三
その晩、僕らはトランプをして、遅くなってから寝ようとした。今だから告白するが、実を言うと、自分の部屋へはいった時はなんとなく
忌な感動に胸を
躍らせたのである。僕はいくら考えまいとしても、今ごろはもう溺死して、二、三マイルもあとの方で長い波のうねりに揺られている、あの
背丈の高い男のことが考え出されてならなかった。寝巻に着替えようとすると、眼の前にはっきりと彼の顔が浮きあがってきたので、僕はもう彼が実際にいないということを自分の心に
納得させるために、上の寝台のカーテンをあけ放してみようかとさえ思ったくらいであった。
なんとなく気味が悪かったので、僕も入り口の扉の
貫木をはずしてしまった。しかも窓が不意に音を立ててあいたので、僕は思わずぎょっとしたが、それはすぐにまたしまった。あれだけ窓をしっかりとしめるように言いつけておいたのにと思うと、僕は腹が立ってきて、急いで部屋着を引っかけて、受け持ちの給仕のロバートを探しに飛び出した。今でも忘れないが、あまりに腹を立てていたので、ロバートを見つけるとあらあらしく百五号室の戸口までひきずって来て、あいている窓の方へ突き飛ばしてやった。
「毎晩のように窓をあけ放しにしておくなんて、なんという間抜けな真似をするのだ、横着野郎め。ここをあけ放しにしておくのは、船中の規定に反するということを、貴様は知らないのか。もし船が傾いて水が流れ込んでみろ。十人かかっても窓をしめることが出来なくなるぐらいのことは知っているだろう。船に危険をあたえたことを船長に報告してやるぞ、悪者め」
僕は極度に興奮してしまった。ロバートは真っ蒼になって
顫えていたが、やがて重い真鍮の
金具をとって窓の丸いガラス戸をしめかけた。
「なぜ、貴様はおれに返事をしないのだ」と、僕はまた
呶鳴り付けた。
「どうぞご勘弁なすってください、お客さま」と、ロバートは
吃りながら言った。「ですが、この窓をひと晩じゅうしめておくことの出来るものは、この船に一人もいないのです。まあ、あなたが自分でやってごらんなさい。わたくしはもう恐ろしくって、この船に
一刻も乗ってはいられません。お客さま、わたくしがあなたでしたら、早速この部屋を引き払って、船医の部屋へ行って寝るとか、なんとかいたしますがね。さあ、あなたがおっしゃった通りにしめてあるかないか、よくごらんなすった上で、ちょっとでも動くかどうか手で動かしてみてください」
僕は窓の戸を動かしてみたが、なるほど固くしまっていた。
「いかがです」と、ロバートは勝ち誇ったように言葉をつづけた。「手前の一等給仕の
折紙に賭けて、きっと半時間経たないうちにこの戸がまたあいて、またしまることを保証しますよ。恐ろしいことには、ひとりでにしまるんですからね」
僕は大きい
螺旋や鍵止めを調べてみた。
「よし、ロバート。もしもひと晩じゅうにこの戸があいたら、おれはおまえに一ポンドの金貨をやろう。もう大丈夫だ。あっちへ行ってもいい」
「一ポンドの金貨ですって……。それはどうも……。今からお礼を申し上げておきます。では、お
寝みなさい。こころよい休息と楽しい夢をごらんなさるように、お客さま」
ロバートは、いかにもその部屋を去るのが嬉しそうなふうをして、足早に出て行った。むろん、彼は愚にもつかない話をして僕を怖がらせておいて、自分の怠慢をごまかそうとしたのだと、僕は思っていた。ところがその結果は、彼に一ポンドの金貨をせしめられた上に、きわめて不愉快な一夜を送ることになったのである。
僕は寝床へはいって、自分の毛布でからだを包んでから、ものの五分も経たないうちにロバートが来て、入り口のそばの丸い鏡板のうしろに絶え間なく輝いていたランプを消していった。僕は眠りに入ろうとして、闇のなかに静かに横たわっていたが、とても眠られそうもないことに気がついた。しかし彼を呶鳴りつけたので、ある程度まで気が
清せいしたせいか、一緒の部屋にいたあの溺死者のことを考えたときに感じたような不愉快な気分はすっかり忘れてしまった。それにもかかわらず、僕はもう眠気が去ったので、しばらくは床のなかで眼をあけながら、時どきに窓の方をながめていた。その窓は僕の寝ている所から見あげると、あたかも闇のなかに吊るしてある弱いひかりのスープ皿のように見えた。
