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世界怪談名作集(せかいかいだんめいさくしゅう)十二

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-8-27 10:24:09  点击:  切换到繁體中文


       三

 その晩、私はマンネリング家で食事をする約束をしたが、ぐずぐずしているとホテルへ帰って着物を着かえる時間がないので、エリイシウムの丘への道を馬上で急いでいると、闇のうちに二人の男が話し合ってゆくのを耳にした。
「まったく不思議なこともあるものだな」と、一人が言った。
「どうしてあの車の走った跡がみんな無くなってしまったのだろう。君も知っている通り、うちの女房はばかばかしいほどにあの女が好きだったのだ。(僕にはどこがいいのかわからなかったがね。)それだもんだから、どうしてもあの女の古い人力車と苦力とを手に入れたいと強請せびるのでね。僕は一種の病的趣味だと言っているのだが、まあ奥方の言う通りにしたというわけさ。ところが、ウェッシントン夫人に雇われていたその人力車の持ちぬしが僕に話したところによると、四人の苦力は兄弟であったが、ハードウアへ行く路でコレラにかかって死んでしまい、その人力車は持ちぬしが自分でこわしてしまったというのだが、君はそれを信じるかね。だから、その持ちぬしに言わせると、死んだ夫人の人力車はちっとも使わないうちに毀したので、だいぶ損をしたというのだが、どうも少し変ではないか。ねえ、君。あの可哀そうな、可愛らしいウェッシントン夫人が自分自身の運命以外に、他の人間の運命をぶちこわすなどとは、まったく考えられないことではないか」
 私はこの男の最後の言葉を大きい声で笑ったが、その笑い声に自分でぞっとした。それではやはり人力車の幽霊や、幽霊が幽霊を雇い入れるなどという事があるのであろうか。ウェッシントン夫人は苦力らにいくらの賃金を払うのであろうか。かれら苦力は何時間働くのであろうか。そうして、かれら苦力はどこへ行ったのであろうか。
 すると、私のこの最後の疑問に対する明白なる答えとして、まだ黄昏たそがれだというのに、またもや例の幽霊がわたしの行く手をふさいでいるのを見た。亡者もうじゃは足がはやく、一般の苦力さえも知らないような近路をして走り廻る。私はもう一度大きい声を立てて笑ったが、なんだか気違いになりそうな気がしたので、あわててその笑い声をおさえた。いや、私は人力車の鼻のさきで馬を止めると、慇懃いんぎんにウェッシントン夫人にむかって、「今晩は」と言ってしまったところをみると、すでにある程度までは気が違っていたのかもしれない。彼女の返事は、私がよく知り過ぎているほどに聞きなれた例の言葉であった。わたしは彼女の例の言葉をすっかり聞いてから、もうその言葉は前から幾たびか聞いているから、もっと何かほかのことを話してくれればどんなに嬉しいだろうと答えた。あの夕方は、いつもよりもよほど根強く魔物のこころに喰い入ったに相違ない。私は眼前のその幽霊と相対して、五分間ばかりもその日の平凡な出来事を話していたように、かすかに記憶している。
「気違いだ。可哀そうに……。それとも酔っているのかもしれない。マックス、その人をうちまで送り届けてやれ」
 それはたしかに、ウェッシントン夫人の声ではなかった。
 私がひとりで喋べっているのを立ち聴きしていた先刻の二人の男が、私を介抱しようとして戻って来た。かれらは非常に親切で、思いやりがあった。かれらの言葉から察すると、私がひどく酔っているのだと思っているらしかった。私はあわててかれらに礼を言って、馬を走らせてホテルに帰って、大急ぎで衣服を改めて、マンネリング家へ行ったときは約束の時間よりも五分遅れていた。わたしは闇夜であったからというのを口実にして弁解したが、キッティに恋びとらしくない遅刻を反駁されながら、とにもかくにも食卓に着いた。
