五
わたしはいつもより遅く起きましたが、この不思議な出来事が思い出されて、わたしは終日悩みました。わたしは結局、ゆうべの出来事は自分の熱心なる想像から湧き出した空想に過ぎないと思ったのです。それにもかかわらず、そのときの感激があまりに生まなましいので、ゆうべのことがどうも
わたしはすぐに深い眠りに落ちました。するとまた、かの夢がつづきました。カーテンがふたたび開くと、クラリモンドが以前とは違って、
「まあ、お寝坊さんね。これがあなたのご用意なのですか。もう起きて、着物をきていらっしゃると思っていましたのに……。早く起きて頂戴よ。もう時間がありませんわ」
わたしはすぐ寝台から飛びあがりました。
「さあ、ご自分で着物をお着なさい。行きましょうよ」と、彼女は自分が持って来た小さい荷造りを見せながら言いました。「ぐずぐずしているから馬がじれて、戸をぼりぼりと噛みはじめましたわ。もう今までに三十マイルも遠く行けましたのに……」
わたしは急いで服をつけにかかりますと、彼女は一つ一つに服を渡して、わたしの不器用な手つきを見ては笑いこけたり、わたしが間違うと、その着方を教えてくれたりしました。彼女はさらに私の髪を急いでととのえてくれて、ふところからふちに金銀線の細工がしてある、ヴェニスふうの小さい水晶の鏡を出して、芝居気たっぷりに、「お気に召しましたでしょうか。あなたの
わたしはもう以前と同じ人間ではなく、自分ではないくらいに変わり果てました。立派に出来あがった石像とただの石ころほどに変わってしまいました。わたしはまったく美男子になり済まして、なんだか
わたしはこの新しい服を着馴らすために室内を歩き廻りました。クラリモンドは母のような喜びをもって私をながめて、自分の仕事に満足したように見えました。
「さあ、このくらいにして出かけましょうよ。遠い所へ行かなければなりませんから……。さもないと時間通りに行き着きませんわ」
彼女はわたしの手を取って出ました。すべてのドアは、彼女が手を触れると開きました。わたしたちは犬のそばを眼を醒まさせないで通りぬけたのです。門のところにマルグリトーヌが待っていました。さきに私を迎えに来た浅黒い男です。彼は三頭の馬の手綱をとっていましたが、馬はいずれもさきに城中へ行った時と同じ黒馬で、一頭はわたし、一頭は彼、他の一頭はクラリモンドが乗るためでした。それらの馬は西風によって
わたしたちはその馬車に乗ると、馭者は馬を励まして狂奔させるのでした。わたしは一方の腕をクラリモンドの胸に廻しましたが、彼女もまた一方の腕をわたしに廻して、その頭をわたしの肩にもたせかけました。わたしは彼女の半ばあらわな胸が軽くわたしの腕を押し付けているのを感じました。わたしはこんな熱烈な幸福を覚えたことはありませんでした。わたしは一切のことを忘れました。母の胎内にいた時のことを忘れたように、自分が僧侶の身であることを忘れて、まったく悪魔に
その夜からわたしの性質はなんだか半分半分になったようで、わたしの内におたがいに知らない同士の二人の人間がいるように思われました。ある時は、自分は僧侶で紳士になっている夢を見ているようにも思われ、またある時は、自分は紳士で僧侶になっているような気もしたのです。わたしはもはや現実と夢との境を判別することが出来ず、どこからが事実で、どこで夢が終わったのか分からなくなって、高貴な若い貴族や放蕩者は僧侶を
こういうわけで、わたしはこの二つの異った生活を認めていながら、あくまでも強烈にそれを持続していました。ただ自分にわからない不合理なことは、一つの同じ人間の意識が性格の相反した二つの人間のうちに存在していることでありました。わたしは小さいCの村の司祭であるか、またはクラリモンドの肩書つきの愛人ロミュオー君であるか、この変則がどうしても分かりませんでした。
それはどうでもいいとして、とにかくに私はヴェニスで暮らしていました。少なくとも私はそう信じていました。わたしのこの幻想的な旅行は、どれだけが現実の世界で、どれだけが幻影であるか、確かには分かりかねますが、わたしたちふたりはカナレイオ河岸の大邸宅に住んでいました。邸内は壁画や彫像をもって満たされ、大家の名作のうちにはティチアーノ(十五世紀より十六世紀にわたるヴェニスの画家)の二つの作品もクラリモンドの
クラリモンドはいつも豪奢な生活をして自然にクレオパトラの
こんな放蕩生活をしているにも
彼女はわたしの愛を百倍にして返してくれたのです。この地の若い貴公子や十法官からも
いつも彼女と一緒にいるために安心して、わたしはクラリモンドの変わった様子について別に考えもしませんでしたが、セラピオン師が彼女について語った言葉は時どきにわたしの記憶を
どうかすると、クラリモンドの健康が以前のようによくないことがありました。彼女の皮膚は日に日に
ある朝のことでした。わたしは彼女の寝台のそばの小さい食卓で朝食をすませた後、わずかの間も離れてはならないと彼女のそばに腰をかけていました。その時に果物の皮をむいていると、誤まって自分の指に深く切り込んだのです。小さい紫色の血がすぐにほとばしり出て、いくらかクラリモンドにもかかったかと思うと、その顔色は急に変わって、今までの彼女にかつて見たことのない野蛮な、残忍な喜びの表情を帯びて来ました。彼女は動物のような身軽さ――あたかも猿か猫のように軽く飛び降りて、わたしの傷口に飛びついて、いかにも嬉しそうな様子でその血を吸い始めたのです。
彼女は小さい口いっぱいに――あたかも酒好きの人間がクセレスかシラクサの酒を味わっているように、ゆっくりと注意ぶかく飲むのでした。その
「わたしは死なないわ、死なないわ」と、彼女は半気ちがいのようになって、わたしの
「わたしはまだ長い間あなたを愛することが出来るわ。わたしの
この光景は永く私をおびやかして、クラリモンドについては不思議な疑問を起こさせました。その夜、わたしが寝床にはいると、睡眠は私を誘い出して、むかしの司祭館に連れ戻しました。わたしはセラピオン師が今までよりもいっそう厳粛な不安らしい顔をしているのを見ました。彼は私をじっと見つめていましたが、やがて悲しそうに叫びました。
「あなたは魂を失うばかりではない、今はその身をも失おうとしている。堕落した若い人は、実に恐ろしいことになっている」
その言葉の調子は私を強く動かしました。しかしその時の印象がまざまざとしていたにもかかわらず、それもすぐに私から消えていって、ほかのさまざまな考えも皆わたしの心から去ってしまいました。