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玉藻の前(たまものまえ)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-8-27 10:33:34  点击:  切换到繁體中文


    二

 甘露(かんろ)のような雨はその夜のふけるまで降り通したので、天の恵みをよろこぶ声ごえは洛中洛外に溢れた。彼らは天の恵みを感謝すると共に、玉藻の徳の宏大無量を讃美した。彼らばかりではない。忠通は小おどりして喜んだ。
「見い、あいつら。これほどの奇特を見せられても、まだまだ玉藻を敵とするか。この忠通を侮るか。はは、小気味のよいことじゃ」
 実際、これに対して玉藻の敵も息をひそめないわけにはいかなかった。頼長も信西もなんとも声を立てることが出来なくなった。とりわけ面目を失ったのは泰親である。彼は公(おおやけ)の沙汰を待たないで、自分から門を閉じて蟄居(ちっきょ)した。
 泰親はもともと雨を祈ったのではない。したがって玉藻との祈祷くらべに不覚を取ったというのではないが、悪魔調伏は秘密の法で、表向きは雨乞いの祈祷である以上、泰親が半日の祈祷にはなんの効験(しるし)もなかったのに、それに入れ代った玉藻は一※(いっとき)の後にあれほどの大雨を呼び起こしたのであるから、表向きはどうしても彼の負けである。安倍晴明六代の孫は祖先を恥ずかしめたのである。彼は謹(つつし)んで罪を待つよりほかはなかった。弟子も無論に師匠と共に謹慎していた。泰親は自分の居間に閉じ籠ったままで、誰とも口をきかなかった。
 その明くる日は晴れていたが、きのうの雨に洗われた大空は、俄に一里も高くなって、その高い空から秋らしい風がそよそよと吹きおろしてきた。縁に近い梧(きり)の葉が一、二枚、音もなしに寂しく落ちるのを、泰親はじっと眺めていると、千枝太郎はぬき足をして燈台をそっと運んで来た。きょうももういつの間にか暮れかかっていた。
「千枝太郎、きょうは朝から誰も見えぬか」
「誰も見えませぬ」
「関白殿よりお使いもないか」
「はい」
 千枝太郎は伏し目になって師匠の顔色をうかがうと、燈台の灯に照らされた泰親の顔は水のように蒼かった。
「大切の祈祷を仕損じた泰親じゃ。重ければ流罪(るざい)、軽くとも家(いえ)の職を奪わるる。その御沙汰がきょうにもあるべき筈じゃに、今になんのお使いもないは……」と、泰親は頭(かしら)をかたむけた。「人は何ともいえ、雨乞いの勝ち負けなど論にも及ばぬ。ただ無念なは我が秘法の敢(あ)えなくも破れたことじゃ。七十日の祈りもしっかい空(くう)となって、悪魔が調伏の壇にのぼって勝鬨(かちどき)をあぐるとは、しょせん泰親の法もすたった。上(かみ)に申し訳がない、先祖に申し訳がない。左大臣殿や少納言殿にも申し訳がない。この上はただ慎(つつし)んで罪を待つよりほかはないのじゃが、いかに思い返しても唯このままに手をつかねて、悪魔の暴(あら)ぶるをおめおめ見物するのは、国のため、世のため、人のため、なんぼう忍ばれぬことじゃ。泰親を卑怯と思うな。未練と思うな。泰親の命は疾(と)くに投げ出してある。しかしもう七十日無事でいて、命のあらんかぎり二度の祈祷をしてみたい。就いては千枝太郎、折り入って頼みたいことがある。頼まれてくれぬか」
 師匠の眼の底には強い決心の光りがひらめいていた。千枝太郎はその光りに打たれたように頭を下げた。
「いかようのお役目でも、わたくしきっと承りまする」
