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世界怪談名作集(せかいかいだんめいさくしゅう)十五
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世界怪談名作集 下 |
河出文庫、河出書房新社 |
1987(昭和62)年9月4日 |
1987(昭和62)年9月4日初版 |
2002(平成14)年6月20日新装版初版 |
世界怪談名作集
幽霊
モーパッサン Guy De Maupassant
岡本綺堂訳
私たちは最近の訴訟事件から談話に枝が咲いて、差押えということについて話し合っていた。それはルー・ド・グレネルの古い別荘で、親しい人たちが一夕を語り明かした末のことで、来客は交るがわるにいろいろの話をして聞かせた。どの人の話もみな実録だというのである。 そのうちに、ド・ラ・トール・サミュールの老侯爵が起ちあがって、煖炉の枠によりかかった。侯爵は当年八十二歳の老人である。かれは少し慄えるような声で、次の話を語り出した。
わたしも眼のあたりに不思議なものを見たことがあります。それは私が一生涯の悪夢であったほどに不思議な事件で、今から振り返ると五十六年前の遠い昔のことですが、いまだにその怖ろしい夢に毎月おそわれているのです。そのことのあった日から、わたしは恐怖ということを深く刻みつけられてしまったのです。まったくその十分間は恐怖の餌になって、その怖ろしさが絶えず私の心に残っているのです。不意に物音がきこえると、私は心からぞっとします。夕方の薄暗いときに何か怪しい物をみると、わたしは逃げ出したくなります。私は夜を恐れています。 いや、私もこの年になるまでは、こんなことを口外しませんでしたが、今はもう一切をお話し申してもよろしいのです。八十二歳の老人が空想的の危険を恐れることはあっても、実際的の危険に再び遭遇することはありませんでした。奥さんたちもお聴きください。その事件は私がけっして話すことができないほどに、わたしの心を転倒させ、深い不可思議な不安を胸いっぱいに詰め込んでしまったのです。私はわれわれの悲哀や、われわれの恥かしい秘密や、われわれの人生の弱点や、どうも他人にむかって正直に告白することのできないものを、今まで心の奥底に秘めておきました。 私はこれから何の修飾も加えずに、不思議の事件をただありのままに申し上げましょう。その真相はわたし自身にもなんとも説明のしようがない。まずその短時間のあいだ私が発狂したとでも言うよりほかはありますまい。しかし私が発狂したのではないという証拠があります。いや、それらの想像はあなたがたの自由に任せて、わたしは正直にその事実をお話し申すことにしましょう。 それは一八二七年の七月、わたしが自分の連隊を率いて、ルーアンに宿営している当時のことでした。ある日、わたしが波止場の近所をぶらついていると、なんだか見覚えのあるような一人の男に出逢ったので、少しく歩みをゆるめて立ち停まりかけると、相手もわたしの様子を見て、じっと眺めていましたが、やがて飛びつくように私の腕に取りすがりました。 よく見ると、それはわたしの若いときに非常な仲よしであった友達で、わずか五年ほど逢わないうちに五十年も年をとったように老けて見えました。その髪はもう白くなって、歩くのさえも大儀そうでした。あまりの変わりかたに私も驚いていると、相手もそれを察したらしく、まず自分の身の上話を始めました。聞いてみると、一大事件が彼に打撃を与えたのでした。彼はある日若い娘と恋におちて、気違いのように逆上あがって、ほとんど夢中でその女と結婚して、それから一年ほどのあいだは無茶苦茶に嬉しく楽しく暮らしていたのですが、女は心臓病で突然に死んでしまいました。もちろん、あまりに仲がよすぎた結果です。 彼は妻の葬式の日に、わが住む土地を立ちのいて、このルーアンへ来て仮住居をしているのですが、その淋しさと悲しさは言うまでもありません。深い嘆きが身に食い入って、彼はしばしば自殺を企てたほどでした。その話をした後に、彼はこう言いました。 「ここで再び君に出逢ったのはちょうど幸いだ。ぜひ頼みたいことがある。わたしの別荘へ行って、ある書類を取って来てくれたまえ。