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玉藻の前(たまものまえ)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-8-27 10:33:34  点击:  切换到繁體中文


    二

「お身さまの叔父御は法性寺(ほっしょうじ)の隆秀阿闍梨(りゅうしゅうあじゃり)でおわすそうな。世にも誉れの高い碩学(せきがく)の聖(ひじり)、わたくしも一度お目見得して、眼(ま)のあたりに教化(きょうげ)を受けたい。お身さま御案内してくださらぬか」と、玉藻は思い入ったように言った。それは、彼女の口から恋歌の返しを兼輔の耳にそっとささやいた後であった。
「ほう、法性寺の叔父にお身はまだ一度も逢われぬか」と、兼輔はすこし不思議そうな顔をした。
 法性寺は誰も知る通り、関白家建立(こんりゅう)の寺である。忠通卿の尊崇なおざりでないことは兼輔もかねて知っていた。その寺の尊い阿闍梨に、玉藻が一度も顔をあわせていないというのは、なんだか理屈に合わないようにも思われた。
「阿闍梨は女子(おなご)がきついお嫌いそうな」と、玉藻はそれを説明するように寂しくほほえんだ。
 甥の兼輔とは違って、叔父の隆秀阿闍梨は戒律堅固の高僧であった。彼は得度(とくど)しがたき悪魔として女人(にょにん)を憎んでいるらしく、いかなる貴人(あてびと)の奥方や姫君に対しても、彼は膝をまじえて語るのを好まなかった。忠通もそれをよく知っているので、法性寺詣でのときに限って、決して女子を伴って行ったことはなかった。寵愛の玉藻の望みでも、法性寺の供だけは一度も許されなかった。兼輔もそこに気がついて苦笑いした。
「はは、叔父のかたくなは今に始まったことでござらぬ。われらも顔さえ見せれば何かと叱られて、むずかしい説法を小半※(こはんとき)も聞かさるる。うかと美しい女子など引き合わせたら、また何を言わりょうやら。しかしほかならぬお身の頼みじゃ。ちっとぐらい叱られても苦しゅうござらぬ。なんどきなりとも案内して、叔父の阿闍梨に逢わせ申そうよ」と、彼は事もなげに受け合った。
「八歳の龍女が当下(とうげ)に成仏したことは提婆品(だいばぼん)にも説かれてあります。いかに罪業(ざいごう)のふかい女子の身とて、尊い阿闍梨の教化を受けましたら、現世(げんせ)はともあれ、せめて来世(らいせ)は心安かろうにと、唯そればかりを念じておりまする」と、玉藻の声はすこしく陰った。
 いたましく打ちしおれたような玉藻のすがたが、兼輔の眼には更に一段のあでやかさを加えたようにも見られた。彼が好んで口ずさむ白楽天の長恨歌の「梨花一枝春帯雨(りかいっしはるあめをおぶ)」というのは、まさしくこの趣であろうとも思われた。彼は慰めるように又言った。
「はて、われらの約束にいつわりはござらぬ。あすでもあさってでも、かならず一緒に連れ立って参る。文のたよりさえ遣(よこ)されたら、なんどきでもすぐに誘いにまいる。叔父が頑固になんと言おうとも、われらがきっとその前に連れ出して引き合わしてみしょう」
 頼もしそうな誓いを聞いて、玉藻は嬉しそうにうなずいた。二人はひたと身をよせて更に何事をかささやき合おうとするところへ、木の間伝いにここへ近寄って来る足音がきこえた。兼輔はすこし慌てて見かえると、その人は三十をまだ越えたばかりの痩形の男で、顔の色はやや蒼白いが、この頃の殿上人には稀に見る精悍の気がその鋭い眼の底にあふれていた。彼はわざと拗(す)ねたのであろう、きょうの華やかな宴の莚に浄衣(じょうえ)めいた白の直衣(のうし)を着て、同じく白い奴袴(ぬばかま)をはいていた。