それから一時間ばかりは、そこに横たわっていたように思うが、
折角うとうとと眠りかけたところへ、冷たい風がさっと吹き込むと同時に、僕の顔の上に海水の
飛沫がかかったので、
はっと眼をさまして飛び起きると、船の動揺のために足をすくわれて、ちょうど窓の下にある長椅子の上に激しくたたきつけられた。しかし僕はすぐに気を取り直して膝で
起った。その時、窓の戸がまたいっぱいにあいて、またしまったではないか。
これらの事実はもう疑う余地がない。僕が起きあがった時にはたしかに眼をあけていたのである。また、たとい僕が夢うつつであったとしても、こんなに
忌というほどたたきつけられて眼を醒まさないという法はない。そのうえ僕は肘と膝とによほどの怪我をしているのであるから、僕自身がその事実を疑うと仮定しても、これらの傷が明くる朝になってじゅうぶんに事実を証明すべきであった。あんなにちゃんとしめておいたはずの窓が自然に開閉する――それはあまりにも不可解であるので、初めてそれに気づいた時には、恐ろしいというよりもむしろ
唯びっくりしてしまったのを、僕は今でもありありと記憶している。そこで、僕はすぐにそのガラス戸をしめて、あらん限りの力を絞ってその鍵をかけた。
部屋は真っ暗であった。僕はロバートが僕の見ている前でその戸をしめた時に、また半時間のうちに必ずあくと言った言葉を想い起こしたので、その窓がどうしてあいたのかを調べてみようと決心した。真鍮の金具類は非常に頑丈に出来ているものであるから、ちっとのことでは動くはずがないので、
螺旋が動揺したぐらいのことで締め金がはずれたとは、僕にはどうも信じられなかった。僕は窓の厚いガラス戸から、窓の下で泡立っている白と灰色の海のうねりをじっと覗いていた。なんでも十五分間ぐらいもそこにそうして立っていたであろう。
突然うしろの寝台の一つで、はっきりと何物か動いている音がしたので、僕は
はっとしてうしろを振り返った。むろんに暗やみのことで何ひとつ見えなかったのである。僕は非常にかすかな
唸り声を聞き付けたので、飛びかかって上の寝台のカーテンをあけるが早いか、そこに誰かいるかどうかと手を突っ込んでみた。すると、確かに
手応えがあった。
今でも僕は、あの両手を突っ込んだときの感じは、まるで
湿った穴蔵へ手を突っ込んだように冷やりとしたのを覚えている。カーテンのうしろから、恐ろしくよどんだ海水の臭いのする風がまた
さっと吹いてきた。そのとたんに、僕は何か男の腕のような、すべすべとした、濡れて氷のように冷たい物をつかんだかと思うと、その怪物は僕の方へ猛烈な勢いで飛びかかってきた。ねばねばした、重い、濡れた泥のかたまりのような怪物は、超人のごとき力を有していたので、僕は部屋を横切ってたじたじとなると、突然に入り口の扉が
さっとあいて、その怪物は廊下へ飛び出した。
僕は恐怖心などを起こす余裕もなく、すぐに気を取り直して同じく部屋を飛び出して、無我夢中に彼を追撃したが、とても追いつくことは出来なかった。十ヤードもさきに、たしかに薄黒い影がぼんやりと火のともっている廊下に動いているのを目撃したが、その速さは、あたかも闇夜に馬車のランプの光りを受けた
駿馬の影のようであった。その影は消えて、僕のからだは廊下の明かり窓の
手欄に支えられているのに気がついた時、初めて僕は
ぞっとして髪が逆立つと同時に、冷や汗が顔に流れるのを感じた。といって、僕は少しもそれを恥辱とは思わない。だれでも極度の恐怖に打たれれば、冷や汗や髪の逆立つぐらいは当然ではないか。
それでもなお、僕は自分の感覚を疑ったので、つとめて心を落ち着かせて、これは
下らないことだとも思った。薬味付きのパンを食ったのが腹に
溜っていたので、悪い夢を見たのだろうと思いながら、自分の部屋へ引っ返したが、からだが痛むので、歩くのが容易でなかった。部屋じゅうはゆうべ僕が目をさました時と同じように、よどんだ海水の臭いで息が詰まりそうであった。僕は勇気を
