満洲の夏
池
この頃は満洲の噂がしきりに出るので、私も一種今昔の感に堪えない。わたしの思い出は可なり古い。日露戦争の従軍記者として、満洲に夏や冬を送った当時のことである。
満洲の夏――それを語るごとに、いつも先ず思い出されるのは得利寺の池である。得利寺は地名で、今ではここに満鉄の停車場がある。わたしは八月の初めにここを通過したが、朝から晴れた日で、午後の日盛りはいよいよ暑い。文字通り、雨のような汗が顔から一面に流れ落ちて来た。
「やあ、池がある!」
沙漠でオアシスを見いだしたように、私たちはその池をさして駈けてゆくと、池はさのみ広くもないが、岸には大きい幾株の柳がすずしい蔭を作って、水には紅白の荷花が美しく咲いていた。
汗をふきながら池の花をながめて、満洲にもこんな涼味に富んだ所があるかと思った。池のほとりには小さい塾のようなものがあって、先生は半裸体で子どもに三字経を教えていた。わたしはこの先生に一椀の水を貰って、その返礼に宝丹一個を贈って別れた。
その池、その荷花――今はどうなっているであろう。
龍
蓋平に一宿した時である。ここらの八月はじめは日が長い。晴れた日がほんとうに暮れ切るのは、午後十時頃である。
その午後六時半頃から約四十分ほど薄暗くなったかと思うと、また再び明るくなった。海の方面に大雨が降ったらしいという。やがて七時半に近い頃である。あたりの土着民が俄かに騒ぎ出した。
「龍! 龍!」
みな口々に叫んで表へかけ出すので、私も好奇心に駆られて出てみると、西の方角――おそらく海であろうと思われる方角にあたって、大空に真黒な雲が長く大きく動いている。その黒雲のあいだを縫って、金色の光るものが切れぎれに長くみえる。勿論、その頭らしい物は見えないが、金龍の胴とも思われるものが見えつ隠れつ輝いているのである。
雲は墨よりも黒く、金色は燦として輝いている。太陽の光線がどういう反射作用をするのか知らないが、見るところ、まさに描ける龍である。
龍を信ずる満洲人が「龍!」と叫ぶのも無理はないと、私は思った。
蝎
南京虫は日本にもたくさん輸入されているから、改めて紹介するまでもないが、満洲の夏において最も我々をおびやかしたものは蝎であった。南京虫を恐れない満洲の民も、蝎と聞けば恐れて逃げる。
蝎も南京虫とおなじく、人家の壁の崩れや、柱の割れ目などに潜んでいる。時には枯草などをたばねた中にも隠れている。しかも南京虫とは違って、その毒は生命に関する。私はある騎兵が右手の小指を蝎に螫されて、すぐに剣をぬいてその小指を切断したのを見た。
蝎の毒は蝮に比すべきものである。殊に困るのは、その形が甚だ小さく、しかも人家の内に棲息していることである。蝎の年を経たものは大きさ琵琶の如しなどと、シナの書物にも出ているが、そんなのは滅多にあるまい。私の見たのは、いずれもこおろぎぐらいであった。
土地の人は格別、日本人が蝎に襲われたという噂を、近来あまり聞かないのは幸いである。満洲開発と共に、こういう毒虫は絶滅させなければなるまい。
蝎は敵に囲まれた時は自殺する。おのが尻尾の剣先をおのが首に突き刺して仆れるのである。動物にして自殺するのは、恐らく蝎のほかにあるまい。蝎もまた一種の勇者である。
水
満洲の水は悪いというので、軍隊が基地点へゆき着くと、軍医部では直ぐにそこらの井戸の水を検査して「飲ムベシ」とか「飲ムベカラズ」とか云う札を立てることになっていた。
私が海城村落の農家へ泊まりに行くと、あたかも軍医部員が検査に来て、家の前の井戸に木札を立てて行くところであった。見ると、その札に曰く「人馬飲ムベカラズ」