 彼はきょうのあるじの忠通の弟で、宇治の左大臣頼長(よりなが)であった。彼は師の信西入道をも驚かすほどの博学で、和歌に心を寄せる兄の忠通を常に文弱と罵っているほどに、抑えがたい覇気と野心とに充(み)ち満ちている人物であった。この人にじろりと鋭い一瞥(いちべつ)を呉れられて、兼輔はなんだか薄気味悪くなって来た。ことに場合が場合であるので、彼はいよいよ度を失って、肌の背には冷汗がにじんだ。
「ほう、左少弁はこれにいたか」と、頼長はその怖い眼には不似合いな柔かい声で言った。
 それでもこちらはやはり落ち着いていられなかった。彼は酒の酔いを醒ますためにこの川端へ降りていたことを言い訳がましく答えると、頼長はあざ笑うような眼をして黙って聞いていた。なんだか居心の悪い兼輔は、玉藻と眼をみあわせて早々にそこを逃げて行ってしまった。頼長はまだそこに立っている玉藻には眼もくれないで、薄むらさきの霞のうちに暮れかかる春の夕空を静かに打ち仰いでいた。嵐が少し吹き出したとみえて、花の吹雪が彼の白い立ち姿をつつんで落ちた。
「左大臣殿」と、玉藻はしとやかに声をかけた。
「なんじゃ」と、頼長も静かに見かえった。
「嵐が誘うてまいりました」
「花もここ二、三日が命(いのち)じゃのう。お身は兼輔とここで何を語ろうていた」と、頼長は笑いながら訊いた。
「歌物語など致しておりました」
「恋歌の講釈か」と、彼はまたあざ笑うような眼をした。
「はい。恋の取り持ちを頼もうかと……」
 こうしたなまぬるい恋ばなしを好まない頼長も、この美麗な才女に対してあまりに情(すげ)ない返事も出来ないので、いい加減に取り合わせて言った。
「お身ほどの者でも、人を頼まいでは恋はならぬか。恋はなかなかにむずかしいものじゃな」
「身にあまる望みでござりますれば……」
 玉藻は遣(や)る瀬ないように低い溜息をついて、頼長の顔をそっとのぞいた。人を蠱惑(こわく)せねばやまないような情け深い女の眼のひかりに魅せられて、頼長の魂は思わずゆらめいた。
「ほう、身にあまる望みとか。これはいよいよむずかしゅう見ゆるぞ。兼輔ひとりの力に及ばずば、頼長も共どもに助力してお身が恋をかなえてやりたい。相手は誰じゃ。明かされぬか」
「お身さまの前では申し上げられませぬ」と、玉藻は藤紫の小袿(こうちぎ)の袖で切(せつ)ない胸をかかえるように俯向いた。嵐は桜の梢をゆすって通った。
「予が前では言われぬか。頼長は兼輔ほどに頼もしい男でないと見積もられたか。さりとは心外じゃ」と、頼長はいよいよ興(きょう)にふけったように高く笑った。
 藤むらさきの袖の蔭から白い顔はまた現われた。彼女は媚びるように低くささやいた。
「頼もしいと見らるるも、頼もしからぬと見らるるも、お身さまのお心一つでござりまする」
「はて、謎(なぞ)なぞのようなことは言わぬものじゃ。いかようにすれば頼長は世に頼もしい男とならるるのじゃ。打ち付けに言え、あらわに申せ」
「申しましょうか」と、玉藻はすこしためらう風情を見せたが、やがて思い切ったように言った。「関白の殿のおん身内、才学は世にかくれのない御仁(ごじん)……。桜さくらの仇めいて艶(あで)なるなかに、梨の花のように白う清げに見ゆるおん方……。もうその上は申されぬ。お察し下さりませ」
 頼長は夢から醒めたように眼を見据えて、その秀(ひい)でたる眉をすこし皺めたが、忽ちに肩をそらせてあざ笑った。
「おお、判った。して、お身はその恋の取り持ちをたしかに兼輔に頼んだか」
「まだ打ち明けては頼まぬ間に……」
「頼長がまいって邪魔したか、それは結句仕合わせじゃ。兼輔はおろか、関白殿、信西入道、あらゆる人びとのなかだちでも、この恋は所詮(しょせん)ならぬと思え」
「なりませぬか」
「ならぬ、ならぬ。お身たちが恋を語るには兼輔などの柔弱者(にゅうじゃくもの)がよい相手じゃ」
 言い捨てて立ち去ろうとする頼長のゆく手をさえぎって、玉藻は突き当たるばかりに彼の胸のあたりへ我が身をもたせかけた。
