一
コスモ・フォン・ウェルスタールはプラーグの大学生であった。
彼は貴族の一門であるにもかかわらず、貧乏であった。そうして、貧乏より生ずるところの独立をみずから誇っていた。誰でも貧乏から逃がれることが出来なければ、むしろそれを誇りとするよりほかはないのである。彼は学生仲間に可愛がられていながら、さてこれという友達もなく、学生仲間のうちでまだ一人も、古い町の最も高い家の頂上にある彼の下宿の戸口へはいった者はないのであった。
彼の謙遜的の態度が仲間内には評判がよかったのであるが、それは実のところ彼の隠遁的の思想から出ているのであった。夜になると、彼は誰からも妨げられることなしに、自分の好きな学問や空想にふけるのである。それらの学問のうちには、学校の課程に必要な学科のほかに、あまり世間には知られもせず、認められもしないようなものが含まれていた。彼の秘密の
その下宿は大きい低い天井の部屋で、家具らしい物はほとんどなかった。木製の椅子が一
かれの心はけっして恍惚たる感情をもって満たされているのではなく、あたかも戸外の暁け方のように、匂いをただよわす微風ともなり、また、あるときは大木を吹きたわませる暴風ともなるのであった。彼は
彼はいつも固い寝台に横たわって、何かの物語か詩を読むのである。のちにはその書物を取り落として、空想にふける。そうなると、夢か
ある日の午後の
コスモは古代および現代の武器については非常にくわしく、
二人は狭い小路に入り込んで、ほこりだらけな小さい家にゆき着いた。低いアーチ型の
そこを出るときに、コスモは壁にかけてあるほこりだらけの楕円形の古い鏡に眼をつけた。鏡の周囲には奇異なる彫刻があって、店の主人がそれを運んだ時、輝いている灯に映じても、さのみに
独りになると、コスモはあの奇異なる古い鏡のことを思い出した。もっとよく見たいという念が強くなって、彼は再びその店の方へ足をむけた。彼が扉を叩くと、主人は待っていたように扉をあけた。主人は痩せた小柄の老人で、
「旦那。ご自分で取ってください。わたくしには手が届きませんから」と、老人は言った。
コスモは注意してその鏡をおろして見ると、彫刻は構図も技巧も共に優れていて、実に精巧でもあり、また高価の物でもあるらしく思われた。まだその上に、その彫刻にはコスモがまだ知らない幾多の技巧が施されていて、それが何かの意味ありげにも見えた。それが彼の趣味と性格の一面に合致しているので、彼は更にこの古い鏡に対して一段の興味を増した。こうなると、どうしてもこれを手に入れて、自分の暇をみてその
しかし、彼はこの鏡を普通の日用にするような顔をして、これはずいぶん古いから長く使用にたえないだろうと言いながら、その
老人は貧しいコスモがとても手を出せないような高値を吹いたので、彼は黙ってその鏡を元のところに置いた。
「お高うございましょうか」と、老人は言った。
「どうしてそんなに高いのか、理屈がわからないな」と、コスモは答えた。「わたしの考えとはよほどの距離があるよ」
老人は灯をあげて、コスモの顔を見た。
「旦那は人好きのするかただ」
コスモはこんなお世辞にこたえることのできない男である。彼はこのとき初めて老人の顔を間近に見たのであるが、それが男だか女だか分からないような、一種の
「あなたのお名前は……」と、老人は話しつづけた。
「コスモ・フォン・ウェルスタール」
「ああ、そうでしたか。なるほど、そういえばお父さんに
それでもコスモにとっては重大の負担であったが、そのくらいならば都合が出来る。ことに
「その条件というのは……」
「もしあなたがそれを手放したくなったらば、初めにわたくしが申し上げただけの金をわたくしにくださるように……」
「よろしい」と、コスモは微笑しながら付け加えた。「それはまったく穏当な条件だ」
「では、どうぞお間違いのないように……」と、売りぬしは念を押した。
「名誉にかけて、きっと間違いはないよ」と、買い手は言った。
これで売り買いは成り立ったのである。
コスモが鏡を手にとると、老人は、「お宅までわたくしがお届け申しましょう」と、言った。
「いや、いや、私が持って行くよ」と、コスモは言った。
彼は自分の住居を他人に見せることをひどく嫌っていた。ことにこんな奴、だんだんに
「では、ご随意に……」と、おやじは言った。
彼はコスモのために灯を見せて、店から送り出してしまうと、独りでつぶやいた。
「あの鏡を売るのも六度目だ。もう今度あたりでおしまいにしてもらいたいな。あの女ももうたいてい満足するだろうに……」