第十二の夫人は語る。
「今晩は主人が出ましてお話をいたす筈でございましたが、よんどころない用事が出来まして、残念ながら俄かに欠席いたすことになりました。就きましては、お前が
名代に出て何かのお話を申し上げろということでございましたが、無学のわたくしが皆さま方の前へ出て何も申し上げるようなことはございません。唯ほんの申し訳ばかりに、どなたも御存じの『剪燈新話』のお話を少々申し上げて御免を蒙ります。
わたくしどもにはよく
判りませんが、支那の小説は大体に於いて、
唐と
清とが一番よろしく、次が
宋で、
明朝の作は余り面白くないのだとか申すことでございます。殊に今晩の御趣意を
承わりまして、主人もお話の選択によほど苦しんでいたようでございました。しかし支那の本国ではともかくも、日本では昔から『剪燈新話』がよく知られて居りまして、これは御承知の通り、
明の
瞿宗吉の作ということになって居ります。その作者に就いては多少の異論もあるようでございますが、ここでは普通一般の説にしたがって、やはり瞿宗吉の作といたして置きましょう。
今まで皆さんがお話しになったものとは違いまして、この『剪燈新話』は一つのお話が比較的に長うございますから、今晩はそのうちの『
申陽洞記』と『
牡丹燈記』の二種を選んで申し上げることにいたします。
馬琴の『八犬伝』のうちに、
犬飼現八が
庚申山で山猫の妖怪を射る
件がありますが、それはこの『申陽洞記』をそっくり書き直したものでございます。一方の『牡丹燈記』が
浅井了意の『お
伽ぼうこ』や、
円朝の『牡丹燈籠』に取り入れられているのは、どなたも
能く御存じのことでございましょう。前置きは先ずこのくらいにいたしまして、すぐに
本文に取りかかります」
申陽洞記
隴西の
李徳逢という男は当年二十五歳の青年で、馬に
騎り、弓をひくことが上手で、大胆な勇者として知られていましたが、こういう人物の癖として家業にはちっとも頓着せず、常に弓矢を取って乗りまわっているので、土地の者には
爪弾きされていました。
そういうわけで、
身代もだんだんに衰えて来ましたので、
元の
天暦年間、李は自分の郷里を立ち
退いて、桂州へ行きました。そこには自分の父の旧い友達が監郡の役を勤めているので、李はそれを頼って行ったのですが、さて行き着いてみると、その人はもう死んでしまったというので、李も途方に暮れました。さりとて再び郷里へも帰られず、そこらをさまよい歩いた末に、この国には名ある山々が多いのを幸いに、その山々のあいだを往来して、自分が得意の弓矢をもって鳥や
獣を射るのを商売にしていました。
「自分の好きなことをして世を送っていれば、それで結構だ」
こう思って、彼は平気で毎日かけ廻っていました。すると、ここに
銭という
大家がありまして、その主人は銭翁と呼ばれ、この郡内では有名な資産家として知られていました。銭の家には今年十七のひとり娘がありまして、父の寵愛はひと通りでなく、子供のときから屋敷の奥ふかく住まわせて、親戚や近所の者にも
滅多にその姿を窺わせたことがないくらいでした。その最愛の娘が雨風の暗い夜に突然ゆくえ不明になったので、さあ大変な騒ぎになりました。
よく調べてみると、門も扉も窓も元のままになっていて、外から何者かが忍び込んだらしい形跡もなく、娘だけがどこへか消えてしまったのですから、実に不思議です。勿論、早速にその筋へ訴え出るやら、神に
祷るやら、四方八方をたずね廻らせるやら、手に手を尽くして詮議したのですが、遂にそのゆくえが判らないので、父の銭翁は昼夜悲嘆にくれた末に、こういうことを触れ出しました。
「もし娘のありかを尋ね出してくれた者には、わたしの身代の半分を
割いてやる。又その上に娘の婿にする」
それを聞いて、誰も彼も色と慾とのふた筋から、一生懸命に心あたりを探し廻ったのですが、娘のゆくえは容易にわからず、むなしく三年の月日を送ってしまいました。すると、ある日のことです。かの李徳逢が例のごとくに弓矢をたずさえて山狩りに出ると、一匹の
を見つけたので、すぐに追って行きました。
はよく走るので、なかなか追い付きません。鹿を追う猟師は山を見ずの
譬の通りに、李は夢中になって追って行くうちに、岡を越え、峰を越えて、深い谷間へ入り込みましたが、遂に
獲物のすがたを見失いました。がっかりして見まわすと、いつの間にか日が暮れています。おどろいて引っ返そうとすると、もと来た道がもう判りません。そこらを無暗に迷いあるいているうちに、夜はだんだんに暗くなって、やがて
初更(午後七時―九時)に近い頃になったらしいのです。むこうの山の頂きに何かの建物があるのを見つけて、ともかくもそこまで
辿り着くと、そこらは
人跡の絶えたところで、いつの代に建てたか判らないような、
頽れかかった
一宇の古い廟がありました。
「なんだか物凄い所だ」
大胆の青年もさすがに一種の恐れを感じましたが、今更どうすることも出来ないので、しばらく軒下に休息して夜のあけるのを待つことにしていると、たちまちに道を払う
警蹕の声が遠くきこえました。
「こんな山奥へ今ごろ
威めしい行列を作って何者が来るのか。鬼神か、盗賊か」
忍んで様子を窺うに
如ずと思って、かれは廟の
欄間へ
攀じのぼり、
梁のあいだに身をひそめていると、やがてその一行は門内へ進んで来ました。二つの紅い燈籠をさきに立てて、その
頭分とみえる者は
紅い
冠をいただき、うす黄色の
袍を着て、神坐の前にある
案に拠って着坐すると、その従者とおぼしきもの十余人はおのおの武器を執って、
