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青蛙堂鬼談(せいあどうきだん)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-8-27 9:48:57  点击:  切换到繁體中文


     三

「ここの家の姓は徐といいます。今から五代前、というと大変に遠い昔話のようですが、四十年ほど前のことだといいますから、日本では元治か慶応の初年、支那では同治三年か四年頃にあたるでしょう。丁度かの長髪賊の洪秀全こうしゅうぜんがほろびた頃ですね。」
 S君はさすがに支那の歴史をそらんじていて、まずその年代を明らかにした。
「ここのうちも現在は農ですが、その当時は瓦屋であったそうです。自分の家にかまどを設けて瓦を焼くのです。あまり大きな家ではない。主人と伜ふたりで焼いていた。それへ冬の日の夕方、なんでも雪の降っている日であったそうですが、二人の旅びとがたずねて来た。たずねて来たといっても、物に追われたようにあわただしく駈け込んで来たのです。その旅びとは主人にむかって、我れわれは捕吏に追われている者であるから、どうぞ隠まってもらいたい。その代りに我れわれの持っている金を半分わけてあげると言って、重そうな革袋を出して渡した。主人も欲に眼がくらんで、すぐによろしいと引受けた。が、さてそれを隠すところがないので、あたかも瓦竈かわらがまに火を入れてなかったを幸いに、ふたりをその竈のなかへ押込んで戸を閉めると、続いてそのあとから巡警が五、六人追って来て、今ここへ怪しい二人づれの旅びとが来なかったかと詮議したが、主人は空とぼけて何にも知らないと言う。しかし巡警らは承知しない、たしかにこの家へ逃げ込んだに相違ないといって、家探やさがしを始めかかったので、主人も困った。これは飛んでもないことをしたと、いまさら悔んでももう遅い。あわや絶体絶命の鍔際つばぎわになったときに、伜の兄が弟に眼くばせをして、素知らぬ顔でその竈に火を焚き付けてしまった。いや、どうも怖ろしい話です。
 巡警らは家内を残らず捜索したが、どこにも人の姿が見あたらない。竈には火がかかっているので、まさかそのなかに人間が隠してあろうとは思わない。結局不審ながらに引揚げたので、主人はまずほっとしたが、さて気にかかるのは竈のなかの人間です。
 瓦と同じように焼かれては堪らない。どうもひどい事をしたものだと言うと、せがれ達の言うには、あの二人は、なにか重い罪を犯したものに相違ない。それを隠まったということが露顕すれば、我れわれ親子も重い罰をうけなければならない。こうなったら仕方がないから、彼らを焼き殺して、我れわれの禍いを逃がれるよりほかはない。彼らとても追手に捕われて、苦しい拷問やむごたらしい処刑をうけるよりも、いっそ一と思いに焼き殺された方がましかも知れない。我れわれが早くに竈へ火をかけたればこそ、追手も油断して帰ったが、さもなければ真っ先に竈の中をあらためて、彼らは勿論、我れわれも今ごろは手枷てかせや首枷をはめられているであろうと言う。
 それを聞くと主人も伜たちの残酷を責める気にもなれなくなって、そんなら思い切って十分に焼いてしまえというので、自分も手伝って、焚き物をたくさんに入れて、哀れな旅びとふたりを火葬にしてしまったのです。旅びとは何者だか判りませんが、おそらく長髪賊の余類だろうということです。江南の賊が満洲へ逃げ込んで来るのもおかしいように思われますが、ここらではそう言っているのです。
 いずれにしても、旅びとは死んで金袋は残った。無事旅びとを助けてやれば、その半分を貰うはずでしたが、相手がみな死んでしまったので、その金は丸取りです。金高はいくらだか知りませんが、徐の家がにわかに工面くめんよくなったのは事実で、近所でも内々不思議に思っていると、その以来、徐の瓦竈にはさまざまの奇怪なことが起ったのです。
 まず第一は瓦が満足に焼けないで、とかくに焼けくずれが出来てしまうことですが、さらに奇怪なのは窯変ようへんです。御承知でもありましょうが、窯変というのは竈の中で形がゆがんでさまざまの物の形に変るのをいうので、数ある焼物のうちに稀にそういうこともあるものだそうですが、徐の家の竈にはその窯変がしばしば続いて、もとより瓦を焼くつもりであるのに、それを竈から取出して見ると、たくさんの瓦がみな人間の顔や手や足の形に変っている。