「まずは過分(かぶん)じゃ。幸いに日も暮れた。いま一※ほどしたら屋敷をぬけ出して、少納言殿屋敷までそっと走ってくりゃれ」
 千枝太郎は心得顔にうなずくと、泰親はさらに声を忍ばせて言った。その用向きはほかでもない、信西入道の袖にすがって更に七十日の猶予を頼もうとするのである。家の職を奪われ、あるいは遠流(おんる)の身となっては、再び悪魔調伏の祈祷を試むる便宜(よすが)もない。関白殿からなんの沙汰もないうちに、なんとかして自分の罪を申しなだめて、二度の祈祷を試むるだけの期間をあたえて貰いたい。その七十日を過ぎてもやはり効験(しるし)がなかったらば、流罪はおろか、死罪獄門も厭わない。勿論、それは信西入道の一存で取り計らうわけにもいくまいが、入道から更に左大臣頼長に訴えて、この願意を聞き済ましてくれるように何分尽力して貰いたい。自分は謹慎の身の上でみだりに門外へ出ることが出来ないから、おまえが今夜忍んでこの使いを果たしてくれというのであった。
 千枝太郎は即座に承知した。
「委細心得ました。仰せの通りに仕まつりまする」
 彼は立派に受け合って師匠の前を退がった。一度の祈祷を仕損じても、さらに二度の祈祷を心がける師匠の強い決心に、千枝太郎は感激した。もう一つには、数(かず)ある弟子たちのうちでこの大切の使いを自分に頼まれたということが、彼に取っては一生の面目のようにも思われた。たとい信西入道がなんと言おうとも、かならず取りすがってこの役目を果たして来なければならないと、彼ははりつめた心持で夜の来るのを待っていた。
 都の寺(てら)でらの鐘が戌(いぬ)の刻(午後八時)を告げるのを待ち侘びて、千枝太郎は土御門(つちみかど)の屋敷を忍んで出ると、八月九日の月は霜を置いたように彼の袖を白く照らした。
「千枝太郎どの。千枝ま[#「ま」に傍点]」
 柳のかげから女の声がきこえた。それは彼が信西入道の屋敷の前まで行き着いた時であった。その声には確かに聞き覚えがあるので、彼は大地に釘づけになったように一旦は立ちすくんだが、聞かない顔をして一生懸命に歩き出そうとすると、その直衣(のうし)の袂はいつか白い手に掴まれていた。
「千枝太郎どの、なぜ逃げる。つれない人じゃ」
「いや、わしは急ぎの用がある」
 振り切ろうとしても玉藻は放さなかった。
「なんの用かは知らぬが、お前たちは慎みの身の上じゃ。勝手に夜歩きなどしても苦しゅうないか」
 千枝太郎は行き詰まった。勿論、まだ表向きには謹慎も蟄居も申し渡されてはいないのであるが、この場合に謹慎は当然のことである。その身の上で勝手に夜歩きをする。ひとに見咎められては申し訳がない。彼もしばらく黙って突っ立っていた。
「それ、お見やれ」と、玉藻はほほえんだ。「おまえは今夜このお屋敷へなにしに参られた。お師匠さまのお使いか」
 千枝太郎はやはり黙っていた。
「ほほ、言わいでも大抵知れている。そう思うて、わたしはさっきからここにお前を待っていた。一度は首尾して逢うてくれと、このあいだもあれほど頼んだに、お前はきょうまで素知らぬ顔をしている。それほどにわたしが憎いか。但しはお師匠さまと同じように、あくまでもわたしを魔性の者のように疑うているのか。お師匠さまはともあれ、山科の里で子供のときから一緒に育ったお前が、なんでわたしを疑うぞ。論より証拠はきのうの祈祷(いのり)じゃ。お前たちもお師匠さまと一つになって、悪魔調伏の祈祷をせられたが、あっぱれその効験(しるし)が見えましたか。もともと悪魔でもないわたしを百日千日祈ればとて呪えばとて、なんのしるしがあるものか、積もって見ても知らるることじゃ。