日本の文学 77 名作集(一) |
中央公論社 |
1970(昭和45)年7月5日 |
1970(昭和45)年7月5日初版 |
1970(昭和45)年7月5日初版 |
(伊豆の修禅寺に頼家の面というあり。作人も知れず。由来もしれず。木彫の仮面にて、年を経たるまま面目分明ならねど、いわゆる古色蒼然たるもの、観来たって一種の詩趣をおぼゆ。当時を追懐してこの稿成る。)
登場人物
面作師 夜叉王
夜叉王の娘 かつら
同 かえで
かえでの婿 春彦
源左金吾頼家
下田五郎景安
金窪兵衛尉行親
修禅寺の僧
行親の家来など
第一場
伊豆の国狩野の庄、修禅寺村(今の修善寺)桂川のほとり、夜叉王の住家。
藁葺きの古びたる二重家体。破れたる壁に舞楽の面などをかけ、正面に紺暖簾の出入口あり。下手に炉を切りて、素焼の土瓶などかけたり。庭の入口は竹にて編みたる門、外には柳の大樹。そのうしろは畑を隔てて、塔の峰つづきの山または丘などみゆ。元久元年七月十八日。
(二重の上手につづける一間の家体は細工場にて、三方に古りたる蒲簾をおろせり。庭さきには秋草の花咲きたる垣に沿うて荒むしろを敷き、姉娘桂、二十歳。妹娘楓、十八歳。相対して紙砧を擣っている。)
かつら (やがて砧の手をやめる)
一あまりも擣ちつづけたので、肩も腕も
痺るるような。もうよいほどにして
止みょうでないか。
かえで とは言うものの、きのうまでは盆休みであったほどに、きょうからは精出して働こうではござんせぬか。
かつら 働きたくばお前ひとりで働くがよい。父様にも春彦どのにも褒められようぞ。わたしはいやじゃ、いやになった。(投げ出すように砧を捨つ)
かえで 貧の手業に姉妹が、年ごろ擣ちなれた紙砧を、とかくに飽きた、いやになったと、むかしに変るお前がこのごろの素振りは、どうしたことでござるかのう。
かつら (あざ笑う)いや、昔とは変らぬ。ちっとも変らぬ。わたしは昔からこのようなことを好きではなかった。父さまが鎌倉においでなされたら、わたしらもこうはあるまいものを、名聞を好まれぬ職人気質とて、この伊豆の山家に隠れ栖、親につれて子供までも鄙にそだち、しょうことなしに今の身の上じゃ。さりとてこのままに朽ち果てようとは夢にも思わぬ。近いためしは今わたしらが擣っている修禅寺紙、はじめは賤しい人の手につくられても、色好紙とよばれて世に出づれば、高貴のお方の手にも触るる。女子とてもその通りじゃ。たとい賤しゅう育っても、色好紙の色よくば、関白大臣将軍家のおそばへも、召し出されぬとは限るまいに、賤の女がなりわいの紙砧、いつまで擣ちおぼえたとて何となろうぞ。いやになったと言うたが無理か。
かえで それはおまえが口癖に言うことじゃが、人には人それぞれの分があるもの。将軍家のお側近う召さるるなどと、夢のようなことをたのみにして、心ばかり高う打ちあがり、末はなんとなろうやら、わたしは案じられてなりませぬ。
かつら お前とわたしとは心が違う。妹のおまえは今年十八で、春彦という男を持った。それに引きかえて姉のわたしは、二十歳という今日の今まで、夫もさだめずに過したは、あたら一生を草の家に、住み果つまいと思えばこそじゃ。職人風情の妻となって、満足して暮すおまえらに、わたしの心はわかるまいのう。(空嘯く)
(楓の婿春彦、二十余歳、奥より出づ。)
春彦 桂どの。職人風情とさも卑しい者のように言われたが、職人あまたあるなかにも、面作師といえば、世に恥かしからぬ職であろうぞ。あらためて申すに及ばねど、わが日本開闢以来、はじめて舞楽のおもてを刻まれたは、もったいなくも聖徳太子、つづいて藤原淡海公、弘法大師、倉部の春日、この人々より伝えて今に至る、由緒正しき職人とは知られぬか。
かつら それは職が尊いのでない。聖徳太子や淡海公という、その人々が尊いのじゃ。かの人々も生業に、面作りはなされまいが……。
春彦 生業にしては卑しいか。さりとは異なことを聞くものじゃの。この春彦が明日にもあれ、稀代の面をつくり出して、天下一の名を取っても、お身は職人風情と侮るか。
かつら 言んでもないこと、天下一でも職人は職人じゃ、殿上人や弓取りとは一つになるまい。
春彦 殿上人や弓取りがそれほどに尊いか。職人がそれほどに卑しいか。
