三重歯
右相丞
鄭雍の甥の鄭某は
拱州に住んでいた。その頃、
京東は大饑饉で、四方へ流浪して行く窮民が毎日つづいてその門前を通った。
そのなかに一人の女があった。泥まぶれの
穢い姿をしていたが、その
容貌は目立って美しいので、主人の鄭は自分の家へ引き取って
妾にしようと思った。女にも異存はなく、やがては餓死するかも知れない者を、お召
仕いくだされば望外の仕合わせでございますと答えた。そこで
請人を立てて相当の金をわたして、女はここの家の人となって、髪を結わせ、新しい着物に着かえさせると、彼女の容貌はいよいよ揚がってみえた。
女は美しいが上に、なかなか利口な
質であるので、主人にも寵愛されて、無事に五、六カ月をすごしたが、ある夜、大雷雨の最中に、寝間の外から声をかける者があった。
「先日の婦人を返してください。あの女は餓死すべき命数になっているので、生かして置くことは出来ないのです」
鄭は内からそれに応対していたが、外にいるのは何者であるか判らない。おそらく何かの
妖物であろうと思われるので、堅く
拒んで入れなかった。外の声もいつかやんだ。
しかし夜が明けてから考えると、こういう女をいつまでもとどめて置くのは、自分の家のためにもよろしくないらしい。いっそ思い切って
暇を出そうかとも思ったが、やはり未練があるのでそのままにして置くと、次の夜にも又もや門を叩いて彼女を渡せという者があった。鄭も意地になってそれを
拒んだ。
「畜生。なんとでもいえ。女を連れて行きたければ、勝手に連れて行ってみろ。おれは決して渡さないぞ」
相手は毎夜のように門を叩きに来るのを、鄭はいつも強情に罵って追い返した。たがいに
根くらべを幾日もつづけているうちに、ある夜かの女は俄かに歯が痛むと言い出して、夜通し
唸って苦しんでいたが、朝になってみると、その歯が三重に生えて、さながら鬼のような
形相になったので、主人は勿論、一家内の者がみな怖れた。
こうなると、もう仕様がない。彼女は即日に暇を出された。
何分にもこんな形になってしまっては、誰も引き取る者もないので、彼女は遂に乞食の群れに落ちて死んだ。
鬼に追わる
宋の
紹興二十四年六月、江州
彭沢の丞を勤める
沈持要という人が、官命で臨江へゆく途中、
湖口県を去る六十里の
化成寺という寺に泊まった。
その夜、住職をたずねると、僧は彼にむかって客室の怪を語った。
「昨年のことでございます。ひとりのお客人が客室にお泊まりになりました。その部屋のうちには
旅がござりました。申すまでもなく、旅で死んだお人の棺をお預かり申していたのでござります。すると、夜なかにお客人はその棺のうちから光りを発したのを見て、不思議に思ってじっと見つめていると、その光りのなかに人の影が動いているらしいので、お客人も驚きました。となりは仏殿であるので、
さあといったらそこへ逃げ込むつもりで、寝床の
帳をかかげて窺っていると、棺のなかの鬼も
蓋をあげてこちらを窺っているのでござります。いよいよ
堪まらなくなって、お客人は寝床からそっとひと足降りかかると、鬼もまた、棺の中からひと足踏み出す。ぎょっとして足を引っ込ませると、鬼もまた足を引っ込ませる。こっちが足をおろすと、鬼もまた足をふみ出すというわけで、同じようなことを幾たびも繰り返しているうちに、お客人ももうどうにもならないので、思い切って寝床から飛び降りて逃げ出すと、鬼も棺から飛び出して追って来る。お客人は仏殿へ逃げ込みながら、大きい声で救いを呼んでいると、鬼はもう近いところまで追い迫って来ました。
お客人は気も魂も身に添わずというわけで、ころげ廻って逃げるうちに、力が尽きて地にたおれると、鬼はここぞと飛びかかって来るとき、たちまち柱に突き当って、がちりという音がしたかと思うと、それぎりでひっそりと鎮まってしまいました。そこへ大勢の僧が駈けつけて、半死半生でたおれているお客人を介抱して、さてそこらを