 食卓ではすでに会話に花が咲いていたので、わたしは彼女のご機嫌を取り戻そうとして、気のきいた小咄こばなしをしていた時、食卓のはしの方で赤い短い頬鬚ほおひげをはやした男が、ここへ来る途中で見知らない一人の気違いに出逢ったことを、尾鰭おひれをつけて話しているのに気がついた。その話からして、それは三十分前の出来事を繰り返しているのであることがわかった。その物語の最中に、その男は商売人の噺家はなしかがするように、喝采を求めるために一座をずらりと見廻した拍子に、彼とわたしの眼とがぴったり出合うと、そのまま口をつぐんでしまった。一瞬間、恐ろしい沈黙がつづいた。その赤鬚の男は「そのあとは忘れた」というような意味のことを口のうちでつぶやいていた。それがために、彼は過去六シーズンのあいだに築き上げた上手な話し手としての名声を台なしにしてしまった。私は心の底から彼を祝福してから、料理の魚を食いはじめた。
 食卓はずいぶん長い間かかって終わった。わたしは全く名残り惜しいような心持ちでキッティに別れを告げた。――たぶん、また戸の外には幽霊が私の出て来るのを待っているのだろうと思いながら。――例の赤鬚の男(シムラのヘザーレッグ先生として私に紹介された)が途中までご一緒に参りましょうと言い出したので、私も喜んでその申しいでを受けた。
 わたしの予感は誤まらなかった。幽霊はもう樹蔭の路に待ち受けていた。しかも、私たちの行く手を悪魔的に冷笑しているように、前燈ヘッドランプに灯までつけていたではないか。赤鬚の男は食事ちゅうも絶えず私の先刻の心理状態を考えていたというような態度で、たちまちに灯の見えた地点まで進んで来た。
「ねえ、パンセイ君。エリイシウムの道で何か変わった事でもあったのですかね」
 この質問があまり唐突とうとつであったので、私は考えるひまもなしに返事が口から出てしまった。
「あれです」と言って、わたしは灯の方を指さした。
「私の知るところによれば、化け物などというものはまず酔っ払いの囈語たわことか、それとも錯覚ですな。ところで今夜、あなたは酒を飲んでいられない。わたしは食事中、酔っ払いの囈語でないことを観察しましたよ。あなたの指さしている所には、なんにもないではありませんか。それだのに、あなたはまるで物にじた小馬のように汗を流してふるえているのを見ると、どうも錯覚らしいですな。ところで、私はあなたの錯覚について何もかも知りたいものですが、どうでしょう、一緒にわたしのうちまでおいでになりませんか。ブレッシングトンの坂下ですが……」
 非常にありがたいことには、例の人力車が私たちを待ち構えてはいたけれども、二十ヤードほどもさきにいてくれた。――そうしてまた、この距離は私たちが歩こうが、またゆるく駈けさせようが、いつでも正しく保たれていた。そこでその夜、長いあいだ馬に乗りながら、私はいま諸君に書き残しているとほぼ同じようなことを彼にも話した。
「なるほど、あなたは私が今までみんなに話していた得意の話のうちの一つを、台なしにしておしまいなすった」と、彼は言った。「しかしまあ、あなたが経験してこられたことに免じて勘弁してあげましょう。その代りに、わたしの家へ来てくだすって、私の言う通りになさらなければいけませんよ。そうして、私があなたをすっかり癒してあげたら、もうこれにりて、一生婦人を遠ざけて不消化な食物をとらないようになさるのですな」
 人力車は執念ぶかく、まだ前のほうにいた。そうして、私の赤鬚の友達は、幽霊のいる場所を精密にわたしから聞いて、非常に興味を感じたらしかった。
「錯覚……。ねえ、パンセイ君。……それは要するに眼と脳髄と、それから胃袋、特に胃袋からくるのですよ。あなたは非常に想像力の発達した頭脳を持っている割に、胃袋があまりに小さすぎるのです。それで、非常に不健康な眼、つまり視覚上の錯覚を生ずるのですよ。あなたの胃を丈夫になさい。そうすれば、自然に精神も安まります。それにはフランスの治療法によって肝臓の丸薬がよろしい。あなたは今日から私に治療を一任させていただきたい。なにしろあなたは、つまらない一つの現象のために、あまりに奪われ過ぎていますからな」
 ちょうどその時、私たちはブレッシングトンの坂下の木蔭を進んで行った。
 人力車は泥板岩シェールの崖の上に差し出ている一本の小松の下にぴたりと止まった。われを忘れて私もまた馬を止めたので、ヘザーレッグはにわかに呶鳴どなった。
「さあ、胃と脳と眼から来る錯覚患者のためにも、こんな山のふもとでいつまでも冷たい夜の空気に当てておいていいか悪いか、考えても……。おや、あれはなんだ」
