張巡の妾
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それから九百余年の後、
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「あなたは張巡が妾を殺したことを御存じですか。あなたの前の世は張巡で、わたしはその妾であったのです。あなたが忠臣であるのは誰も知っていることですが、その忠臣となるがために、なんの罪もないわたしを殺して、その肉を士卒に食わせるような無残な事をなぜなされた。その恨みを報いるために、わたしは十三代もあなたを付け狙っていましたが、何分にもあなたは代々偉い人にばかり生まれ変っているので、遂にその機会を得ませんでした。しかも今のあなたはさのみ偉い人でもない、単に一個の
言い終って、女のすがたは消えてしまった。病人もそれから間もなく世を去った。
火の神
「まだ起きているのか」
主人は窓の隙からそっと覗いてみると、
「楊さんもなかなか勉強だな」
その晩はそのまま帰って、主人は翌日それを楊に話すと、かれは不思議そうな顔をしていた。
「いえ、ゆうべは早く寝てしまいました」
「いや、わたしが確かに見た。あなたは夜の更けるまで
しかし楊は笑っていられなかった。
これには何か子細があるに相違ないと思ったので、その晩は寝た振りをして窺っていると、夜も
楊はおどろいて、大きい声で人を呼んだが、誰も来る者はなかった。緋衣の人も聞かないようなふうでしずかに書物を読みつづけていた。やがて
「もしや夢か」
自分が見ただけならば夢かとも思えるが、現に昨夜もここの主人が同じような不思議を見せられたのであるから、どうも夢とは思われない。こんなところに長居をするのは良くないと
それから四、五日の後、突然ここの家に火を発して、楊の部屋は丸焼けになった。
文昌閣の鸛
その以来、かの鳥はその脛に矢を負ったままで、家の棟の巣を出入りしているのを、大勢の人が常に見ていた。軍士も一時のいたずらであるから、再びそれを射ようともしなかった。
ある日、
「これは鳥の恨みだ。わたしは助からない」と、軍士は言った。
果たして数日の後に、彼は死んだ。
剣侠
某
その途中、役人は古い廟に一宿すると、その夜のあいだにかの三千金を何者にか奪われた。しかも扉の
「勿論のことでございます」と、役人は答えた。「しかし、あまり奇怪の出来事でございますから、一カ月間の御猶予をねがいまして、そのあいだにその秘密を探り出したいと思います。わたくしが逃げ隠れをしない証拠には、妻や子を人質に残してまいります」
中丞もそれを許したので、役人は再びかの古廟の付近へ行きむかって、種々に手を尽くして
なんでも判らないことがあらば御相談なさい。――こういう
「あなたの失った金は幾らです」
「三千金です」
「それならば大抵こころ当りがあります。わたしと一緒においでなさい」
老人は先に立って案内した。最初の一日は人家のある村つづきであったが、それから先は深山へはいって、どこをどう辿ったのか判らなかったが、ともかくも第三日の
「あなたはここらの人と見えないが、なにしに来たのです」
老人が代って説明すると、その男はうなずいて役人を案内して行った。そのうちに老人のすがたは見えなくなってしまったので、どうなることかと不安ながら付いてゆくと、大路小路を幾たびか折れ曲がって、堂々たる大邸宅の門内へ連れ込まれた。さらに奥の間へ案内されると、広い座敷のなかにはただひとつの
「この金が欲しいのか」と、男は訊いた。
「頂戴が出来れば結構でございますが……」と、役人は恐る恐る答えた。
「なにしろ疲れたろう。すこし休息するがよい」
ひとりの男が彼をまた案内して、奥まったひと間へ連れ込み、一旦は扉をしめて立ち去ったが、やがて食事の時刻になると、立派な膳部を運んで来てくれた。それでも役人の不安はまだ去らないので、日の暮れ果てるのを待って、そっとうしろの戸をあけてあたりを窺うと、今夜は月の明るい宵で、そこらの壁のきわに何物かが
「あの金をおまえにやることは出来ない。しかしお前の迷惑にならないように、これをやる。持って帰って上官にみせろ」
何か一枚の紙にかいた物をくれたので、役人は夢中でそれを受取ると、ひとりの男がまた彼を案内して、三日の後に元の場所まで送り帰してくれた。何がなんだか更にわからないので、役人はまだ夢をみているような心持で帰って来て、中丞にその次第を報告し、あわせてかの一紙をみせると、中丞は不思議そうに読んでいたが、たちまちにその顔色が変った。
役人の妻子はすぐに人質をゆるされた。紛失の三千金もつぐなうには及ばぬと言い渡された。それで役人は大いに喜んだが、さてその一紙には何事がしるしてあったのか、その秘密はわからなかった。しかも後日になって、その書中には大略左のごときことが
――おまえは平生から官吏として賄賂をむさぼり、横領をほしいままにしている。その罪まことに重々である。就いては小役人などを責めて、償いの金を徴収するな。さもなければ、何月何日の夜半に、おまえの妻の髪の毛が何寸切られていたか、よく
中丞が顔の色を変えて恐れたのも無理はなかった。彼の妻は、その通りに髪を切られていたのである。かの無名の偉丈夫は、いわゆる剣侠のたぐいであることを、役人は初めてさとった。