二
十一日、陰。ゆうべは蚊帳のなかで碁を囲んで夜ふかしをした為に、田島の奥さんに起されたのは午前十時、田島さんは予の寝ているうちに出社したという。きまりが悪いので早々に飛び起きて顔を洗い、あさ飯の御馳走になっているところへ、田島さんはあわただしく帰り来たり、これから日光へ出張しなければならない、丁度いいから一緒に行こうという。田島さんにせき立てられて、奥さんに挨拶もそこそこにして出る。停車場に駈けつけると、汽車はいま出るところなり。二人はころげるようにして漸く乗り込むと、夏の鳥打帽をかぶりたる三十前後の小作りの男がわれわれよりも先に乗っていて、田島さんを見て双方無言で挨拶する。やがて彼は田島さんにむかいて「あなたも御出張ですか。」といえば、田島さんはうなずいて「御同様に忙がしいことが出来ました。」という。それを口切りに、二人のあいだにはいろいろの会話が交換されたり。だんだん聞けば、予の留守のあいだに、日光の町にいたましき事件が突発して、かの磯貝満彦という青年紳士が何者にか惨殺されたるなり。
兇行は昨夜八時頃より今暁四時頃までのあいだに仕遂げられたらしく、磯貝は銘仙の単衣の上に絽の羽織をかさねて含満ヶ渕のほとりに倒れていたり。両手にて咽喉を強く絞められたらしく、ほかには何の負傷の痕もなし。また別に抵抗を試みたる形跡もなきは、その薄羽織の少しも破れざるを見ても察せられる。かれは片手にステッキを持っていたれど、それすらも振廻す暇がなかったらしいという。それは新聞社に達したる通信にて、田島さんの話なり。また、鳥打帽の男の話によれば、磯貝の紙入れはふところから掴み出して、引裂いて大地へ投げ捨ててありしが、在中の百余円はそのままなり。金時計は石に叩きつけて打毀してあり。それらの事実から考えると、どうしても普通の物取りではなく、なにかの意趣らしいという。この鳥打帽の男は宇都宮の折井という刑事巡査であることを後にて知りたり。
午後に日光に着けば、判検事の臨検はもう済みて、磯貝の死体はその旅館に運ばれていたり。田島さんと折井君に別れて、予は自分の宿にかえる。宿でもこの噂で大騒ぎなり。こんな騒ぎのあるせいか、今日もまただんだんに暑くなる。午後二時ごろに田島さんが来て、これから折井君と一緒に現場を検分に行くが、君も行ってみないかという。一種の好奇心にそそられて、すぐに表へ出ると、折井君は先に立って行く。田島さんと予はあとについて行く。やがて下河原の橋を渡って含満ヶ渕に着く。たびたび散歩に来たところなれど、ここで昨夜おそろしい殺人の犯罪が行われたかと思うと、ふだんでも凄まじい水の音が今日はいよいよ凄まじく、踏んでいる土は震うように思わる。ここの名物の化地蔵が口を利いてくれたら、ゆうべの秘密もすぐに判ろうものを、石の地蔵尊は冷たく黙っておわします。予は暗い心持になって、おなじく黙って突っ立っていると、折井君は鷹のような眼をして頻りにそこらを眺めまわしている。田島さんもそれと競争するように、眼をはだけてきょろきょろしている。
やがて田島さんはバットのあき箱を拾うと、折井君は受取って子細らしく嗅いでみる。箱をあけて振ってみる。それからまた三十分ばかりもそこらをうろうろしているうちに、折井君は草のあいだから薄黒い小鳥の死骸を探し出したり。ようように巣立ちをしたばかりの雛にて、なんという鳥か判らず。田島さんは時鳥だろうという。折井君は黙って首をかしげている。ともかくもその雛鳥の死骸とバットの箱とを袂に入れて折井君はもう帰ろうと言い出したれば、二人も一緒に引っ返す。その途中、折井君は予にむかいて「あなたは先月からここに御逗留だそうですが、ここらの挽地物屋で、小鳥をたくさんに飼っている家はありませんか。」と訊く。それはお冬さんの家なり。予は正直に答えると、折井君はまた思案して「そのお冬というのはどんな女です。」と重ねて訊く。予は知っているだけのことを答えたり。
予はここで白状す。お冬さんがこの事件に関係があろうとは思われず。たとい関係があるとしても、おとなしいお冬さんが大の男を絞め殺そう筈はなし、どのみち直接にはなんの関係もないらしく思われながら、予は妙に気おくれがして、お冬さんが家出のことをこの探偵の前にさらけ出すのを躊躇したり。別に子細はなし、若いお冬さんの秘密を他に洩らすのがなんだか痛々しいような気がしたるためなり。他のことはみな正直に言いたれど、この事だけは暫く秘密を守れり。