人間は勿論、馬にも飲ませるなと云うのである。これは大変だと思って、呼びとめて訊くと、「あんな水は絶対に飲んではいけません」という返事である。この暑いのに、眼の前の水を飲むことが出来なくては困ると、わたしはすこぶる悲観していると、それを聞いて宿の主人は声をあげて笑い出した。
「はは、途方もない。わたしの家はここに五代も住んでいます。私も子供のときから、この井戸の水を飲んで育って来たのですよ。」
今更ではないが「慣れ」ほど怖ろしいものは無いと、わたしはつくづく感じさせられた。しかも満洲の水も「人馬飲ムベカラズ」ばかりではない。わたしが普蘭店で飲んだ噴き井戸の水などは清冽珠のごとく、日本にもこんな清水は少なかろうと思うくらいであった。
蛇
海城の北門外に十日ほど滞留していた時である。八月は満洲の雨季であるので、わが国の梅雨季のように、とかくに細かい雨がじめじめと降りつづく。
わたしたちの宿舎のとなりに老子の廟があって、滞留の間にあたかもその祭日に逢った。雨も幸いに小歇みになったので、泥濘の路を踏んで香を献げに来る者も多い。縁日商人も店を列べている。大道芸人の笙を吹くもの、蛇皮線をひく者、四つ竹を鳴らす者なども集まっている。
その群れのうちに蛇人――蛇つかいの二人連れがまじっていた。おそらく兄弟であろう、兄は二十歳前後、弟は十五、六であるが、いずれも俳優かとも思われるような白面の青年と少年で、服装も他の芸人に比べるとすこぶる瀟洒たる姿であった。
兄は首にかけている箱から二匹の黒と青との蛇を取出して、手掌の上に乗せると、弟は一種の小さい笛を吹く。兄は何か歌いながら、その蛇を踊らせるのである。踊ると云っても、二匹が絡み合って立つぐらいに過ぎないのであるが、何という楽器か知らないが悲しい笛の音、何という節か知らないが悲しい歌の声、わたしは云い知れない凄愴の感に打たれて、この蛇つかいの兄弟は蛇の化身ではないかと思った。
雨
満洲は雨季以外には雨が少ないと云われているが、わたしが満洲に在るあいだは、大戦中のせいか、ずいぶん雨が多かった。
夏季は夕立めいた雨にもしばしば出逢った。俄雨が大いに降ると、思いもよらない処に臨時の河が出来るので、交通に不便を来たすことが往々ある。臨時の河であるから知れたものだと、多寡をくくって徒渉を試みると、案外に水が深く、流れが早く、あやうく押し流されそうになったことも再三あった。何が捕れるか知らないが、その臨時の河に網を入れている者もある。
遼陽の南門外に宿っている時、宵から大雨、しかも激しい雷鳴が伴って、大地震のような地響きがするばかりか、真青な電光が昼のように天地を照らすので、戦争に慣れている私たちも少なからず脅かされた。
東京陵
遼陽の城外に東京陵という古陵がある。昔ここに都していた遼(契丹)代の陵墓で、周囲には古木がおいしげって、野草のあいだには石馬や石羊の横たわっているのが見いだされる。
伝えていう、月夜雨夜にここを過ぎると、凄麗の宮女に逢うことがある。宮女は笛を吹いている。その笛の音にひかれて、宮女のあとを慕って行くものは再び帰って来ないという。シナの小説にでもありそうな怪談である。
わたしはそれを宿舎の主人に聞きただすと、その宮女は夜ばかりでなく、昼でも陰った日には姿をあらわすことがあると云う。ほんとうに再び帰って来ないのかと念を押すと、そう云って置く方が若い人たちの為であろうと、主人は意味ありげに笑った。
その笑い顔をみて、わたしも覚った。そんな怖ろしい宮女ならば尋ねに行くのは止めようと云うと、
「好的」と、主人はまた笑った。
(昭和7・6「都新聞」)
