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青蛙堂鬼談(せいあどうきだん)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-8-27 9:48:57  点击:  切换到繁體中文


   一本足いっぽんあしおんな


     一

 第九の男は語る。

 わたしは千葉の者であるが、馬琴ばきんの八犬伝でおなじみの里見の家は、義実よしざね、義なり、義みち実尭さねたか、義とよ、義たか、義ひろ、義より、義やすの九代を伝えて、十代目の忠義ただよしでほろびたのである。それは元和元年、すなわち大坂落城の年の夏で、かの大久保相模守さがみのかみの姻戚関係から滅亡の禍いをまねいたのであると伝えられている。
 大久保相模守忠隣ただちかは相州小田原の城主で、徳川家の譜代大名のうちでも羽振りのよい一人であったが、一朝にしてその家は取潰されてしまった。その原因は明らかでない。かの大久保石見守いわみのかみ長安の罪に連坐したのであるともいい、または大坂方に内通の疑いがあったためであるともいい、あるいは本多佐渡守父子おやこの讒言によるともいう。いずれにしても里見忠義は相模守忠隣のむすめを妻にしていた関係上、しゅうとの家がほろびると間もなく、彼もその所領を召し上げられて、伯耆ほうきの国に流罪を申付けられ、房州の名家もその跡を絶ったのである。里見の家が連綿としていたら、八犬伝は世に出なかったに相違ない。馬琴はさらに他の題材を選ばなければならないことになったであろう。
 馬琴の口真似をすると、閑話休題あだしごとはさておき、これからわたしが語ろうとするのは、その里見の家がほろびる前後のことである。忠義の先代義康は安房あわの侍従と呼ばれた人で、慶長けいちょう八年十一月十六日、三十一歳で死んでいる。その三周忌のひと月かふた月前のことであるというから、慶長十年の晩秋か初冬の頃であろう。
 当代の忠義に仕えている家来のうちに、百石取りの侍に大滝庄兵衛というのがあった。百石といっても、実際は百俵であったそうだが、この百石取りが百人あって、それを安房の百人衆と唱え、里見の部下ではなかなか幅が利いたものであるという。その庄兵衛が夫婦と中間ちゅうげんとの三人づれで館山たてやまの城下の延命寺へ参詣に行った。延命寺は里見家の菩提寺である。その帰り路に、夫婦は路傍にうずくまっている一人の少女をみた。
 少女は乞食であるらしく、夫婦がここへ通りかかったのを見て、無言で土に頭を下げると、夫婦も思わず立ちどまった。仏参の帰りに乞食をみて、夫婦はいくらかのぜにを恵んでやろうとしたのではない。今度の忠義の代になってから、乞食に物を恵むことを禁じられていた。乞食などは国土のついえである。ひっきょうかれらに施し恵む者があればこそ、乞食などというものが殖えるのであるから、ひと粒の米、一文の銭もかれらに与えてはならぬと触れ渡されていた。庄兵衛夫婦も勿論その趣旨に従わなければならないのであるから、今や自分たちの前に頭を下げているこの乞食をみても、素知らぬ顔をして通り過ぎるのが当然であったが、ここで彼ら夫婦が思わず足をとどめたのは、その少女がいかにも美しく可憐に見えたからであった。
 少女はまだ八つか九つぐらいで、袖のせまい上総かずさ木綿の単衣ひとえもの、それも縞目の判らないほどに垢付いているのを肌寒そうに着ていた。髪はもちろん振り散らしていた。そのおどろ髪のあいだから現われているかれの顔は、磨かない玉のようにみえた。
「まあ、可愛らしい。」と、庄兵衛の妻はひとりごとのように言った。
「むむ。」と、夫も溜息をついた。
 物を恵むとか恵まないとかいうのは二の次として、夫婦はこの可憐な少女を見捨てて行くのに忍びないような気がしたので、妻は立寄ってそのとしや名をきくと、歳は九つで名は知らないと答えた。
「生れたところは。」
「知りません。」
「両親の名は。」
「知りません。」
 こういう身の上の少女が生国しょうこくを知らず、ふた親の名を知らず、わが名を知らないのは、さのみ珍しいことでもない。少女は妻の問いに対して、自分は赤児あかごのときに路傍に捨てられていたのを或る人に拾われたが、三つの年にまた捨てられた。それから又ある人に拾われたが、これも一年ばかりでまた捨てられた。拾われては捨てられ、捨てられては拾われ、その後二、三人の手を経るうちに、少女はともかくも七つになった。これまで生長すれば、乞食をしてもどうにか生きてゆかれるので、人のなさけにすがりながら今まで露命をつないでいると話した。
