鎧櫃の血 |
光文社文庫、光文社 |
1988(昭和63)年5月20日 |
1988(昭和63)年5月30日2刷 |
1988(昭和63)年5月20日初版1刷 |
一
日清戦争の終った年というと、かなり遠い昔になる。もちろん私のまだ若い時の話である。夏の日の午後、五、六人づれで向島へ遊びに行った。そのころ千住の大橋ぎわにいい川魚料理の店があるというので、夕飯をそこで食うことにして、日の暮れる頃に千住へ廻った。
広くはないが古雅な構えで、私たちは中二階の六畳の座敷へ通されて、涼しい風に吹かれながら膳にむかった。わたしは下戸であるのでラムネを飲んだ。ほかにはビールを飲む人もあり、日本酒を飲む人もあった。そのなかで梶田という老人は、猪口をなめるようにちびりちびりと日本酒を飲んでいた。たんとは飲まないが非常に酒の好きな人であった。
きょうの一行は若い者揃いで、明治生れが多数を占めていたが、梶田さんだけは天保五年の生れというのであるから、当年六十二歳のはずである。しかも元気のいい老人で、いつも若い者の仲間入りをして、そこらを遊びあるいていた。大抵の老人は若い者に敬遠されるものであるが、梶田さんだけは例外で、みんなからも親しまれていた。実はきょうも私が誘い出したのであった。
「千住の川魚料理へ行こう。」
この動機の出たときに、梶田さんは別に反対も唱えなかった。彼は素直に付いて来た。さてここの二階へあがって、飯を食う時はうなぎの蒲焼ということに決めてあったが、酒のあいだにはいろいろの川魚料理が出た。夏場のことであるから、鯉の洗肉も選ばれた。
梶田さんは例の如くに元気よくしゃべっていた。うまそうに酒を飲んでいた。しかも彼は鯉の洗肉には一箸も付けなかった。
「梶田さん。あなたは鯉はお嫌いですか。」と、わたしは訊いた。
「ええ。鯉という奴は、ちょいと泥臭いのでね。」と、老人は答えた。
「川魚はみんなそうですね。」
「それでも、鮒や鯰は構わずに食べるが、どうも鯉だけは……。いや、実は泥臭いというばかりでなく、ちょっとわけがあるので……。」と、言いかけて彼は少しく顔色を暗くした。
梶田老人はいろいろのむかし話を知っていて、いつも私たちに話して聞かせてくれる。その老人が何か子細ありげな顔をして、鯉の洗肉に箸を付けないのを見て、わたしはかさねて訊いた。
「どんなわけがあるんですか。」
「いや。」と、梶田さんは笑った。「みんながうまそうに食べている最中に、こんな話は禁物だ。また今度話すことにしよう。」
その遠慮には及ばないから話してくれと、みんなも催促した。今夜の余興に老人のむかし話を一度聴きたいと思ったからである。根が話好きの老人であるから、とうとう私たちに釣り出されて、物語らんと坐を構えることになったが、それが余り明るい話でないらしいのは、老人が先刻からの顔色で察せられるので、聴く者もおのずと形をあらためた。
まだその頃のことであるから、ここらの料理屋では電燈を用いないで、座敷には台ランプがともされていた。二階の下には小さい枝川が流れていて、蘆や真菰のようなものが茂っている暗いなかに、二、三匹の蛍が飛んでいた。
「忘れもしない、わたしが二十歳の春だから、嘉永六年三月のことで……。」
三月といっても旧暦だから、陽気はすっかり春めいていた。尤もこの正月は寒くって、一月十六日から三日つづきの大雪、なんでも十年来の雪だとかいう噂だったが、それでも二月なかばからぐっと余寒がゆるんで、急に世間が春らしくなった。その頃、下谷の不忍の池浚いが始まっていて、大きな鯉や鮒が捕れるので、見物人が毎日出かけていた。
そのうちに三月の三日、ちょうどお雛さまの節句の日に、途方もない大きな鯉が捕れた。五月の節句に鯉が捕れたのなら目出たいが、三月の節句ではどうにもならない。捕れた場所は浅草堀――といっても今の人には判らないかも知れないが、菊屋橋の川筋で、下谷に近いところ。その鯉は不忍の池から流れ出して、この川筋へ落ちて来たのを、土地の者が見つけて騒ぎ出して、掬い網や投網を持ち出して、さんざん追いまわした挙句に、どうにか生捕ってみると、何とその長さは三尺八寸、やがて四尺に近い大物であった。で、みんなもあっとおどろいた。
「これは池のぬしかも知れない、どうしよう。」
捕りは捕ったものの、あまりに大きいので処分に困った。
「このまま放してやったら、大川へ出て行くだろう。」