「じゃによって、身にあまる望みと申したではござりませぬか」と、彼女は怨(えん)ずるように泣き声をふるわせた。
「身にあまるというても程のあるものじゃ」と、頼長はあざけるように笑った。「天下を望むよりも大きい恋じゃ。しょせん成らぬのは知れてあるわ」
 自分の胸のあたりへ蛇のように纒(まと)いかかっている女の長い黒髪を無雑作(むぞうさ)に押しのけて、頼長は沓(くつ)を早めてあなたの亭(ちん)の方へ行ってしまった。
 玉藻はきこえよがしに声を立てて桜の幹に倚(よ)りかかって泣き崩おれたが、もうその人の影が遠くなったのを覚ったときに、彼女は俄に空を仰いで物凄い笑みを洩らした。その顔の上にはらはらと降りかかって来る花びらを、彼女はうるさそうに扇で払いながら、これも座敷の方へ静かに立ち去ろうとした。春の日ももう暮れて、長い渡り廊をつたって女房どもや青侍たちが運んでゆく薄紅(うすあか)い灯の影が、木の間がくれに揺れながら通った。
「おお、玉藻の御。これにござったか」
 織部清治は主人の言い付けで先刻から玉藻のありかを探していたのであった。同じ屋形に奉公の身ではあるが、玉藻は殿のあつい御寵愛を蒙って、息女のない忠通はさながら彼女を我が娘のようにもいとしがっていられるのであるから、清治も彼女に対しては、分外(ぶんがい)の敬意を払わなければならなかった。玉藻は自分の顔を見られるのを恐れるようにうつむいて立ち停まった。
「先刻から殿がおたずねでござる。早うあれへお越しなされ」と、清治は促(うなが)すように重ねて言った。
「わたしはいやじゃ。ゆるしてくだされ」と、玉藻は両袖で顔を掩ったままで、いつまでもそこに立ちすくんでいた。
 その素振りが怪しいので清治は近寄って子細をただすと、その返事は泣き声で報いられた。玉藻は心持が悪いからもう座敷へは出ない。人びとの群れから遠く離れたあなたの亭(ちん)へ行ってしばらく休息していたいというのであった。清治はいよいよ心配して、すぐに医師(くすし)を呼ぼうかといったが、玉藻はそれもいやだと断わって、なんでもいいから人の目に触れないところへ行って、苦しい胸を休めていたいと言った。清治もそのままでは捨て置かれないので、主人のもとへ引っ返して行ってその次第をささやくと、忠通も眉を寄せた。
「ついぞないこと。どうしたものじゃ」
 彼は席を起って清治と一緒に玉藻の隠れ場所をたずねると、彼女は奥まった亭の薄暗いなかに俯伏しているのを発見した。
「心地がようないと聞いたが、どうじゃな」と、忠通は立ち寄って、彼女の肩越しにうしろから覗こうとして驚いた。玉藻は床に顔をおしつけるばかり身を投げ伏して、嗚咽(おえつ)の声をもらしているのであった。清治も驚いた。主(しゅう)と家来とは顔をみあわせて暫く黙っていた。
「はは、こりゃ誰やらになぶられたな」と、忠通はほほえんだ。
 昼からの饗宴で、ひとも我もみな酔うている。花と酒とに浮かされた若公家ばらのうちには、たそがれの薄暗がりにまぎれて彼女の袂(たもと)をひいた者もあろう、彼女の黒髪をなぶった者もあろう。それがけしからぬいたずらとしても、楚王(そおう)が纓(えい)を絶った故事も思いあわされて、きょうの場合には主人の忠通もそれを深く咎めたくなかった。清治もそこに気がつくと、今までの不安は一度に消えて、これもにやにやと笑い出した。
「なんの、珍しゅうもない。そんなことを一いち詮議立てしたら、今夜はそこらに幾人の科人(とがにん)ができようも知れぬ」と、平安朝時代の家人(けにん)は肚(はら)のなかで呟いた。
 唐土の桃李園の風流になぞらえて、きょうは燭をとって夜も遊ぶというかねての計画であるので、どの座敷でも燈火(ともしび)が昼のようにともされた。春の一日をたわむれ暮らしても、まだ歓楽の興をむさぼり足らない人びとは、酔いくずれて眠りこけるか、疲れ切って倒れるか、それまでは夜を昼についで浮かれ狂うつもりであろう。朗詠(ろうえい)や催馬楽(さいばら)の濁った声もきこえた。若い女の華やかな笑い声もひびいた。その騒がしい春の夜のなま暖かい空気のなかに、桜の花ばかりは黙って静かに散った。