折井君には途中で別れ、田島さんは予の宿に来たりて新聞の原稿を書く。きょうは坐っていても汗が出る。陰りて蒸し暑く、当夏に入りて第一の暑気かも知れず。田島さんは忙がしそうに原稿を書き終りて、夕方の汽車で宇都宮へ帰る。予は停車場まで送って行く。帰りぎわに田島さんは予にささやきて「折井君はお冬という娘に眼をつけているらしい。君も注意して、なにか聞き出したことがあったら直ぐに知らしてくれたまえ。」と言う。なんだか忌な心持にもなったけれど、ともかくも承知して別れる。宿へ帰る途中で再び折井君に逢う。折井君は汗をふきながら大活動の様子なり。しかもその活動を妨げるように、日が暮れると例の雷雨。
十二日、晴。神経が少し興奮しているせいか、けさは四時頃から眼がさめる。あさ飯の膳の出るのを待ちかねて、早々に食ってしまって散歩に出る。六兵衛老人の姿はけさも店先にあらわれず。お冬さんに訊けば、気分が悪いので奥に寝ているという。お冬さんの顔色もひどく悪し。予は思い切って「警察の人が何か調べに来ましたか。」と訊けば、誰も来ないという。少し安心して宿に帰れば、かの小せんという芸者が店口に腰をかけて帳場にいる女房と何か話している。まんざら知らない顔でもなければ、予も挨拶しながら並んで腰をおろすと、小せんはゆうべいろいろの取調べを受けた話をして、被害者の磯貝は財産家の息子で非常の放蕩者なり、自分は彼の贔屓になっていたれど、兇行の当夜はほかの座敷に出ていて何事も知らざりしという。予はそれとなく探りを入れて、磯貝はお冬さんと何かわけでもあったのかと訊けば、小せんは断じてそんなことはあるまいという。予はいよいよ安心して自分の座敷に戻る。
午後一時頃に田島さん再び来たる。被害者が資産家の息子だけに、この事件は東京の新聞にも詳しく掲載されてあるとの話なり。現に東京の新聞記者五、六名も田島さんと同じ汽車にて当地に入り込みたる由なれば、田島さんも競争して大いに活動するつもりらしく見ゆ。田島さんは宿で午飯を食いてすぐに出て行く。晴れたれども涼しい風がそよそよと吹く。――夕方に田島さん帰り来たりて、警察側の意見を予に話して聞かせる。兇行の嫌疑者に三種あり。第一は東京より磯貝のあとを追い来たりしものにて、彼の父は実業家とはいえ、金貸を本業として巨万の富を作りたる人物なれば、なにかの遺恨にて復讐の手をその子の上に加えしならんという説。第二は小せんの情夫にて、かれは鹿沼町の某会社の職工なりといえば、一種の嫉妬か、あるいは小せんと共謀して欲得のために磯貝を害せしやも知れずという説。第三はかのお冬の父の六兵衛ならんという説。折井君は頻りに第三の説を主張していれど、これは根拠が最も薄弱なりと田島さんはいう。予も同感なり。
第二の説もいかがにや。欲心のために磯貝を害せしならば、紙入れや金時計をも奪い去るべき筈なるに、紙入れは引裂きたれど中味は無事なりしという。金時計も打毀して捨ててあり。これから考えると、これも根拠が薄いようなり。ただし小せんはなんにも知らぬことにて、単に情夫の嫉妬と認むればこの説も相当に有力なるべし。こう煎じつめると、第一の説が最も確実らしいけれど、磯貝親子の人物についてなんにも知らざれば、予にはその当否の判断が付かず。ことに昨今は避暑客の出盛りにて、東京よりこの町に入り込みいる者おびただしければ、いちいち取調べるもなかなか困難なるべしと察せらる。
夕飯を食ってしまうと、田島さんはまた出て行く。二階の窓から見あげると、大きい山の影は黒くそびえて、空にはもう秋らしい銀河が夢のように薄白く流れている。やがて田島さんが忙がわしく帰って来て、折井君はとうとう六兵衛老人を拘引したという。予はなんだか腹立たしく感じられて、なにを証拠に拘引したかと鋭くきけば、田島さんも詳しいことは知らず。しかし現場にてきのう拾いたる巻煙草の空き箱に木屑の匂いが残っていたのと、それを振ったときに細かい木屑が少しばかりこぼれ出したとの、この二つにて兇行者が挽地物細工に関係あるものと鑑定したらしいとのこと也。しかし挽地物屋はほかにもたくさんあり。もうひとつの証拠はかの薄黒い雛鳥の死骸なりといえど、これは折井君も秘していわざる由。
それを聞かされて、予はなんとなく落ちついていられず。田島さんが原稿を書いている間に、宿をぬけ出してお冬さんの家を覗きに行く。夜はもう八時過ぎなり。店先からそっとうかがえば、お冬さんの姿はみえず、声をかけても奥に返事はなし。すこし不安になりて、となりの人に訊けば、お冬さんはたった今どこへか出て行ったという。不安はいよいよ募りてしばらく考えているうちに、ふと胸に浮かびしことあり。もしやと思いて、すぐに含満ヶ渕の方へ追って行く。
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