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青蛙堂鬼談(せいあどうきだん)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-8-27 9:48:57  点击:  切换到繁體中文


     二

「祐慶がどういう風にして製作に従事したかという事は詳しく伝わっていませんが、屋敷内の森のなかに新しく細工場を作らせて、モデルの捨松と白鹿毛のほかには誰も立入ることを許しませんでした。主人の黒太夫も覗くことは出来ない。こうして七、八、九、十、十一と、あしかけ五カ月の後に、人間と馬との彫刻が出来あがりました。時によると夜通しで仕事をつづけている事もあるらしく、夜ふけにのみや槌の音が微かにきこえるのが、なんだか物凄いようにも感じられたということでした。
 いよいよ製作が成就じょうじゅして、五カ月ぶりで初めて細工場を出て来た祐慶は、髪や髭は伸び、頬は落ち、眼は窪んで、にわかに十年も年を取ったように見えたそうですが、それでもその眼は生きいきと光りかがやいていました。モデルの少年も馬もみな元気がいいので、黒太夫一家でもまず安心しました。出来あがった木馬はもちろん、その手綱を控えている馬飼のすがた形もまったくモデルをそのままで、さながら生きているようにも見えたので、それを見た人々はみな感嘆の声をあげたそうです。
 黒太夫も大層よろこんで手厚い礼物れいもつを贈ると、祐慶は辞退して何にも受取らない。彼は自分の長く伸びた髭をすこし切って、これをそこらの山のなかに埋めて、小さい石を立てておいてくれ、別に誰の墓ともしるすに及ばないと、こう言いおいて早々にここを立去ってしまいました。不思議なことだとは思ったが、その言う通りにして小さい石のしるしを立て、誰が言い出したともなしにそれを髭塚と呼ぶようになりました。
 そこで、吉日を選んでかの木馬を社前に据えつける事になったのは十二月の初めで、近村の者もみな集まるはずにしていると、その前夜の夜半からにわかに雪がふり出しました。ここらで十二月に雪の降るのは珍しくもないのですが、暁け方からそれがいよいよ激しくなって、眼もあけないような大吹雪となったので、黒太夫の家でもどうしようかと躊躇していると、ここらの人たちは雪に馴れているのか、それとも信仰心が強いのか、この吹雪をも恐れないで近村はもちろん、遠いところからも続々あつまって来るので、もう猶予してもいられない。ひるに近いころになって、黒太夫の家では木馬を運び出すことになりました。いい塩梅に雪もやや小降りになったので、人々もいよいよ元気が出て、かの木像と木馬を大きい車に積みのせて、今や屋敷の門から挽き出そうとする時、馬小屋のなかでにわかに高いいななきの声がきこえたかと思うと、これまでモデルに使われていた白鹿毛が何かの物のでも付いたように狂い立って、手綱を振切って門の外へ飛び出したのです。
 人々も驚いて、あれあれというところへ、かの捨松が追って来ました。馬は龍の池の方へ向ってまっしぐらに駈けてゆく。捨松もつづいて追ってゆく。雪はまたひとしきり激しくなって、人も馬も白い渦のなかに巻き込まれて、時どきに見えたり隠れたりする。捨松は途中で手綱を掴んだらしいのですが、きょうは容易に取鎮めることが出来ず、狂い立つ奔馬に引きずられて吹雪のなかを転んだり起きたりして駈けてゆく。ほかの馬飼も捨松に加勢するつもりで、あとから続いて追いかけたのですが、雪が激しいのと、馬が早いのとで、誰も追い付くことが出来ない。ただうしろの方から、おういおうい、と声をかけるばかりでした。
 そのうちに吹雪はいよいよ激しくなって、白い大浪が馬と人とを巻き込んだかと思うと、二つながら忽ちにその影を見失った。どうも池のなかへ吹き込まれたらしいのです。騒ぎはますます大きくなって、大勢がいろいろに詮議したのですが、捨松も白鹿毛も、結局ゆくえ不明に終りました。
 やはり以前の木馬と同じように池の底に沈んだのであろうと諦めて、新しく作られた木像と木馬を龍神の社前に据えつけて、ともかくもきょうの式を終りましたが、もしやこれもまた抜け出すようなことはないかと、黒太夫の家からは朝に晩に見届けの者を出していましたが、木像も木馬も別条なく、社を守るように立っているので、まず安心はしたものの、それにつけても捨松と白鹿毛の死が悲しまれました。
 誰が見ても、その木像と木馬はまったく捨松と白鹿毛によく似ているので、あるいは名人の技倆によって、人も馬もその魂を作品の方に奪われてしまって、わが身はどこへか消え失せたのではないかなどと言う者もありました。それからまた付会ふかいして、今度の木馬も時どきにいななくとか、木像の捨松が口をきいたとか、いろいろの噂が伝えられるようになりました。