鼓して内へはいると、手探りで旅行鞄のなかから蝋燭の箱を取り出した。そうして、消燈されたあとに読書したいと思うときの用意に持っている、汽車用の手燭に火をつけると、窓がまたあいているので、僕はかつて経験したこともない、また二度と経験したくもない、うずくような、なんともいえない恐怖に襲われた。僕は手燭を持って、たぶん海水たびしょ濡れになっているだろうと思いながら、上の寝台を調べた。
しかし僕は失望した。実のところ、何もかも
忌な夢であった昨夜の事件以来、ロバートは寝床を整える勇気はあるまいと想像していたのであったが、案に相違して寝床はきちんと整頓してあるばかりか、非常に潮くさくはあったが、夜具はまるで骨のように乾いていた。僕は出来るだけいっぱいカーテンを引いて、細心の注意を払って
隈なくその中をあらためると、寝床はまったく乾いていた。しかも窓はまたあいているではないか。僕はなんということなしに恐怖の観念に
駆られながら窓をしめて、鍵をかけて、その上に僕の頑丈なステッキを真鍮の環の中へ通して、丈夫な金物が曲がるほどに
うんと
捻じた。それからその手燭の
鉤を、自分の寝台の頭のところに垂れている赤い
天鵞絨[#「天鵞絨」は底本では「天鷲絨」]へ引っかけておいて、気を鎮めるために寝床の上に坐った。僕はひと晩じゅうこうして坐っていたが、気を落ち着けるどころの騒ぎではなかった。しかし、窓はさすがにもうあかなかった。僕もまた神わざでない限りは、もう二度とあく気づかいはないと信じていた。
ようように夜があけたので、僕はゆうべ起こった出来事を考えながら、ゆっくりと着物を着かえた。非常によい天気であったので、僕は甲板へ出て、いい心持ちで清らかな朝の日光にひたりながら、僕の部屋の腐ったような臭いとはまるで違った、薫りの高い
青海原のそよ風を胸いっぱいに吸った。僕は知らず識らずのうちに船尾の船医の部屋の方へむかってゆくと、船医はすでに船尾の甲板に立って、パイプをくわえながら前の日とまったく同じように朝の空気を吸っていた。
「お早う」と、彼はいち早くこう言うと、明らかに好奇心をもって僕の顔を見守っていた。
「先生、まったくあなたのおっしゃった通り、たしかにあの部屋には何かが
憑いていますよ」と、僕は言った。
「どうです、決心をお変えになったでしょう」と、船医はむしろ勝ち誇ったような顔をして僕に答えた。「ゆうべはひどい目にお逢いでしたろう。ひとつ興奮飲料をさし上げましょうか、素敵なやつを持っていますから」
「いや、結構です。しかし、まずあなたに、ゆうべ起こったことをお話し申したいと思うのですが……」と、僕は大きい声で言った。
それから僕は出来るだけ詳しくゆうべの出来事の報告をはじめた。むろん、僕はこの年になるまで、あんな恐ろしい思いをした経験はなかったということをも、つけ加えるのを忘れなかった。特に僕は窓に起こった現象を詳細に話した。実際、かりに他のことは一つの幻影であったとしても、この窓に起こった現象だけは誰がなんといっても、僕は明らかに証拠立てることの出来る奇怪の事実であった。現に僕は二度までも窓の戸をしめ、しかも二度目には自分のステッキで
螺旋鍵を固くねじて、真鍮の金具を曲げてしまったという点だけでも、僕は大いにこの不可思議を主張し得るつもりであった。
「あなたは、私が好んであなたのお話を疑うとお思いのようですね」と、船医は僕があまりに窓のことを詳しく話すので
微笑みながら言った。「私はちっとも疑いませんよ。あなたの携帯品を持っていらっしゃい。二人で私の部屋を半分ずつ使いましょう」
「それよりもどうです。わたしの船室においでなすって、二人でひと晩を過ごしてみませんか。そうして、この事件を根底まで探るのに、お力添えが願えませんでしょうか」
「そんな根底まで探ろうなどとこころみると、あべこべに根底へ沈んでしまいますよ」と、船医は答えた。
「というと……」
「海の底です。わたしはこの船をおりようかと思っているのです。実際、あんまり愉快ではありませんからな」
「では、あなたはこの根底を探ろうとする私に、ご援助くださらないのですか」
「どうも私はごめんですな」と、船医は口早に言った。「わたしは自分を冷静にしていなければならない立場にあるもので、化け物や怪物をなぶり廻してはいられませんよ」
