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中国怪奇小説集(ちゅうごくかいきしょうせつしゅう)05酉陽雑爼(唐)
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剣術
韋行規という人の話である。 韋が若いとき京西に遊んで、日の暮れる頃にある宿場に着いた。それから更にゆく手を急ごうとすると、駅舎の前にはひとりの老人が桶を作っていた。 「お客人、夜道の旅はおやめなさい。ここらには賊が多うございます」と、彼は韋にむかって注意した。 「賊などは恐れない」と、韋は言った。「わたしも弓矢を取っては覚えがある」 老人に別れを告げて、彼は馬上で夜道を急いでゆくと、もう夜が更けたと思う頃に、草むらの奥から一人があらわれて、馬のあとを尾けて来るらしいので、韋は誰だと咎めても返事をしない。さてこそ曲者と、彼は馬上から矢をつがえて切って放すと、確かに手堪えはありながら、相手は平気で迫って来るので、更に二の矢を射かけた。続いて三発、四発、いずれも手堪えはありながら、相手はちっとも怯まない。そのうちに、矢種は残らず射尽くしてしまったので、彼も今更おそろしくなって、馬を早めて逃げ出すと、やがて又、激しい風が吹き起り、雷もすさまじく鳴りはためいて来たので、韋は馬を飛び降りて大樹の下に逃げ込んだ。 見れば、空中には電光が飛び違って、さながら鞠を撃つ杖のようである。それが次第に舞い下がって、大樹の上にひらめきかかると、何物かが木の葉のようにばらばらと降って来た。木の葉ではなく板の札である。それが忽ちに地に積もって、韋の膝を埋めるほどに高くなったので、彼はいよいよ驚き恐れた。 「どうぞ助けてください」 彼は弓矢をなげ捨てて、空にむかって拝すること数十回に及ぶと、電光はようやく遠ざかって、風も雷もまたやんだ。まずほっとして見まわすと、大樹の枝も幹も折れているばかりか、自分の馬も荷物もどこへか消え失せてしまったのである。 こうなると、もう進んでゆく勇気はないので、早々にもと来た道を引っ返したが、今度は徒あるきであるから捗どらず、元の宿まで帰り着いた頃には夜が明けて、かの老人は店さきで桶の箍をはめていた。まさに尋常の人ではないと見て、韋は丁寧に拝して昨夜の無礼を詫びると、老人は笑いながら言った。 「弓矢を恃むのはお止しなさい。弓矢は剣術にかないませんよ」 彼は韋を案内して、宿舎のうしろへ連れてゆくと、そこには荷物を乗せた馬が繋いであった。 「これはあなたの馬ですから、遠慮なしに牽いておいでなさい。唯ちっとばかりあなたを試して見たのです。いや、もう一つお目にかける物がある」 老人はさらに桶の板一枚を出してみせると、ゆうべの矢はことごとくその板の上に立っていた。
刺青
都の市中に住む悪少年どもは、かれらの習いとして大抵は髪を切っている。そうして、膚には種々の刺青をしている。諸軍隊の兵卒らもそれに加わって乱暴をはたらき、蛇をたずさえて酒家にあつまる者もあれば、羊脾をとって人を撃つ者もあるので、京兆(京師の地方長官)をつとめる薛公が上に申し立ててかれらを処分することとなり、里長に命じて三千人の部下を忍ばせ、見あたり次第に片端から引っ捕えて、ことごとく市に於いて杖殺させた。 そのなかに大寧坊に住む張幹なる者は、左の腕に『生不怕京兆尹』右の腕に『死不怕閻羅王』と彫っていた。また、王力奴なるものは、五千銭をついやして胸から腹へかけて一面に山水、邸宅、草木、鳥獣のたぐいを精細に彫らせていた。 かれらも無論に撃ち殺されたのである。その以来、市中で刺青をしている者どもは、みな争ってそれを焼き消してしまった。 また、元和の末年に李夷簡という人が蜀の役人を勤めていたとき、蜀の町に住む趙高という男は喧嘩を商売のようにしている暴れ者で、それがために幾たびか獄屋に入れられたが、彼は背中一面に毘沙門天の像を彫っているので、獄吏もその尊像を憚って杖をあてることが出来ない。それを幸いにして、彼はますますあばれ歩くのである。 「不埒至極の奴だ。毘沙門でもなんでも容赦するな」 李は彼を引っくくらせて役所の前にひき据え、新たに作った筋金入りの杖で、その背中を三十回余も続けうちに撃ち据えさせた。それでも彼は死なないで無事に赦し還された。 これでさすがに懲りるかと思いのほか、それから十日ほどの後、趙は肌ぬぎになって役所へ呶鳴り込んで来た。 「ごらんなさい。あなた方のおかげで毘沙門天の御尊像が傷だらけになってしまいました。その修繕をしますから、相当の御寄進をねがいます」 李が素直にその寄進に応じたかどうかは、伝わっていない。
