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中国怪奇小説集(ちゅうごくかいきしょうせつしゅう)17閲微草堂筆記(清)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-8-27 18:07:01  点击:  切换到繁體中文


   飛天夜叉

 烏魯木斉ウロボクセイ新疆しんきょうの一地方で、甚だ未開辺僻へんぺきの地である(筆者、紀暁嵐はかつてこの地にあったので、烏魯木斉地方の出来事をたくさんに書いている)。その把総はそう(軍官で、陸軍少尉しょういの如きものである)を勤めている蔡良棟さいりょうとうが話した。
 この地方が初めて平定した時、四方を巡回して南山の深いところへ分け入ると、日もようやく暮れかかって来た。見ると、たにを隔てた向う岸に人の影がある。もしや瑪哈沁ひょうはしん(この地方でいう追剥おいはぎである)ではないかと疑って、草むらに身をひそめて窺うと、一人の軍装をした男が磐石の上に坐って、そのそばには相貌獰悪どうあくの従卒が数人控えている。なにか言っているらしいが、遠いのでよく聴き取れない。
 やがて一人の従卒に指図して、石のほらから六人の女をひき出して来た。女はみな色の白い、美しい者ばかりで、身にはいろいろの色彩いろどりのある美服を着けていたが、いずれも後ろ手にくくり上げられて恐るおそるにかしらを垂れてひざまずくと、石上の男はかれらを一人ずつ自分の前に召し出して、下衣したぎがせて地にひき伏せ、むちをあげて打ち据えるのである。打てば血が流れ、その哀号あいごうの声はあたりの森に木谺こだまして、凄惨実にたとえようもなかった。
 その折檻が終ると、男は従卒と共にどこへか立ち去った。女どもはそれを見送り果てて、いずれも泣く泣く元の洞へ帰って行った。男は何者であるか、女は何者であるか、もとより判らない。一行のうちに弓をよく引く者があったので、向う岸の立ち木にむかって二本の矢を射込んで帰った。
 あくる日、廻り路をして向う岸へ行き着いて、きのうの矢を目じるしに捜索すると、石の洞門はちりに封じられていた。松明たいまつをとって進み入ると、深さ四丈ばかりで行き止まりになってしまって、他には抜け路もないらしく、結局なんのるところもなしに引き揚げて来た。
 蔡はこの話をして、自分が烏魯木斉にあるあいだに目撃した奇怪の事件は、これをもって第一とすると言った。わたしにも判らないが、太平広記に、天人が飛天夜叉ひてんやしゃを捕えて成敗する話が載せてある。飛天夜叉は美女である。蔡の見たのも或いはこの夜叉のたぐいであるかも知れない。

   喇嘛教

 喇嘛教らまきょうには二種あって、一を黄教といい、他を紅教といい、その衣服をもって区別するのである。黄教は道徳を講じ、因果を明らかにし、かの禅家ぜんけと派をことにして源を同じゅうするものである。
 但し紅教は幻術げんじゅつを巧みにするものである。理藩院りはんいんの尚書を勤めるりゅうという人が曾て西蔵ちべっとに駐在しているときに、何かの事で一人の紅教喇嘛に恨まれた。そこで、或る人が注意した。
「彼は復讐をするかも知れません。山登りのときには御用心なさい」
 留は山へ登るとき、輿や行列をさきにして、自分は馬に乗って後から行くと、果たして山の半腹に至った頃に、前列の馬が俄かに狂い立って、輿をめちゃめちゃに踏みこわした。輿は無論にからであった。
 また、烏魯木斉に従軍の当時、軍士のうちで馬を失った者があった。一人の紅教喇嘛が小さい木の腰掛けをとって、なにか暫く呪文を唱えていると、腰掛けは自然にころころと転がり始めたので、その行くさきを追ってゆくと、ある谷間たにあいへ行き着いて、果たしてそこにかの馬を発見した。これは著者が親しく目撃したことである。
 案ずるに、西域せいいきに刀を呑み、火を呑むたぐいの幻術を善くする者あることは、前漢時代の記録にも見えている。これも恐らくそれらの遺術を相伝したもので、仏氏の正法しょうほうではない。それであるから、黄教の者は紅教徒を称して、あるいは魔といい、あるいは波羅門ばらもんという。すなわち仏経にいわゆる邪魔外道じゃまげどうである。けだし、そのたぐいであろう。