かつら はて、くどい。知れたことじゃに……。
(桂は顔をそむけて取り合わず。春彦、むっとして詰めよるを、楓はあわてて押し隔てる。)
かえで ああ、これ、一旦こうと言い出したら、あくまでも言い募るが姉さまの気質、逆ろうては悪い。いさかいはもう止してくだされ。
春彦 その気質を知ればこそ、日ごろ堪忍していれど、あまりと言えば詞が過ぐる。女房の縁につながりて、姉と立つればつけ上り、ややもすればわれを軽しむる面憎さ。仕儀によっては姉とは言わさぬ。
かつら おお、姉と言われずとも大事ござらぬ。職人風情を妹婿に持ったとて、姉の見得にも手柄にもなるまい。
春彦 まだ言うか。
(春彦はまたつめ寄るを、楓は心配して制す。この時、細工場の簾のうちにて、父の声。)
夜叉王 ええ、騒がしい。鎮まらぬか。
(これを聴きて春彦は控える。楓は起って蒲簾をまけば、伊豆の夜叉王、五十余歳、烏帽子、筒袖、小袴にて、鑿と槌とを持ち、木彫の仮面を打っている。膝のあたりには木の屑など取り散らしたり。)
春彦 由なきことを言い募って、細工のおさまたげをも省みぬ不調法、なにとぞ御料簡くださりませ。
かえで これもわたしが姉様に、意見がましいことなど言うたが基。姉様も春彦どのも必ず叱って下さりまするな。
夜叉王 おお、なんで叱ろう、叱りはせぬ。姉妹の喧嘩はままあることじゃ。珍らしゅうもあるまい。時に今日ももう暮るるぞ。秋のゆう風が身にしみるわ。そちたちは奥へ行って夕飯の支度、燈火の用意でもせい。
二人 あい。
(桂と楓は起って奥に入る。)
夜叉王 のう、春彦。妹とは違うて気がさの姉じゃ。同じ屋根の下に起き臥しすれば、一年三百六十日、面白からぬ日も多かろうが、何事もわしに免じて料簡せい。あれを産んだ母親は、そのむかし、都の公家衆に奉公したもの、縁あってこの夜叉王と女夫になり、あずまへ流れ下ったが、育ちが育ちとて気位高く、職人風情に連れ添うて、一生むなしく朽ち果つるを悔みながらに世を終った。その腹を分けた姉妹、おなじ胤とはいいながら、姉は母の血をうけて公家気質、妹は父の血をひいて職人気質、子の心がちがえば親の愛も違うて、母は姉贔屓、父は妹贔屓。思い思いに子どもの贔屓争いから、埒もない女夫喧嘩などしたこともあったよ。はははははは。
春彦 そう承われば桂どのが、日ごろ職人をいやしみ嫌い、世にきこえたる殿上人か弓取りならでは、夫に持たぬと誇らるるも、母御の血筋をつたえしため、血は争われぬものでござりまするな。
夜叉王 じゃによって、あれが何を言おうとも、滅多に腹は立てまいぞ。人を人とも思わず、気位高う生まれたは、母の子なれば是非がないのじゃ。
(暮の鐘きこゆ。奥より楓は燈台を持ちて出づ。)
春彦 おお、取り紛れて忘れていた。これから大仁の町まで行って、このあいだ誂えておいた鑿と小刀をうけ取って来ねばなるまいか。
かえで きょうはもう暮れました。いっそ明日にしなされては……。
春彦 いや、いや、職人には大事の道具じゃ。一刻も早う取り寄せておこうぞ。
夜叉王 おお、職人はその心がけがのうてはならぬ。更けぬ間に、ゆけ、行け。
春彦 夜とは申せど通いなれた路、
一ほどに戻って来まする。
(春彦は出てゆく。楓は門にたちて見送る。修禅寺の僧一人、燈籠を持ちて先に立ち、つづいて源の頼家卿、二十三歳。あとより下田五郎景安、十七八歳、頼家の太刀をささげて出づ。)
僧 これ、これ、将軍家のおしのびじゃ。粗相があってはなりませぬぞ。
(楓ははッと平伏す。頼家主従すすみ入れば、夜叉王も出で迎える。)
夜叉王 思いもよらぬお成りとて、なんの設けもござりませぬが、まずあれへお通りくださりませ。
(頼家は縁に腰をかける。)
夜叉王 して、御用の趣は。
頼家 問わずとも大方は察しておろう。わが面体を後のかたみに残さんと、さきにその方を召し出し、頼家に似せたる面を作れと、絵姿までも遣わしておいたるに、日を経るも出来せず、幾たびか延引を申し立てて、今まで打ち過ぎしは何たることじゃ。
五郎 多寡が面一つの細工、いかに丹精を凝らすとも、百日とは費すまい。お細工仰せつけられしは当春の初め、その後すでに半年をも過ぎたるに、いまだ献上いたさぬとはあまりの懈怠、もはや猶予は相成らぬと、上様の御機嫌さんざんじゃぞ。