「まあ、可戻そうに……。」と、庄兵衛の妻は涙ぐんだ。「おまえのような可愛らしい子が、なぜ行く先ざきで捨てられるのか。」
「それはわたくしが不具者かたわものであるからでございます。」と、少女はその美しい眼に涙をやどした。「世にも少ない不具者を誰が養ってくれましょう。はじめは不憫を加えてくれましても、やがては愛想をつかされるのでございます。」
 かれは年よりもませた口ぶりで言った。しかし見たところでは、人並すぐれた容形なりかたちで、別に不具者らしい様子もないので、妻も庄兵衛も不思議に思った。恥かしいのか、悲しいのか、少女は身をすくめ、身をふるわせて、ただすすり泣きをしているばかりであるのを、夫婦がいろいろになだめすかして詮議すると、かれが不具である子細が初めて判った。
 土に坐っているので今までは気が付かなかったが、少女は一本足であった。かれは左の足をもっているだけで、右の足は膝の上から切断されているのであった。生れ落ちるとからの不具ではない。さりとて何かの病いのために切断したのでもない。おそらく何かの子細で路ばたに捨てられていたところを、野良犬か狼のようなけもののために片足を啖い切られたらしいと、その疵口の模様によって庄兵衛は判断した。
 こうなると、夫婦はいよいよ不憫が増して来て、どうしてもこのままに見捨ててゆく気にはなれなくなった。こういう美しい、いじらしい少女を乞食にしておくということが不憫であるばかりでなく、前にもいう通りのお触れが出ている以上、かれは何人なんぴとの恵みをも受けることが出来なくなって、早く他領へ立退くか、あるいはここでみすみす飢え死にしなければならないのである。庄兵衛は試みに少女に訊いた。
「おまえは乞食に物をやるなというお触れの出ているのを知らないのか。」
「知りません。」と、かれはまったく何にも知らないように答えた。
 庄兵衛の妻はまた泣かされた。かれは夫を小蔭へまねいて、なんとかしてかの少女を救ってやろうではないかとささやくと、庄兵衛にも異存はなかった。しかし自分も里見家につかえる身の上で、この際おもて向きに乞食を保護するなどは穏かでないと思ったので、彼はきょうの供に連れて来た中間の与市を呼んで相談した。
 与市は館山の城下から遠くない西岬にしみさきという村の者で、実家は農であるが、武家奉公を望んで二、三年前から庄兵衛の屋敷に勤めているのである。年は若いが正直律義りちぎの者で、実家には母も兄もある。庄兵衛はかの少女をひとまず与市の実家へあずけておきたいと思って、ひそかにその相談をすると、与市は素直に承知した。
「それではすぐに連れて行ってくれ。」
 主人の命令にそむかない与市は、一本足の乞食の少女を背負って、すぐに自分の実家へ運んで行った。まずこれで安心して庄兵衛夫婦もそのまま自分の屋敷へ帰ると、日の暮れるころに与市は戻って来て、かれを確かに母や兄に頼んでまいりましたと報告した。
 それから半月ほどの後に、庄兵衛の妻はその様子を見届けながらに西岬の家へたずねてゆくと、少女はつつがなく暮らしていた。与市の母や兄も律義者で、主人の指図を大事に心得ているばかりでなく、彼らは不具の少女に不便ふびんを加えて、心から親切に優しくいたわっているらしいので、妻もいよいよ安心して帰った。
 それからふた月か三月ほど過ぎて、その年の暮れになると、更におどろくべき命令が領主の忠義から下された。さきに触れ渡して、乞食どもにはいっさい施すなと言い聞かせてあるのに、乞食どもはやはり城下や近在にうろうろと立ち迷っているのは、禁制きんぜいを破ってひそかに彼らに恵む者があるのか、あるいは彼らが盗み食いでもするのか、いずれにしても先度の触れ渡しの趣意が徹底しないのは、遺憾であるというので、さらに領内の宿無し又は乞食のたぐいに対して、三日以内に他領へ立退くべきことを命令した。その期限を過ぎてもなおそこらに徘徊しているものは、見つけ次第に打殺すというのである。
 この厳重な触れ渡しにおびやかされて、乞食どもはみな早々に逃げ散ったが、中にはその触れ渡しを知らないで居残っていた者や、あるいは逃げおくれて捕われた者や、それらは法のごとくに打殺されるのもあった。生き埋めにされるのもあった。こうして、里見の領内の乞食や宿無しのたぐいは一掃された。
「早くにあの娘を助けてよかった。」と、庄兵衛夫婦はひそかに語り合った。
 歩行も自由でない一本足の少女などは、この場合おそらく逃げおくれて最初の生贄いけにえとなったであろう。夫婦が少女を救ったことは幸いに誰にも知られなかった。勿論、与市には堅く口止めをしておいた。

