「おぅい、下にいる人!」
わたしがこう呼んだ声を聞いたとき、信号手は短い棒に巻いた旗を持ったままで、あたかも信号所の小屋の前に立っていた。この土地の勝手を知っていれば、この声のきこえた方角を聞き誤まりそうにも思えないのであるが、彼は自分の頭のすぐ上の
その振り向いた様子が、どういう
「おぅい、下にいる人!」
彼は線路の方角から振り向いて、ふたたびあたりを見まわして、初めて頭の上の高いところにいる私のすがたを見た。
「どこか降りる所はありませんかね。君のところへ行って話したいのだが……」
彼は返事もせずにただ見上げているのである。わたしも
ふたたび見おろすと、かの信号手は列車通過の際に揚げていた信号旗を再び巻いているのが見えた。わたしは重ねて
「ありがとう」
私はそう言って、示された方角にむかって周囲を見廻すと、そこには高低のはげしい
私がこの難儀な小径を降りて、低い所に来た時には、信号手はいま列車が通過したばかりの
信号手は腕を組むような格好をして、左の手で
わたしは再びくだって、ようやく線路とおなじ低さの場所までたどり着いて、はじめて彼に近づいた。見ると、彼は薄黒い
彼が身動きをする前に、私はそのからだに
わたしから観ると、彼は私が長い間どこかの狭い限られた所にとじこめられていて、それが初めて自由の身となって、鉄道事業といったような重大なる仕事に対して、新たに眼ざめたる興味を感じて来た人間であると思っているらしい。私もそういうつもりで彼に話しかけたのであるが、実際はそんなこととは大違いになって、むしろ彼と会話を開かない方が仕合わせであったどころか、更に何か私をおびやかすようなものがあった。
彼はトンネルの入り口の赤い灯の方を不思議そうに見つめて、何か見失ったかのように周囲を見まわしていたが、やがて私の方へ向き直った。あの灯は彼が仕事の一部であるらしく思われた。
「あなたはご存じありませんか」と、彼は低い声で言った。
その動かない二つの眼と、その幽暗な顔つきを見た時に、彼は人間ではなく、あるいは幽霊ではないかという怪しい考えが私の胸に浮かんで来たので、私はそのご絶えず彼のこころに感受性を持つかどうかを注意するようになった。
私はひと足さがった。そうして、彼がひそかに私を恐れている眼色を探り出した。これで彼を怪しむ考えもおのずと消えたのである。
「君はなんだか私を
「どうもあなたを以前に見たことがあるようですが……」と、彼は答えた。
「どこで……」
彼はさきに見つめていた赤い灯を指さした。
「あすこで……?」と、わたしは訊いた。
彼は非常に注意ぶかく私を打ちまもりながら、音もないほどの低い声で「はい」と答えた。
「冗談じゃあない。私がどうしてあんなところに行っているものですか。かりに行くことがあるとしても、今はけっしてあすこにいなかったのです。そんなはずはありませんよ」
「わたしもそう思います。はい、確かにおいでにならないとは思いますが……」
彼の態度は、わたしと同じようにはっきりしていた。彼は私の問いに対しても正確に答え、よく考えてものを言っているのである。彼はここでどのくらいの仕事をしているかといえば、彼は大いに責任のある仕事をしているといわなければならない。まず第一に、正確であること、注意ぶかくあることが、何よりも必要であり、また実務的の仕事という点からみても、彼に及ぶものはないのである。信号を変えるのも、
こんなことをして、彼はここに長い寂しい時間を送っているように見えるが、彼としては自分の生活の習慣が自然にそういう形式をつくって、いつのまにかそれに慣れてしまったというのほかはあるまい。こんな谷のようなところで、彼は自分の言葉を習ったのである。単にものを見ただけで、それを粗雑ながらも言葉に移したのであるから、習ったといえばいえないこともないかも知れない。そのほかに分数や小数を習い、代数も少し習ったが、その文字などは子供が書いたように
いかに職務であるとはいえ、こんな谷間の
彼は私を自分の小屋へ誘っていった。そこには火もあり、机の上には何か記入しなければならない職務上の帳簿や
彼は若いころ、学生として自然哲学を勉強して、その講義にも出席しているが、中途から乱暴を始めて、世に出る機会をうしなって、次第に零落して、ついにふたたび頭をもたげることが出来なくなった。ただし、彼はそれについて不満があるでもなかった。すべてが
かいつまんで言えばこれだけのことを、彼はその深い眼で私と火とを見くらべながら静かに話した。彼は会話のあいだに時どきに
こうして話している間にも、彼はしばしば小さいベルの鳴るのに妨げられた。彼は通信を読んだり、返信を送ったりしていた。またある時はドアの外へ出て、列車が通過の際に信号旗を示し、あるいは機関手にむかって何か口で通報していた。彼が職務を執るときは非常に正確で注意ぶかく、たとい談話の最中でもはっきりと区切りをつけ、その目前の仕事を終わるまではけっして口をきかないというふうであった。
