世界紀行文学全集 第三巻 イギリス編 |
修道社 |
1959(昭和34)年7月20日 |
1959(昭和34)年7月20日 |
1959(昭和34)年7月20日 |
栗の花、柿の花、日本でも初夏の景物にはかぞえられていますが、俳味に乏しい我々は、栗も柿もすべて秋の梢にのみ眼をつけて、夏のさびしい花にはあまり多くの注意を払っていませんでした。秋の木の実を見るまでは、それらは殆ど雑木に等しいもののように見なしていましたが、その軽蔑の眼は欧州大陸へ渡ってから余ほど変って来ました。この頃の私は決して栗の木を軽蔑しようとは思いません。必ず立止まって、その梢をしばらく瞰あげるようになりました。
一口に栗と云っても、ここらの国々に多い栗の木は、普通にホース・チェストナットと呼ばれてその実を食うことは出来ないと云います。日本でいうどんぐりのたぐいであるらしく思われる。併しその木には実に見事な大きいのが沢山あって、花は白と薄紅との二種あります。倫敦市中にも無論に多く見られるのですが、わたしが先ず軽蔑の眼を拭わせられたのは、キウ・ガーデンをたずねた時でした。
五月中旬から倫敦も急に夏らしくなって、日曜日の新聞を見ると、ピカデリー・サアカスにゆらめく青いパラソルの影、チャーリング・クロスに光る白い麦藁帽の色、ロンドンももう夏のシーズンに入ったと云うような記事がみえました。その朝に高田商会のT君がわざわざ誘いに来てくれて、きょうはキウ・ガーデンへ案内してやろうと云う。早速に支度をして、ベーカーストリートの停車場から運ばれてゆくと、ガーデンの門前にゆき着いて、先ずわたしの眼をひいたのは、彼のホース・チェストナットの並木でした。日本の栗の木のいたずらにひょろひょろしているのとは違って、こんもりと生い茂った木振と云い、葉の色といい、それが五月の明るい日の光にかがやいて、真昼の風に揺らめいているのは、いかにも絵にでもありそうな姿で、私はしばらく立停まってうっかりと眺めていました。
その日は帰りにハンプトン・コートへも案内されました。コートに接続して、ブッシー・パークと云うのがあります。この公園で更に驚かされたのは、何百年を経たかと思われるような栗の大木が大きな輪を作って列んでいることでした。見れば見るほど立派なもので、私はその青い下蔭に小さくたたずんで、再びうっかりと眺めていました。ハンプトン・コートには楡の立派な木もありますが、到底この栗の林には及びませんでした。
あくる日、近所の理髪店へ行って、きのうはキウ・ガーデンからハンプトン・コートを廻って来たという話をすると、亭主はあの立派なチェストナットを見て来たかと云いました。ここらでもその栗の木は名物になっているとみえます。その以来、わたしも栗の木に少からぬ注意を払うようになって、公園へ行っても、路ばたを歩いても、色々の木立のなかで先ず栗の木に眼をつけるようになりました。
それから一週間ほどたって、私は例のストラッドフォード・オン・アヴォンに沙翁の故郷をたずねることになりました。そうして、ここでアーヴィングがスケッチブックの一節を書いたとか伝えられているレッド・ホース・ホテルと云う宿屋に泊まりました。日のくれる頃、案内者のM君O君と一所にアヴォンの河のほとりを散歩すると、日本の卯の花に似たようなメー・トリーの白い花がそこらの田舎家の垣からこぼれ出して、うす明るいトワイライトの下にむら消えの雪を浮かばせているのも、まことに初夏のたそがれらしい静寂な気分を誘い出されましたが、更にわたしの眼を惹いたのは矢はり例の栗の立木でした。河のバンクには栗と柳の立木がつづいています。ここらの栗もブッシー・パークに劣らない大木で、この大きい葉のあいだから白い花がぼんやりと青い水の上に映って見えます。その水の上には白鳥が悠々と浮んでいて、それに似たような白い服を着た若い女が二人でボートを漕いでいます。M君の動議で小船を一時間借りることになって栗の木の下にある貸船屋に交渉すると、亭主はすぐに承知して、そこに繋いである一艘の小船を貸してくれて、河下の方へあまり遠く行くなと注意してくれました。承知して、三人は船に乗り込みましたが、私は漕ぐことを知らないので、櫂の方は両君にお任せ申して、船のなかへ仰向けに寝転んでしまいました。もう八時頃であろうかと思われましたが、英国の夏の日はなかなか暮れ切りません。蒼白い空にはうす紅い雲がところどころに流れています。両君の櫂もあまり上手ではないらしいのですが、流れが非常に緩いので、船は静かに河下へ降って行きます。云い知れないのんびりした気分になって私は寝転びながら岸の上をながめていると、大きい栗の梢を隔てて沙翁紀念劇場の高い塔が丁度かの薄紅い雲の下に聳えています。その塔には薄むらさきの藤の花がからみ付いていることを、私は昼のうちに見て置きました。
船は好加減のところまで下ったので、更に方向を転じて上流の方へ遡ることになりました。灯の少いここらの町はだんだん薄暗く暮れて来て、栗の立木も唯一と固まりの暗い影を作るようになりましたが、空と水とはまだ暮れそうな気色もみえないので、水明りのする船端には名も知れない羽虫の群が飛び違っています。白鳥はどこの巣へ帰ったのか、もう見えなくなりました。起き直って、巻莨を一本すって、その喫殻を水に投げ込むと、恰もそれを追うように一つの白い花がゆらゆらと流れ下って来ました。透してみると、それは栗の花でした。
栗の花アヴォンの河を流れけり
句の善悪は扨措いて、これは実景です。わたしは幾たびか其句を口のうちで繰返しているあいだに、船は元の岸へ戻って来ました。両君は櫂を措いて出ると、私もつづいて出ました。貸船屋の奥には黄い蝋燭が点っています。亭主が出て来て、大きい手の上に船賃をうけ取って、グードナイトと唯一言、ぶっきらぼうに云いました。岸へあがって五六間ゆき過ぎてから振返ると、低い貸船屋も大きい栗の木もみな宵闇のなかに沈んで、河の上が唯うす白く見えるばかりでした。どこかで笛の声が遠くきこえました。ホテルへ帰ると、われわれの部屋にも蝋燭が点してありました。
ホテルの庭にも大きい栗の木があります。いつの間に空模様が変ったのか、夜なかになると雨の音がきこえました。枕もとの蝋燭を再び点して、カアテンの間から窓の外をのぞくと、雨の雫は栗の葉をすべって、白い花が暗いなかにほろほろと落ちていました。
夜の雨、栗の花、蝋燭の火、アーヴィングの宿った家――わたしは日本を出発してから曾て経験したことのないような、しんみりとした安らかな気分になって、沙翁の故郷にこの一夜を明かしました。明くる朝起きてみると、庭には栗の花が一面に白く散っていました。
(大正八年五月、倫敦にて)
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