桃林の地妖
の
王審知はかつて
泉州の
刺史(州の長官)でありましたが、州の北にある
桃林という村に、唐末の
光啓年中、一種の不思議が起りました。
ある夜、一村の土地が激しく震動して、地下で数百の太鼓を鳴らすような響きがきこえましたが、明くる朝になってみると、田の稲は一本もないのです。試みに土をほり返すと、その稲はみな地中に
逆さまに生えていました。
その年、審知は兄の
王潮と共に乱を起して
晋安に勝ち、ことごとく
欧の地を占有して、みずから
王と称することになりました。それから伝うること六十年、
延義という人の代に至って、かの桃林の村にむかしの地妖が再び繰り返されました。やはり一村の地下に怪しい太鼓の音がきこえたのです。但しその時はもう刈り入れが終ったのちで、稲の根だけが残っていたのですが、土を掘ってみると、それが前と同じように、みな地中に逆さまに立っていました。
その年、延義は家来のために殺されて、王氏は滅亡しました。
怪青年
軍吏の
徐彦成は材木を買うのを一つの商売にしていまして、
丁亥の年、
信州の
口場へ材木を買いに行きましたが、思うような買物が見当らないので、暫くそこに
舟がかりをしていると、ある日の夕暮れ、ひとりの青年が二人の
僕をつれて、岸のあたりを人待ち顔に徘徊しているのを見ましたので、徐は声をかけてその三人を舟へ呼び込み、有り合わせの酒や肴を馳走すると、青年はひどく気の毒がっているようでしたが、帰るときに徐に言いました。
「わたしはここから五、六里のところにある別荘に住んでいる者です。明日一度お遊びにお出で下さいませんか」
「ありがとうございます」
あくる日、約束の通りにたずねて行くと、一里ばかりのところに迎いの者が来ていました。馬に乗せられ、案内されると、やがて大きい邸宅の前に着きました。かの青年も
出で迎えて、いろいろの馳走をしてくれた末に、徐が材木を仕入れに来ていることを聞いて、青年は言いました。
「それならば私の持っている山に材木がたくさんありますから、早速に伐り出させましょう」
舟へ帰って待っていると、果たして一両日の後にたくさんの材木を運ばせて来ました。しかも木地が良くて、
値が
廉いので、徐は大喜びで取引きをしました。
それでもうこの土地にいる必要もないので、徐はさらに
暇乞いに行きますと、青年はまた四枚の大きい杉の板を出しました。
「これは売り買いではなく、わたしからお
餞別に差し上げるのです。
呉の地方へお持ちになると、きっと良い御商法になりましょう」
そこで、呉の地方へ舟を廻しますと、あたかも呉の
帥が死んで、その棺にする杉の板が入用だということになったのですが、その土地にはよい板がない。そこへかの杉を売り込みに行ったので、たちまち買い上げられることになって、一度に数十万銭を儲けました。
徐もその謝礼として、種々の珍しい物を買い込んで、再びかの青年のところへ持参すると、青年もよろこんで再び材木を売ってくれました。
その後にもまた二、三度往復して、徐は大金儲けをしましたが、それから一年ほども間を置いて訪ねてゆくと、もう其の家は見えませんでした。
あんな大きい邸宅がどこへ移転したのかと、近所の里の人びとに聞き合わせると、初めからそんな家のあったことさえも知らないというのでした。
鬼国
梁の時、
青州の商人が海上で暴風に出逢って、どことも知れない国へ漂着しました。遠方からみると、それは普通の嶋などではなく、山や川や城もあるらしいのです。
「どこだろう」
「そうですねえ」と、船頭も考えていました。「わたし達も多年の商売で、方々へ吹き流されたこともありますが、こんな処へは一度も流れ着いたことがありません。なんでもここらの方角に
鬼国というのがあると聞いていますから、あるいはそれかも知れません」
なにしろ訪ねてみようというので、人びとが上陸すると、家の作りや田畑のさまは中国とちっとも変りません。ただ変っているのは、途中で逢う人びとに
会釈しても、相手はみな知らない顔をして行き過ぎてしまうのです。むこうの姿はこちらに見えても、こちらの姿はむこうに見えないらしいのです。
