おかん あら、大屋さんが歸つて來なすつた。
六郎 おゝ、みんなこゝにゐたか。まあ、まあ、めでたい、目出たい。わたしもこれで重荷をおろした。
彦三郎 みなさんのお蔭樣で、わたくしの本望もやうやく達しまして、こんな嬉しいことはござりません。
權三 本望が達したかえ。いや、それで判つた。今こゝへお役人が來て、勘太郎を召捕つて行きましたよ。
彦三郎 では、勘太郎はもう召捕られましたか。
助十 (自慢らしく)おれ達がふん縛つてお役人に引渡して遣つたよ。
六郎 いや、それは早手廻しであつたな。
助八 それにしても、どうでもお召捕りになる勘太郎をなぜ一旦ゆるして歸したんだね。
六郎 そこが大岡樣のえらい所だ。いくら權三と助十が證人に出てくれても、その晩に見た奴は左官の勘太郎に相違ございませんと云ふばかりでは、ほかには確かな證據がない。勘太郎は飽までもシラを切つて白状しない。さすがのお奉行樣も吟味の仕樣がないので、先づおかまひないと云ふことで勘太郎めを一旦下げて置いて、實はちやんと隱し目附をつけてあつたのだ。ねえ、彦三郎さん。まつたく大岡樣はえらいではないか。
彦三郎 實に恐れ入りましてござります。今もお家主樣がおつしやる通り、一旦は勘太郎を無事に下げて、そつと隱し目附をつけて置かれますと、身におぼえのある勘太郎は、自分の家へ歸るとすぐに天井の板をはがして、そこに隱してあつた血だらけの金財布を取出して、臺所の竈の下で燒いてしまつたさうでござります。
六郎 どうで燒くなら早く燒いてしまへばいゝものを、そこがやつぱり運の盡きで、今まで天井裏に隱して置いて、それを竊と取出したところを、隱し目附にすつかり睨まれてしまつたので、もう動きが取れない。そこで、今日あらためてお召捕りといふことになつたのだから、彼奴いくら強情を張つても、今度こそは再び娑婆へは出られまいよ。そこで、權三と助十だがな。
二人 はい、はい。
六郎 かうなつた以上は、勿論町内あづけも免されるな。
二人 はい、はい。
六郎 身分の低い者どもにも似合はず、侠氣を以て小間物屋彦三郎に助力いたし、まことの罪人を訴へ出でたる段、近ごろ奇特に存ずるといふので、いづれ改めてお呼び出しの上、お奉行樣から直々のお褒めがある筈だぞ。
二人 やあ、ありがてえ、ありがてえ。
助八 ぢやあ、御褒美も出るだらうか。
六郎 慾張つた奴だ。まだそこまでは判るものか。
與助 やれ、やれ、これでわたしも安心したが、かうなると彦兵衞さんはいよ/\氣の毒だつたな。
おかん 今更うたがひが晴れたところで、どうにも取返しが付かないからねえ。
六郎 いや、そこが又、大岡樣のえらい所だ。みんなびつくりするなよ。
(六郎兵衞は彦三郎に指圖すれば、彦三郎はこゝろ得て、路地の外へ出てゆく。)
權三 (かんがへる。)いくら大岡樣がえらいと云つても、まさか死んだ者を生かして返しやあしめえ。
助十 死ぬもの貧乏とはよく云つたものだな。
六郎 ところが、生かして歸してくれたよ。
一同 え。
六郎 大岡樣は初めから見透しで、どうも彦兵衞さんは本當の罪人らしくない。これは何かの間違ひであらうといふので、表向は牢中病死と披露して、實は生かして置いて下すつたのだ。
おかん ぢやあ、彦兵衞さんは生きてゐるんですかえ。
六郎 むゝ、むゝ、生きてゐるよ。
權三 彦兵衞さんは生きてゐる……どこまで行つても、狐に化かされてゐるやうだぜ。
助十 なに、化かされてゐることがあるものか。おれにはちやんと判ってゐらあ。なるほど大岡樣はえらいものだな。
助八 名奉行とあがめ奉つるも嘘ぢやあねえ。
與助 彦兵衞さんが生き返つてくれりやあ、おれの猿なんぞは死んでもいゝ。
(下のかたより駕籠かき二人が附添ひ、彦三郎は父彦兵衞の手を取りて介抱しながら出づ。)
彦三郎 みなさん。御安心ください。父はこの通りでござります。
六郎 今はまつ晝間だ。幽靈ではないからよく見なさい。
彦兵衞 みなさん有難うございます。
一同 おゝ、彦兵衞さんだ、彦兵衞さんだ。
(一同はよろこんで彦兵衞のまはりに駈けあつまる。)
――幕――
(大正十五年七月)
●表記について
- このファイルは W3C 勧告 XHTML1.1 にそった形式で作成されています。
- 「くの字点」は「/\」で、「濁点付きくの字点」は「/″\」で表しました。
- 傍点や圏点、傍線の付いた文字は、強調表示にしました。
上一页 [1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8] [9] [10] 尾页
|