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仙台五色筆
仙台の名産のうちに五色筆というのがある。宮城野の萩、末の松山の松、実方中将の墓に生うる片葉の薄、野田の玉川の葭、名取りの蓼、この五種を軸としたもので、今では一年の産額十万円に達していると云う。わたしも松島記念大会に招かれて、仙台、塩竈、松島、金華山などを四日間巡回した旅行中の見聞を、手当り次第に書きなぐるにあたって、この五色筆の名をちょっと借用することにした。
わたしは初めて仙台の地を踏んだのではない。したがって、この地普通の名所や故蹟に対しては少しく神経がにぶっているから、初めて見物した人が書くように、地理や風景を面白く叙述するわけには行かない。ただ自分が感じたままを何でもまっすぐに書く。印象記だか感想録だか見聞録だか、何だか判らない。
三人の墓
仙台の土にも昔から大勢の人が埋められている。その無数の白骨の中には勿論、隠れたる詩人や、無名の英雄も潜んでいるであろうが、とにかく世にきこえたる人物の名をかぞえると、わたしがお辞儀しても口惜しくないと思う人は三人ある。曰く、伊達政宗。曰く、林子平。曰く、支倉六右衛門。今度もこの三人の墓を拝した。
政宗の姓はダテと読まずに、イダテと読むのが本当らしい。その証拠には、ローマに残っている古文書にはすべてイダテマサムネと書いてあると云う。ローマ人には日本字が読めそうもないから、こっちで云う通りをそのまま筆記したのであろう。なるほど文字の上から見てもイダテと読みそうである。伊達という地名は政宗以前から世に伝えられている。藤原秀衡の子供にも錦戸太郎、伊達次郎というのがある。もっとも、これは西木戸太郎、館次郎が本当だとも云う。太平記にも南部太郎、伊達次郎などと云う名が見えるが、これもイダテ次郎と読むのが本当かも知れない。どのみち、昔はイダテと唱えたのを、後に至ってダテと読ませたに相違あるまい。
いや、こんな詮議はどうでもいい。イダテにしても、ダテにしても、政宗はやはり偉いのである。独眼龍などという水滸伝式の渾名を付けないでも、偉いことはたしかに判っている。その偉い人の骨は瑞鳳殿というのに斂められている。さきごろの出水に頽された広瀬川の堤を越えて、昼もくらい杉並木の奥深くはいると、高い不規則な石段の上に、小規模の日光廟が厳然とそびえている。
わたしは今この瑞鳳殿の前に立った。丈抜群の大きい黒犬は、あたかも政宗が敵にむかう如き勢いで吠えかかって来た。大きな犬は瑞鳳殿の向う側にある小さな家から出て来たのである。一人の男が犬を叱りながら続いて出て来た。
彼は五十以上であろう。色のやや蒼い、痩形の男で、短く苅った鬢のあたりは斑に白く、鼻の下の髭にも既に薄い霜がおりかかっていた。紺がすりの単衣に小倉の袴を着けて、白足袋に麻裏の草履を穿いていた。伊達家の旧臣で、ただ一人この墳墓を守っているのだと云う。
わたしはこの男の案内によって、靴をぬいで草履に替え、しずかに石段を登った。瑞鳳殿と記した白字の額を仰ぎながら、さらに折り曲がった廻廊を渡ってゆくと、かかる場所へはいるたびにいつも感ずるような一種の冷たい空気が、流るる水のように面を掠めて来た。わたしは無言で歩いた。男も無言でさきに立って行った。うしろの山の杉木立では、秋の蝉が破れた笛を吹くように咽んでいた。
さらに奥深く進んで、衣冠を着けたる一個の偶像を見た。この瞬間に、わたしもまた一種の英雄崇拝者であると云うことをつくづく感じた。わたしは偶像の前に頭をたれた。男もまた粛然として頭をたれた。わたしはやがて頭をあげて見返ると、男はまだ身動きもせずに、うやうやしく礼拝していた。