 それがまた近所の噂になって、徐のうちの窯変には何かの子細があるらしいと噂されているうちに、或る日その若いせがれが竈の中で焼け死んでいるのを発見した。弟が竈にはいっているのを知らないで、兄が外から戸をしめて火をかけたとかいうのです。つづいてその兄も発狂して死ぬというわけで、不幸に不幸が重なって来ました。
 それでも主人は強情に商売をつづけていたが、相変らずの窯変がつづくのでどうすることも出来ない。結局根負けがして瓦屋を廃業して、土地や畑を買って農業を営むこととなったが、その後は別に異変もなく、むしろ身上しんしょうは大きくなる方で、それから十年あまりの後に主人は死んだ。その死にぎわにいろいろのことを口走ったので、瓦竈の秘密が初めて世間に洩れたというのですが、何分にも十年余の昔のことでもあり、確かな証拠もないことですから、それは単に重病人の譫言うわごとというだけで済んでしまったそうです。しかし、かの窯変といい、兄弟の死に方といい、それは事実に相違ないと近所の者は今でも信じているのです。
 兄弟のせがれは父よりも早く死んだので、徐の家では女の子を貰ってそれに婿を取ったのですが、それも主人が死んでから二、三年の後には夫婦ともに死ぬ。つづいて養子、つづいて養女、それがみな七、八年とは続かないでばたばたと倒れてしまって、僅かのあいだに今の主人が六代目というわけだそうです。
 今の主人もやはり養子で、年も若いので、三十年奉公している王という男が、万事の世話をしている。これはなかなかの忠義者で、家に妖ある事を知りながら、引きつづく不幸の中に立って、徐の一家を忠実に守護しているのだそうです。そういう次第で、近所でも王の忠義には同情しているが、家に妖ありとして徐の一家をひどく恐れ嫌っている。諸君はなんにも知らないで、うかうかその門をくぐろうとするのを見て、かの若い支那人は親切に注意したが、ことばがよく通じないので諸君はかえりみずして去ったと言って、あとでまだ不安に思っているようでした。」
「ははあ、そういうわけですか。実はもうその妖に逢いましたよ。」と、T君はまじめで言った。
「妖に逢った……。どんなことがあったのです。」と、S君もまじめで訊きがえした。
「いや、冗談ですよ。」と、僕は気の毒になって打消した。「なに、ここの家のむすめの病気をてくれと頼まれて、T君が例の美人療治をやったのですよ。」
「はあ、そうでしたか。」と、S君も微笑した。「娘というのはおそらく嫁でしょう。私はその娘のことを聴きました。徐の家は呪われているというので、近い処からは誰も嫁に来るものがない。忠僕の王が山東省まで出かけて行って、美人の娘をさがして来た。といっても、実は高い金を出して買って来たのでしょう。ところが、ここへ来るとすぐに病人になって、いつまでも癒らないので困っているということです。よその人に対しては、主人の妻というのを憚って主人の娘といったのでしょう。病気はなんです。」
「たしかに肺病ですね。」と、T君は答えた。
「可哀そうですな。」と、S君も顔をしかめた。「まさかに、ここの家へ貰われて来たせいでもないでしょうが、遅かれ速かれ、家に妖ありの材料がまたひとつ殖えるわけですな。いや、どうも長話をしました。諸君はここにお泊りでしょうから、まあ注意して妖に祟られない方がいいですよ。女妖というのはなお怖ろしいですから。」
 まじめな顔で冗談を言いながら、S君が我れわれのまどいを離れた頃には、高梁のまきももう大方は灰となって、弱い火が寂しくちろちろと燃えていた。僕たち四人も門前まで送って出ると、空には銀のような星が一面に光って、そこらにはこおろぎの声がみだれて聞えた。今夜はもう霜がおりたのかと思われるほどに、重い夜露が暗いなかに薄白く見えた。
「寒い、寒い。もう一度、高梁を焚こう。」
 S君を見送ると僕たちは早々に内へはいった。
 あくる朝ここを出るときに、かの老人は再び湯と茶と砂糖とを持って来てくれた。彼は愛想よく我れわれに挨拶していたが、気のせいかその顔には暗い影が宿っていた。ゆうべの薬をのませたら、病人もけさは非常に気分がいいと言って、彼は繰返して礼をいっていた。
 前方の銃声がけさは取分けて烈しくきこえるので、僕たちもそれにうながされるように急いで身支度をした。S君のゆうべの話を再び考えるひまもなしに、僕たちは所属師団司令部の所在地へ駈けて行った。老人は門前まで送って来て、あわただしく出て行く我れわれに対して、いちいち会釈えしゃくしていた。