 私たちの行く手に耳をつんざくような爆音がしたかと思うと、一寸さきも見えないほどの砂煙りがぱっと立った。とどろく音、枝の裂ける音、そうして光りが十ヤードばかり――松ややぶや、ありとあらゆる物が坂の下へ崩れ落ちて来て、われわれの道をふさいでしまった。根こぎにされた樹木はしばらくの間、泥酔して苦しんでいる巨人のようにふらふらしていたが、やがてらいのような響きと共に、他の樹のあいだに落ちて横たわった。私たちふたりの馬はその恐ろしさに、あたかも化石したように立ちすくんだ。土や石の落ちる物音が鎮まるやいなや、わたしの連れはつぶやいた。
「ねえ、もし僕たちがもう少し前へ進んでいたらば、今ごろは生き埋めになっていたでしょう。まだ神様に見捨てられなかったのですな。さあ、パンセイ君。うちへ行って、一つ神様に感謝しようではありませんか。それに、どうも馬鹿に喉がかわいてね」
 私たちは引っ返して教会橋を渡って、真夜中の少し過ぎたころに、ドクトル・ヘザーレッグの家に着いた。
 それからほとんどすぐに、彼はわたしの治療に取りかかって、一週間というものは私から離れなかった。そのあいだ幾たびか私はシムラの親切な名医と近づきになった自分の幸運に感謝したのであった。日増しに私のこころは軽く、落ちついてきた。そうしてまた、だんだんにヘザーレッグのいわゆる胃と頭脳と眼から来るという「妖怪的幻影」の学説に共鳴していった。私は落馬してちょっとした挫傷をしたために四、五日は外出することも出来ないが、あなたが私に逢えないのを寂しく思う前には全快するであろうというような手紙を書いて、キッティに送っておいた。
 ヘザーレッグ先生の治療は、はなはだ簡単であった。肝臓の丸薬、朝夕の冷水浴と猛烈な体操、それが彼の治療法であった。――もっとも、この朝夕の冷水浴と体操は散歩の代りで、彼は慎重な態度で私にむかって、「挫傷した人間が一日に十二マイルも歩いているところを婚約の婦人に見られたら、びっくりしますからな」と言っていた。
 一週間の終わりに、瞳孔や脈搏を調べたり、摂食や歩行のことを厳格に注意された上で、ヘザーレッグは私を引き取った時のように、むぞうさに退院させてくれた。別れに臨んで、彼はこう祝福してくれた。
「ねえ、私はあなたの神経をなおしたということを断言しますが、しかしそれよりも、あなたの疾病しっぺいを癒したといったほうが本当ですよ。さあ、出来るだけ早く手荷物をまとめて、キッティ嬢の愛をに飛んでいらっしゃい」
 私は彼の親切に対してお礼を言おうとしたが、彼はわたしをさえぎった。
「あなたが好きだから、わたしが治療してあげたなどと思わないでください。私の推察するところによると、あなたはまったく無頼漢のような行為をしてきなすった。が、同時にあなたは一風変わった無頼漢であるごとく、一風変わった非凡な人です。さあ、もうお帰りになってもよろしい。そうして、眼と頭と胃から来る錯覚がまた起こるかどうか。見ていてごらんなさい。もし錯覚が起こったら、そのたびごとに十万ルピーをあなたに差し上げましょう」
 三十分の後には、私はマンネリング家の応接間でキッティと対座していた。――現在の幸福感と、もう二度と再び幽霊などに襲われないで済むという安心に酔いながら。――私はこの新しい確信にみずから興奮してしまって、すぐに馬に乗ってジャッコをひと廻りしないかと申し出たのであった。
 四月三十日の午後、私はその時ほど血気と単なる動物的精力とを身内に溢るるように感じたことはかつてなかった。キッティはわたしの様子が変わって快活になったのを喜んで、率直そっちょくな態度で明らさまに私に讃辞を浴びせかけた。私たちは一緒にマンネリング家を出ると、談笑しながら先日のように、ショタ・シムラの道に沿って馬をゆるやかに進めていった。
 私はサンジョリー貯水場に行って、自分はもう幽霊に襲われないという自信をたしかめるために馬を急がせた。私たちの馬はよく走ったにもかかわらず、わたしのはやる心には遅くて遅くてたまらなかった。キッティは私の乱暴なのにびっくりしていた。
「どうしたの、ジャック」と、とうとう彼女は叫んだ。「まるでだだっのようね。どうしようというんです」