私の眼からは涙がこぼれた。
この男は伊達家の臣下として、昔はいかなる身分の人であったか知らぬ。また知るべき必要もあるまい。彼はただ白髪の遺臣として長く先君の墓所を守っているのである。維新前の伊達家は数千人の家来をもっていた。その多数のうちには官吏や軍人になった者もあろう、あるいは商業を営んでいる者もあろう。あるいは農業に従事している者もあろう。栄枯浮沈、その人々の運命に因っていろいろに変化しているであろうが、とにもかくにも皆それぞれに何らかの希望をもって生きているに相違ない。この男には何の希望がある。無論、名誉はない。おそらく利益もあるまい。彼は洗い晒しの着物を着て、木綿の袴を穿いて、人間の一生を暗い冷たい墓所の番人にささげているのである。
土の下にいる政宗が、この男に声をかけてくれるであろうか。彼はわが命の終るまで、一度も物を云ってくれぬ主君に仕えているのである。彼は経ヶ峯の雪を払って、冬の暁に墓所の門を浄めるのであろう。彼は広瀬川の水を汲んで、夏の日に霊前の花を供えるのであろう。こうして一生を送るのである。彼に取ってはこれが人間一生の務めである。名誉もいらぬ、利益もいらぬ、これが臣下の務めと心得ているのである。わたしは伊達家の人々に代って、この無名の忠臣に感謝せねばならない。
こんなことを考えながら門を出ると、犬はふたたび吠えて来た。
林子平の墓は仙台市の西北、伊達堂山の下にある、槿の花の多い田舎道をたどってゆくと、路の角に「伊達堂下、此奥に林子平の墓あり」という木札を掛けている。寺は龍雲院というのである。
黒い門柱がぬっと立ったままで、扉は見えない。左右は竹垣に囲まれている。門をはいると右側には百日紅の大木が真紅に咲いていた。狭い本堂にむかって左側の平地に小さな石碑がある。碑のおもては荒れてよく見えないが、六無斎友直居士の墓とおぼろげに読まれる。竹の花筒には紫苑や野菊がこぼれ出すほどにいっぱい生けてあった。そばには二個の大きな碑が建てられて、一方は太政大臣三条実美篆額、斎藤竹堂撰文、一方は陸奥守藤原慶邦篆額、大槻磐渓撰文とある。いずれも林子平の伝記や功績を記したもので、立派な瓦家根の家の中に相対して屹立している。なにさま堂々たるものである。
林子平はどんなに偉くっても一個の士分の男に過ぎない。三条公や旧藩主は身分の尊い人々である。一個の武士を葬った墓は、雨叩きになっても頽れても誰も苦情は云うまい。身分の尊い人々の建てられた石碑は、粗末にしては甚だ恐れ多い。二個の石碑が斯くの如く注意を加えて、立派に丁寧に保護されているのは、むしろ当然のことかも知れない。仙台人はまことに理智の人である。
わが六無斎居士の墓石は風雨多年の後には頽れるかも知れない。いや、現にもう頽れんとしつつある。他の二個の堂々たる石碑は、おそらく百年の後までも朽ちまい。わたしは仙台人の聡明に感ずると同時に、この両面の対照に就いていろいろのことを考えさせられた。
ローマに使いした支倉六右衛門の墓は、青葉神社に隣りする光明院の内にある。ここも長い不規則の石段を登って行く。本堂らしいものは正面にある。前の龍雲院に比べるとやや広いが、これもどちらかと云えば荒廃に近い。
案内を乞うと、白地の単衣を着た束髪の若い女が出て来た。本堂の右に沿うて、折り曲がった細い坂路をだらだらと降りると、片側は竹藪に仕切られて、片側には杉の木立の間から桑畑が一面に見える。坂を降り尽くすと、広い墓地に出た。
