一度も見えませんよ。」
「ほんとうに参りませんか。」
「見えませんよ。千生さんだって、うっかりここの家へ顔出しも出来ないでしょうから。」と、延津弥は皮肉らしく言った。
「そうですか。」と、お兼はさらに声をひくめた。「世間というのは途方もないことを言い触らすもので……。うちの長之助がおまえさんとはらを合せて、中田屋の旦那を毒害したなんて言う者がありますそうで……。」
「まあ。」と、延津弥は呆れたようにお兼の顔をながめた。
「よもやそんな事があろうとは思いませんけれども。」
「あたりまえですよ。」と、延津弥は蒼ざめた顔をいよいよ蒼くして、罵るように言った。「なんであたしが千生さんと肚を合せて……。お熊に訊いて御覧なさい。こっちが頼みもしないのに、千生さんの方から知恵を貸して、おまえさんの家からおはぎを貰わして……。千生さんにどんな巧みがあったか知りませんけれど、あたしはなんにも知りませんよ。もしあのおはぎに毒がはいっていて、中田屋の旦那は死に、あたしもこんな病気になったのなら、千生さんは人殺しの下手人ですよ……。」
「そりゃそうですが、世間では……。」
「世間がどういうんですよ。」
「今もお話し申した通り、おまえさんと肚をあわせて……。」
「なぜ肚を合せるんですよ。肚を合せて、ど、どうするというんですよ。」
 言いかけて、延津弥は何か思い付いたように又罵った。
「まあ、ばかばかしい。それじゃあ、あたしが旦那の眼をぬすんで千生さんと……。まあ、途方もない。馬鹿もいい加減にするがいいわ。あたしも芸人だから、千生さんとひと通りのお附合いはしているけれど、何が口惜くやしくって、あんな寄席の前坐なんぞと……。お前さんもまた、そんな噂をに受けて、あたしの所へ何の掛合いに来たんですよ。」
「別に掛合いに来たというわけじゃあないので……。」と、お兼の声もやや尖ってきこえた。「もしやここへ来やあしないかと思って……。」
「来ませんよ。来られた義理じゃあありませんよ。毒を入れたか入れないか知らないけれども、なにしろあのおはぎを食べたせいで、あたし達はあんな目に逢ったんですから……。つまり、千生さんはあたし達の仇じゃあありませんか。」
「そう言われると、お話は出来ませんけれど、あんな人間でも長之助はわたしの独り息子ですから……。」と、お兼は俄かに声を湿うるませた。「どうしても身を隠さなければならない訳があるなら……。まあ当分はどこに忍んでいるにしても、先立つものは金ですから、ともかくも当座の入用にと思って、実はここに十両のお金を持って来たのですが……。」
 延津弥は黙って聴いていた。お熊はまだ帰らなかった。
「ねえ、お師匠さん。おまえさん、ほんとうに長之助の居どころを御存じないのでしょうか。」と、お兼はまた訊いた。
 延津弥はやはり黙っていた。小さい庭にむかったのきさきの風鈴が夜風に音を立てているばかりで、二人の沈黙は暫くつづいた。