     二

 幸運の少女は与市の実家で親切に養われていた。庄兵衛の妻も時どきにそっと彼女かれをたずねて、着物や小遣銭などを恵んでいた。なんとか名をつけなければいけないというので、少女をお冬と呼ばせることにした。そのうちに五年過ぎて、お冬もいつか十六の春を迎えた。
 あめ風にさらされ、砂ほこりにまみれて、往来の土の上に這いつくばっていた頃ですらも、庄兵衛夫婦の眼をひいた程の少女は、だんだん成長するに連れて、玉の光りがいよいよ輝くようになった。子どもの時から馴れているので、杖にすがれば近所をあるくには差支えもなかった。人間も利口で、かつは器用なたちであるので、針仕事などは年にもまして巧者こうしゃであった。
「これ足さえ揃っていれば申分はないのだが……。」と、与市の母や兄も一層かれの不幸をあわれんだ。
 不具にもよるが、一本足というのではまず嫁入りの口もむずかしい。殊にここらはみな農家で、男も女も働かなければならないのであるから、いかに容貌きりょうがよくても、人間が利口でも、一本足の不具者を嫁に貰うものはなさそうである。あたら容貌を持ちながら一生を日かげの花で終るのかと思うと、与市の母や兄ばかりでなく、時どきにたずねてゆく庄兵衛の妻も暗い思いをさせられた。
 庄兵衛夫婦には子供がない。かれらが不具の少女を拾いあげたのも、勿論その不幸をあわれむ心から出たには相違ないが、子のない夫婦の子供好きということも半分はまじっていたので、妻は一面に暗い思いをしながらも、また一面にはだんだんに美しく生長してゆくお冬の顔をみるのを楽しみに、時どきに忍んで逢いに行くのであった。そうしていくらかの附金つけがねをしてやってもよいから、どこかで嫁に貰ってくれる家はあるまいかなどと、与市の母や兄に相談することもあったが、前にいったような訳であるから、この相談は容易に運びそうもなかった。
 こうして、また一年二年と送るうちに、お冬はいよいよ美しい娘盛りとなって、いつも近所の若い男どもの噂にのぼった。中にはいたずら半分にその袖をひく者もあったが、利口なお冬は振向きもしなかった。かれは与市の母や兄を主人とも敬い、親兄弟とも慕って、おとなしくつつましやかに暮らしていた。
 慶長十九年、お冬が十八の春には、その大恩人たる大滝庄兵衛の主人の家に、暗い雲が掩いかかって来た。かの大久保相模守忠隣が幕府の命令によって突然に小田原領五万石を召上げられ、あわせて小田原城を破却されたのである。
 その子細は知らず、なにしろ青天の霹靂へきれきともいうべきこの出来事に対して、関東一円は動揺したが、とりわけて大久保と縁を組んでいる里見の家では、やみ夜に燈火ともしびをうしなったように周章しゅうしょう狼狽した。あるいは大久保とおなじ処分をうけて、領地召上げ、お家滅亡、そんなことになるかも知れないという噂がそれからそれと伝えられて、不安の空気が城内にもみなぎつた。
 庄兵衛もその不安を感じた一人であるらしく、このごろは洲先すのさき神社に参詣することになった。洲先は頼朝が石橋山のいくさに負けて、安房へ落ちて来たときに初めて上陸したところで、おなじ源氏の流れを汲む里見の家では日ごろ尊崇そんすうしている神社であるから、庄兵衛がそれに参詣して主家の安泰を祈るのは無理もないことであった。
 神社は西岬村のはずれにあるので、庄兵衛はその途中、与市の実家へ久振りで立寄った。彼は娘盛りのお冬をみて、年毎にその美しくなりまさって行くのに驚かされた。その以来、彼は参詣の都度つどに与市の家をたずねるようになった。そのうちに江戸表から洩れて来る種々の情報によると、どうでも里見家に連坐まきぞえの祟りなしでは済みそうもないというので、一家中の不安はいよいよ大きくなった。庄兵衛は洲先神社へ夜詣りを始めた。
