乞食の茶
都の
石氏という家では
茶肆を開いて、幼い娘に店番をさせていた。
ある時、その店へ気ちがいのような乞食が来た。
垢だらけの顔をして、身には
襤褸をまとっているのである。彼は茶を飲ませてくれと言うと、娘はこころよく茶をすすめた。しかもその貧しいのを憫れんで
銭を取らなかった。その以来、かの乞食は毎日ここへ茶を飲みに来ると、娘は特に佳い茶をこしらえてやった。
それがひと月もつづいたので、父もそれを知って娘を叱った。
「あんな奴が毎日来ると、ほかの客の邪魔になる。今度来たら追い出してしまえ」
それでも娘はやはり今までの通りにしているので、父はいよいよ怒って彼女を
打つこともあった。そのうちに、かの乞食が来て、いつものように茶を飲みながら娘に言った。
「お前はわたしの飲みかけの茶を飲むか」
これには娘もすこし困って、その茶碗の茶を土にこぼすと、たちまち一種不思議のよい匂いがしたので、彼女は怪しんでその残りを飲みほした。
「わたしは
呂翁という者だ」と、乞食は言った。「おまえは縁がなくて、わたしの茶をみんな飲まなかったが、少し飲んでも福はある。富貴か、長寿か、おまえの望むところを言ってみろ」
娘は
小商人の子に生まれ、しかもまだ小娘であるので、富貴などということはよく知らなかった。そこで、彼女は長寿を望むと答えると、乞食はうなずいて立ち去った。親たちもそれを聞いて今更のように驚いたが、乞食はもう再び姿をみせなかった。
娘は生長して管営指揮使の妻となり、のちに
呉の
燕王の孫娘の乳母となって、百二十歳の寿を保った。
小龍
宗立本は
登州
黄県の人で、父祖の代から行商を
営んでいたが、年の
長けるまで子がなかった。宋の紹興二十八年の夏、
帛のたぐいを売りながら、妻と共に
州を廻って、これから
昌楽へ行こうとする途中、日が暮れて路ばたの古い廟に宿った。数人の従者は
柝を撃って、夜もすがらその荷物を守っていた。
夜があけて出発すると、六、七歳の男の児が来てその前にひざまずいた。見るから利口そうな小児である。宗は立ちどまって、お前はどこの子かとたずねると、彼ははきはきと答えた。
「わたくしは
武昌の公吏の子で、父は
王忠彦と申しました。運悪く両親に死に別れて、他人の手に育てられていましたが、ここへ来る途中で捨てられました」
宗は憐れんで彼を養うことにして、その名を
神授と呼ばせた。神授は見た通りの賢い生まれつきで、書物を読めばすぐに記憶するばかりか、大きい筆を握ってよく大字をかいた。
篆書でも
隷書でも
草書でも、学ばずして見事に書くので、見る人みな驚嘆せざるはなかった。宗はもとより大資本の商人でもないので、しまいには自分の商売をやめて、神授を連れて諸方を遊歴し、その字を売り物にして生活するようになった。
それからのち二年の春、宗は小児を連れて
済南の
章丘へゆくと、路で
胡服をきた一人の僧に逢った。僧は
容貌魁偉ともいうべき人で、宗にむかって突然に訊いた。
「おまえはこの子をどこから拾って来た」
「これはわたしの実の子です」と、宗は答えた。「飛んでもないことをお言いなさるな」
「いや、おまえの子ではない筈だ」と、僧は笑いながら言った。「これは私の住んでいる五台山の
龍だ。五百の小龍のうちで其の一つが行くえ不明になったので、三年前から探していたのだ。お前の手もとに長くとどめて置くと、きっと大いなる禍いを受けることになる。わたしが法を施したから、かれももうどうすることも出来まい」
僧は水を
索めて噴きかけると、神授はたちまち小さい
朱い蛇に変った。僧は
瓶をとって神授の名を呼ぶと、蛇は躍ってその瓶のうちにはいった。呆れている宗の夫婦をあとに見て、僧は笠を深くして立ち去った。
蛇薬
徽州
懐金郷の
程彬という農民は、一種の毒薬を作って暴利をむさぼっていた。
それはたくさんの蛇を殺して土中にうずめ、それに
苫をかけて、常に水をそそいでいると、毒気が蒸れてそこに怪しい
蕈が生える。それを乾かして、さらに他の薬をまぜ合わせるのである。しかし最初に生えた蕈は、その毒があまりに猛烈で、食えばすぐに死んでしまうので、
後日の面倒を恐れて用いず、多くは二度目に生えたのを用いて、徐々に
斃れさせるのであった。
その毒をためすには、
蛙に食わせてみるのである。蛙が多く躍り狂えば、その毒の効き目が多いということになっている。その薬の名は
