古御所
洛陽の御所は隋唐五代の
故宮である。その後にもここに都するの議がおこって、宋の太祖の
開宝末年に一度行幸の事があったが、何分にも
古御所に怪異が多く、又その上に
霖雨に逢い、
旱を
祷ってむなしく帰った。
それから
宣和年間に至るまで年を重ぬること百五十、故宮はいよいよ荒れに荒れて、
金鑾殿のうしろから奥へは白昼も立ち入る者がないようになった。立ち入ればとかくに怪異を見るのである。大きな熊蜂や
蟒蛇も棲んでいる。さらに怪しいのは、夜も昼も音楽の声、歌う声、
哭く声などの絶えないことである。
宣和の末に、
呉本という監官があった。彼は武人の勇気にまかせて、何事をも
畏れ
憚らず、夏の日に宮前の廊下に涼んでいて、
申の刻(午後三時―五時)を過ぐるに至った。まだ暗くはならないが、場所が場所であるので、従者は恐れて早く帰ろうと催促したが、呉は平気で動かなかった。
たちまち
警蹕の声が内からきこえて、衛従の者が紅い絹をかけた金籠の燭を執ること数十
対、そのなかに黄いろい衣服を着けて、帝王の如くに見ゆる男一人、その胸のあたりにはなまなましい血を流していた。そのほかにも随従の者大勢、列を正しく廊下づたいに奥殿へ
徐々と練って行った。
呉と従者は急いで戸の内に避けたが、最後の衛士は呉がここに涼んでいて行列の妨げをなしたのを怒ったらしく、その
臥榻の足をとって倒すと、榻は
石
をうがって地中にめり込んだ。衛士らはそれから他の宮殿へむかったかと思うと、その姿は消えた。
呉もこれを見て大いにおどろいた。その以来、彼は決してこの古御所に寝泊まりなどをしなかった。彼は自分の目撃したところを絵にかいて、大勢の人に示すと、洛陽の識者は評して「これは必ず唐の
昭宗であろう」と言った。
唐の昭宗皇帝は英主であったが、晩唐の国勢振わず、この洛陽で叛臣
朱全忠のために
弑せられたのである。