頼家 予は生まれついての性急じゃ。いつまで待てど暮せど埒あかず、あまりに歯痒う覚ゆるまま、この上は使いなど遣わすこと無用と、予がじきじきに催促にまいった。おのれ何ゆえに細工を怠りおるか。仔細をいえ、仔細を申せ。
夜叉王 御立腹おそれ入りましてござりまする。もったいなくも征夷大将軍、源氏の棟梁のお姿を刻めとあるは、職のほまれ、身の面目、いかでか等閑に存じましょうや。御用うけたまわりてすでに半年、未熟ながらも腕限り根かぎりに、夜昼となく打ちましても、意にかなうほどのもの一つもなく、さらに打ち替え作り替えて、心ならずも延引に延引をかさねましたる次第、なにとぞお察しくださりませ。
頼家 ええ、催促の都度におなじことを……。その申しわけは聞き飽いたぞ。
五郎 この上はただ延引とのみで相済むまい。いつのころまでにはかならず出来するか、あらかじめ期日をさだめてお詫を申せ。
夜叉王 その期日は申し上げられませぬ。左に鑿をもち、右に槌を持てば、面はたやすく成るものと思し召すか。家をつくり、塔を組む、番匠なんどとは事変りて、これは生なき粗木を削り、男、女、天人、夜叉、羅刹、ありとあらゆる善悪邪正のたましいを打ち込む面作師。五体にみなぎる精力が、両の腕におのずから湊まる時、わがたましいは流るるごとく彼に通いて、はじめて面も作られまする。ただしその時は半月の後か、一月の後か、あるいは一年二年の後か。われながら確とはわかりませぬ。
僧 これ、これ、夜叉王どの。上様は御自身も仰せらるるごとく、至って御性急でおわします。三島の社の放し鰻を見るように、ぬらりくらりと取止めのないことばかり申し上げていたら、御疳癖がいよいよ募ろうほどに、こなたも職人冥利、いつのころまでと日を限って、しかと御返事を申すがよかろうぞ。
夜叉王 じゃと言うて、出来ぬものはのう。
僧 なんの、こなたの腕で出来ぬことがあろう。面作師も多くあるなかで、伊豆の夜叉王といえば、京鎌倉までも聞えた者じゃに……。
夜叉王 さあ、それゆえに出来ぬと言うのじゃ。わしも伊豆の夜叉王と言えば、人にも少しは知られたもの。たといお咎め受きょうとも、己が心に染まぬ細工を、世に残すのはいかにも無念じゃ。
頼家 なに、無念じゃと……。さらばいかなる祟りを受きょうとも、早急には出来ぬというか。
夜叉王 恐れながら早急には……。
頼家 むむ、おのれ覚悟せい。
(癇癖募りし頼家は、五郎のささげたる太刀を引っ取って、あわや抜かんとす。奥より桂、走り出づ。)
かつら まあ、まあ、お待ちくださりませ。
頼家 ええ、退け、のけ。
かつら まずお鎮まりくださりませ。面はただ今献上いたしまする。のう、父様。
(夜叉王は黙して答えず。)
五郎 なに、面はすでに出来しておるか。
頼家 ええ、おのれ。前後不揃いのことを申し立てて、予をあざむこうでな。
かつら いえ、いえ、嘘いつわりではござりませぬ。面はたしかに出来しておりまする。これ、父様。もうこの上は是非がござんすまい。
かえで ほんにそうじゃ。ゆうべようやく出来したというあの面を、いっそ献上なされては……。
僧 それがよい、それがよい。こなたも凡夫じゃ。名も惜しかろうが、命も惜しかろう。出来した面があるならば、早う上様にさしあげて、お慈悲をねがうが上分別じゃぞ。
夜叉王 命が惜しいか、名が惜しいか。こなた衆の知ったことではない。黙っておいやれ。
僧 さりとて、これが見ていらりょうか。さあ、娘御。その面を持って来て、ともかくも御覧に入れたがよいぞ。早う、早う。
かえで あい、あい。
(かえでは細工場へ走り入りて、木彫の仮面を入れたる箱を持ち出づ。桂はうけ取りて頼家の前にささぐ。頼家は無言にて桂の顔をうちまもり、心少しく解けたる体なり。)
かつら いつわりならぬ証拠、これ御覧くださりませ。
(頼家は仮面を取りて打ちながめ、思わず感嘆の声をあげる。)
頼家 おお、見事じゃ。よう打ったぞ。
五郎 上様おん顔に生写しじゃ。
頼家 むむ。(飽かず打ち戍る)
僧 さればこそ言わぬことか。それほどの物が出来していながら、とこう渋っておられたは、夜叉王どのも気の知れぬ男じゃ。ははははは。