「さあ、来やれ。そちがおらいでは座敷がさびしい。玉藻の前はきょうの団欒(まどい)の花じゃと皆も言うている。夜の灯に照り映えたら、その美しい顔が一段と光りかがやいて見えようぞ。来やれ、来やれ。あの賑わしい方へ……」
 手を取らぬばかりに引き立てられて、玉藻は泣き顔をおさえながら立ち上がった。忠通と清治とはその前後を囲んで、うす暗い渡り廊を静かにあゆんで行った。おぼろ月が今宵はとりわけて霞んでいるらしく、軒に近い花のこずえも唯ぼんやりと薄白く仰がれた。

    三

 あかりの運ばれるのを合図に、頼長は席を起って帰った。気を置かれる人が立ち去ったので、若い人たちはいよいよ調子づいてきた。とりわけて左少弁兼輔はほっとした。脛(すね)に疵(きず)持つ彼は、頼長になにやら睨まれているような気がして、なるべくその傍へは寄り付かぬように努めていたが、もう誰に憚ることもない。玉藻のありかをもう一度たずねて、さっき言い残した話のかずかずを語りつづけようと、彼は酔いにまぎらせてよろよろと座を起った。
「あれ、あぶない」
 酔いをたすける風をして、若い女房たちが左右から付きまつわって来るのを、彼はいつになくうるさそうに押しのけて、おぼろ月夜の庭さきへ迷い出たが、どこの木蔭にもそれらしい人の影は見えなかった。彼は餌をあさる狐のように、木(こ)の間(ま)をくぐって他の亭座敷をうろうろと覗いてあるいたが、どこの灯の下にも玉藻の輝いた顔は見つけ出されなかった。彼は失望して元の座敷へ戻ると、女房たちは待ちかねたように再び彼を取りまいた。
 ここが一番広い座敷で、きょうの賓客(まろうど)のおもな者は大抵ここに席を占めていた。兼輔も藁褥(わらうだ)の上に引き据えられて又もや酒をしいられた。酒量の強いのを誇っている彼も、昼からの酒が胸いっぱいになって、さすがに頭が重くなってきたので、彼は憚りもなく自分のそばにいる若い女房の膝を枕にして、小声で朗詠を謡っていた。兼輔ばかりでない、一座はもう乱れに乱れて、そこらには座に堪えやらないような若い男たちもだんだんにふえてきた。縁さきへ出て手持ち無沙汰に月を仰いでいるのは、もう春の盛りを過ぎて額ぎわのさびしい古女房たちばかりで、眉の匂やかな若い女たちは、思い思いに男の介抱に忙しかった。時どきに広い座敷もゆらぐような笑い声がどっと起こった。
「信西入道はきょうは見えぬそうな」と、ひとりの若い公家が思い出したように言った。「あの古(ふる)入道、このようなまどいに加わるは嫌いじゃで、所労というて不参じゃよ」
「宇治の左大臣殿ももう戻られたとやら」と、その枕もとになまめかしく膝をくずしている若い女房が、鬢(びん)のおくれ毛を掻き上げながら言った。
「あの御仁(ごじん)もこのような席へは余り近寄られぬ方じゃが、きょうは兄の殿への義理で、暮れ方までは辛抱せられた。左大臣どのも信西入道も我らには苦手じゃ。あの鋭い眼でじっと睨まれると、なにやら薄気味悪うなって身がすくむようじゃ。ははははは」
 また一人の男が高く笑い出すと、兼輔はだるそうな眼をして半分起き直った。
「ほんにそうじゃ。さっきも……」
 と言いかけて彼はまた俄に口をつぐんだ。妬みぶかい男や女が大勢列(なら)んでいるところで、うかつに先刻の秘密は明かされないと思った。まだ寄るべも定まらない池の玉藻を、あっぱれ自分の手にかき寄せたという強い誇りが彼の胸に満ちていながらも、さすがにまだそれを発表する時機ではないと、彼は無理に奥歯で噛み殺していた。
「さっきもどうなされた。お身さまも何か叱られたか、睨まれたか」と、彼に膝枕をかしていた女が、薄い麻紙で口紅をぬぐいながら訊いた。