 彼の夜詣りは三月から始まって五月までつづいた。当番その他のよんどころない差支えでない限り、ひと晩でも参詣を怠らなかった。主家を案じるのは道理もっともであるが、夜詣りをするようになってから、彼は決して供を連れて行かないということが妻の注意をひいた。まだそのほかにも何か思い当ることがあったと見えて、妻は与市を呼んでささやいた。
「庄兵衛殿がこの頃の様子、どうも腑に落ちないことがあるので、きょうはそっとそのあとを付けてみようと思います。おまえ案内してくれないか。」
 与市は承知して主人の妻を案内することになった。近いといっても相当の路程みちのりがあるので、庄兵衛は日の暮れるのを待ちかねるように出てゆく。妻と与市とは少しくおくれて出ると、途中で五月の日はすっかり暮れ切って、ゆく手の村は青葉の闇につつまれてしまったので、かれらはけてゆく人のすがたを見失った。
「どうしようか。」と、妻は立止まって思案した。
「ともかくも洲先まで行って御覧なされてはいかが。」と、与市は言った。
「そうしましょう。」
 まったくそれよりほかに仕様がないので、妻は思い切ってまた歩き出したが、なにぶんにも暗いので、かれは当惑した。与市は男ではあり、土地の勝手もよく知っているので、さのみ困ることもなかったが、庄兵衛の妻は足許のあぶないのにすこぶる困った。夫のあとをけるつもりで出て来たのであるから、もとより松明たいまつや火縄の用意もない。妻はたまりかねて声をかけた。
「与市。手をひいてくれぬか。」
 与市はすこし躊躇したらしかったが、主人の妻から重ねて声をかけられて、彼はもう辞退するわけにもゆかなくなった。かれは片手に主人の妻の手を取って、暗いなかを探るようにして歩き出した。そうして、まだ十間とは行かないうちに、路ばたの木のかげから何者か現われ出て、忍びの者などが持つ龕燈がんどう提灯を二人の眼先へだしぬけに突きつけた。はっと驚いて立ちすくむと、相手はすぐに呼びかけた。
「与市か。主人の妻の手を引いて、どこへゆく。」
 それは主人の庄兵衛の声であった。庄兵衛はつづけて言った。
「おのれらが不義の証拠、たしかに見届けたぞ。覚悟しろ。」
「あれ、飛んでもないことを……。」と、妻はおどろいて叫んだ。
「ええ、若い下郎めと手に手を取って、闇夜をさまよいあるくのが何より証拠だ。」
 もう問答のいとまもない。庄兵衛の刀は闇にひらめいたかと思うと、片手なぐりに妻の肩先から斬り下げた。
 あっと叫んで逃げようとする与市も、おなじく背後うしろから肩を斬られた。それでも彼は夢中で逃げ出すと、あたかも自分の家の前に出たので、やれ嬉しやと転げ込むと、母も兄もその血みどろの姿を見てびっくりした。与市は今夜の始末を簡単に話して、そのまま息が絶えてしまった。
 あくる朝になって、庄兵衛から表向きの届けが出た。妻は中間の与市と不義を働いて、与市の実家へ身を隠そうとするところを、途中で追いとめて二人ともに成敗いたしたというのである。妻の里方ではそれを疑った。与市の母や兄はもちろん不承知であった。しかし里方としても確かに不義でないという反証を提出することは出来なかった。与市の母や兄は身分ちがいの悲しさに、しょせんは泣き寝入りにするのほかはなかった。
 それと同時に、与市の家へは庄兵衛の使が来て、左様な不埒ふらち者の宿許やどもとへお冬を預けておくことは出来ぬというので、迎いの乗物にお冬を乗せて帰った。その日から一本足の美しい女は庄兵衛の屋敷の奥に養われることになったのである。
 何分にも主人の家が潰れるか立つか、自分たちも生きるか死ぬか、それさえも判らぬという危急存亡の場合であるから、誰もそんなことを問題にする者はなかった。

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