関白殿は殊のほかの御立腹で、泰親はいうに及ばず、祈祷の壇にのぼった者は、一人も残さずに遠い鬼界ケ島(きかいがしま)へ流せと仰せられたを、わたしが縋ってなだめ申したは、お前という者がいとしいからじゃ。お師匠さまはわたしに取っては仇じゃが、そのお弟子のお前はいとしい。あけても暮れても硫黄(いおう)の煙りを噴くという怖ろしい鬼界ケ島、そのような処へお前をやらりょうか。のう、千枝ま[#「ま」に傍点]。わたしがこれほどの心づくしを、お前は哀れとも思わぬか、嬉しいとも思わぬか。ほんにほんに、むごい人、つれない人、憎い人、わたしは口惜しゅうて涙も出ぬ。察してくだされ」
 彼女は千枝太郎の胸に顔をすり付けて、遣(や)る瀬ないように身もだえして泣いた。男は女を抱(かか)えたままで、明るい月の下に黙って立っていた。
 関白殿から今までなんの沙汰もなかったのは、玉藻が内からさえぎっていたのであることを、千枝太郎は今初めて覚った。名を聞くさえも恐ろしい鬼界ケ島へ遠流――年の若い彼はさすがにぞっとした。それを救われたのは玉藻の情けであることを考えると、千枝太郎も情(すげ)なく彼女を突き放すことも出来なくなった。
 玉藻は果たして魔性の女であろうか――この疑いが又もや彼の胸に芽をふいた。彼はもとより師匠を信じていた。しかも玉藻のいう通り、彼女が果たして魔性の者であるならば、日本一というお師匠さまが七十日の間も肝胆を砕いた必死の祈祷に、その正体をあらわさぬということはあるまい。彼女は恐るる色もなしに調伏の壇に登ったのである。それを悪魔の勝利と見るのが正しいのであろうか。あるいは悪魔でもない者を悪魔として無益の祈祷をつづけていたこちらの眼違いであろうか。こう思うと、彼の胸は急に暗闇(くらやみ)になった。彼は自分の抱えている女を、どう処置していいか判らなくなってきた。
「お前はまだわたしを疑うているのか。いや、お前ばかりでなく、お師匠さまもきっとわたしを疑うているに相違あるまい。播磨守殿は情のこわい人と聞く。おそらくこれには懲りもせで、二度の祈祷など巧(たく)まるることであろう。二度が三度でもわたしは厭わぬが、そのような罪をかさねて、身の行く末は何となることやら、思いやるだに悼ましい。お師匠さまが大事じゃと思うなら、お前からよく意見して、もうさっぱりと思い切らせてはどうであろう。それともお前までがいつまでもお師匠さまの味方して、わたしを悪魔と呪う気か」
 玉藻は男の腕に手をかけて、怨めしそうに彼をみあげた。その眼には白い露がきらきらと光っていた。

    三

 いかに玉藻に口説かれても、千枝太郎は師匠の使命を果たさなければならない破目(はめ)になっていた。無益の祈祷を幾たびもつづけて、罪に罪をかさねるのは悼ましいことの限りであるが、今更そんな諫言を肯(き)くようなお師匠さまでないことは、彼にもよく判っていた。諫言を肯かないばかりでなく、あるいは心の弱い者として自分に勘当を申し渡されるかもしれない。千枝太郎はそれも怖ろしかった。
 第一の問題は、玉藻が果たして魔性の者であるか無いかということで、それを確かに見きわめた上でなければ、あとへもさきへも踏み出すことが出来ないのであるが、今の千枝太郎は不幸にして、それを見定めるだけの大きい強い眼をもっていなかった。彼は師匠を信じながらも、師匠を疑おうとした。玉藻を疑っていながらも、玉藻を信じようとした。こうした悲しい矛盾に責められて、彼はもう自分の立ち場が判らなくなってきた。
 相手もその苦しみを察しているらしく、眼をふさぎながら徐(しず)かに言った。