墓地を左に折れると、石の柵をめぐらした広い土の真んなかに、小さい五輪の塔が立っている。支倉の家はその子の代に一旦亡びたので、墓の在所も久しく不分明であったが、明治二十七年に至って再び発見された。草深い土の中から掘り起したもので、五輪の塔とは云うけれども、地・水・火の三輪をとどむるだけで、風・空の二輪は見当らなかったと云う。今ここに立っているのは其の三個の古い石である。
この墓は発見されてから約二十年になる。その間にはいろいろの人が来て、清い水も供えたであろう、美しい花も捧げたであろう。わたしの手にはなんにも携えていなかった。あいにく四辺に何の花もなかったので、わたしは名も知れない雑草のひと束を引き抜いて来て、謹んで墓の前に供えた。
秋風は桑の裏葉を白くひるがえして、畑は一面の虫の声に占領されていた。
三人の女
仙台や塩竈や松島で、いろいろの女の話を聞いた。その中で三人の女の話を書いてみる。もとより代表的婦人を選んだという訳でもない、また格別に偉い人間を見いだしたというのでもない、むしろ平凡な人々の身の上を、平凡な筆に因って伝うるに過ぎないのかも知れない。
塩竈街道の燕沢、いわゆる「蒙古の碑」の付近に比丘尼坂というのがある。坂の中途に比丘尼塚の碑がある。無名の塚にも何らかの因縁を付けようとするのが世の習いで、この一片の碑にも何かの由来が無くてはならない。
伝えて云う。天慶の昔、平将門が亡びた時に、彼は十六歳の美しい娘を後に残して、田原藤太の矢先にかかった。娘は陸奥に落ちて来て、尼となった。ここに草の庵を結んで、謀叛人と呼ばれた父の菩提を弔いながら、往き来の旅人に甘酒を施していた。比丘尼塚の主はこの尼であると。
わたしは今ここで、将門に娘があったか無かったかを問いたくない。将門の遺族が相馬へはなぜ隠れないで、わざわざこんな処へ落ちて来たかを論じたくない。わたしは唯、平親王将門の忘れ形見という系図を持った若い美しい一人の尼僧が、陸奥の秋風に法衣の袖を吹かせながら、この坂の中程に立っていたと云うことを想像したい。
鎌倉の東慶寺には、豊臣秀頼の忘れ形見という天秀尼の墓がある。かれとこれとは同じような運命を荷って生まれたとも見られる。芝居や浄瑠璃で伝えられる将門の娘瀧夜叉姫よりも、この尼の生涯の方が詩趣もある、哀れも深い。
尼は清い童貞の一生を送ったと伝えられる。が、わたしはそれを讃美するほどに残酷でありたくない。塩竈の町は遠い昔から色の港で、出船入り船を迎うる女郎山の古い名が今も残っている。春もたけなわなる朧月夜に、塩竈通いのそそり節が生暖い風に送られて近くきこえた時、若い尼は無念無想で経を読んでいられたであろうか。秋の露の寒い夕暮れに、陸奥へくだる都の優しい商人が、ここの軒にたたずんで草鞋の緒を結び直した時、若い尼は甘い酒のほかに何物をも与えたくはなかったであろうか。かれは由なき仏門に入ったことを悔まなかったであろうか。しかも世を阻められた謀叛人の娘は、これよりほかに行くべき道は無かったのである。かれは一門滅亡の恨みよりも、若い女として此の恨みに堪えなかったのではあるまいか。
かれは甘い酒を人に施したが、人からは甘い情けを受けずに終った。死んだ後には「清い尼」として立派な碑を建てられた。かれは実に清い女であった。しかし将門の娘は不幸なる「清い尼」では無かったろうか。
「塩竈街道に白菊植えて」と、若い男が唄って通った。尼も塩竈街道に植えられて、さびしく咲いて、寂しく萎んだ白菊であった。
これは比較的に有名な話で、今さら紹介するまでも無いかも知れないが、将門の娘と同じような運命の女だと云うことが、わたしの心を惹いた。