ひと口にいえば、彼はこういう仕事をする人としては、その資格において十分に安心のできる人物であるが、ただ不思議に感じられたのはある場合に――それは彼が私と話している最中であったが、彼は二度も会話を中止して、鳴りもしないベルの方に向き直って、顔の色を変えていたことであった。彼はそのとき、戸外のしめった空気を防ぐためにとじてあるドアをあけて、トンネルの入り口に近い、かの赤い灯を眺めていた。この二つの出来事ののち、彼はなんとも説明し難い顔つきをして、火のほとりに戻って来たが、そのあいだに別に変わったこともないらしかった。
彼に別れて
「君はすこぶる満足のように見うけられますね」
「そうだとは信じていますが……」と、彼は今までにないような低い声で付け加えた。「しかし私は困っているのです。実際、困っているのです」
「なんで……。何を困っているのです」
「それがなかなか説明できないのです。それが実に……実にお話しのしようがないので……。またおいでになった時にでもお話し申しましょう」
「わたしも、また来てもいいのですが……。いつごろがいいのです」
「わたしは朝早くここを立ち去ります。そうして、あしたの晩の十時には、またここにいます」
「では十一時ごろに来ましょう」
「どうぞ……」と、彼は私と一緒に外へ出た。そうして、極めて低い声で言った。
「
その様子がいよいよ私を薄気味わるく思わせたが、私は別になんにも言わずに、ただ、はいはいと答えておいた。
「あしたの晩おいでの時にも呼ばないで下さい。それから少しおたずね申しますが、どうしてあなたは今夜おいでの時に〈おぅい、下にいる人!〉と、お呼びになったのです」
「え。私がそんなようなことを言ったかな」
「そんなようなことじゃありません。あの声は私がよく聞くのです」
「私がそう言ったとしたら、それは君が下の方にいたからですよ」
「ほかに理由はないのですな」
「ほかに理由があるものですか」
「なにか、超自然的の力が、あなたにそう言わせたようにお思いにはなりませんか」
「いいえ」
彼は「さようなら」という代りに、持っている白い燈火をかかげた。
私はあとから列車が追いかけて来るような不安な心持ちで、下り列車の線路のわきを通って自分の路を見つけた。その路はさきに下って来たときよりも容易に登ることが出来たので、さしたる冒険もなしに私の宿へ帰った。
約束の時間を正確に守って、わたしは次の夜、ふたたびかの高低のひどい坂路に足をむけた。遠い所では、時計が十一時を打っていた。彼は白い燈火を掲げながら、例の低い場所に立って私を待っていた。わたしは彼のそばへ寄った時に
「わたしは呼ばなかったが……。もう話してもいいのですか」
「よろしいですとも……。今晩は……」と、彼はその手をさし出した。
「今晩は……」と、わたしも手をさし出して挨拶した。それから二人はいつもの小屋へはいってドアをしめて、火のほとりに腰をおろした。
椅子に着くやいなや、彼はからだを前にかがめて、ささやくような低い声で言った。
「わたしが困っているということについて、あなたが重ねておいでになろうとは思っていませんでした。実は昨晩は、あなたをほかの者だと思っていたのですが……。それが私を困らせるのです」
「それは思い違いですよ」
「もちろん、あなたではない。そのある者が私を困らせるので……」
「それは誰です」
「知りません」
「わたしに似ているのですか」
「わかりません。私はまだその顔を見たことはないのです、左の腕を顔にあてて、右の手を振って……激しく振って……。こんなふうに……」
わたしは彼の動作を見つめていると、それは激しい感情を
「月の明かるい、ある晩のことでした。私がここに腰をかけていると〈おぅい、下にいる人!〉と呼ぶ声を聞いたのです。私はすぐに
「トンネルの中へでもはいったかな」と、わたしは言った。
「そうではありません。私はトンネルの中へ五百ヤードも駈け込んで、わたしの頭の上にランプをさしあげると、前に見えたその者の影がまた同じ距離に見えるのです。そうして、トンネルの壁をぬらしている
この話を聞かされて、なんだか背骨がぞっとするような心持ちになったが、私はそれを
「その叫び声というのも……」と、わたしは言った。「まあ、すこしのあいだ聴いていてご覧なさい。こんな不自然な谷間のような場所では、われわれが小さい声で話している時に、電信線が風にうなるのを聞くと、まるで
彼はそれに
わたしは中途で口をいれたのを謝して、更にそのあとを聴こうとすると、彼は私の腕に手をかけながら、またしずかに話し出した。
「その影があらわれてから六時間ののちに、この線路の上に怖ろしい事件が起こったのです。そうして十時間ののちには、死人と重症者がトンネルの中から運ばれて、ちょうどその影のあらわれた場所へ来たのです」
わたしは不気味な戦慄を感じたが、つとめてそれを押しこらえた。この出来事はさすがに
彼の話は、まだそれだけではないというのである。私はその談話をさまたげたことを再び詫びた。
「これは一年前のことですが……」と、彼は私の腕に手をかけて、うつろな眼で自分の肩を見おろしながら言った。「それから六、七カ月を過ぎて、私はもう以前の驚きや怖ろしさを忘れた時分でした。ある朝……夜の明けかかるころに、わたしがドアの口に立って、赤い灯の方をなに心なく眺めると、またあの怪しい物が見えたのです」
ここまで話すと、彼は句を切って、私をじっと見つめた。
「それがなんとか呼びましたか」
「いえ、黙っていました」
「手を振りませんでしたか」