     三

 閏七月は誰かの予言どおり、かなり強い残暑に苦しめられたが、二十九日の牡丹餅が効を奏したのか、江戸にはさまでの病人もなく、まず目出たいといううちに、八月にはいって陽気もめっきりと涼しくなった。往来を飛びかう赤とんぼうのはねの光りにも、秋らしい日の色が見えるようになった。それからそれへと新しい噂に追われて、物忘れの早い江戸の人たちは、先々月の末に汗を拭きながら牡丹餅をこしらえたり、買い歩いたりした事を、遠い昔のように思いなして、もうその噂をする者もなかった。
 その八月の二十一日の夜である。小梅の通源寺という寺のそばで、ひとりの女の死骸が発見された。女は千鳥の女房お兼で、手拭で絞め殺されていたのである。お兼がなんのために夜中こんな寂しい所へ来て、何者に殺されたのか、その子細はわからなかった。
 千鳥の店の話によると、お兼はせがれ長之助のゆくえ不明を苦に病んで、この頃は浅草の観音へ夜詣よまいりをする。観音堂は眼と鼻のあいだの近い処であるが、時にはいっときぐらいを過ぎて帰ることもある。当人は占い者へ廻ったとか、菩提寺の和尚さまに相談に行ったとか言っていたそうである。但しかの通源寺はお兼の菩提寺ではなかった。お兼の頸にまかれていたのは、有り触れたかめのぞきの買い手拭で、別に手がかりとなるべき物ではなかった。
 せがれの居どころは判らず、女あるじは急死したのであるから、千鳥の奉公人らも途方にくれた。お兼の兄の小兵衛は千住の宿しゅくで同商売をしているので、それが駈け付けて来て万事の世話をすることになった。もちろん町内の人びとも手伝って、まずはこの店相当の葬式を出したのは、二十四日の九つ(正午十二時)であった。その葬式がやがて出ようとする時、長之助の千生が蒼い顔をしてふらりと帰って来た。
「やあ、いいところへ息子が帰った。」
 人びとはよろこんで、早速かれを施主せしゅに立たせようとしたが、それは許されなかった。店先にあつまる会葬者の群れの中に、手先の一人もとうから入り込んでいて、千生はすぐに引っ立てられて行った。まさかに親殺しではあるまいが、今戸の中田屋の一件がまだ解決していないので、あるいはその係合かかりあいではないかという噂であった。
 番屋へかれた千生は、根が度胸のない人間であるから手先におどされて何もかも正直に申立てたので、り方は直ぐに金龍山下へむかったが、清元の師匠はもう影を隠して、小女ひとりがぼんやりと留守番をしていた。お熊の申立てによると、延津弥も千鳥の葬式にゆくと言って、身支度をして出たままで帰らないという。おそらく田原町まで行く途中、長之助が挙げられた噂を聞いて、千鳥へも行かず、自宅へも帰らず、どこかへ逃亡したのであろうと察せられた。
 それから三日目の夜である。橋場の渡し番庄作のせがれ庄吉が近所へ遊びに行って、つ(午後十時)に近い頃に帰って来ると、渡し小屋から少し距れた川端に誰かの話し声がきこえた。暗いので顔は見えないが、その声が男と女であることは直ぐに判ったので、年のわかい庄吉は一種の好奇心から足音を忍ばせて近寄った。かれは柳のかげに隠れて窺っていると、男は小声に力をこめて言った。
「じゃあ、どうしても帰らねえというのか。」
「帰らないよ。誰が帰るものか。」と、女は吐き出すように言った。
「じゃあ、どうするんだ。」
「死ぬのさ。」
「死ぬ……。」と、男は冷笑あざわらった。「きまり文句で嚇かすなよ。死ぬなら俺が一緒に心中してやらあ。」
「まっぴらだよ。誰がお前なんぞと……。あたしは一人で死ぬから邪魔をしておくれでないよ。」
「駄々をこねずに、まあ帰れよ。おたがいに考え直して、いい相談をしようじゃあねえか。」
「ふん、なにがいい相談だ。あたしは三日前にここから身を投げるつもりのところを、お前のようなゲジゲジ虫に取っつかまって……。」
「そのゲジゲジが留めなけりゃあ、おめえはドブンをめたところだったじゃねえか。」
「だからさ。いっそ一と思いにドブンを極めようとしたところを、飛んだ奴に邪魔されて……。」と、女は激しく罵った。「いい相談があるとだまされて、掃溜はきだめのようなきたない長屋の奥へ引っ張り込まれて、三日のあいだ、腹さんざん慰み物にされて、身ぐるみ剥がれて古浴衣一枚にされて……。揚句の果てに宿場女郎にでも売り飛ばそうとする、おまえの相談は聞かずとも判っているんだ。どうせ死ぬと決めた体だから、どうなってもいいようなものだが、あたしはお前のような男に骨までしゃぶられるような罪は作らないよ。」
「なに、罪は作らねえ……。女のくせに人殺しまでして、罪を作らねえが聞いて呆れらあ。よく考えて物をいえ。」
「人殺しはお前じゃあないか。」
 その声が高くなったので、男は暗いなかにあたりをはばかるように言った。
「おれはおめえを救ってやったのだ。」
「救ってくれたら、それでいいのさ。いつまで恩に着せることはないじゃないか。文句があるなら、千鳥へ行ってお言いよ。」
「べらぼうめ。うかうか千鳥なんぞへつらを出して、馬鹿息子と一緒に番屋へしょびかれてたまるものか。」
 さっきからの押問答をぬすみ聴いて、庄吉は男が何者であるかを覚った。男は近所の裏長屋に住む虎七という独り者で、表向きは瓦屋の職人であるが、商売はそっちのけで、ぐれ歩いている札付ふだつきのならずものである。女は何者であるか判らないが、ともかくもその事件が人殺しに関係しているらしいので、庄吉はおどろいた。殊に千鳥という名が彼の注意をひいた。
 こうなっては聞き捨てにならないと思ったので、彼は早々に引っ返して親父の庄作に注進ちゅうしんした。
 かれらの家は渡し場の近所で、庄作は今や一ごうの寝酒を楽しんでいるところであったが、それを聞いて眉をよせた。
「そりゃあ大変だ。なにしろ俺も行って様子を見届けよう。」
 庄吉に案内させて庄作も川端へ忍んで行くと、二つの黒い影はもうそこに見いだされなかった。
 暗いなかで聞こえるのは、岸に触れる水の音のみである。女は死ぬと言っていたから、庄吉の立去ったあとに身でも投げたか、それとも男に引摺られて帰ったか、それらはいっさい不明であった。
「お父っさん、どうしよう。」
「さあ。」と、庄作も考えた。「ほか場所ならばともかくも、渡し場近所で何事かあったのを知らん顔をしていては、後日に何かの迷惑にならねえとも限らねえ。念のために届けて置くがよかろう。」
 親子は一応その次第を自身番へ届けて出た。
 しかもその男も女もすでにどこへか立去ってしまったというのでは、別に詮議の仕様もないので、自身番でもそのままに捨てて置いた。

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