 ちょうど私たちが尼寺の下へ来た時、わたしの馬が路からおどり出ようとしたのを、そのままにひとむちあてて、路を突っ切って一目散に走らせた。
「なんでもありませんよ」と、私は答えた。「ただこれだけのことです。あなただって一週間も家にいたままでなんにもしなかったら、私のようにこんなに乱暴になりますよ」
上上の機嫌でささやき、歌い、
生きている身を楽しまん。
造化ぞうかの神よ、現世の神よ、
五官をすべる神様よ。
 まだ私の歌い終わらないうちに、私たちは尼寺の上の角をまわって、さらに三、四ヤード行くと、サンジョリーが眼の前に見えた。平坦な道のまん中に黒と白の法被と、ウェッシントン夫人の乗っている黄いろい鏡板の人力車が立ちふさがっているではないか。私は思わず手綱を引いて、眼をこすって、じっと見つめて、たしかに幽霊に相違ないと思ったが、それからさきは覚えない。ただ道の上に顔を伏せて倒れている自分のそばに、キッティが涙を流しながらひざまずいているのに気がついただけであった。
「もう行ってしまいましたか」と、わたしはあえいだ。
 キッティはますます泣くばかりであった。
「行ってしまったとは……。何がです……。ジャック、いったいどうしたの。何か思い違いをしているんじゃないの。ジャック、まったく思い違いよ」
 彼女の最後の言葉を耳にすると、私はぎょっとして立ち上がった。――気が狂って――しばらくのあいだ囈語うわことのようにしゃべり出した。
「そうです、何かの思い違いです」と、私はくりかえした。「まったく思い違いです。さあ、幽霊を見に行きましょう」
 私はキッティの腰を抱えるようにして、幽霊の立っている所まで彼女を引っ張って行って、どうか幽霊に話しかけさせてくれと哀願した。
 それから、自分たち二人は婚約の間柄であるから、死んで地獄でも二人のあいだのきずなを断ち切ることは出来ないぞと幽霊に話したことだけは、自分でも明瞭に記憶しているし、自分よりも更にキッティのほうがよく知っている。私は夢中になって、人力車のうちの恐ろしい人物にむかって、自分の言ったことはみな事実であるから、今後自分を殺すような苦悩くるしみをゆるしてくれと、くりかえして訴えた。今になって思えば、それは幽霊に話しかけていたというよりも、ウェッシントン夫人と自分との古い関係をキッティに打ち明けたようなものであったかもしれない。真っ白な顔をして眼を光らせながら、その話にキッティが一心に耳を傾けていたのを私は見た。

「どうもありがとう、パンセイさん」と、キッティは言った。「もうたくさんです。わたしの馬を連れておいで」
 東洋人らしい落ちついた馬丁が、勝手に走って行った馬を連れ戻して来ると、キッティはくらに飛び乗った。私は彼女をしっかりと押さえて、私の言うことをよく聞いて、わたしをゆるしてもらいたいと切願すると、彼女はわたしの口から眼へかけて鞭で打った。そうして、ひと言ふた言の別れの言葉を残したままで行ってしまった。
 その別れの言葉――私は今もって書くに忍びない。私はいろいろに判断した結果、彼女は何もかも知ってしまったということが一番正しい解釈であると思った。わたしは人力車のほうへよろめきながら行った。私の顔にはキッティの鞭の跡がなまなましく紫色になって血が流れていた。私はもう自尊心も何もなくなってしまった。ちょうどその時、多分キッティと私のあとを遠くからついて来たのであろう、ヘザーレッグが馬を飛ばして来た。
「先生」と、私は自分の顔を指さしながら言った。「ここにマンネリング嬢からの破談通知のしるしがあります。……十万ルピーはすぐにいただけるのでしょうね」
 ヘザーレッグ先生の顔を見ると、こうしたいやしむべき不幸の場合にもかかわらず、わたしは冗談を言う余裕が出てきた。
「わたしは医者としての名誉に賭けても……」
「冗談ですよ」と、わたしは言った。「それよりも、私は一生の幸福を失ってしまったのですから、私を家へ連れて行ってください」
 私がこんなことを話している間に、例の人力車は消えてしまった。それから私はまったく意識を失って、ただ、ジャッコの峰がふくれあがって雲の峰のように渦を巻いて、わたしの上に落ちてきたような気がしていた。


 

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