それは至急に入用なのだからね。その書類はわたしの部屋……いや、われわれの部屋の机の抽斗にはいっているのだが、何分にも秘密の使いだから弁護士や雇い人を出してやるわけにいかないのだ。私は部屋を出るときに厳重に錠をおろしてきたから、その鍵を君に渡しておく。机のひきだしの鍵も一緒に渡すから、持っていってくれたまえ。それから君がいったら案内するように、留守番の園丁にもひと筆かいてやる。万事はあすの朝、飯を一緒に食いながら相談することにしよう」 別にむずかしい役目でもないので、わたしは引き受けました。ここからその別荘という家までは二十五マイルに過ぎないのですから、私にとってはちょうどいい遠足で、馬でゆけば一時間ぐらいで到着することが出来るのでした。 明くる朝の十時ごろに、二人は一緒に朝飯を食いました。しかし彼は格別の話もせず、わずかに二十語ほど洩らしたのちに、もう帰ると言い出したのです。ただ、わたしが頼まれてゆく彼の部屋には、彼の幸福が打ちくだかれて残っていて、私がそこへ尋ねてゆくということを考えるだけでも、彼は自分の胸のうちに一種秘密の争闘が起こっているかのように、ひどく不安であるらしく見えましたが、それでも結局わたしに頼むことを正直に打ち明けました。それははなはだ簡単な仕事で、きのうもちょっと話した通り、机の右のひきだしに入れてある手紙のふた包みと書類とを取り出して来てくれろというだけのことでした。そうして、彼は最後にこの一句を付け加えました。 「その書類を見てくれるなとは言わないよ」 はなはだ失礼な言葉に、わたしは感情を害しました。人の重要書類を誰がむやみに見るものかと、やや激しい語気できめつけると、彼も当惑したように口ごもりました。 「まあ堪忍してくれたまえ。私はひどくぼんやりしているのだから」と、こう言って、彼は涙ぐんでいました。
その日の午後一時ごろに、わたしはこの使いを果たすために出発しました。きょうはまぶしいほどに晴れた日で、わたしは雲雀の歌を聴きながら、乗馬靴に調子を取って戞かつとあたる帯剣の音を聴きながら、牧場を乗りぬけて行きました。そのうちに森のなかに入り込んだので、わたしは馬を降りて歩きはじめると、木の枝が柔かに私の顔をなでるのです。わたしは時どきに木の葉の一枚をむしり取って、歯のあいだで囓んだりしました。この場合、なんとも説明のできない愉快を感じたのです。 教えられた家に近づいた時に、私は留守番の園丁に渡すはずの手紙を取り出すと、それには封がしてあるので、私は驚きました。これでは困る。いっそこのままに引っ返そうかと、すこぶる不快を感じましたが、また考えると、彼もあの通りぼんやりしているのであるから、つい迂闊と封をしてしまったのかもしれない。まあ、悪く取らないほうがいいと思い直したのです。そこでよく見ると、この別荘風の建物は最近二十年ぐらいは空家になっていたらしく、門は大きくひらいたままで腐っていて、草は路を埋めるように生い茂っていました。 わたしが雨戸を蹴る音を聞きつけて、ひとりの老人が潜り戸をあけて出て来ましたが、彼はここに立っている私の姿を見て非常におどろいた様子でした。私は馬から降りて、かの手紙を差し出すと、老人はそれを一度読み、また読み返して、疑うような眼をしながら私に訊きました。 「そこで、あなたはどういう御用でございますか」 「おまえの主人の手紙に書いてあるはずだ。わたしはここの家へはいらせてもらわなければならない」 彼はますます転倒した様子で、また言いました。 「さようでございますか。では、あなたがおはいりになるのですか、旦那さまのお部屋へ……」 わたしは焦れったくなりました。 「ええ、おまえは何でそんなことを詮議するのだ」 彼は言い渋りながら、「いいえ、あなた。ただ、その……。あの部屋は不幸のあったのちにあけたことがないので……。どうぞ五分間お待ちください。わたくしがちょっといって、どうなったか見てまいりますから」 わたしは怒って、彼をさえぎりました。 「冗談をいうな。おまえはどうしてその部屋へいかれると思うのだ。部屋の鍵はおれが持っているのだぞ」
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