異妖の怪談集 岡本綺堂伝奇小説集 其ノ二 |
原書房 |
1999(平成11)年7月2日 |
1999(平成11)年7月2日第1刷 |
1999(平成11)年7月2日第1刷 |
一
これはM君の話である。M君は学生で、ことしの夏休みに静岡在の倉沢という友人をたずねて、半月あまりも逗留していた。
倉沢の家は旧幕府の旗本で、維新の際にその祖父という人が旧主君の供をして、静岡へ無禄移住をした。平生から用心のいい人で、多少の蓄財もあったのを幸いに、幾らかの田地を買って帰農したが、後には茶を作るようにもなって、士族の商法がすこぶる成功したらしく、今の主人すなわち倉沢の父の代になっては大勢の雇人を使って、なかなか盛んにやっているように見えた。祖父という人はすでに世を去って、離れ座敷の隠居所はほとんど空家同様になっているので、わたしは逗留中そこに寝起きをしていた。
「母屋よりもここの方が静かでいいよ。」と、倉沢は言ったが、実際ここは閑静で居心のいい八畳の間であった。しかしその逗留のあいだに三日ほど雨が降りつづいたことがあって、わたしもやや退屈を感じないわけには行かなくなった。
勿論、倉沢は母屋から毎日出張って来て、話し相手になってくれるのではあるが、久し振りで出逢った友達というのではなし、東京のおなじ学校で毎日顔をあわせているのであるから、今さら特別にめずらしい話題が湧き出して来よう筈はない。その退屈がだんだんに嵩じて来た第三日のゆう方に、倉沢は袴羽織という扮装でわたしの座敷へ顔を出した。かれは気の毒そうに言った。
「実は町にいる親戚の家から老人が急病で死んだという通知が来たので、これからちょっと行って来なければならない。都合によると、今夜は泊まり込むようになるかも知れないから、君ひとりで寂しいだろうが、まあ我慢してくれたまえ。このあいだ話したことのある写本だがね。家の者に言いつけて土蔵の中から捜し出させて置いたから、退屈しのぎに読んで見たまえ。格別面白いこともあるまいとは思うが……。」
彼は古びた写本七冊をわたしの前に置いた。
「このあいだも話した通り、僕の家の六代前の主人は享保から宝暦のころに生きていたのだそうで、雅号を杏雨といって俳句などもやったらしい。その杏雨が何くれとなく書きあつめて置いた一種の随筆がこの七冊で、もともと随筆のことだから何処まで書けばいいということもないだろうが、とにかくまだこれだけでは完結しないとみえて、題号さえも付けてないのだ。維新の際に祖父も大抵のものは売り払ってしまったのだが、これだけはまず残して置いた。勿論、売るといったところで買い手もなく、さりとて紙屑屋へ売るのも何だか惜しいような気がするので、保存するという意味でもなしに自然保存されて、今日まで無事であったというわけだが、古つづらの底に押し込まれたままで誰も読んだ者もなかったのを、さきごろの土用干しの時に、僕が測らず発見したのだ。」
「それでも二足三文で紙屑屋なんぞに売られてしまわなくって好かったね。今日になってみれば頗る貴重な書き物が維新当時にみんな反古にされてしまったからね。」と、わたしはところどころに虫くいのある古写本をながめながら言った。
「なに、それほど貴重な物ではないに決まっているがね。君はそんなものに趣味を持っているようだから、まあ読んでみて、何か面白いことでもあったら僕にも話してくれたまえ。」
こう言って倉沢は雨のなかを出て行った。かれのいう通り、わたしは若いくせにこんなものに趣味をもっていて、東京にいるあいだも本郷や神田の古本屋あさりをしているので、一種の好奇心も手伝ってすぐにその古本をひき寄せて見ると、なるほど二百年も前のものかも知れない。黴臭いような紙の匂いが何だか昔なつかしいようにも感じられた。一冊は半紙廿枚綴りで、七冊百四十枚、それに御家流で丹念に細かく書かれているのであるから、全部を読了するにはなかなかの努力を要すると、わたしも始めから覚悟して、きょうはいつもよりも早く電燈のスイッチをひねって、小さい食卓の上でその第一冊から読みはじめた。
随筆というか、覚え帳というか、そのなかには種々雑多の事件が書き込まれていて、和歌や俳諧の風流な記事があるかと思うと、公辺の用務の記録もある。題号さえも付けてないくらいで、本人はもちろん世間に発表するつもりはなかったのであろうが、それにしても余りに乱雑な体裁だと思いながら、根よく読みつづけているうちに「深川仇討の事」「湯島女殺しの事」などというような、その当時の三面記事をも発見した。それに興味を誘われて、さらに読みつづけてゆくと、「稲城家の怪事」という標題の記事を又見付けた。
それにはこういう奇怪の事実が記されてあった。