万歳丹と称していたが、万歳どころか、実は人の命をちぢめる大毒薬で、何かの復讐などを企てるものは、大金を与えてその秘薬を買った。現に或る家では来客にその薬をすすめようとして、誤まって嫁の
舅に食わせたので、驚いていろいろに介抱したが、どうしても救うことが出来なかったという話も伝わっている。
程の弟に
正道という者があった。その名のごとく彼は正しい人間であったので、兄の非行を見るに見かねて、数十里の遠いところへ立ち退いてしまった。程もだんだん老ゆるにしたがって、自分の非を悔むようになったので、本当の薬を作ることをやめて、その偽物を売りはじめたが、偽物では効き目がないので、自然に買う者もなくなった。彼は貧窮のうちに晩年を送って、ひとり息子は乞食になった。
彼がほん物の万歳丹を作っている時のことである。村役人が
租税を催促に行って、なにか彼の感情を害すようなことを言ったので、程はあざむいてかの薬を飲ませると、役人は帰る途中から俄かに頭が痛んで血を
嘔いた。さてはと気がついて引っ返して、程の門前に
仆れて救いを呼ぶと、彼は水を汲んで来て飲ませてくれた。それで苦痛も薄らいで、役人は無事に助かったということであるから、彼は毒を作ると共に、その毒を消す法をも知っていたらしいが、その法は伝わっていない。
重要書類紛失
宋の紹興の初年、
甫田の
林迪功という人は江西の
尉を勤めていたが、盗賊を捉えた功によって、満期の後は更に都の官吏にのぼせられることになっていた。
そのころ臨安府には火災が多かったので、官舎に
寄寓している人びとは、外出するごとに
勅諭その他の重要書類を携帯してゆくのを例としていた。
林も御用大事と心得ている人物であるので、外出する時には必ず重要書類を懐中して出て、途中でも二、三度ぐらいは
検めることにしていた。
それで最初は無事であったが、ある時それが紛失したので、彼は三万銭の賞を賭けてその捜査を命じると、たちまちにそれを届けて来るものがあった。それで安心すると、又もや紛失した。又もや賞をかけると、又もや直ぐに届けて来た。こういうことが三度も四度も繰り返されたので、本人も怪しみ、他の者も不審をいだくようになった。これが果てしもなしに続くときは、彼の私財が尽きてしまうか、あるいは重要書類をうしなった罪に服するか、二つに一つは
免かれないであろうと危ぶまれた。
林は独身者であるが、近来その部屋のなかで
頻りに人声を聞くことがあった。殊に或る夜は何か
声高に論じ合っているようであったが、暫くしてひっそりと鎮まった。あくる朝になっても戸もあけないので、出入りの婆さんが不思議に思って、近所の人びとを呼びあつめ、壁をぶちこわしてはいってみると、林は腰掛けの上にたおれていた。かれは
剪刀で喉を突いて自殺したのである。
さてその死因はわからなかった。伝うるところに拠れば、彼がさきに盗賊二人を捕えた時、いずれもその証拠不十分であるにも
拘らず、彼は自己の功をなすに急なる余りに、鍛錬
羅織して無理にかれらを罪人におとしいれた。その恨みが重要書類の紛失となり、さらに彼の死となったのであろうというのである。但しそれが死んだ人の
仕業か、生きている人の仕業か、本人に聞いてみなければ判らないのである。
股を焼く
宋の
宣和年中に、明州
昌国の人が海あきないに出た。海上何百里、名の知れない大きい島に舟を寄せて、そのうちの数人が
薪を採りに上陸すると、島びとに見つけられて早々に逃げ帰ったが、その一人は便所へ行っていたために逃げおくれて、遂にかれらの
捕虜となった。
島びとは鉄の綱で彼をつないで、田を
耕させた。一、二年の後には互いに馴れて、縛って置くことを
免されたが、初めのうちは島びとがあつまって酒を飲むたびに、彼をその席へひき出して、焼けた鉄火箸を彼の股へあてるのである。かれらはその苦しみもがくのを見て、面白そうに大いに笑った。要するに、彼に残酷な刑を加えて、酒宴の余興とするのである。
彼ものちにはそれを
覚ったので、いかに熱い火箸をあてられても、騒がず、叫ばず、歯を食いしばってじっと我慢していたので、かれらは興を失ったらしく、ついにその
拷問をやめてしまった。
三年後、かれは幸いに、便船を得て逃げ帰ったが、その両股は一面に黒く焼かれていた。