「いや、別に何事もなかったが、庭先きでふとすれ違うたので、早々に逃げて来た」と、兼輔は笑いにまぎらせた。
 そう言いながらも気にかかるので、彼は伸び上がって座敷の隅々を見渡したが、玉藻らしい女の影はやはりどこにも見えなかった。彼はまた一種の不安を感じはじめた。何者かが彼女を小蔭へ誘い出して、自分と同じように恋歌の返しを迫っているのではないかとも疑われた。彼はもう一度庭へ出てみたくなったので、いい加減に座をはずして立とうとすると、あいにくにその鼻のさきへ一人の大男が瓶子(へいし)と土器(かわらけ)とを両手に持って来た。
「左少弁、どこへゆく。実雅(さねまさ)の杯じゃ。受けてたもれ」
 彼はそこにどっかと坐った。彼は少将実雅という酒の上のよくない男であった。兼輔は迷惑そうに頭(かぶり)を振った。
「もうかなわぬ。免(ゆる)してたもれ」
「そりゃ卑怯じゃぞ」と、実雅は無理に土器を突きつけた。「お身この酒を飲まぬとあらば、その罰としてわしがこの瓶子を飲みほすあいだに、歌百首を詠み出してお見やれ」
「いや、歌も詩も五も六ない。この通りに酔うては、唯もう免せ、ゆるせ」と、兼輔はわざとおどけた身振りをして蛙のように床へ手をついた。
「ほう、実雅の前で詫ぶるというか。まだそればかりでは免されぬ。お身、ここで、白状せい」
 兼輔はひやりとした。その慌てたような顔をじっと睨みつけて、実雅はのけぞるばかり胸を突き出してあざ笑った。
「どうじゃ、白状せぬか。お身は先程あの川端で誰と何を語ろうていた。それを真っ直ぐに言うまいか」
 兼輔はいよいようろたえた。彼は笑い出したいような嬉しさを感じながらも、一方にはくすぐられるような苦しさをも覚えた。いっそ言おうか言うまいかと迷いながら、彼は相手を焦(じ)らすように空うそぶいた。
「そりゃ人違いであろう。われらは昼間からこの座を一寸も動いたことはござらぬ」
「いや、そりゃ嘘じゃ」
 女房たちは三方から彼を取りまいて、口をそろえて燕(つばめ)のようにさえずった。
「昼間は勿論のこと、日が暮れてからも庭先きをうろうろと……。現に今もここをぬけ出そうとせられたところじゃ」
「それ見い」と、実雅は鼻の下の薄い髭をこすって又睨んだ。「それでもお身にうしろ暗いことがないというか」
「いかに責められても、知らぬことは知らぬのじゃ」と、兼輔は笑いながら席をはずして立とうとすると、女房たちの白い手は右ひだりから彼の袂や裳(もすそ)にからみついた。
「いや、逃がさぬ、今度はわたしたちが詮議する。さあ、誰と語ろうてござった。それを聞こう。それを打ち明けられい」
 妬み半分と面白半分とで、女たちは鉄漿黒(かねぐろ)の口々から甲高(かんだか)の声々をいよいよ姦(かしま)しくほとばしらせた。かれらは兼輔の晴れの直衣をあたら揉み苦茶にするほどに、袖や袂を遠慮なしに掴んで小突きまわして、さあ白状しろと責めさいなんだ。女の袖に焚きしめた香の匂いや、髪の匂いや油の匂いや、それが一緒に乱れて流れて、女の匂いに馴れていた兼輔ももうむせ返りそうになってきた。
 彼が眼鼻を一つにして苦しんでいるのを、実雅はいよいよ妬(ねた)げに睨んでいたが、ふと気がついたように庭先きへ眼をやった。
「ほう。えらい嵐になった」
 まことに凄まじい嵐であった。おぼろ月はそれに吹き消されたように光りを隠して、闇をゆるがすような嵐の音がどうどうと聞こえた。花に嵐は珍しくないが、これまた疾風(はやて)のような怖ろしい勢いで、山じゅうの桜を一度に落とそうとするらしかった。鞍馬の天狗倒しがここまで吹き寄せかとも思われて、座敷じゅうの笑い声は俄にやんだ。女たちは顔を掩って俯伏した。嵐は座敷の内へもどっと吹き込んで、あらん限りのともし灯を奪ってゆくように、片端からみな打ち消してしまった。