「あなたは化け物の
仕業だと本当に信じていられるのですか」と、僕はやや軽蔑的な口ぶりで聞きただした。
こうは言ったものの、ゆうべ自分の心に起こったあの超自然的な恐怖観念を僕はふと思い出したのである。船医は急に僕の方へ向き直った。
「あなたはこれらの出来事を化け物の
仕業でないという、たしかな説明がお出来になりますか」と、彼は
反駁してきた。「むろん、お出来にはなりますまい。よろしい。それだからあなたはたしかな説明を得ようというのだとおっしゃるのでしょう。しかし、あなたには得られますまい。その理由は簡単です。化け物の仕業という以外には説明の
仕様がないからです」
「あなたは科学者ではありませんか。そのあなたが私にこの出来事の解釈がお出来にならんと言うのですか」と、今度は僕が一矢をむくいた。
「いや、出来ます」と、船医は言葉に力を入れて言った。「しかし他の解釈が出来るくらいならば、私だって何も化け物の仕業だなどとは言いません」
僕はもうひと晩でもあの百五号の船室にたった一人でいるのは嫌であったが、それでも、どうかしてこの心にかかる事件の解決をつけようと決心した。おそらく世界じゅうのどこを
捜しても、あんな心持ちの悪いふた晩を過ごしたのち、なおたった一人であの部屋に寝ようという人がたくさんあるはずはない。しかも僕は自分と一緒に寝ずの番をしようという相棒を得られずとも、ひとりでそれを断行しようと意を決したのである。
船医は明らかに、こういう実験には興味がなさそうであった。彼は自分は医者であるから、船中で起こったいかなる事件にでも、常に冷静でなければならないと言っていた。彼は何事によらず、判断に迷うということが出来ないのである。おそらくこの事件についても、彼の判断は正しいかもしれないが、彼が何事にも冷静でなければならないという職務上の警戒は、その性癖から生じたのではないかと、僕には思われた。それから、僕が誰か他に力を
藉してくれる人はあるまいかとたずねると、船医は、この船のなかに僕の探究に参加しようという人間は一人もないと答えたので、ふた言三言話した
後に彼と別れた。
それから少し後に、僕は船長に逢った。話をした上で、もし自分と一緒にあの部屋で寝ずの番をする勇者がなかったらば、自分ひとりで決行するつもりであるから、一夜じゅうそこに灯をつけておくことを許可してもらいたいと申し込むと、「まあ、お待ちなさい」と、船長は言った。
「私の考えを、あなたにお話し申しましょう。実は私もあなたと一緒に寝ずの番をして、どういうことが起こるかを調べてみようと思うのです。私はきっとわれわれのあいだに何事をか発見するだろうと確信しています。ひょっとすると、この船中にこっそりと
潜んでいて、船客を
嚇かしておいて何かの物品を盗もうとする奴がいないとも限りません。したがって、あの寝台の構造のうちに、怪しい
機関が仕掛けてあるかもしれませんからね」
船長が僕と一緒に寝ずの番をするという申しいでがなかったらば、彼のいう
盗人一件などはむろん一笑に
付してしまったのであるが、なにしろ船長の申しいでが非常に嬉しかったので、それでは船の大工を連れて行って、部屋を調べさせましょうと、僕は自分から言い出した。そこで、船長はすぐに大工を呼び寄せ、僕の部屋を隈なく調べるように命じて、僕らも共に百五号の船室へ行った。
僕らは上の寝台の夜具をみんな引っ張り出して、どこかに取り外しの出来るようになっている板か、あるいはあけたての出来るような鏡板でもありはしまいかと、寝台はもちろん、家具類や床板をたたいてみたり、下の寝台の金具をはずしたりして、もう部屋のなかに調べない所はないというまでに調査したが、結局なんの異状もないので、またもとの通りに直しておいた。僕らがその跡始末をしてしまったところへ、ロバートが戸口へ来て窺った。
「いかがです、何か見つかりましたか」と、彼はしいてにやにやと笑いながら言った。
「ロバート、窓の一件ではおまえのほうが勝ったよ」と、僕は彼に約束の金貨をあたえた。
大工は黙って、手ぎわよく僕の指図通りに働いていたが、仕事が終わるとこう言った。