階段の下に居列びました。その
行粧はすこぶる厳粛でありますが、よく見ると、かれらの顔かたちはみな蒼黒く、猿のたぐいの
※[#「けものへん+矍」、261-18]というものでありました。
さては妖怪
変化かと、李は腰に挟んでいる
箭を取って、まずその頭分とみえる者に射あてると、彼はその
臂を傷つけられて、おどろき叫んで逃げ出しました。他の
眷族どもも狼狽して、皆ばらばらと逃げ去ってしまったので、あとは元のようにひっそりと鎮まりました。夜が明けてから神坐のあたりを調べると、なま血のあとが点々として正門の外までしたたっているので、李はその跡をたずねて、山を南に五里ほども分け入ると、そこに一つの大きい穴があって、血のあとはその穴の入口まで続いていました。
「化け物の巣窟はここだな。どうしてくりょう」
李は穴のあたりを見まわって、かれらを退治する工夫を講じているうちに、やわらかい草に足をすべらせて、
あっという間に穴の底へころげ落ちました。穴の深さは何十丈だか判りません。仰いでも空は見えないくらいです。
所詮ふたたびこの世へは出られないものと覚悟しながら、李は暗いなかを探りつつ進んでゆくと、やがて明るいところへ出ました。そこには
石室があって、
申陽之洞という
榜が立っています。その門を守るもの数人、いずれも昨夜の妖怪どもで、李のすがたを見てみな驚いたように
訊きました。
「あなたは一体何者で、どうしてここへ来たのです」
李は腰をかがめて丁寧に敬礼しました。
「わたくしは城中に住んで、医者を業としている者でございますが、今日この山へ薬草を採りにまいりまして、思わず足をすべらせてこの穴へ転げ落ちたのでございます」
それを聞いて、かれらは俄かに喜びの色をみせました。
「おまえは医者というからは、人の療治が出来るのだろうな」
「勿論、それがわたくしの商売でございます」
「いや、有難い」と、かれらはいよいよ喜びました。「実はおれたちの主君の申陽侯が昨夜遊びに出て、ながれ矢のために負傷なされた。そこへ丁度、お前のような医者が迷って来るというのは、天の助けだ」
かれらは奥へかけ込んで報告すると、李はやがて奥へ案内されました。奥の寝室は
帷も
衾も華麗をきわめたもので、一匹の年ふる大猿が石の
榻の上に横たわりながら
唸っていると、そのそばには
国色ともいうべき美女三人が控えています。李はその猿の脈を取り、傷をあらためて、まことしやかにこう言いました。
「御心配なさるな。すぐに療治をしてあげます。わたくしは一種の仙薬をたくわえて居りますから、それをお飲みになれば、こんな傷はたちまちに癒るばかりでなく、幾千万年でも長生きが出来るのです」
腰に着けている
嚢から一薬をとり出して
勿体らしく与えると、他の妖怪どもも皆その前にひざまずいて頼みました。
「あなたは実に神のようなお人です。その長生きの仙薬というのをどうぞ我々にもお恵みください」
「よろしい。おまえらにも分けてあげよう」
李は嚢にあらん限りの薬をかれらにも施すと、いずれも奪い合って飲みましたが、それは怖ろしい毒薬で、怪鳥や猛獣を
仆すために
矢鏃に塗るものでありました。その毒薬を飲んだのですから堪まりません。かの大猿をはじめとして、他の妖怪どもも片端から枕をならべてばたばたと倒れてしまいました。仕済ましたりとあざわらいながら、李は壁にかけてある宝剣をとって、大猿小猿あわせて三十六匹の首をことごとく斬り落しました。
残る三人の美女も妖怪のたぐいであろうと疑って、李はそれをも殺そうとすると、みな泣いて訴えました。
「わたくしどもは決して怪しい者ではございません。不幸にして妖怪に奪い去られ、悲しい怖ろしい地獄の底に沈んでいたのでございます。その妖怪を残らず亡ぼして下さいましたのですから、わたくしどもに取りましてあなたは命の親の大恩人でございます」
そこで、だんだん聞いてみると、その一人はかの銭翁の娘で、他のふたりもやはり近所の良家の娘たちと判りました。李はこうして妖怪を退治して、不幸の娘たちを救ったのですが、何分にも深い穴の底に落ちているのですから、三人を連れて出る
術がありません。これには李も思案にくれているところへ、いずこよりとも知らず、幾人の老人があらわれて来ました。いずれも
鬢の毛を長く垂れて、尖った口を持った人びとで、ひとりの白衣の老人を先に立てて、李の前にうやうやしく礼拝しました。
「われわれは
虚星の精で、久しくここに住んで居りましたが、近ごろかの妖怪らのために多年の住み家を占領されてしまいました。しかも我々はそれに敵対するほどの力がないので、しばらくここを立ち退いて時節の来るのを待っていたのでございますが、今日あなたのお力によって、かれらがことごとく亡びましたので、こんな悦ばしいことはございません」
老人らはその謝礼として、めいめいの袖の下から、金や
珠のたぐいを取出して
献げました。
「おまえらもすでに
神通力を
具えているらしいのに、なぜかの妖怪どもに今まで屈伏していたのだ」と、李は訊きました。
「わたくしはまだ五百年にしかなりません」と、白衣の老人は答えました。「かの大猿はすでに八百年の
劫を経て居ります。それで、残念ながら彼に敵することが出来なかったのでございます。しかし我々は人間に対して決して禍いをなすものではございません。かの兇悪な猿どもがたちまち滅亡したのは、あなたのお力とは申しながら、
畢竟は天罰でございます」
「ここを申陽洞と名づけたのは、どういうわけだ」と、李はまた訊きました。