朱髪児
厳綬が治めていた太原市中の出来事である。 町の小児らが河に泳いでいると、或る物が中流をながれ下って来たので、かれらは争ってそれを拾い取ると、それは一つの瓦の瓶で、厚い帛をもって幾重にも包んであった。岸へ持って来て打ち毀すと、瓶のなかからは身のたけ一尺ばかりの赤児が跳り出したので、小児らはおどろき怪しんで追いまわすと、たちまち足もとに一陣の旋風が吹き起って、かの赤児は地を距る数尺の空を踏みながら、再び水中へ飛び去ろうとした。 岸に居あわせた船頭がそれを怪物とみて、棹をとって撃ち落すと、赤児はそのまま死んでしまったが、その髪は朱のように赤く、その眼は頭の上に付いていた。
人面瘡
数十年前のことである。江東の或る商人の左の二の腕に不思議の腫物が出来た。その腫物は人の面の通りであるが、別になんの苦痛もなかった。ある時たわむれに、その腫物の口中へ酒をそそぎ入れると、残らずそれを吸い込んで、腫物の面は、酔ったように赤くなった。食い物をあたえると、大抵の物はみな食った。あまりに食い過ぎたときには、二の腕の肉が腹のようにふくれた。なんにも食わせない時には、その臂がしびれて働かなかった。 「試みにあらゆる薬や金石草木のたぐいを食わせてみろ」と、ある名医が彼に教えた。 商人はその教えの通りに、あらゆる物を与えると、唯ひとつ貝母という草に出逢ったときに、かの腫物は眉をよせ、口を閉じて、それを食おうとしなかった。 「占めた。これが適薬だ」 彼は小さい葦の管で、腫物の口をこじ明けて、その管から貝母の搾り汁をそそぎ込むと、数日の後に腫物は痂せて癒った。
油売
都の宣平坊になにがしという官人が住んでいた。彼が夜帰って来て横町へはいると、油を売る者に出逢った。 その油売りは大きい帽をかぶって、驢馬に油桶をのせていたが、官人のゆく先に立ったままで路を避けようともしないので、さき立ちの従者がその頭を一つ引っぱたくと、頭はたちまちころりと落ちた。そうして、路ばたにある大邸宅の門内にはいってしまった。 官人は不思議に思って、すぐにその跡を付けてゆくと、かれのすがたは門内の大きい槐の下に消えた。いよいよ怪しんで、その邸の人びとにも知らせた上で、試みにかの槐の下を五、六尺ほど掘ってみると、その根はもう枯れていて、その下に畳一枚ほどの大きい蝦蟆がうずくまっているのを発見した。蝦蟆は銅で作られた太い筆筒二本をかかえ、その筒のなかには樹の汁がいっぱいに流れ込んでいた。又そのそばには大きい白い菌が泡を噴いていて、菌の笠は落ちているのであった。 これで奇怪なる油売りの正体は判った。 菌は人である。蝦蟆は驢馬である。筆筒は油桶である。この油売りはひと月ほども前から城下の里へ売りに来ていたもので、それを買う人びとも品がよくて価の廉いのを内々不思議に思っていたのであるが、さてその正体があらわれると、その油を食用に供した者はみな煩い付いて、俄かに吐いたり瀉したりした。
九尾狐
むかしの説に、野狐の名は紫狐といい、夜陰に尾を撃つと、火を発する。怪しい事をしようとする前には、かならず髑髏をかしらに戴いて北斗星を拝し、その髑髏が墜ちなければ、化けて人となると言い伝えられている。 劉元鼎が蔡州を治めているとき、新破の倉場に狐があばれて困るので、劉は捕吏をつかわして狐を生け捕らせ、毎日それを毬場へ放して、犬に逐わせるのを楽しみとしていた。こうして年を経るうちに、百数頭を捕殺した。 後に一頭の疥のある狐を捕えて、例のごとく五、六頭の犬を放したが、犬はあえて追い迫らない。狐も平気で逃げようともしない。不思議に思って大将の家の猟狗を連れて来た。監軍もまた自慢の巨犬を牽いて来たが、どの犬も耳を垂れて唯その狐を取り巻いているばかりである。暫くすると、狐は跳って役所の建物に入り、さらに脱け出して城の墻に登って、その姿は見えなくなった。 劉はその以来、狐を捕らせない事にした。道士の術のうちに天狐の法というのがある。天狐は九尾で金色で、日月宮に使役されているのであるという。
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