 真っ暗ななかで男たちは息をのんだ。女たちはおもわず泣き声をあげた。外の嵐はまだ吹きつづけて、黒い雲のひとかたまりが家根の上へ低く舞いさがってきた。人間の限りない歓楽を天狗が妬んで、人も家も一緒につかんで眼の前の谷底へ投げ込もうとするのではないかとも恐れられた。そのなかでも心のきいた老人は呼んだ。
「ともかくも燈火(あかし)を早う。灯をともせ」
 その声は嵐に吹き消されて遠くきこえなかった。給仕に侍(はべ)っている関白家の家来も、女も、あまりの怖ろしさに席を動くことが出来なかった。なにがしの大将、なにがしの少将も、この物凄い敵の前には言い甲斐もなく怖れ伏してしまった。実雅も勿論その一人であった。
「おびただしい嵐じゃのう」
 忠通は表の闇を透かし視てつぶやいた。彼は玉藻を連れて丁度今ここへ出て来たのであった。清治も袖で烏帽子をおさえながら不安らしく言った。
「まことに怖ろしい嵐でござりまする。どこもかしこも真の闇になり申した」
「暗うてはどうもならぬ。早う燈火(あかし)を持て」
「はあ」
 清治はうけたまわって引っ返そうとすると、またひとしきり強い嵐が足をすくうように吹き寄せて来て、彼は野分(のわき)になぎ伏せられたすすきのように両膝を折って倒れた。忠通も危うく倒れかかって、扇で顔を掩いながら苛(いら)だった。
「燈火を……燈火を……。早うせい」
 この途端に座敷は月夜のように明るくなった。時ならぬ稲妻かと見ると、その光りはいつまでも消えなかった。忠通が倚りかかっている襖(ふすま)の絵も、そこらに取り散らしてある杯盤(はいばん)の数かずも、おどろいて眺めている人びとの衣の色も、皆あざやかに映し出された。
 闇を照らすこの不思議のひかりは、玉藻のからだからほとばしったのであった。彼女は後光(ごこう)を背負う仏陀のように、赫灼(かくしゃく)たる光明にあたりを輝かして立っていた。


法性寺(ほっしょうじ)

    一

「ふむう。頼長めが……。確(しか)と左様なことを申したか」
 関白忠通は二日酔いらしい蒼ざめたひたいの上に蒼い筋を太くうねらせて、扇を膝にきっと突き立てたままで、自分の眼の前に泣き伏している艶女(たおやめ)の訴えをじっと聞き済ましていた。花の宴(うたげ)のあくる日で、ゆうべから酔いこけた賓客(まろうど)たちも日の高い頃にだんだん退散して、あるじの軽いしわぶきも遠い亭まできこえるほどに、広い別荘のうちもひっそりと静まっていた。すさまじい夜嵐の名残りで、庭は見渡すかぎり一面に白い花びらを散り敷いていた。
「神ほとけも見そなわせ、わたくし誓って偽りは申し上げませぬ」と、玉藻は涙ぐんだ美しい眼をあげて、主人の顔色をぬすむようにうかがった。
「日ごろから器量自慢の頼長めじゃ。それほどのこと言い兼ねまい」
 忠通はわざと落ち着いた声で言った。しかもその語尾は抑え切れない憤恚(いかり)にふるえているのが、玉藻にはよく判っているらしかった。二人の話はしばらく途切れた。
 忠通もゆうべはこの別荘に酔い伏して、賓客たちが大方退散した頃にようように重い頭を起こしたのであった。酔いのまだ醒めない彼は、玉藻の給仕で少しばかりの粥をすすって、香炉に匂いの高い香をたかせて、その匂いを快(こころよ)く嗅ぎながら再びうとうとと夢心地になろうとする時、彼は玉藻にその夢を揺すられて、思いも寄らない訴えを聞かされた。それは花の宴もたけなわなるきのうの夕方の出来事で、玉藻が川端に立って散り浮く花をながめていると、そこへ主人の弟の左大臣頼長が来た。彼は酔っているらしく見えなかったが、玉藻をとらえてざれごとを二つ三つ言った。相手は主人の弟で、殿上でも当時ならぶ方のない頼長である。さすがに情(すげ)なく突き放して逃げるわけにもいかないので、玉藻もよいほどにあしらっていると、頼長はいよいよ図に乗って、ほとんど手籠めにも仕兼ねまじいほどのみだらな振舞いに及んだ。
