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世界怪談名作集(せかいかいだんめいさくしゅう)十六

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-8-27 10:30:27  点击:  切换到繁體中文

底本: 世界怪談名作集 下
出版社: 河出文庫、河出書房新社
初版発行日: 1987(昭和62)年9月4日
入力に使用: 2002(平成14)年6月20日新装版初版
校正に使用: 2002(平成14)年6月20日新装版初版

 

世界怪談名作集

鏡中の美女

マクドナルド George MacDonald

岡本綺堂訳




      一

 コスモ・フォン・ウェルスタールはプラーグの大学生であった。
 彼は貴族の一門であるにもかかわらず、貧乏であった。そうして、貧乏より生ずるところの独立をみずから誇っていた。誰でも貧乏から逃がれることが出来なければ、むしろそれを誇りとするよりほかはないのである。彼は学生仲間に可愛がられていながら、さてこれという友達もなく、学生仲間のうちでまだ一人も、古い町の最も高い家の頂上にある彼の下宿の戸口へはいった者はないのであった。
 彼の謙遜的の態度が仲間内には評判がよかったのであるが、それは実のところ彼の隠遁的の思想から出ているのであった。夜になると、彼は誰からも妨げられることなしに、自分の好きな学問や空想にふけるのである。それらの学問のうちには、学校の課程に必要な学科のほかに、あまり世間には知られもせず、認められもしないようなものが含まれていた。彼の秘密の抽斗ひきだしには、アルベルタス・マグナス(十三世紀の科学者、神学者、哲学者)や、コンネリウス・アグリッパ(十五世紀より十六世紀にわたる哲学者で、錬金術や魔法を説いた人)の著作をはじめとして、その他にもあまりひろく読まれていない書物や、神秘的のむずかしい書物などがしまい込まれてあった。しかもそれらの研究は単に彼の好奇心にとどまって、それを実地に応用してみようなどという気はなかったのである。
 その下宿は大きい低い天井の部屋で、家具らしい物はほとんどなかった。木製の椅子が一つい、夜も昼も寝ころんで空想にふける寝台が一脚、それから大きい黒いかしわの書棚が一個、そのほかには部屋じゅうに家具と呼ばれそうな物ははなはだ少ないのであった。その代りに、部屋の隅ずみには得体えたいの知れない器具がいろいろ積まれてあって、一方の隅には骸骨が立っていた。その骸骨は半ばはうしろの壁にりかかり、半ばは紐でそのくびを支えていて、片手の指をそのそばに立ててある古い剣のつかがしらの上に置いているのであった。ほかにもいろいろの武器が床の上に散らかっている。壁はまったく装飾なく、はねをひろげた大きいひからびた蝙蝠こうもりや、豪猪やまあらしの皮や剥製の海毛虫シーマウスや、それらが何だか分からないような形になって懸かっている。ただし、彼はこんな不可思議な妄想に耽っているかと思えば、また一方にはそれとまったく遠く懸け離れたことをも考えているのであった。
 かれの心はけっして恍惚たる感情をもって満たされているのではなく、あたかも戸外の暁け方のように、匂いをただよわす微風ともなり、また、あるときは大木を吹きたわませる暴風ともなるのであった。彼は薔薇ばら色の眼鏡を透してすべての物を見た。かれが窓から下の町を通る処女おとめをみおろした時、その処女はすべて小説ちゅうの人物ならざるはなく、彼女の影が遠く街路樹のうちに消え去るまで、それを考えつづけているのである。彼が町をあるく時、あたかも小説を読んでいるような心持ちで、そこに起こるいろいろの出来事を興味ある場面として受けいれるのである。そうして、女の美しい声が耳にはいるごとに、彼はエンゼルのつばさが自分のたましいを撫でて行くようにも感ずるのである。実際、かれは無言の詩人で、むしろ本当の詩人よりも遙かに空想的で、かつ危険である。すなわちその心に湧くところの泉が外部へ流れ出る口を見いだすことが出来ないで、ますます水嵩みずかさがいやまして、後にはみなぎりあふれて、その心の内部をそこなうことにもなるからである。
 彼はいつも固い寝台に横たわって、何かの物語か詩を読むのである。のちにはその書物を取り落として、空想にふける。そうなると、夢かうつつか区別がつかない。向うの壁がはっきりとわかってきて、あさ日の光りに明かるくなった時、かれもまた初めて起きあがるのである。そうして、元気旺盛な若い者のあらゆる官能がここに眼ざめてきて、日の暮れるまで自由に読書または遊戯をつづけるのである。昼の大きい瀑布に沈んでいた夜の世界がここにあらわれてくると、彼のこころには星がきらめいて、暗い幻影が再び浮かんでくるのである。しかもそんなことを長く続かせるのはむずかしい。遅かれ早かれ何物かが美しい世界へ踏み込んで来て、迷える魔術師を跪拝きはいせしめなければならないのである。

