四
今はコスモも
六日もつづいて彼女は出てこなかった。コスモは
「もし、悪魔が彼女を鏡のうちに現出させることが出来るならば、自分が知っている悪魔の話のように、鏡のうちに彼女をうつしたばかりでなく、さらに生きた姿のままを直接に自分の前に現出させてみせそうなものだ。もしも彼女が自分の前に現出して、僕が彼女に対して何か悪いことをしたとしても、それは愛がさせる
コスモは、彼女はこの地上の女に違いはない。地上の女が何かの理由でその影をこの魔鏡のなかにうつしているに相違ないと信じていた。
彼は秘密の
彼はまず部屋の中央にあるものを取りのけてしまった。それから身をまげて自分の立っている周囲に丸い赤い線を引いた。そうして、四隅に不思議な
彼が起つと、教会の鐘は七時を打った。それと同時に、彼女もあたかも初めて現われてきたときのように、気の進まないような
線を引いた場所から注意ぶかく歩いて、線の中央に小さい火鉢を置き、そのなかの炭に火をつけて、それが燃えている間、彼は窓をあけて火鉢のそばに腰をおろしていたのであった。それは蒸し暑い夕方で、絶えず雷鳴がとどろいて、大空が重苦しいように下界の空気をおしつけている日であった。なんとなく紫色をした空気がただよっていて、町の
それがあまりに長く続かないうちに、彼女は顔を蒼くしたが、波が打ち返すように今度は顔をあからめて、手をもって顔をかくした。彼は魔法をさらに強くつづけた。彼女は
コスモの眼が彼女に一種の魅力を与えたようであった。コスモは今までこんなに間近く彼女を見たことはなかった。眼と眼とが合うほどまでに近づいたが、それでも彼女の表情は分からなかった。その表情は優しい哀願をこめているものであったが、その以上の、言葉に尽くせない何物かがあった。彼は胸の思いが
彼女の顔に見入っていると、コスモは今までにない魅惑を感じた。突然に彼女はうつっている部屋のうちから扉の外へ歩いていったかと思うと、次の瞬間に彼女は、コスモの部屋に(鏡のうちではない)まことの姿になってはいって来た。
彼はいっさいの注意を忘れて、そこから飛びあがって彼女の前にひざまずいた。今こそ彼が熱情の夢に描いていた彼女が、生きた姿で雷鳴のたそがれに、魔術の火の輝きのなかにただひとり、彼のかたわらに立っているのである。
「どうしてあなたは、この雨のふっている町を通って、私のような哀れな女を連れて来たのです」と、彼女はふるえる声で言った。
「あなたを恋しているからです。私はあなたを鏡のうちから呼び出しただけです」
「ああ、あの鏡!」と、彼女は鏡を見上げて身をふるわせた。「ああ、わたしはあの鏡のある間は一種の奴隷に過ぎないのです。私がここに参ったのは、あなたの魔術の力だとお思いになってはいけません。あなたが私に逢いたがっていらっしゃることが、私の心を打ったのです。それが私をここへ来させたのです」
「では、あなたは私を愛してくださるのですか」
コスモは死のように静かな、しかし感情に激してよくは分からないような声で言った。
「それは分かりません。私がこの魔法の鏡のために苦しんでいるあいだは何とも申されません。それでもあなたの胸にいだかれて、死ぬまで泣くことが出来たら、どんなに嬉しいかしれません。あなたが私を愛していてくださることは知っております。いえ、それも分からないのですけれど……。それでも……」
ひざまずいていたコスモは起ち上がった。
「わたしはあなたを愛しています。どうしてだか、前から愛しています。そのほかにはなんにも考えておりません」
彼は彼女の手を握ると、彼女は手を引いた。
「いけません。わたしはあなたの手のうちにあるのです。それですからいけません……」
今度は彼女がコスモの前にひざまずいて泣き出した。
「もしあなたが私を愛してくださるならば、わたしを自由の身にして下さい。あなたからも自由にしてください。この鏡を
「そうしてからも、あなたに逢うことが出来ますか」
「それは言えません。あなたをおだまし申しませんけれど……。もう二度とお目にかからないかもしれません」
するどい驚きがコスモの胸に起こった。いま彼女は彼の手中にある。彼女はコスモを嫌ってもいない。そうして、逢いたい時はいつでも逢えるのであるが、鏡を毀すということは、彼の真実の生活を破壊することにもなり、彼の宇宙からただひとつの光明を追放することにもなるのである。愛の楽園を見ることの出来るこの一つの窓を失ってしまえば、全世界は彼にとって牢獄に過ぎない。愛に対して不純のようではあるが、彼はその実行をためらったのであった。
彼女は悲しみながら起ちあがった。
「ああ、あの人は私を愛してはくださらない。私は感じているのに、あの人は愛してくださらない。私はもう自由になれなくともいいから、あの人を愛します」
「もう待ってはいられない」
コスモはこう叫んで、大きな剣の立っている部屋の隅に飛んでいった。
もう暗くなっていた。部屋のうちには燃えさしの火が赤く輝いていた。彼は剣の