「それだけならば、わたくし一人のこと、どのようにも堪忍もなりまするが……」と、玉藻は口惜し涙をすすり込むようにして訴えた。
 彼女に対して無礼を働いたばかりでなく、頼長は誇り顔(が)に、こんなことを口走ったというのである。兄の忠通は天下の宰相たるべき器(うつわ)でない。彼は単に一個の柔弱な歌詠みに過ぎない。今でこそ氏(うじ)の長者などと誇っているが、やがてはこの頼長に蹴落とされて、天下の権勢を奪わるるのは知れてある。彼の建立(こんりゅう)した法性寺は、彼自身が最後のかくれ家であろう。そのように影のうすい兄忠通に奉仕していて何となる。立ち寄らば大樹の蔭という諺もあるに、なぜおれの心に従わぬぞ。兄を見捨てよ、おれに靡(なび)けと、頼長は聞くに堪えないような侮蔑と呪詛(じゅそ)とを兄の上に投げ付けて、しいて玉藻を自分の手にもぎ取ろうとしたのであった。
 仲のよい兄弟のあいだでも、これだけの訴えを聞けば決していい心持はしない。まして忠通と頼長とはその性格の相違から、うわべはともあれ、内心はたがいに睦まじい仲ではなかった。頼長が兄を文弱と軽しめていることは、忠通の耳に薄々洩れきこえていた。自分が氏の長者となったに就いては、器量自慢の頼長が或いは妬んでいるかもしれないという邪推もあった。きのうの饗宴にもすねたような風をみせて、碌々に興も尽くさずに中座したということも、忠通としては面白くなかった。それらの事情が畳まっているところへ、寵愛の玉藻からこの訴えを聞いたのである。忠通はもうそれを疑う余地はなかった。
「憎い奴」
 彼は腹のなかで弟を罵った。酔いの醒めない頭はぐらぐらして、烏帽子を着ているに堪えないほどに重くなってきた。現在の兄を蹴落としておのれがその位に押し直ろうとする、それが免しがたい第一の罪である。兄が寵愛の女を奪っておのれが心のままにしようとする、それが免しがたい第二の罪である。自体が温和な人でも、この憤りをおさえるのは余程むずかしそうに思われるのに、ましてこの頃はだんだんに志がおごって、疳癖(かんぺき)の募ってきたのが著しく眼に立つ折柄(おりから)である。忠通の胸は憤怒(ふんぬ)に焼けただれた。しかし彼が現在の位地(いち)として、さすがに一人の侍女(こしもと)の訴えを楯にして表向きに頼長を取りひしぐわけにもいかないのを知っているので、彼はあふるるばかりの無念をこらえて、しばらく時節を待つよりほかはなかった。
 やがて彼は玉藻をなだめるように言った。
「頼長めの憎いは重々じゃが、氏の長者ともあるべき我々が兄弟(けいてい)墻(かき)にせめぐは頼長のきこえが忌々(いまいま)しい。そちをなぶったも酒席の戯れじゃと思うて堪忍せい。予もしばらくはこらえて、彼が本心を見届けようぞ」
 玉藻をなだめるのは彼自身をなだめるのである。忠通はしいて寂しい笑顔をつくって、うつむいている女の黒髪を眺めていた。
「わたくしの堪忍はどのようにも致しまする。ただ、左大臣殿が、かりにも上(かみ)を凌ぐようなおん企てを懐かせられまするようなれば……」
「いや、その懸念は無用じゃ。彼は予を文弱と侮っているとか申すが、忠通は藤原氏の長者じゃ。忠通は関白じゃ。彼らがいかにあせり狂うたとて、予を傾けようなどとは及ばぬことじゃ。なんの彼らが……」
 忠通は調子のはずれた神経的の声を立てた。そうして、鬢(びん)の毛でも掻きむしりたいように、両手で烏帽子のふちをおさえて頭を二、三度強くふった。その神経のだんだんに昂奮して来るのを、玉藻はいたましそうな眼をしてそっと窺っていたが、いつかその眼から白いしずくがはらはらとこぼれてきた。
「はて、なにを泣く。まだ堪忍がならぬか」と、忠通は彼女の涙に眼をつけて叱るように言った。
「唯今も申す通り、わたくしの堪忍はどのようにも致しまするが……」