「わっしはただのつまらねえ人間でござんすが、悪いことは申しませんから、あなたの荷物をすっかり外へお出しになって、この船室の戸へ四インチ釘を五、六本たたっ込んで、釘付けにしておしまいなさるほうがよろしゅうござんすぜ。そうすれば、もうこの船室から悪い噂も立たなくなってしまいます。わっしの知っているだけでも、四度の航海のうちに、この部屋から四人も行くえ知れずになっていますからね。この部屋はおやめになったほうがようござんすよ」
「いや、おれはもうひと晩ここにいるよ」と、僕は答えた。
「悪いことは言いませんから、およしなさい。おやめなすったほうがようござんすよ。
碌なことはありませんぜ」と、大工は何度もくりかえして言いながら、道具を袋にしまって、船室を出て行った。
しかし僕は船長の助力を得たことを思うと、大いに元気が出てきたので、もちろん、この奇怪なる仕事を中止するなどとは、思いもよらないことであった。僕はゆうべのように薬味付きの焼パンや
火負を飲むのをやめ、定連のトランプの勝負にも加わらずに、ひたすらに精神を鎮めることにつとめた。それは船長の眼に自分というものを立派に見せようという自負心があったからである。
僕たちの船長は、
艱難辛苦のうちにたたき上げて得た勇気と、胆力と、沈着とによって、人びとの信用の
的となっている、粘り強い、
磊落な船員の標本の一人であった。彼は愚にもつかない話に乗るような男ではなかった。したがって、彼がみずから進んで僕の探究に参加したというだけの事実でも、船長が僕の船室には普通の理論では解釈のできない、といって単にありきたりの迷信と一笑に付してしまうことのできない、容易ならぬ
変化が
憑いているに違いないと思っている証拠になった。そうして彼は、ある程度までは自分の名声とともに致命傷を負わされなければならないのを恐れる利己心と、船長として船客が海へ落ち込むのを放任しておくわけにはゆかないという義務的観念とから、僕の探究に参加したのであった。
その晩の十時ごろに、僕が最後のシガーをくゆらしているところへ船長が来て、甲板の暑い暗闇のなかで他の船客がぶらついている場所から僕を引っ張り出した。
「ブリスバーンさん。これは容易ならぬ問題だけに、われわれは失望しても、苦しい思いをしてもいいだけの覚悟をしておかなければなりませんぞ。あなたもご承知の通り、私はこの事件を
笑殺してしまうことは出来ないのです。そこで万一の場合のための書類に、あなたの
署名を願いたいのです。それから、もし今晩何事も起こらなかったらば明晩、明晩も駄目であったらば明後日の晩というふうに、毎晩つづけて実行してみましょう。あなたは支度はいいのですか」と、船長は言った。
僕らは下に降りて、部屋へはいった。僕らが降りてゆく途中、ロバートは廊下に立って、例の歯をむきだしてにやにや笑いながら、きっと何か恐ろしいことが起こるのに馬鹿な人たちだなといったような顔をして、僕らの方をながめていた。船長は入り口の
扉をしめて、貫木をかけた。
「あなたの手提鞄だけを扉のところに置こうではありませんか」と、彼は言い出した。「そうして、あなたか私かがその上に腰をかけて頑張っていれば、どんな
ものだってはいることは出来ますまい。窓の鍵はお掛けになりましたね」
窓の戸は僕がけさしめたままになっていた。実際、僕がステッキでしたように
梃子でも使わなければ、誰でも窓の戸をあけることは出来ないのであった。僕は寝台の中がよく見えるように上のカーテンを絞っておいた。それから船長の注意にしたがって、読書に使う手燭を上の寝台のなかに置いたので、白い敷布ははっきりと照らし出されていた。船長は自分が扉の前に坐ったからにはもう大丈夫ですと言いながら、鞄の上に陣取った。船長はさらに部屋のなかを綿密に調べてくれと言った。綿密にといったところで、もう調べ尽くしたあとであるので、ただ僕の寝台の下や、窓ぎわの長椅子の下を覗いてみるぐらいの仕事はすぐに済んでしまった。
「これでは妖怪変化ならば知らず、とても人間わざでは忍び込むことも、窓をあけることも出来るものではありませんよ」と、僕は言った。