   滴血

 しんの人でその資産を弟にたくして、久しく他郷たきょうに出商いをしている者があった。旅さきで妻をめとって一人の子を儲けたが、十年あまりの後に妻が病死したので、その子を連れて故郷へ帰って来た。
 兄が子を連れて帰った以上、弟はその資産をその子に譲り渡さなければならないので、その子は兄の実子でなく、旅さきの妻が他人の種を宿して生んだものであるから、異姓の子に資産を譲ることは出来ないと主張した。それが一種の口実こうじつであることは大抵想像されているものの、何分にも旅さきの事といい、その妻ももう此の世にはいないので、事実の真偽を確かめるのがむずかしく、たがいに捫着もんちゃくをかさねた末に、官へ訴えて出ることになった。
 官の力で調査したらば、弟の申し立てが嘘か本当かを知ることが出来たかも知れないが、役人らはいたずらに古法を守って、滴血てきけつをおこなうことにした。兄の血と、その子の血とを一つうつわにそそぎ入れて、それが一つに融け合うかどうかを試したのである。幸いにその血が一つに合ったので、裁判は直ちに兄側の勝訴となって、弟はむちうって放逐するという宣告を受けた。
 しかし弟は、滴血などという古風の裁判を信じないと言った。彼は自分にも一人の子があるので、試みにその血をそそいでみると、かれらの血は一つに合わなかった。彼はそれを証拠にして、現在、父子おやこすらもその血が一つに合わないのであるから、滴血などをもって裁判をくだされては甚だ迷惑であると、逆捻さかねじに上訴した。彼としては相当の理屈もあったのであろうが、不幸にして彼は周囲の人びとから憎まれていた。
「あの父子の血が一つに寄らないのは当り前だ。あの男の女房は、ほかの男と姦通しているのだ」
 この噂が官にきこえて、その妻を拘引して吟味すると、果たしてそれが事実であったので、弟は面目を失って、妻を捨て、子を捨てて、どこへか夜逃げをしてしまった。その資産はとどこおりなく兄に引き渡された。
 由来、滴血のことは遠い漢代から伝えられているが、経験ある老吏について著者の聞いたところに拠ると、親身の者の血が一つに合うのは事実である。しかし冬の寒い時に、そのうつわを冷やして血をそそぐか、あるいは夏の暑いときに、塩と酢をもってその器を拭いた上で血をそそぐと、いずれもその血が別々に凝結して一つに寄り合わない。そういう特殊の場合がいろいろあるから、迂闊に滴血などを信ずるのは危険であると、彼は説明した。
 成程そうであろうと思われる。しかしこの場合、もし滴血をおこなわなければ、弟はおそらく上訴しなかったであろう。弟が上訴しなければ、その妻の陰事いんじは摘発されなかったであろう。妻の陰事が露顕しなければ、この裁判はいつまでも落着らくぢゃくしなかったであろう。こうなると、あながちに役人の不用意を咎めるわけにも行かない。そのあいだには何か自然の約束があるようにも思われるではないか。

   不思議な顔

 蒙陰もういん劉生りゅうせいがある時その従弟いとこの家に泊まった。いろいろの話の末に、この頃この家には一種の怪物があらわれる。出没常ならず、どこに潜んでいるか判らないが、暗闇で出逢うと人を突きたおすのである。そのからだの堅きこと鉄石のごとくであると、家内の者が語った。
 劉はかりを好んで、常に鉄砲を持ちあるいているので、それを聞いて笑った。
「よろしい。その怪物が出て来たらば、この鉄砲で防ぎます」
 書斎は三間になっているので、彼はその東のへやで寝ることにした。燈火ともしびにむかって独りで坐っていると、西の室から何者か現われて立った。その五体は人の如くであるが、その顔が頗る不思議で、眼と眉とのあいだは二寸ぐらいもはなれているにも拘らず、鼻と口とはほとんど一つに付いているばかりか、その位置も妙に曲がっていた。顔の輪郭もまたゆがんでいる。よく見ると、不思議というよりも頗る滑稽な顔ではあるが、なにしろ一種の怪物には相違ないと見て、劉はすぐに鉄砲をとって窺うと、かれは慌てて室内へ退いて、扉のあいだから半面を出して窺っているのである。
 劉が鉄砲をおろすと、彼はそろそろ出かかる。劉がふたたび鉄砲をむけると、彼はまた隠れる。そんなことを幾たびも繰り返しているうちに、彼はたちまち顔の全面をあらわして、舌を吐き、手を振って、劉をあざけるかのようにも見えたので、急に一発を射撃すると、たまは扉にあたって怪物の姿は隠れた。
 劉は窓格子のあいだに鉄砲を伏せて、再びその現われるのを待っていると、彼はふたたび出て来て弾にあたった。そのたおるる時、あたかも家根瓦の落ちて砕けるような響きを発したのである。近寄ってみると、それはこわれたかめの破片であった。
 更にあらためると、怪物の正体はこの家にある古い甕であることが判った。
 それが不思議な顔をしていたのは、小児こどもがその甕のおもてへいたずら書きをしたのである。小児が手あたり次第に書いたのであるから、人間の顔がおかしくゆがんで、眼も鼻も勿論ととのっていない。それでも人間の顔をそなえたために、こんな怪をなすようになったのかも知れないというのであった。

   顔良の祠

 呂城は呉の呂蒙りょもうの築いたものである。河をはさんで、両岸に二つのやしろがある。
 その一つは唐の名将郭子儀かくしぎの祠である。郭子儀がどうしてこんな所に祀られているのか判らない。他の一つは三国時代の袁紹えんしょうの部将の顔良がんりょうを祀ったもので、これもその由来は想像しかねるが、土地の者がいのるとすこぶる霊験があるというので、甚だ信仰されている。
 それがために、その周囲十五里のあいだには関帝廟かんていびょう(関羽を祀る廟)を置くことを許さない。顔良は関羽かんうに殺されたからである。もし関帝廟を置けば必ず禍いがあると伝えられている。ある時、その土地の県令がそれを信じないで、顔良の祠の祭りのときに自分も参詣し、わざと俳優に三国志の演劇しばいを演じさせると、たちまちに狂風どっと吹きよせて、演劇の仮小屋の家根も舞台も宙にまき上げて投げ落したので、俳優のうちには死人も出来た。
 そればかりでなく、十五里の区域内には疫病が大いに流行して、人畜の死する者おびただしく、かの県令も病いにかかって危うく死にかかったというのである。
 およそ戦いに負けたといって、一々その敵を怨むことになっては、古来の名将勇士は何千人にたたられるか判らない。顔良の輩が千年の後までも関羽に祟るなど、決して有り得べきことではない。これは祠に仕える巫女みこのやからが何かのことを言い触らし、愚民がそれを信ずる虚に乗じて、他の山妖水怪のたぐいが入り込んで、みだりに禍福をほしいままにするのであろう。


 

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