「もう言うな。予のことは予に思案がある。その懸念には及ばぬことじゃ」
 顔の色はいよいよ蒼ざめて、忠通の眼の奥には決心の光りがひらめいた。
「但しこのことを余人に洩らすなよ」
「はあ」
 二人は再び眼をみあわせた。ゆうべに引き替えて、きょうはそより[#「そより」に傍点]とも風の吹かない日であった。散り残った花が時どきに静かに落ちて、どこやらで鶯の声がきこえた。
 その日の午(ひる)過ぎに、忠通は桂の里から屋形へ帰った。きのうの接待に疲れたといって、彼は人払いをしてひと間に引き籠っていたが、点燈(ひともし)ごろになって少納言信西を召された。大方はいつもの歌物語であろうと気を許して、信西入道はゆるゆると支度して伺候すると、忠通は待ちかねたように彼を呼び入れて出逢った。入道がきのうの不参の詫びをしているのを耳にも入れないで、忠通は唐突(とうとつ)に言い出した。
「早速じゃが、入道。頼長はこの頃もお身のもとへ出入りするかな」
「折りおりに見られまする」
「学問はいよいよ上達するか」
「驚くばかりの御上達で、この頃ではいずれが師匠やら弟子やら、信西甚(はなは)だ面目もござりませぬ」
 信西はすこしゆがんだ唇をほどいて[#底本では「ほどいで」と誤記]ほほえんだが、聴く人はにっこりともしなかった。
調達(ちょうだ)は八万蔵をそらんじながら遂に奈落に堕(お)ちたという。いかに学問ばかり秀(ひい)でようとも、根本のこころざしが邪道(よこしま)にねじけておっては詮ない。かえって学問が身の禍いをなす例(ためし)もある。予が見るところでは弟の頼長もそれじゃ。彼がお身のもとへ参ったら、この上に学問無用と意見おしやれ」
 善悪にかかわらず、うかつに返事をしないのが信西の癖であった。彼は今夜もしばらく黙って考えているので、忠通はすこし急(せ)いた。
「弟子を見ることは師に如(し)かずといえば、彼の人となりはお身も大かた存じておろう。彼は才智に慢ずる癖がある。この上に学問させたら、彼はいよいよ才学に誇って、果ては天魔(てんま)に魅(みい)られて何事を仕いだそうも知れまい。学問はやめいと言うてくれ。しかと頼んだぞ」
 実をいえば、信西も頼長に対してそういう懸念がないでもなかった。才学非凡で、しかも精悍(せいかん)の気に満ちている頼長の前途を、彼もすこしく不安に感じているのであった。この意味に於いては、彼も忠通の意見に一致していた。しかし今夜の忠通の口吻(くちぶり)は、弟の行く末を思う親身の温かい人情から溢れ出たらしく聞こえなかった。
 兄弟の不和――それから出発して来た兄の憤恚(いかり)であるらしいことを、古入道の信西は早くも看(み)て取った。
「仰せ一いち御道理(ごもっとも)にうけたまわり申した。それがしよりもよくよく御意見申そうなれど、あれほど御執心の学問をやめいとは……」
「申されぬか」
 相手は眼を薄くとじたままで、やはり否とも応ともはっきりとした返事をあたえないので、忠通はいよいよ焦(じ)れ出して、彼が天魔に魅(みい)られているという現在の証拠を相手の前に叩き付けようとした。
「入道はまだ知るまい。頼長はこの兄を押し傾けようと内々に巧(たく)んでいるのじゃ」
「よもや左様な儀は……」と、信西はすぐに打ち消した。
「いや、証人がある。彼が口から確かに言うたのじゃ」
 余人に洩らすなと口止めをしたのを忘れたように、忠通自身がその秘密をあばいた。
「その証人は……」
 相手のおちついているのが、忠通には小面(こづら)が憎いように見えた。
「証人は玉藻じゃ。彼はきのう玉藻に猥りがましゅう戯れて、あまつさえそのようなことを憚りもなしに口走ったのじゃ」
「ほう、玉藻が……」
 信西のひとみは忠通と同じように鋭く晃(ひか)った。

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