「そうでしょう」と、船長はおちつき払ってうなずいた。「これでもしも変わったことがあったらば、それこそ幻影か、さもなければ何か超自然的な怪物の
仕業ですよ」
僕は下の寝台のはしに腰をかけた。
「最初事件が起こったのは……」と、船長は扉に
倚りながら、脚を組んで話し出した。「さよう、五月でした。この
上床に寝ていた船客は精神病者でした。……いや、それほどでないにしても、とにかく少し変だったという
折紙つきの人間で、友人間には知らせずに、こっそりと乗船したのでした。その男は夜なかにこの部屋を飛び出すと、見張りの船員がおさえようと思う間に海へ落ち込んでしまったのです。われわれは船を停めて
救助艇をおろしましたが、その晩はまるで
風雨の起こる前のように静かな晩でしたのに、どうしてもその男の姿は見つかりませんでした。むろん、その男の投身は発狂の結果だということは
後に分かったのでした」
「そういうことはよくありますね」と、僕はなんの気なしに言った。
「いや、そんなことはありません」と、船長はきっぱりと言った。「私はほかの船にそういうことがあったのを聞いたことはありますが、まだ私の船では一遍もありませんでした。さよう、私は五月だったと申しましたね。その帰りの航海で、どんなことが起こったか、あなたには想像がつきますか」
こう僕に問いかけたが、船長は急に話を中止した。
僕はたぶん返事をしなかったと思う。というのが、窓の鍵の金具がだんだんに動いてきたような気がしたので、じっとその方へ眼をそそいでいたからであった。僕は自分の頭にその金具の位置の標準を定めておいて、眼をはなさずに見つめていると、船長もわたしの眼の方向を見た。
「動いている」と、彼はそれを信じるように叫んだが、すぐにまた、「いや、動いてはいない」と、打ち消した。
「もし
螺旋がゆるんでいくのならば、あしたの昼じゅうにあいてしまうでしょうが……。私はけさ力いっぱいに捻じ込んでおいたのが、今夜もそのままになっているのを見ておいたのです」と、僕は言った。
船長はまた言った。
「ところが、不思議なことには二度目に行くえ不明になった船客は、この窓から投身したという臆説がわれわれの間に立っているのです。恐ろしい晩でしたよ。しかも真夜中ごろだというのに、
風雨は起こっていました。すると、窓の一つがあいて、海水が突入しているという急報に接して、わたしは下腹部へ飛んで降りて見ると、もう何もかも浸水している上に、船の動揺のたびごとに海水は滝のように流れ込んでくるので、窓全体の締め釘がゆらぎ出して、とうとうぐらぐらになってしまいました。われわれは窓の戸をしめようとしましたが、なにしろ水の勢いが猛烈なのでどうすることも出来ませんでした。そのとき以来、この部屋は時どきに潮くさい臭いがしますがね。そこで、どうも二度目の船客はこの窓から投身したのではないかと、われわれは想像しているのですが、さてどういうふうにしてこの小さい窓から投身したかは、神様よりほかには知っている者はないのです。あのロバートがよく私に言っていることですが、それからというものは、いくら彼がこの窓を厳重にしめても、やはり自然にあくそうです。おや、たしかに今……。私にはあの潮くさい臭いがします。あなたには感じませんか」
船長は自分の鼻を疑うように、しきりに空気を
ぎながら、僕にきいた。
「たしかに私にも感じます」
僕はこう答えながら、船室いっぱいに昨夜と同じく、かの腐ったような海水の臭いがだんだんに強くただよって来るのに
ぞっとした。
「さあ、こんな臭いがして来たからは、たしかにこの部屋が
湿気ているに違いありません」と、僕は言葉をつづけた。「けさ私が大工と一緒に部屋を調べたときには、何もかもみな乾燥していましたが……。どうも
尋常事ではありませんね。おや!」
突然に上の寝台のなかに置いてあった手燭が消えた。それでも幸いに入り口の扉のそばにあった丸い鏡板つきのランプはまだ十分に輝いていた。船は大きく揺れて、上の寝台のカーテンがぱっとひるがえったかと思うと、また元のようになった。素早く僕は起きあがった。船長は