とは言ったが、この獲物を再び放してやるのも惜しいので、いっそ観世物に売ろうかという説も出た。いずれにしても、こんな大物を料理屋でも買う筈がない。思い切って放してしまえと言うもの、観世物に売れと言うもの、議論が容易に決着しないうちに、その噂を聞き伝えて大勢の見物人が集まって来た。その見物人をかき分けて、一人の若い男があらわれた。
「大きいさかなだな。こんな鯉は初めて見た。」
それは浅草の門跡前に屋敷をかまえている桃井弥十郎という旗本の次男で弥三郎という男、ことし廿三歳になるが然るべき養子さきもないので、いまだに親や兄の厄介になってぶらぶらしている。その弥三郎がふところ手をして、大きい鯉のうろこが春の日に光るのを珍しそうに眺めていたが、やがて左右をみかえって訊いた。
「この鯉をどうするのだ。」
「さあ、どうしようかと、相談中ですが……。」と、そばにいる一人が答えた。
「相談することがあるものか、食ってしまえ。」と、弥三郎は威勢よく言った。
大勢は顔をみあわせた。
「鯉こくにするとうまいぜ。」と、弥三郎はまた言った。
大勢はやはり返事をしなかった。鯉のこくしょうぐらいは誰でも知っているが、何分にもさかなが大き過ぎるので、殺して食うのは薄気味が悪かった。その臆病そうな顔色をみまわして、弥三郎はあざ笑った。
「はは、みんな気味が悪いのか。こんな大きな奴は祟るかも知れないからな。おれは今までに蛇を食ったこともある、蛙を食ったこともある。猫や鼠を食ったこともある。鯉なぞは昔から人間の食うものだ。いくら大きくたって、食うのに不思議があるものか。祟りが怖ければ、おれに呉れ。」
痩せても枯れても旗本の次男で、近所の者もその顔を知っている。冷飯食いだの、厄介者だのと陰では悪口をいうものの、さてその人の前では相当の遠慮をしなければならない。さりとて折角の獲物を唯むざむざと旗本の次男に渡してやるのも惜しい。大勢は再び顔をみあわせて、その返事に躊躇していると、又もや群集をかき分けて、ひとりの女が白い顔を出した。女は弥三郎に声をかけた。
「あなた、その鯉をどうするの。」
「おお、師匠か。どうするものか、料って食うのよ。」
「そんな大きいの、うまいかしら。」
「うまいよ。おれが請合う。」
女は町内に住む文字友という常磐津の師匠で、道楽者の弥三郎はふだんからこの師匠の家へ出這入りしている。文字友は弥三郎より二つ三つ年上の廿五六で、女のくせに大酒飲みという評判の女、それを聞いて笑い出した。
「そんなにうまければ食べてもいいけれど、折角みんなが捕ったものを、唯貰いはお気の毒だから……。」
文字友は人々にむかって、この鯉を一朱で売ってくれと掛合った。一朱は廉いと思ったが、実はその処分に困っているところであるのと、一方の相手が旗本の息子であるのとで、みんなも結局承知して、三尺八寸余の鯉を一朱の銀に代えることになった。文字友は家から一朱を持って来て、みんなの見ている前で支払った。
さあ、こうなれば煮て食おうと、焼いて食おうと、こっちの勝手だという事になったが、これほどの大鯉に跳ねまわられては、とても抱えて行くことは出来ないので、弥三郎はその場で殺して行こうとして、腰にさしている脇指を抜いた。
「ああ、もし、お待ちください……。」
声をかけたのは立派な商人ふうの男で、若い奉公人を連れていた。しかもその声が少し遅かったので、留める途端に弥三郎の刃はもう鯉の首に触れていた。それでも呼ばれて振返った。
「和泉屋か。なぜ留める。」
「それほどの物をむざむざお料理はあまりに殺生でござります。」
「なに、殺生だ。」
「きょうはわたくしの志す仏の命日でござります。どうぞわたくしに免じて放生会をなにぶんお願い申します。」
和泉屋は蔵前の札差で、主人の三右衛門がここへ通りあわせて、鯉の命乞いに出たという次第。桃井の屋敷は和泉屋によほどの前借がある。その主人がこうして頼むのを、弥三郎も無下に刎ねつけるわけには行かなかった。そればかりでなく、如才のない三右衛門は小判一枚をそっと弥三郎の袂に入れた。一朱の鯉が忽ち一両に変ったのであるから、弥三郎は内心大よろこびで承知した。
しかし鯉は最初の一突きで首のあたりを斬られていた。強いさかなであるから、このくらいの傷で落ちるようなこともあるまいと、三右衛門は奉公人に指図してほかへ運ばせた。
ここまで話して来て、梶田老人は一息ついた。
「その若い奉公人というのは私だ。そのときちょうど二十歳であったが、その鯉の大きいにはおどろいた。まったく不忍池の主かも知れないと思ったくらいだ。」
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