「お前の切(せつ)ない破目もわたしはよく察している。二度の祈祷をするもせぬも、しょせんはお師匠さまの心ひとつじゃ。又それを仕損じて、どのような怖ろしい罪科に陥ちようとも、しょせんはお師匠さまの自業自得(じごうじとく)じゃ。わたしはお前のお師匠さまに恨みこそあれ、恩もない、義理もない、由縁(ゆかり)もない。あの人がどうなろうとも構わぬが、唯くれぐれも案じらるるはお前のことじゃ。おまえはそもそもお師匠さまが大切か、わたしがいとしいか、それを聞きたい。お前の性根(しょうね)を確かに知りたい。それを正直に言うてくだされ」
 その正直な返事をすることが、千枝太郎に取っては一生に一度の難儀であった。彼は自分自身にもそれが確かに判っていないのである。玉藻はしばらくその返事をうかがっていたが、相手は唯うつむいて土に映る二人の黒い影を眺めているばかりであるので、彼女はやがて低い溜息をつきながら言った。
「お前はどうでもお師匠さまの味方と見た。この上はもうなんにも言うまい。お師匠さまと一つになって、わたしを祈るとも呪うとも勝手にしなされ。じゃが、千枝ま[#「ま」に傍点]。わたしはあくまでもお前をいとしいものに思うている。お師匠さまにどのような禍いが降りかかっても、お前ばかりはきっと助けたいと念じている。それだけのことはよく覚えていてくだされ」
 こう言い切って、彼女は明るい月をみあげた。きのうの稲妻に照らされた悽愴(ものすご)い顔とは違って、今夜の月を浴びた彼女の清らかな神々(こうごう)しいおもてには、月の精が宿っているかとも思われた。千枝太郎に師匠を疑う心がまた起こった。しかも別れてゆく女をさすがに抑留(ひきと)める気にもなれなかったので、彼はなんだか残り惜しいような心持でそのうしろ影を見送っていたが、やがて思い切って信西の屋敷の門をくぐった時には、彼の両袖は夜露にしっとりとしめっていた。
 信西入道はすぐに逢ってくれた。千枝太郎が師匠の口上を取次ぐと、信西は案外にこころよく承知した。
「おお、さもあろうよ。一度は仕損じても、身命をなげうって二度の祈祷を心がくる――泰親としてはさもあるべきことじゃ。信西もそうありたいと願うていた。左大臣殿もおそらく同じ心であろう。あすにも直ぐに宇治へまいって、播磨守の願意は確かにそれがしが取次いでやる。さものうてもこのたびの仕損じに就いて、播磨守一人に罪を負わすは我々も甚だ快(こころよ)うないことじゃで、なんとか穏便(おんびん)の沙汰をと工夫しておったる折りからじゃ。彼が二度の祈祷を願うとあれば猶更のこと、なんとかして彼を救わねばなるまい。して、関白殿よりは今になんの沙汰もないか」
「なんの御沙汰もござりませぬ」
「それは重畳(ちょうじょう)。関白殿も本来は賢い御仁じゃで、無道の御沙汰もあるまいと存ずるが、なにをいうても今は悪魔に魅(みい)られているので、いかようの御沙汰もあろうかと、それがしも内(ない)ない懸念しておったが、今になんの御沙汰もなくば、存外穏便に済もうも知れぬ。いずれにしても信西が引き受けた。播磨守にも安心せいと伝えてくりゃれ」
 関白殿からなんの御沙汰もないのは、かの玉藻の取りなしであることを知っていたが、千枝太郎は、この人の前でもそれを明白(あらわ)に言うのを憚った。彼はうやうやしく礼をいって、信西の屋敷を出ると、月はいよいよ明るくなって、路ばたになびく柳の葉も一いちかぞえられる程であった。
 姉小路を出て、高倉の辻へさしかかると、ゆき先きで犬のほえる声がきこえた。気にも留めずに歩いてゆくと、犬の声はそこにもここにも聞こえた。それは唯ならぬ唸り声であった。