あっとひと声叫びながら飛びあがった。ちょうどその時、僕は手燭をおろして調べようと思って、上の寝台の方へ向いたところであったが、本能的に船長の叫び声のする方を振り返って、あわててそこへ飛んでゆくと、船長は全身の力をこめて、窓の戸を両手でおさえていたが、ともすると押し返されそうであったので、僕は愛用の例の樫のステッキを取って鍵のなかへ突き通し、あらん限りの力をそそいで窓の戸のあくのを防いだ。しかもこの頑丈なステッキは折れて、僕は長椅子の上に倒れた。そうして、再び起きあがった時には、もう窓の戸はあいて、跳ね飛ばされた船長は入り口の扉を背にしながら、真っ蒼な顔をして突っ立っていた。
「あの寝台に何かいる」と、船長は異様な声で叫びながら、眼を皿のように見開いた。「わたしが何者だか見る間、この戸口を守っていてください。奴を逃がしてはならない」
僕は船長の命令をきかずに、下の寝台に飛び乗って、上の寝台に横たわっている
得体の知れない怪物をつかんだ。
それは何とも言いようのないほどに恐ろしい化け物のような
もので、僕につかまれながら動いているところは、引き延ばされた人間の肉体のようでもあった。しかもその動く力は人間の十倍もあるので、僕は全力をそそいでつかんでいると、その
粘ねばした、泥のような、異様な怪物は、その死人のような白い眼でじっと僕を睨んでいるらしく、そのからだからは腐った海水のような悪臭を発し、濡れて
垢びかりのした髪は渦を巻いて、
死人のようなその顔の上にもつれかかっていた。僕はこの死人のような怪物と格闘したが、怪物は自分のからだを打ちつけて僕をぐいぐいと押してゆくので、僕は腕がもう折れそうになったところへ、生ける
屍の如きその怪物は死人のような腕を僕の頭に巻きつけて
伸しかかってきたので、とうとう僕は叫び声を立ててどっと倒れるとともに、怪物をつかんでいる手を放してしまった。
僕が倒れると、その怪物は僕を
跳り越えて、船長へぶつかっていったらしかった。僕がさっき扉の前に突っ立っていた船長を見たときには、彼の顔は真っ蒼で一文字に口を結んでいた。それから彼はこの生ける屍の頭に手ひどい打撃を与えたらしかったが、結局彼もまた恐ろしさのあまりに口もきけなくなったような
唸り声を立てて、同じく前へのめって倒れた。
一瞬間、怪物はそこに突っ立っていたが、やがて船長の疲労し切ったからだを飛び越えて、再びこちらへ向かってきそうであったので、僕は
驚駭のあまりに声を立てようとしたが、どうしても声が出なかった。すると、突然に怪物の姿は消え失せた。僕はほとんど失神したようになっていたので、たしかなことは言われないし、また、諸君の想像以上に小さいあの窓口のことを考えると、どうしてそんなことが出来たのか今もなお疑問ではあるが、どうもかの怪物はあの窓から飛び出したように思われた。それから僕は長いあいだ床の上に倒れていた。船長も同じように僕のそばに倒れていた。そのうちに僕はいくぶんか意識を回復してくると、すぐに左の手首の骨が折れているのを知った。
僕はどうにかこうにか起きあがって、右の手で船長を揺り起こすと、船長は唸りながらからだを動かしていたが、ようようにわれにかえった。彼は怪我をしていなかったが、まったく
ぼうとしてしまったようであった。
さて、諸君はもっとこのさきを聞きたいかね。おあいにくと、これで僕の話はおしまいだ。大工は彼の意見通りに百五号の扉へ四インチ釘を五、六本打ち込んでしまったが、もし諸君がカムチャツカ号で航海するようなことがあったらば、あの部屋の寝台を申し込んでみたまえ。きっと諸君はあの寝台はすでに約束済ですと断わられるだろう。そうだ、あの寝台は生ける屍の約束済になっているのだ。
僕はその航海中、船医の船室に居候をすることになった。彼は僕の折れた腕を治療してくれながら、以後は化け物や怪物を
弄り廻さないように忠告してくれた。船長はすっかり黙ってしまった。
カムチャツカ号は依然として大西洋の航行をつづけているが、かの船長は再びその船に乗り込まなかった。むろん僕においてをやだ。実際、あんなに心持ちの悪い、恐ろしかった経験などは、もうまっぴらごめんだ。僕がどうして化け物を見たかという話も――あれが化け物だとすれば――これでおしまいだ。なにしろ恐ろしかったよ。