 我れわれが遼陽の城外にゆき着いたのは、それから三日の後である。その後、僕は徐の家を訪問する機会がなかったが、かの老人はどうしたか、病める娘はどうしたか。妖ある家は遂にほろびたか、あるいは依然として栄えているか。今ときどきに思い出さずにはいられない。
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   かに


     一

 第八の女は語る。

 これはわたくしの祖母から聴きましたお話でございます。わたくの郷里は越後の柏崎で、祖父の代までは穀屋こくやを商売にいたして居りましたが、父の代になりまして石油事業に関係して、店は他人に譲ってしまいました。それを譲り受けた人もまた代替りがしまして、今では別の商売になっていますが、それでも店だけは幾分か昔のすがたを残していまして、毎年の夏休みに帰省しますときには、いつも何だか懐かしいような心持で、その店をのぞいて通るのでございます。
 祖母は震災の前年に七十六歳で歿しましたが、嘉永かえい元年さる歳の生れで、それが十八の時のことだと申しますから、たぶん慶応初年のことでございましょう。祖母はお初と申しまして、お初の父――すなわちわたくしの曽祖父ひいじじいにあたる人は増右衛門、それがそのころの当主で、年は四十三四であったとか申します。先祖は出羽でわの国から出て来たとかいうことで、家号は山形屋といっていました。土地では旧家の方でもあり、そのころは商売もかなり手広くやっていましたので、店のことは番頭どもに大抵任せておきまして、主人とはいいながら、曽祖父の増右衛門は自分の好きな俳諧をやったり、書画骨董などをいじくったりして、半分は遊びながらに世を送っていたらしいのです。そういう訳でしたから、書家とか画家とか俳諧師という人たちが北国の方へ旅まわりして来ると、きっとわたくしの家へ草鞋わらじをぬぐのが習いで、中には二月も三月も逗留して行くのもあったといいます。
 このお話の時分にも、やはりふたりの客が逗留していました。ひとりは名古屋の俳諧師で野水やすいといい、ひとりは江戸の画家で文阿ぶんあという人で、文阿の方が二十日はつかほども先に来て、ひと月以上も逗留している。野水の方はおくれて来て、半月ばかりも逗留している。そこで、なんでも九月のはじめの晩のことだといいます。主人の増右衛門が自分の知人でやはり俳諧や骨董の趣味のあるもの四人を呼びまして、それに、野水と文阿を加えて主人と客が七人、奥の広い座敷で酒宴を催すことになりました。
 呼ばれた四人は近所の人たちで、暮れ六つごろにみな集まって来ました。お膳を据える前に、先ずお茶やお菓子を出して、七人がいろいろの世間話などをしているところへ、ぶらりとたずねて来たのは坂部与茂四郎よもしろうという浪人でした。浪人といっても、羊羹色の黒羽織などを着ているのではなく、なかなか立派な風をしていたそうです。
 御承知でもございましょうが、江戸時代にはそこらは桑名藩の飛地とびちであったそうで、町には藩の陣屋がありました。その陣屋に勤めている坂部与五郎という役人は、年こそ若いがたいそう評判のよい人であったそうで、与茂四郎という浪人はそのあにさんに当るのですが、子供のときからどうもからだが丈夫でないので、こんにちでいえばまあ廃嫡というようなわけになって、次男の与五郎が家督を相続して、本国の桑名からここの陣屋詰を申付かって来ている。
 兄さんの与茂四郎は早くから家を出て、京都へのぼって或る人相見のお弟子になっていたのですが、それがだんだんに上達して、今では一本立ちの先生になって諸国をめぐりあるいている。人相を見るばかりでなく、占いもたいそう上手だということで、この時は年ごろ三十二三、やはり普通の侍のように刀をさしていて、服装みなりも立派、人柄も立派、なんにも知らない人には、立派なお武家さまとみえるような人物でしたから、なおさら諸人が尊敬したわけです。
 その人が諸国をめぐって信州から越後路へはいって、自分の弟が柏崎の陣屋にいるのをたずねて来て、しばらくそこに足をとめている。曽祖父の増右衛門もふだんから与五郎という人とは懇意にしていましたので、その縁故から兄の与茂四郎とも自然懇意になりまして、ときどきはこちらの家へも遊びに来ることがありました。今夜も突然にたずねて来たのです。こちらから案内したのではありませんが、丁度よいところへ来てくれたといって、増右衛門はよろこんで奥へ通しました。