「盗賊かな」と、千枝太郎はあるきながら考えた。
 しかし彼は逞(たくま)しい若者である。賊の一人くらいは取りひしいで呉れようという息込みで、わざと大股に辻のまん中へ進んでゆくと、犬の声はだんだんに近くなった。一匹でない、四方八方から群がって来て、何者をか取り巻いているらしかった。
 見ると眼の前には一人の女が立ちすくんでいた。被衣(かつぎ)を深くして、しかもこちらを背にして立っているので、その顔はもとより判らなかったが、それが玉藻であるらしいことは直ぐに千枝太郎の胸に泛(う)かんだ。彼女はまだここらをさまよっていたらしく、あまたの犬は牙(きば)をむき出して彼女を遠巻きにしているのであった。犬のなかには熊のように大きいのもあった。虎のように哮(たけ)っているのもあった。しかしかれらは、なんの武器をも持たない女ひとりを噛み倒すほどの勇気もないらしく、唯すさまじい唸り声をあげて、いたずらに地上に映る女の影に吠えているばかりであった。
 孱弱(かよわ)い女子(おなご)が群がる犬に取り巻かれている。それが見ず識らずの人であっても見過ごすことは出来ないのに、まして相手は玉藻であるらしいので、千枝太郎の胸は跳(おど)った。彼はまず路ばたの小石を拾って真っ先に進んでいる犬の二、三匹を目がけてばらばらと打ち付けながら、つかつかと駈け寄って女を囲った。それでも犬はなかなか怯(ひる)まないらしく、一、二間さがったままでまだ執念ぶかく吠えつづけているので、千枝太郎もじれた。しかし彼も扇のほかに何物をも持っていないので、そこらに転がっている小石や、土くれのたぐいを手あたり次第に拾って投げた。手近へ飛びかかって来る敵を扇で打ち払った。
 犬の声があまりに激しいので、宵寝の都人(みやこびと)も夢をおどろかされたらしい。路ばたの小さい商人店(あきうどみせ)では細目に戸をあけた。それが盗賊でない、犬のいたずらであると知ったときに、そこらの家から二、三人の男が棒切れを持って出て来た。彼らは千枝太郎に加勢して、むらがる犬どもを叩きのけてくれた。敵がだんだんに多くなったので、犬もとうとう追い散らされてしまった。
「かたじけのうござる」
 千枝太郎は加勢の人たちに礼をいって、自分の囲っている女を見かえると、女はいつか自分のうしろを離れて、ある家の軒下の暗いかげに身を寄せていた。千枝太郎は彼女に声をかけた。
「さぞ怖ろしゅうござったろう。犬どもはみな追い払うた。心安うおぼされい」
 女は黙って軒下からすう[#「すう」に傍点]と出て来た。彼女はまだ被衣を深くしているのを、千枝太郎は月明かりで覗きながら訊いた。
「玉藻でないか」
 言いかけて彼はぎょっとした。被衣を洩れた女の顔は譬えようもないほどに悽愴(ものすご)いものであった。彼女の眼は怪しくさか吊って火のように燃えていた。彼女の口は獣(けもの)のように尖っていた。千枝太郎は再び眼を据えてよく視ると、それは一時のまぼろしで、月に照らされた女の顔はやはり美しい玉藻に相違なかった。
「犬に取り巻かるるは怖ろしいものじゃ。男でも難儀することがある。別に怪我もなかったか」と、彼は摺り寄って又きいた。
 玉藻はやはり黙っていた。異常の恐怖に囚われて、彼女はまだ息も出ないらしかった。千枝太郎は加勢の人に頼んで、家(うち)から水を持って来てもらった。その水をのんで、玉藻はようよう我に返ったらしく見えたが、それでもただ黙礼するばかりで、ひと言も口へは出なかった。人びとに挨拶して別れて、千枝太郎は玉藻を送って行った。
