中国怪奇小説集 |
光文社文庫、光文社 |
1994(平成6)年4月20日 |
1994(平成6)年4月20日初版1刷 |
1999(平成11)年11月5日3刷 |
中国怪奇小説集
続夷堅志・其他
岡本綺堂
第十の男は語る。
「わたくしは金・元を割り当てられました。御承知の通り、金は朔北の女真族から起って中国に侵入し、江北に帝と称すること百余年に及んだのですから、その文学にも見るべきものがある筈ですが、小説方面はあまり振わなかったようです。そのなかで、学者として、詩人として、最も有名であるのは元好問でありましょう。彼は本名よりも、その雅号の元遺山をもって知られて居ります。前に『夷堅志』が紹介された関係上、ここでは元遺山の『続夷堅志』を紹介することに致しました。
元は小説戯曲勃興の時代と称せられ、例の水滸伝のごとき大作も現われて居りますが、今晩のお催しの御趣意から観ますると、戯曲は勿論例外であり、小説の方面にも多く採るべきものを見いだし得ないのは残念でございます。就いてはまず『続夷堅志』を主として、それに元代諸家の作を付け加えることにとどめて置きました」
梁氏の復讐
戴十というのはどこの人であるか知らないが、兵乱の後は洛陽の東南にある左家荘に住んで、人に傭われて働いていた。いわゆる日傭取りのたぐいで、甚だ貧しい者であった。
金の大定二十三年の秋八月、ひとりの通事(通訳)が畑の中に馬を放して豆を食わせていた。それは通事が所有の畑ではなく、戴が傭われて耕作している土地であるので、戴はその狼藉を見逃がすわけには行かなかった。彼はその馬を叱って逐い出した。
それをみて通事は大いに怒った。彼は策をもって戴をさんざんに打ち据えて、遂に無残に打ち殺してしまったので、戴の妻の梁氏は夫の死骸を営中へ舁き込んで訴えた。通事は人殺しの罪をもって捕えられた。
この通事は身分の高い家に仕えている者であったので、その主人が牛三頭と白金一笏をつぐなうことにして、梁氏に示談を申し込んだ。
「夫の代りにあの男の命を取ったところで、今更どうなるものではあるまい。夫の死んだのは天命とあきらめてはくれまいか。おまえの家は貧しい上に、二人の幼い子供が残っている。この金と牛とで自活の道を立てた方が将来のためであろう」
他の人たちも成程そうだと思ったが、梁氏は決して承知しなかった。
「わたしの夫が罪なくして殺された以上、どうしても相手を安穏に捨てて置くことは出来ません。この場合、損得などはどうでもいいのです。たとい親子が乞食になっても構いませんから、あの男を殺させてください」
こうなると、手が着けられないので、他の人たちも持てあました。
「おまえは自分であの男を殺すつもりか」と、一人が訊いた。
「勿論です。なに、殺せないことがあるものか」
彼女は袖をまくって、用意の刃物を突き出した。その権幕が怖ろしいので、人びとも思わずしりごみすると、梁氏は進み寄って縄付きの通事を切った。しかもひと思いには殺さないで、幾度も切って、切って、切り殺した。そうして、いよいよ息の絶えたのを見すまして、彼女はその血をすくって飲んだ。あまりの怖ろしさに、人びとはただ呼吸をのんでいると、彼女は二人の子を連れて、そのままどこへか立ち去った。
(続夷堅志)
樹を伐る狐
鄭村の鉄李という男は狐を捕るのを商売にしていた。大定の末年のある夜、かれは一羽の鴿を餌として、古い墓の下に網を張り、自分はかたわらの大樹の上に攀じ登ってうかがっていると、夜の二更(午後九時―十一時)とおぼしき頃に、狐の群れがここへ集まって来た。かれらは人のような声をなして、樹の上の鉄を罵った。
「鉄の野郎め、貴様は鴿一羽を餌にして、おれたちを釣り寄せるつもりか。貴様の親子はなんという奴らだ。まじめな百姓わざも出来ないで、明けても暮れても殺生ばかりしていやあがる。おれたちの六親眷族はみんな貴様たちの手にかかって死んだのだ。しかし今夜こそは貴様の天命も尽きたぞ。さあ、その樹の上から降りて来い。降りて来ないと、その樹を挽き倒すぞ」
なにを言やあがると、鉄も最初は多寡をくくっていたが、狐らはほんとうに樹を伐るつもりであるらしく、のこぎりで幹を伐るような音がきこえはじめた。そうして、釜の火を焚け、油を沸かせと罵り合う声もきこえた。かれらは鉄をひきおとして油煎りにする計画であることが判ったので、彼も俄かに怖ろしくなったが、今更どうすることも出来ない。