検めてみると、骸骨が柱にあたってばらばらに
頽れていました。
その後に、その死人の家から棺をうけ取りに来ましたが、死骸が砕けているのを見て承知しません。なんでも
寺ちゅうの者が棺をあばいたに相違ないといって、とうとう訴訟沙汰にまでなりましたが、当夜の事情が判明して無事に済みました」
土偶
鄭安恭が
肇慶の太守となっていた時のことである。
夜番の
卒が夜なかに城中を見まわると、城中の一つの
亭に火のひかりの洩れているのを発見したので、怪しんでその火をたずねてゆくと、そこには十余人の男と五、六人の小児とが集まって
博奕をしているのであった。卒は大胆な男であるので、進み寄って冗談半分に声をかけた。
「おい。おれにも
銭をくれ」
彼が手を出すと、諸人は黙って銭をくれた。その額は三千銭ほどであった。夜が明けてからあらためると、それは本当の銅銭であったので、彼は大いに喜んだ。明くる晩もやはりその通りで、彼は又もや三千あまりの銭を貰って来た。それに味を占めて、彼は上役に巧く頼み込んで、以来は夜更けの見まわりを、自分ひとりが毎晩受持つことにした。そうして、相変らず賭博者の群れからテラ
銭のようなものを受取っていたので、彼の懐中はいよいよ膨らんだ。
そのうちに、城中の軍資を入れてある
庫のなかから銀数百両と銭数千
緡が紛失したことが発見されて、その賊の詮議が厳重になった。かの卒は近来俄かに銭使いがあらい上に、新しい着物などを
拵えたというのが目について、真っ先に捕えられて吟味を受けることになったので、彼も包み切れないで正直に白状した。太守の鄭はその賭博者の風俗や人相をくわしく取調べた後に、こう言った。
「それはまことの人ではあるまい。おそらく
土偶のたぐいであろう」
そこで、かの卒を見知り人にして、他の役人らが付き添って、近所の廟をたずね廻らせると、
城隍廟のうちに大小の土人形がならんでいる。その顔や形がそれらしいというので、試みに一つの人形の腹を
毀してみると、果たして銀があらわれた。つづいて他の人形を打ち砕くと、皆その腹に銀をたくわえていた。さらに足の下の土をほり返すと、土の中からもたくさんの
銭が出た。
卒が貰った銭と、掘り出した銀と銭とを合算すると、あたかも紛失の金高に符合しているので、もう疑うところはなかった。
土人形は片っ端から打ち
毀された。その以来、怪しい賭博者は影をかくした。
野象の群れ
宋の
乾道七年、
縉雲の
陳由義が父をたずねるために
より
広へ行った。その途中、
潮州を過ぎた時に、土人からこんな話を聞かされた。
近年のことである。
恵州の太守が一家を連れて、
福州から任地へ
赴く途中、やはりこの潮州を通りかかると、元来このあたりには野生の象が多くて、数百頭が群れをなしている。時あたかも秋の刈り入れ時であるので、土地の農民らは象の群れに食いあらされるのを恐れて、その警戒を厳重にし、田と田のあいだに
陥穽を設けて、かれらの進入を防ぐことにしたので、象の群れは遠く眺めているばかりで、近寄ることが出来なかった。
かれらは腹立たしそうに唸っていたが、やがて群れをなして太守の一行を取り囲んだ。一行には二百人の兵が付き添っていたが、幾百という野象に囲まれては身動きも出来ない。なんとか
賺して
逐いやろうとしても、かれらはなかなか立ち去らないで、一行を包囲すること半日以上にも及んだので、一行ちゅうの女子供は途方にくれた。そのなかには恐怖のあまりに気を失う者もできた。
こうなると、土地の者も見捨てては置かれないので、大勢が稲をになって来てその四方に積んだ。最初のうちは象も知らぬ顔をしていたが、だんだんにたくさん運ばれて、自分たちの食うには十分であることを見きわめた時に、かれらは初めて囲みを解いて、その稲を盛んに食いはじめた。かれらは太守の一行を
人質にして、自分たちの食料を強要したのである。
野獣の智、まことに及ぶべからずと、人びとは舌をまいた。