やがて城門の前に行き着くと、そこには門を守る人が立っているので、こちらでは試みに会釈すると、かれらはやはり知らない顔をしているのです。そこで、構わずに城内へはいり込んでゆくと、建物もなかなか宏壮で、そこらを往来している人物もみな立派にみえますが、どの人もやはりこちらを見向きもしないので、ますます奥深く進んでゆくと、その王宮では今や饗宴の最中らしく、大勢の家来らしい者が列坐している。その服装も器具も音楽もみな中国と大差がないのでした。
咎める者がないのを幸いに、人びとは王座のそばまで進み寄ってうかがうと、王は俄かに病いにかかったという騒ぎです。そこで
巫女らしい者を呼び出して占わせると、かれはこう言いました。
「これは陽地の人が来たので、その陽気に触れて、王は俄かに発病されたのでござります。しかしその人びとも偶然にここへ来合わせたので、別に
祟りをなすというわけでもござりませんから、食い物や乗り物をあたえて
還してやったらよろしゅうござりましょう」
すぐに酒や料理を別室に用意させたので、人びとはそこへ行って飲んだり食ったりしていると、巫女をはじめ他の家来らも来て何か祈っているようでした。そのうちに馬の用意も出来たので、人びとはその馬に乗って元の岸へ戻って来ましたが、初めから終りまで向うの人たちにはこちらの姿が見えなかったらしいということでした。
これは作り話でなく、青州の節度使
賀徳倹、
魏博の節度使
楊厚などという偉い人びとが、その
商人の口から直接に聴いたのだと申します。
蛇喰い
安陸の
毛という男は毒蛇を食いました。食うといっても、酒と一緒に呑むのだそうですが、なにしろ変った人間で、蛇食い又は蛇使いの
大道芸人となって諸国を渡りあるいた末に、
予章という所に足をとどめて、やはり蛇を使いながら十年あまりも暮らしていました。
すると、ここに
薪を売る者がありまして、
陽から薪を船に積んで来て、
黄培山の下に泊まりますと、その夜の夢にひとりの老人があらわれて、わたしが頼むから、一匹の蛇を江西の
毛という蛇使いの男のところへ届けてくれと言いました。そこで、その人は予章へ行って、毛のありかを探しているうちに、持って来た薪も大抵は売り尽くしてしまいました。
そのときに一匹の蒼白い蛇が
船舷にわだかまっているのを初めて発見しましたが、蛇は人を見てもおとなしく
とぐろを巻いたままで逃げようともしません。さてはこの蛇だなと気がついて、それを持って岸へあがりますと、ようように毛という男の居どころが判りました。
毛はその蛇を受取って引き伸ばそうとすると、蛇はたちまちに彼の指を強く噛みましたので、毛は
あっと叫んで倒れましたが、それぎりで遂に死んでしまいました。そうして、その死骸は間もなく腐って
頽れました。
蛇はどこへ行ったか、そのゆくえは知れなかったそうです。
地下の亀
李宗が楚州の
刺史(州の長官)となっている時、その郡ちゅうにひとりの尼がありまして、ある日、町なかをあるいていると、たちまち大地に坐ったままで動かなくなりました。おまけに幾日も飲まず食わずにいるのです。
その訴えを聞いて、李は武士らに言い付けて無理にその尼のからだを引き起して、試みにその坐っていた地の下をほり返してみると、長さ五、六尺の大きい亀があらわれました。亀は生きているので、川へ放してやりました。
尼はその後、別条もありませんでした。
剣
建州の
梨山廟というのは、もとの宰相
李廻を
祀ったのだと伝えられています。李は左遷されて建州の刺史となって、
臨川に終りましたが、その死んだ夜に、
建安の人たちは彼が白馬に乗って梨山に入ったという夢をみたので、そこに廟を建てることになったのだそうです。
呉という大将が兵を率いて
晋安に攻め向うことになりました。呉は新しく
鋳らせた剣を持っていまして、それが甚だよく切れるのです。彼は出陣の節に、その剣をたずさえて梨山の廟に参詣しました。
「どうぞこの剣で、手ずから十人の敵を斬り殺させていただきとうございます」と、彼は神前に祈りました。
その夜の夢に、神のお告げがありました。
「人は悪い願いをかけるものではない。しかし私はおまえを
祐けて、お前が人手にかからないように救ってやるぞ」
いよいよ合戦になると、呉の軍は大いに敗れて、左右にいる者もみな散りぢりになりました。敵は隙間なく追いつめて来ます。
とても逃げおおせることは出来ないと覚悟して、呉はかの剣をもってみずから首を
刎ねて死にました。