 そこで、その名人の仏師はどうしたかというと、その後の消息はよく判りません。どうも平泉で殺されたらしいということです。なにしろここで木像と木馬を作るために五カ月を費したので、平泉へ到着するのが非常におくれた。それが秀衡の感情を害した上に、仕事に取りかかってからも、一向にはかがゆかない。まるで気ぬけのした人間のように見えたので、いよいよ秀衡の機嫌を損じて、とうとう殺されてしまったという噂です。彼が立ちぎわに髭を残して行ったのから考えると、自分自身にも内々その覚悟があったのかも知れません。かの池を以前は単に龍の池と呼んでいたのですが、この事件があって以来、さらに馬という字を付け加えて、龍馬の池と呼ぶようになったのだそうです。」
「で、その木像と木馬も今も残っているのですか。」と、わたしはこの話の終るのを待ちかねて訊きました。
「それにはまたお話があります。」と、横田君は静かに言いました。「あとで聞くと、その祐慶という仏師は日本の人ではなく、そうから渡来した者だそうです。日本人ならば髪を切りそうなところを、髭を切って残したというのから考えても、なるほどからの人らしく思われます。それから七八百年の月日を過ぎるあいだに、土地にもいろいろの変遷があって、黒太夫の家は単に黒屋敷跡という名を残すばかりで、とうの昔にほろびました。龍馬の池も山崩れや出水のためにいくたびかその形をかえて、今では昔の半分にも足らないほどに小さくなってしまいました。それでも龍神の社だけは江戸の末まで残っていたのですが、明治元年の奥羽戦争の際には、この白河が東軍西軍の激戦地となったので、社も焼かれてしまいました。もうその跡に新しく建てるものもないので、そこらは雑草に埋められたままです。」
「そうすると、かの木馬も一緒に焼けてしまったのですね。」
「誰もまあそう思っていたのです。したがって、そのゆくえを詮議する者もなかったのですが、それからおよそ四十年ほども過ぎて、日露戦争の終った後のことです。この白河出身の者で、今は南京に雑貨店を開いている堀井という男が、なにかの商売用で長江ちょうこうをさかのぼってしょくへゆくと、成都の城外――と言っても、六、七里も離れた村だそうですが、その寂しい村の川のほとりに龍王廟というのがある。その古い廟の前に大きい柳が立っていて、柳の下に木馬が据えてある。木馬はともかくも、その馬の手綱を控えている少年の木像が確かに日本人に相違ないので、堀井も不思議に思いました。
 もちろん堀井は明治以後に生れた男で、龍馬の池の木像も木馬も見たことはないのですが、かねて話に聴いているものによく似ているばかりか、その木像の顔容かおだちや風俗が日本の少年であるということが、大いに彼の注意をひきました。土地の者についていろいろ聞合せてみましたが、いつの頃にどうして持って来たのか一向にわからない。
 結局、不得要領で帰って来たそうですが、どうしてもそれは日本のものに相違ないと堀井は主張していました。もし果してそれが本当であるとすれば、木馬や木像が自然に支那まで渡ってゆくはずがありませんから、戦争のどさくさまぎれに誰かが持出して、横浜あたりにいる支那人にでも売渡したのではあるまいかとも想像されますが、実物大の木像や木馬をどうして人知れずに運搬したか、それが頗る疑問です。それを作った仏師が支那の人であるからといって、木像や木馬が何百年の後、自然に支那へ舞い戻ったとも思われません。なにしろ堀井という男は龍馬の池の実物を見ていないのですから、いかに彼が主張しても、果してそれが本物であるかどうかも疑問です。」
 それからそれへと拡がってゆく奇怪の物がたりを、わたしは黙って聞いているのほかはありませんでした。横田君は最後にまたこう言いました。
「今まで長いお話をしましたが、近年になって、かの龍馬の池に新しい不思議が発見されたのです。」
 まだ不思議があるのかと、わたしも少し驚いて、やはり黙って相手の顔をながめていました。二人のあいだに据えてある火鉢の火がとうに灰になっているのをお互いに気がつかないのでした。
「あなたを御案内したいというのも、それがためです。」と、横田君は言いました。「今から七年ほど前のことです。宮城県の中学の教師が生徒を連れて来たときに、龍馬の池のほとりで写真を撮ってあとで現像してみると、馬の手綱を取った少年の姿が水の上にありありと浮かび出しているので、非常に驚いたといいます。その噂が伝わって、その後にもいろいろの人が来て撮影しました。東京からも三、四人来ました。土地でも本職の写真師は勿論、我れわれのアマチュアが続々押掛けて行って、たびたび撮影を試みましたが、めったに成功しません。それでは全然駄目かというと、十人に一人ぐらいは成功して、確かに馬と少年の姿が浮いてみえるのです。」
「なるほど不思議ですね。」と、わたしも溜息をつきました。「そうして、あなたは成功しましたか。」
「いや、それが残念ながら不成功です。六、七回も行ってみましたが、いつも失敗を繰返すので、わたくしはもう諦めているのですが、あなたのお出でになったのは幸いです。あしたは是非お供しましよう。」
「はあ、ぜひ御案内をねがいましょう。」
 わたしの好奇心はいよいよ募って来ました。もう一つには、十人に一人ぐらいしか成功しないという不思議の写真を、見ごと自分のカメラに収めてみせようという一種の誇りも加わって、わたしはあしたの来るのを待ちこがれていました。

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