三
浪人に別れて帰った喜兵衛は、それから一刻ほど過ぎてから再びこの河原に姿をあらわした。彼は覆面して身軽によそおっていた。「仇討襤褸錦」の芝居でみる大晏寺堤の場という形で、彼は抜足をして蒲鉾小屋へ忍び寄った。
喜兵衛はかの笛が欲しくて堪らないのである。しかし浪人の口ぶりでは、所詮それを素直に譲ってくれそうもないので、いっそ彼を闇討にして奪い取るのほかはないと決心したのである。勿論、その決心をかためるまでには、彼もいくたびか躊躇したのであるが、どう考えてもかの笛がほしい。浪人とはいえ、相手は宿無しの乞食である。人知れずに斬ってしまえば、格別にむずかしい詮議もなくてすむ。こう思うと、彼はいよいよ悪魔になりすまして、一旦わが屋敷へ引っ返して身支度をして、夜のふけるのを待って、再びここヘ襲ってきたのであった。
嘘かほんとうか判らないが、さっきの話によると、かの弥次右衛門は相当の手利きであるらしい。別に武器らしいものを持っている様子もないが、それでも油断はならないと喜兵衛は思った。自分もひと通りの剣術は修業しているが、なんといっても年が若い。真剣の勝負などをした経験は勿論ない。卑怯な闇討をするにしても、相当の準備が必要であると思ったので、彼は途中の竹藪から一本の竹を切出して竹槍をこしらえて、それを掻い込んで窺い寄ったのである、葉ずれの音をさせないように、彼はそっと芒をかきわけて、まず小屋のうちの様子をうかがうと、笛の音はやんでいる。小屋の入口には筵をおろして内はひっそりとしている。
と思うと、内では低い唸り声がきこえた。それがだんだに高くなって、弥次右衛門はしきりに苦しんでいるらしい。それは病苦でなくて、一種の悪夢にでもおそわれているらしく思われたので、喜兵衛はすこしく躊躇した。かの笛のために、彼はあしかけ十年のあいだ、絶えず苦められているという、さっきの話も思いあわされて、喜兵衛はなんだか薄気味悪くもなったのである。
息をこらしてうかがっていると、内ではいよいよ苦しみもがくような声が激しくなって、弥次右衛門は入口の筵をかきむしるようにはねのけて、小屋の外へころげ出して来た。そうして、その怖ろしい夢はもう醒めたらしく、彼はほっと息をついてあたりを見まわした。
喜兵衛は身をかくす暇がなかった。今夜の月は、あいにく冴え渡っているので、竹槍をかい込んで突っ立っている彼の姿は、浪人の眼の前にありありと照らし出された。
こうなると、喜兵衛はあわてた。見つけられたが最後、もう猶予は出来ない。彼は持っている槍を取直してただひと突きと繰出すと、弥次右衛門は早くも身をかわして、その槍の穂をつかんで強く曳いたので、喜兵衛は思わずよろめいて草の上に小膝をついた。
相手が予想以上に手剛いので、喜兵衛はますます慌てた。彼は槍を捨てて刀に手をかけようとすると、弥次右衛門はすぐに声をかけた。
「いや、しばらく……。御貴殿は手前の笛に御執心か。」
星をさされて、喜兵衛は一言もない。抜きかけた手を控えて暫く躊躇していると、弥次右衛門はしずかにいった。
「それほど御執心ならば、おゆずり申す。」
弥次右衛門は小屋へはいって、かの笛を取出して来て、そこに黙ってひざまずいている喜兵衛の手に渡した。
「先刻の話をお忘れなさるな。身に禍いのないように精々お心を配りなされ。」
「ありがとうござる。」と、喜兵衛はどもりながら言った。
「人の見ぬ間に早くお帰りなされ。」と、弥次右衛門は注意するように言った。
もうこうなっては相手の命令に従うよりほかはない。喜兵衛はその笛を押しいただいて殆んど機械のように起ちあがって、無言で丁寧に会釈して別れた。
屋敷へ戻る途中、喜兵衛は一種の慚愧と悔恨とに打たれた。世にたぐいなしと思われる名管を手に入れた喜悦と満足とを感じながら、また一面には、今夜の自分の恥かしい行為が悔まれた。相手が素直にかの笛を渡してくれただけに、斬取り強盗にひとしい重々の罪悪が彼のこころにいよいよ強い呵責をあたえた。それでもあやまって相手を殺さなかったのが、せめてもの仕合せであるとも思った。
夜があけたならば、もう一度かの浪人をたずねて今夜の無礼をわび、あわせてこの笛に対する何かの謝礼をしなければならないと決心して、彼は足を早めて屋敷へ戻ったが、その夜はなんだか眼が冴えておちおちと眠られなかった。
夜のあけるのを待ちかねて、喜兵衛は早々にゆうべの場所へたずねて行った。その懐中には小判三枚を入れていた。河原には秋のあさ霧がまだ立ち迷っていて、どこやらで雁の鳴く声がきこえた。
芒をかきわけて小屋に近寄ると、喜兵衛はにわかにおどろかされた。石見弥次右衛門は小屋の前に死んでいたのである。彼は喜兵衛が捨てて行った竹槍を両手に持って、我れとわが喉を突き貫いていた。
そのあくる年の春、喜兵衛は妻を迎えて、夫婦の仲もむつまじく、男の子ふたりを儲けた。そうして何事もなく暮らしていたが、前の出来事から七年目の秋に、彼は勤め向きの失策から切腹しなければならないことになった。彼は自宅の屋敷で最期の用意にかかったが、見届けの役人にむかって最期のきわに一曲の笛を吹くことを願い出ると、役人はそれを許した。
笛は石見弥次右衛門から譲られたものである。喜兵衛は心しずかに吹きすましていると、あたかも一曲を終ろうとするときに、その笛は、怪しい音を立てて突然ふたつに裂けた。不思議に思ってあらためると、笛のなかにはこんな文字が刻みつけられていた。
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