夜叉王 (形をあらためる)何分にもわが心にかなわぬ細工、人には見せじと存じましたが、こう相成っては致し方もござりませぬ。方々にはその面をなんと御覧なされまする。
頼家 さすがは夜叉王、あっぱれの者じゃ。頼家も満足したぞ。
夜叉王 あっぱれとの御賞美ははばかりながらおめがね違い、それは夜叉王が一生の不出来。よう御覧じませ。面は死んでおりまする。
五郎 面が死んでおるとは……。
夜叉王 年ごろあまた打ったる面は、生けるがごとしと人も言い、われも許しておりましたが、不思議やこのたびの面に限って、幾たび打ち直しても生きたる色なく、たましいもなき死人の相……。それは世にある人の面ではござりませぬ。死人の面でござりまする。
五郎 そちはさように申しても、われらの眼にはやはり生きたる人の面……。死人の相とは相見えぬがのう。
夜叉王 いや、いや、どう見直しても生ある人ではござりませぬ。しかも眼に恨みを宿し、何者をか呪うがごとき、怨霊怪異なんどのたぐい……。
僧 あ、これ、これ、そのような不吉のことは申さぬものじゃ。御意にかなえばそれで重畳、ありがたくお礼を申されい。
頼家 むむ。とにもかくにもこの面は頼家の意にかのうた。持ち帰るぞ。
夜叉王 強って御所望とござりますれば……。
頼家 おお、所望じゃ。それ。
(頼家は頤にて示せば、かつら心得て仮面を箱に納め、すこしく媚を含みて頼家にささぐ。頼家はさらにその顔をじっと視る。)
頼家 いや、なおかさねて主人に所望がある。この娘を予が手もとに召し仕いとう存ずるが、奉公さする心はないか。
夜叉王 ありがたい御意にござりまするが、これは本人の心まかせ、親の口から御返事は申し上げられませぬ。
(桂は臆せず、すすみ出づ。)
かつら 父様。どうぞわたしに御奉公を……。
頼家 うい奴じゃ。奉公をのぞむと申すか。
かつら はい。
頼家 さらばこれよりその面をささげて、頼家の供してまいれ。
かつら かしこまりました。
(頼家は起つ。五郎も起つ。桂もつづいて起つ。楓は姉の袂をひかえて、心もとなげに囁く。)
かえで 姉さま。おまえは御奉公に……。
かつら おまえは先ほど、夢のような望みと笑うたが、夢のような望みが今かのうた。
(かつらは誇りがに見かえりて、庭に降り立つ。)
僧 やれ、やれ、これで愚僧もまず安堵いたした。夜叉王どの、あすまた逢いましょうぞ。
(頼家は行きかかりて物につまずく。桂は走り寄りてその手を取る。)
頼家 おお、いつの間にか暗うなった。
(僧はすすみ出でて、桂に燈籠を渡す。桂は仮面の箱を僧にわたし、われは片手に燈籠を持ち、片手に頼家をひきて出づ。夜叉王はじっと思案の体なり。)
かえで 父さま、お見送りを……。
(夜叉王は初めて心づきたるごとく、娘とともに門口に送り出づ。)
五郎 そちへの御褒美は、あらためて沙汰するぞ。
(頼家らは相前後して出でゆく。夜叉王は起ち上りて、しばらく黙然としていたりしが、やがてつかつかと縁にあがり、細工場より槌を持ち来たりて、壁にかけたるいろいろの仮面を取り下し、あわや打ち砕かんとす。楓はおどろきて取り縋る。)
かえで ああ、これ、なんとなさる。おまえは物に狂われたか。
夜叉王 せっぱ詰まりて是非におよばず、拙き細工を献上したは、悔んでも返らぬわが不運。あのような面が将軍家のおん手に渡りて、これぞ伊豆の住人夜叉王が作と宝物帳にも記されて、百千年の後までも笑いをのこさば、一生の名折れ、末代の恥辱、所詮夜叉王の名は廃った。職人もきょう限り、再び槌は持つまいぞ。
かえで さりとは短気でござりましょう。いかなる名人上手でも細工の出来不出来は時の運。一生のうちに一度でもあっぱれ名作が出来ようならば、それがすなわち名人ではござりませぬか。
夜叉王 むむ。
かえで 拙い細工を世に出したをそれほど無念と思し召さば、これからいよいよ精出して、世をも人をもおどろかすほどの立派な面を作り出し、恥を雪いでくださりませ。
(かえでは縋りて泣く。夜叉王は答えず、思案の眼を瞑じている。日暮れて笛の声遠くきこゆ。)
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