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青蛙堂鬼談(せいあどうきだん)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-8-27 9:48:57  点击:  切换到繁體中文


     三

 お仲は飯田の御新造が番衆町へ引っ越して来てからの奉公人で、むかしの事はなんにも知らないのでしたが、お元というばあやはその以前から長く奉公していた女で、いっさいの事情を承知していたのでございます。なにしろ病気が病気ですから誰も悔みに来る者もなく、お元とお仲との二人ぎりで寂しい葬式をすませたのですが、そのお通夜の晩にお元が初めて御新造の秘密をお仲に打明けたそうでございます。
 御新造は世間の噂の通り、以前は柳橋の芸妓であったということで、ある立派な官員さんの御贔屓になって、とうとう引かされることになったのです。その官員さんという方は、その後だんだん偉くなって、明治の末年まで生きておいででして、そのおいえは今でも立派に栄えておりますから、そのお名前をあらわに申上げるのは遠慮いたさなければなりませんので、ここではただ立派な官員さんと申すだけのことに致しておきましょう。その官員さんの囲いもの――そのころは権妻ごんさいということばが流行っておりました。――になって、この番衆町に地面や家を買ってもらって、旦那様はときどきに忍んで来たというわけでございました。
 それで四、五年は無事であったのですが、この春ごろから旦那様の車がだんだんに遠ざかって、六月頃からはぱったりと足が止まってしまいました。飯田の御新造も心配していろいろ探索してみると、旦那様は柳橋の芸妓に新しいお馴染が出来たということが判りました。しかもその芸妓は、御新造が勤めをしているころに妹分同様にして引立ててやった若い女だと判ったので、御新造は歯がみをして口惜くやしがったそうでございます。
 もっとも旦那様から月々のお手当はやはり欠かさずに届けて来るので、生活に困るというようなことはなかったのですが、妹分の女に旦那を取られたのが無暗に口惜しかったらしい。それは無理もないことですが、この御新造は人一倍に嫉妬ぶかいたちとみえまして、相手の芸妓が憎くてならなかったのです。
 旦那様が番衆町の方から遠のいたのは、わたくしの想像した通り、御新造に頑固な婦人病があったからで、これまでにもいろいろの療治をしたのですが、どうしても癒らないばかりか、年々に重ってゆくという始末なので、旦那様もふたたび元地の柳橋へ行って新しいお馴染をこしらえたような訳で、旦那様の方にもまあ無理のないところもあるのでございましょう。それでも月々のお手当はとどこおりなく呉れて、ちっとも不自由はさせていないのですから、御新造も旦那様を怨もうとはしなかったのですが、どう考えても相手の女が憎い、怨めしい。そのうちに一方の病気はだんだんに重って来る。御新造はいよいよ焦々いらいらして、いっそ死んでしまいたい、コレラにでもなってしまいたいと言い暮らしているうちに、いくらか神経も狂ったのかも知れません、ほんとうにコレラになる気になったらしく、お元ばあやの止めるのもきかないで、この際むやみに食べては悪いというものを遠慮なしに食べるようになったのでございます。
 むじなの子の首を鎌でむごたらしく斬ったなどというのも、やはり神経が狂っているせいでしたろうが、むじながその芸妓にでも見えたのか、それともむじなをその芸妓になぞらえて予譲よじょうきぬというような心持であったのか、そこまでは判りません。
 いずれにしても、御新造はその本望通りコレラになってしまったのでございます。浅草の偉い行者というのはどんな人か、またどんなお祈りをするのか知りませんが、御新造はその行者に秘密のお祷りでも頼んで、自分の死ぬときには相手の女も一緒に連れて行くことが出来るという事を信じていたらしいのです。
 それで、あらかじめ黄いろい紙を二枚用意しておいて、いざというときには、一枚を柳橋のこうこういう家のかどに貼ってくれと頼むことにしたのであろうと思われます。御新造に呪われたのか、それとも自然の暗合か、とにかくその芸妓も同日にコレラに罹ったのは事実で、やはりその夜なかに死んだそうでございます。
 お元というばあやは御新造の遺言ゆいごんで、その着物から持物全部を貰って国へ帰りました。このばあやは柳橋時代から御新造に仕えていた忠義者で、生れは相模さがみの方だとか聞きました。お仲はお元からいくらかの形見かたみを分けてもらって、またどこへか奉公に出たようでした。残っている地面と家作は御新造の弟にゆずられることになりましたが、この弟は本所辺で馬具屋をしている男で、評判の道楽者であったそうですから、半年と経たないうちに、その地面も家作もみな人手にゆずり渡してしまいました。
 そうなると、世間では碌なことは言いません。あすこの家は、飯田の御新造の幽霊が出るの何のと取留めもないことを言い触らす者がございます。しかしその後に引移って来た藤岡さんという方の奥さんが、五年目の明治二十四年にインフルエンザでなくなり、またそのあとへ来た陸軍中佐の方が明治二十七年の日清戦争で戦死し、その次に来た松沢という人が株の失敗で自殺したのは事実でございます。
 わたくしも二十年ほど前にそこを立退きましたので、その後のことは存じません。近年はあの辺がめっきり開けましたので、飯田さんの家というのも今はどこらになっているのか、まるで見当が付かなくなってしまいました。おそらく竹藪が伐り払われると共に取毀されたのでございましょう。
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