 ある日の午後の黄昏たそがれに近いころであった。彼は例のごとく夢みるような心持ちで、この町の目貫めぬきの大通りをあるいていると、学生仲間のひとりが肩をたたいて声をかけた。そうして、自分は古いよろいをみつけて、それを手に入れたいと思うから、裏通りまで一緒に来てくれないかと言った。
 コスモは古代および現代の武器については非常にくわしく、斯道しどうの権威者とみとめられていた。ことに武器の使い方にかけては、学生仲間にも並ぶ者がなかった。そのなかでも、ある種の物の使い方に馴れているので、他のすべての物にまで彼が権威を持つようにもなったのである。コスモは喜んで彼と一緒に行った。
 二人は狭い小路に入り込んで、ほこりだらけな小さい家にゆき着いた。低いアーチ型のドアをはいると、そこには世間によく見うけるしゅじゅのかびくさい、ほこりだらけの古道具がならべてあった。学生はコスモの鑑定に満足して、すぐその鎧を買うことに決めた。
 そこを出るときに、コスモは壁にかけてあるほこりだらけの楕円形の古い鏡に眼をつけた。鏡の周囲には奇異なる彫刻があって、店の主人がそれを運んだ時、輝いている灯に映じても、さのみにひからなかった。コスモはその彫刻に心をかれたらしかったが、その以上に注意する様子もなく、彼は友達とともにここを立ち去ったのである。二人は元の大通りへ出て、ここで反対の方角に別れた。
 独りになると、コスモはあの奇異なる古い鏡のことを思い出した。もっとよく見たいという念が強くなって、彼は再びその店の方へ足をむけた。彼が扉を叩くと、主人は待っていたように扉をあけた。主人は痩せた小柄の老人で、鉤鼻かぎばなの眼のひかった男で、そこらに何か落とし物はないかと休みなしにその眼をきょろつかせているような人物であった。コスモは他の品をひやかすようなふうをして、最後にかの鏡の前へ行って、それを下ろして見せてくれと言った。
「旦那。ご自分で取ってください。わたくしには手が届きませんから」と、老人は言った。
 コスモは注意してその鏡をおろして見ると、彫刻は構図も技巧も共に優れていて、実に精巧でもあり、また高価の物でもあるらしく思われた。まだその上に、その彫刻にはコスモがまだ知らない幾多の技巧が施されていて、それが何かの意味ありげにも見えた。それが彼の趣味と性格の一面に合致しているので、彼は更にこの古い鏡に対して一段の興味を増した。こうなると、どうしてもこれを手に入れて、自分の暇をみてそのふちの彫刻を研究したくなったのである。
 しかし、彼はこの鏡を普通の日用にするような顔をして、これはずいぶん古いから長く使用にたえないだろうと言いながら、そのおもてちりを少しばかり拭いてみると、彼は非常に驚かされたのである。鏡の面はまばゆいほどに輝いていて、年を経たがために傷んでいる所もなく、すべての部分が製作者から新しく受け取ったと同様に、清らかに整っているのである。彼はまず主人にむかってそのあたいをいた。
 老人は貧しいコスモがとても手を出せないような高値を吹いたので、彼は黙ってその鏡を元のところに置いた。
「お高うございましょうか」と、老人は言った。
「どうしてそんなに高いのか、理屈がわからないな」と、コスモは答えた。「わたしの考えとはよほどの距離があるよ」
 老人は灯をあげて、コスモの顔を見た。
「旦那は人好きのするかただ」
 コスモはこんなお世辞にこたえることのできない男である。彼はこのとき初めて老人の顔を間近に見たのであるが、それが男だか女だか分からないような、一種のいやな感じを受けた。
「あなたのお名前は……」と、老人は話しつづけた。
「コスモ・フォン・ウェルスタール」
「ああ、そうでしたか。なるほど、そういえばお父さんにておいでなさる。若旦那、わたくしはあなたのお父さんをよく存じておりますよ。実をいうと、このわたくしのうちの中にも、あなたのお父さんの紋章や符号のついた古い品がいくつもあります。そうでしたか。いや、わたくしはあなたが気に入った。それでは、どうです。言い値の四分の一で差し上げることにいたしましょう。但し、一つの条件付きで……」
 それでもコスモにとっては重大の負担であったが、そのくらいならば都合が出来る。ことに途方とほうもない高値を吹かれて、とても手がとどかないと思ったあとであるから、いっそうそれが欲しくなった。
「その条件というのは……」
「もしあなたがそれを手放したくなったらば、初めにわたくしが申し上げただけの金をわたくしにくださるように……」
「よろしい」と、コスモは微笑しながら付け加えた。「それはまったく穏当な条件だ」
「では、どうぞお間違いのないように……」と、売りぬしは念を押した。
「名誉にかけて、きっと間違いはないよ」と、買い手は言った。
 これで売り買いは成り立ったのである。
 コスモが鏡を手にとると、老人は、「お宅までわたくしがお届け申しましょう」と、言った。
「いや、いや、私が持って行くよ」と、コスモは言った。
 彼は自分の住居を他人に見せることをひどく嫌っていた。ことにこんな奴、だんだんに嫌悪けんおの情の加わってくるこんな人間に、自分の住居を見られるのはいやであった。
「では、ご随意に……」と、おやじは言った。
 彼はコスモのために灯を見せて、店から送り出してしまうと、独りでつぶやいた。
「あの鏡を売るのも六度目だ。もう今度あたりでおしまいにしてもらいたいな。あの女ももうたいてい満足するだろうに……」


 

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