「ともかくも樹にしっかりとかじり付いているよりほかはない。万一この樹が倒されたら、腰につけている斧で手当り次第に叩っ斬ってやろう」と、彼は度胸を据えていた。
幸いに何事もないうちに夜が明けかかったので、狐らはみな立ち去った。鉄もほっとして樹を降りると、幹にはのこぎりの痕らしいものも見えなかった。ただそこらに牛の肋骨が五、六枚落ちているのを見ると、かれらはこの骨をもってのこぎりの音を聞かせたらしい。
「畜生め。おれを化かして嚇かしゃあがったな。今にみろ」
かれは爆発薬を竹に巻き、別に火を入れた罐を用意して、今夜も同じところへ行くと、やはり二更に近づいた頃に、狐の群れが又あつまって来て樹の上にいる彼を罵った。それを黙って聴きながら、鉄は爆薬に火を移して投げ付けると、凄まじい爆音と共に火薬が破裂したので、狐らはおどろいて逃げ散るはずみに、我から網にかかるものが多かった。鉄は斧をもって片端から撲り殺した。
(同上)
兄の折檻
王という役人は大定年中に死んだ。その末の弟の王確というのは大酒飲みの乱暴で、亡き兄の妻や幼な児をさんざんに苦しめるのであるが、どうにも抑え付けようがないので、一家は我慢に我慢して日を送っていた。
そういう苦労がつづいたために、妻はとうとう病いの床に就くようになった。ある夜のことである。夜も更けて、ともしびも消えたとき、暗いなかで何やら衣摺れのような音が低くきこえた。やがてまた、そこらの双陸や棋石に触れるような響きがして、誰か幽かな溜め息をついているようにも聞かれた。
それが亡き夫の霊で、乱暴者の弟が勝負事にふけるのを嘆息しているのではないかとも思われたので、彼女は泣いて訴えた。
「末の叔父さんには困り切ります。さりとてお上で罰して下さるというわけにも行かず、このままにしていたら私たち母子はどうなるか判りません」
それから五、六日を過ぎないうちに、王確は酔って襄という所へ出かけた。帰りには日が暮れて、趙という村まで来かかると、路のまんなかで兄の王に出逢った。とうに死んでいる筈の兄は、地に筋を引いて一々に弟の罪状をかぞえ立てた上に、馬の策をふるって続け打ちに打ち据えたので、さすがの乱暴者も頭を抱えて逃げ廻って、僅かに自分の家へ帰ることが出来た。
燈火の下でよく視ると、彼の着物はさんざんに破れているばかりか、背中一面が青く腫れあがっていたので、彼はいよいよおびやかされた。翌朝かれは兄の画像の前に百拝して、以来は決して酒を飲まなくなった。
(同上)
古廟の美人
広寧の閭山公の廟は霊験いやちこなるをもって聞えていた。殊にその木像が甚だ獰悪である上に、周囲には古木うっそうとして昼なお暗いほどであるので、夜は勿論、白昼でもここに入るものは毛髪おのずから立つという物凄い場所であった。夜が更けると、神か鬼か知らず、廟内で罪人を拷問するような声がきこえるという噂も伝えられた。
参知政事の梁粛は、若い時にこの郷の※馬嶺[#「てへん+牽」、235-8]というところに住んでいた。彼は挙子となって他の諸生と夏期講習の勉強をしている間に、あるとき鬼神に関する噂が出て、誰が強かったとか、誰が偉かったとか言っていると、梁は傲然として言った。
「わたしはどの人も強いとは思わない。そんなことは誰にでも出来るのだ。論より証拠で、わたしは日が暮れてから閭山の廟へ行って、廟のなかを一周してみせる」
「ほんとうに行くか」
「おお、いつでも行く」
「行ったという証拠をみせるか」
「わたしが通ったところには、壁や板に何かのしるしを付けて置く」と、梁は答えた。
若い者にはよくある習いで、その明くる晩いよいよ一緒にゆくことになった。但し他の諸生は門外に待っていて、梁ひとりが廟内の奥深く進み入るのである。彼は恐るる色なく、木立ちのあいだをくぐりぬけて、古廟のうちへ踏み込むと、灯ひとつの光りもないので、あたりは真の闇であった。手探りでしるしを付けながら、だんだんに廟の東の隅まで廻ってゆくと、何者かが壁に倚りかかっているのを探り当てた。それが人であるか鬼であるか判らないので、梁は門外へ引っ返して、燈火を取って来て更によく照らしてみると、それは一人の若い女であった。