「これはお客来の折柄、とんだお邪魔をいたした。」と与茂四郎は気の毒そうに座に着きました。
「いや、お気の毒どころではない。実はお招き申したいくらいであったが、御迷惑であろうと存じて差控えておりましたところヘ、折よくお越しくだされて有難いことでございます。」と、増右衛門は丁寧に挨拶して、一座の人々をも与茂四郎に紹介しました。勿論、そのなかには、前々から顔なじみの人もありますので、一同うちとけて話しはじめました。
 よいところへよい客が来てくれたと主人は喜んでいるのですが、不意に飛入りのお客がひとり殖えたので、台所の方では少し慌てました。前に申上げた祖母のお初はまだ十八の娘で、今夜のお給仕役を勤めるはずになっているので、なにかの手落ちがあってはならないと台所の方へ見まわりに行きますと、お料理はお杉という老婢ばあやが受持ちで、ほかの男や女中たちを指図して忙しそうに働いていましたが、祖母の顔をみると小声で言いました。
「お客さまが急にふえて困りました。」
「間に合わないのかえ。」と、祖母も眉をよせながら訊きました。
「いえ、ほかのお料理はどうにでもなりますが、ただ困るのは蟹でございますよ。」
 増右衛門はふだんから蟹が大好きで、今夜の御馳走にも大きい蟹が出るはずになっているのですが、主人と客をあわせて七人前のつもりですから、蟹は七匹しか用意してないところヘ、不意にひとりのお客がふえたのでどうすることも出来ない。
 出入りの魚屋さかなやへ聞き合せにやったが、思うようなのがない。なにぶんにも物が物ですから、その大小が不揃いであると甚だ恰好が悪い。あとできっと旦那さまに叱られる。台所の者もみな心配して、半兵衛という若い者がどこかで見付けて来るといってさっきから出て行ったが、それもまだ帰らない。その蟹の顔を見ないうちは迂闊うかつにほかのお料理を運び出すことも出来ないので、まことに困っていると、お杉は顔をしかめて話しました。
「まったく困るねえ。」と、祖母もいよいよ眉をよせました。ほかにも相当の料理が幾品も揃っているのですから、いっそ蟹だけをはぶいたらどうかとも思ったのですが、なにしろ父の増右衛門が大好きの物ですから、迂闊にはぶいたら機嫌を悪くするに決まっているので、祖母もしばらく考えていますと、奥の座敷で手を鳴らす声がきこえました。
 祖母は引っ返して奥へゆきますと、増右衛門は待ちかねたように廊下へ出て来ました。
「おい、なにをしているのだ。早くお膳を出さないか。」
 催促されたのを幸いに、祖母は蟹の一件をそっと訴えますと、増右衛門はちっとも取合いませんでした。
「なに、一匹や二匹の蟹が間に合わないということがあるものか。町になければ浜じゅうをさがしてみろ。今夜はうまい蟹を御馳走いたしますと、お客さまたちに吹聴ふいちょうしてしまったのだ。蟹がなければ御馳走にはならないぞ。」
 こう言われると、もう取付く島もないので、祖母もよんどころなしに台所へまた引っ返して来ると、台所の者はいよいよ心配して、かの半兵衛が帰って来るのを今か今かと首をのばして待っているうちに、時刻はだんだん過ぎてゆく。奥ではれて催促する。
 誰も彼も気が気でなく、ただうろうろしているところへ、半兵衛が息を切って帰ってきました。それ帰ったというので、みんながあわてて駈け出してみると、半兵衛はひとりの見馴れない小僧を連れていました。小僧は十五六で、膝っきりの短い汚れた筒柚を着て、古い魚籠さかなかごをかかえていました。それをみて皆ま先ずほっとしたそうです。
 その魚籠のなかには、三匹の蟹が入れてあったので、こっちに準備してある七匹の蟹と引合せて、それに似寄りの大きさのを一匹買おうとしたところが、その小僧は遠いところからわざわざ連れて来られたのだから、三匹をみんな買ってくれというのです。
 何分こっちも急いでいる場合、かれこれと押問答をしてもいられないので、その言う通りにみな買ってやることにして、値段もその言う通りに渡してやると、小僧はからの籠をかかえてどこかへ立去ってしまいました。
「まずこれでいい。」
 みなも急に元気で[#「で」はママ]出て、すぐにその蟹をではじめました。

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