原文には単に今年の七月初めと書いてあるが、その年の二月、行徳の浜に鯨が流れ寄ったという記事から想像すると、それは享保十九年の出来事であるらしい。日も暮れ六つに近い頃に、ひとりの中間体の若い男が風呂敷づつみを抱えて、下谷御徒町辺を通りかかった。そこには某藩侯の辻番所がある。これも単に某藩侯とのみ記してあるが、下谷御徒町というからは、おそらく立花家の辻番所であろう。その辻番所の前を通りかかると、番人のひとりが彼の中間に眼をつけて呼びとめた。
「これ、待て。」
由来、武家の辻番所には「生きた親爺の捨て所」と川柳に嘲られるような、半耄碌の老人の詰めているのが多いのであるが、ここには「筋骨たくましき血気の若侍のみ詰めいたれば、世の人常に恐れをなしけり」と原文に書いてある。その血気の若侍に呼びとめられて、中間はおとなしく立ちどまると、番人は更に訊いた。
「おまえの持っているものは何だ。」
「これは西瓜でござります。」
「あけて見せろ。」
中間は素直に風呂敷をあけると、その中から女の生首が出た。番人は声を荒くして詰った。
「これが西瓜か。」
中間は真っ蒼になって、口も利けなくなって、唯ぼんやりと突っ立っていると、他の番人もつづいて出て来て、すぐに彼を捻じ伏せて縄をかけてしまった。三人の番人はその首をあらためると、それは廿七八か、三十前後の色こそ白いが醜い女で、眉も剃らず、歯も染めていないのを見ると、人妻でないことは明らかであった。ただ不思議なのは、その首の切口から血のしたたっていないことであるが、それは決して土人形の首ではなく、たしかに人間の生首である。番人らは一応その首をあらためた上で、ふたたび元の風呂敷につつみ、さらにその首の持参者の詮議に取りかかった。
「おまえは一体どこの者だ。」
「本所の者でござります。」
「武家奉公をする者か。」
それからそれへと厳重の詮議に対して、中間はふるえながら答えた。かれはまだ江戸馴れない者であるらしく、殊に異常の恐怖に襲われて半分は酔った人のようになっていたが、それでも尋ねられることに対しては皆、ひと通りの答弁をしたのである。彼は本所の御米蔵のそばに小屋敷を持っている稲城八太郎の奉公人で、その名を伊平といい、上総[#ルビの「かずさ」は底本では「かずき」]の八幡在から三月前に出て来た者であった。したがって、江戸の勝手も方角もまだよく判らない。きょうは主人の言いつけで、湯島の親類へ七夕に供える西瓜を持ってゆく途中、道をあやまって御徒町の方角へ迷い込んで来たものであるということが判った。
「湯島の屋敷へは今日はじめて参るものか。」と、番人は訊いた。
「いえ、きょうでもう四度目でござりますから、なんぼ江戸馴れないと申しても、道に迷う筈はないのでござりますが……。」と、中間は自分ながら不思議そうに小首をかしげていた。
「主人の手紙でも持っているか。」
「御親類のことでござりますから、別にお手紙はござりません。ただ口上だけでござります。」
「その西瓜というのはお前も検めて来たのか。」
「お出入りの八百屋へまいりまして、わたくしが自分で取って来て、旦那様や御新造様のお目にかけ、それで宜しいというので風呂敷につつんで参ったのでござりますから……。」と、かれは再び首をかしげた。「それが途中でどうして人間の首に変りましたか。まるで夢のようでござります。まさかに狐に化かされたのでもござりますまいが……。なにがどうしたのか一向にわかりません。」
暮れ六つといっても、この頃の日は長いので往来は明るい。しかも江戸のまん中で狐に化かされるなどということのあるべき筈がない。さりとて田舎者丸出しで見るから正直そうなこの若い中間が嘘いつわりを申立てようとも思われないので、番人らも共に首をかしげた。第一、なにかの子細があって人間の生首を持参するならば、夜中ひそかに持ち運ぶべきであろう。暮れ方といっても夕日の光りのまだ消え残っている時刻に、平気でそれを抱えあるいているのは、あまりに大胆過ぎているではないか。もし又、かれの申立てを真実とすれば、近ごろ奇怪千万の出来事で、西瓜が人間の生首に変るなどとは、どう考えても判断の付かないことではないか。番人らも実に思案に惑った。
「どうも不思議だな。もう一度よく検めてみよう。」
かれらは念のために、再びその風呂敷をあけて見て、一度にあっと言った。中間も思わず声をあげた。
風呂敷につつまれた女の生首は元の西瓜に変っているのである。叩いてみても、転がして見ても、それは確かに青い西瓜である。西瓜が生首となり、さらに西瓜となり、さながら魔術師に操られたような不思議を見せたのであるから、諸人のおどろかされるのも無理はない、それも一人の眼ならば見損じということもあろうが、若い侍が三人、若い中間が一人、その四人の眼に生首とみえたものが忽ち西瓜に変るなどとは、まったく狐に化かされたとでもいうのほかはあるまい。かれらは徒らに呆れた顔を見合せて、しばらくは溜息をついているばかりであった。
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