「お前にはいろいろ恩になりました」と、玉藻は途中で初めて言い出した。「先度(せんど)も物に狂うた法師にとらわれて、ほとほと難儀しているところを、お前に救うてもろうたに、今夜もまた……。とりわけて今夜の怖ろしさ、わたしは生きている心地もなかった」
「関白殿のお屋形には犬を飼うておられぬか」
「わたしは犬が大嫌いじゃで、殿に願うて一匹も残さず追い払うてしもうた」
「犬もおとなしければ可愛いものじゃが、群がって来て人を噛もうとする、そのような野良犬は憎いものじゃよ」と、千枝太郎も言った。
「わたしがこのように夜歩きして、犬に悩まされたなどということを、誰にも言うて下さるな」と、玉藻は頼むように言った。
「おお、誰にも言うまい。このようなことがひとに知れたら、わしも叱らるるわ」
「お師匠さまにか」
 千枝太郎はだまって月を仰いでいた。
「思えば不思議なものじゃ」と、玉藻は溜息をついた。「こうしてお前と親しゅうなりながら、お前のお師匠さまはわたしを仇のように呪うているお人、そのお弟子なりゃお前とわたしも仇同士、二人の行く末はどうなろうかのう」
 千枝太郎も引き入れられるような寂しい心持になった。玉藻はまた言った。
「くどくも言うようじゃが、お前のお師匠さまは遅かれ速(はや)かれ破滅の身の上じゃ。宇治の左大臣殿がいかほど贔屓(ひいき)せられても、理を非にまぐることは出来ない。そのまきぞえを受けぬように能(よ)く心しなされ」
 関白の屋形の門前で二人は別れた。千枝太郎が師匠の家へ戻り着いた頃には、夜もよほど更けていた。泰親はまだ眠らずに待っていたので、千枝太郎はすぐに師匠の前へ出て、今夜の使いの結果を報告すると、泰親は笑(え)ましげにうなずいた。
「少納言の御芳志は海山(うみやま)じゃ。泰親もよみがえったような心地がする。お身も大事の使いを果たしてくれて、いこう大儀であった」
 こう言ううちに、泰親の眉がだんだん陰ってきたのを、若い弟子はちっとも気がつかなかった。彼は師匠に褒められたのを誇りとして、自分の部屋へしずかに引き退がった。玉藻に就いて考えたいことがたくさんあったが、今夜の彼はあまりに疲れていたので、枕に就くとすぐに安らかに眠ってしまった。
 しかしその安らかな夢がさめると、彼は不意の落雷に驚かされたのである。夜があけると、彼は師匠の前に呼び出されて、突然に破門(はもん)を申し渡された。
「行く末の見込みある若者じゃと思うて、わしもこれまでいろいろに丹精してみたが、お身は執念(しゅうね)く怪異(あやかし)に憑(つ)かれている。お身のおもてに現われた死相はどうでも離れぬ。こう言うと、おのれの罪をひとにまぶし付くるようで甚だ心苦しいことではあるが、泰親が今度の祈祷を仕損じたも、五色にかたどった五人のうちにお身をまじえた為ではないかと疑わるる節(ふし)もある。かたがた、いつまでもここにおっては、泰親のためにもようない。お身のためには殊にようない。いったんは叔父のもとへ立ち戻って昔の烏帽子折りになって見やれ。そうして、つつがなく一年二年を送って、その禍いが去ったとみえたらば、再びもとの弟子師匠じゃ。憎うて勘当するのではない。しょせんはお身が可愛いからじゃ。むごい師匠と恨むまいぞ」
 噛んでふくめるように言い聞かせて、泰親は幾らかの金をつつんで呉れた。千枝太郎はただ夢のようで、なんと言い返してよいかを知らなかった。彼はおのずと涙ぐまれた。

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