松島の観音堂のほとりに「軒場の梅」という古木がある。紅蓮尼という若い女は、この梅の樹のもとに一生を送ったのである。紅蓮尼は西行法師が「桜は浪に埋もれて」と歌に詠んだ出羽国象潟の町に生まれた、商人の娘であった。父という人は三十三ヵ所の観音詣でを思い立って、一人で遠い旅へ迷い出ると、陸奥松島の掃部という男と道中で路連れになった。掃部も観音詣での一人旅であった。二人は仲睦まじく諸国を巡礼し、つつがなく故郷へ帰ることになって、白河の関で袂を分かった。関には昔ながらの秋風が吹いていたであろう。
その時に、象潟の商人は尽きぬ名残を惜しむままに、こういう事を約束した。私には一人の娘がある、お前にも一人の息子があるそうだ。どうか此の二人を結び合わせて、末長く睦み暮らそうではないか。
掃部も喜んで承諾した。松島の家へ帰り着いてみると、息子の小太郎は我が不在の間に病んで死んだのであった。夢かとばかり驚き歎いていると、象潟からは約束の通りに美しい娘を送って来たので、掃部はいよいよ驚いた。わが子の果敢なくなったことを語って、娘を象潟へ送り還そうとしたが、娘はどうしても肯かなかった。たとい夫たるべき人に一度も対面したことも無く、又その人が已に此の世にあらずとも、いったん親と親とが約束したからには、わたしは此の家の嫁である、決して再び故郷へは戻らぬと、涙ながらに云い張った。
哀れとも無残とも云いようがない。私はこんな話を聞くと、身震いするほどに怖ろしく感じられてならない。わたしは決してこの娘を非難しようとは思わない。むしろ世間の人並に健気な娘だと褒めてやりたい。しかもこの可憐の娘を駆っていわゆる「健気な娘」たらしめた其の時代の教えというものが怖ろしい。
子をうしなった掃部夫婦もやはり其の時代の人であった。つまりは其の願いに任せて、夫の無い嫁を我が家にとどめておいたが、これに婿を迎えるという考えもなかったらしい。こうして夫婦は死んだ。娘は尼になった。
観音堂のほとりには、小太郎が幼い頃に手ずから植えたという一本の梅がある。紅蓮尼はここに庵を結んだ。
さけかしな今はあるじと眺むべし
軒端の梅のあらむかぎりは
嘘か本当か知らぬが、尼の詠み歌として世に伝えられている。尼はまた、折りおりの手すさびに煎餅を作り出したので、のちの人が尼の名を負わせて、これを「紅蓮」と呼んだと云う。
比丘尼坂でも甘酒を売っている。松島でも紅蓮を売っている。甘酒を飲んで煎餅をかじって、不運な女二人を弔うと云うのも、下戸のわたしに取ってはまことにふさわしいことであった。
最後には「先代萩」で名高い政岡を挙げる。私はいわゆる伊達騒動というものに就いて多くの知識を持っていない。仙台で出版された案内記や絵葉書によると、院本で名高い局政岡とは三沢初子のことだそうで、その墓は榴ヶ岡下の孝勝寺にある。墓は鉄柵をめぐらして頗る荘重に見える。
初子は四十八歳で死んだ。かれは伊達綱宗の側室で、その子の亀千代(綱村)が二歳で封をつぐや、例のお家騒動が出来したのである。私はその裏面の消息を詳しく知らないが、とにかく反対派が種々の陰謀をめぐらした間に、初子は伊達安芸らと心をあわせて、陰に陽に我が子の亀千代を保護した。その事蹟が誤まって、かの政岡の忠節として世に伝えられたのだと、仙台人は語っている。あるいは云う、政岡は浅岡で、初子とは別人であると。あるいは云う、当面の女主人公は初子で、老女浅岡が陰に助力したのであると。
こんな疑問は大槻博士にでも訊いたら、忽ちに解決することであろうが、私は仙台人一般の説に従って、初子をいわゆる政岡として評したい。忠義の乳母ももとより結構ではあるが、真実の母としてかの政岡をみた方がさらに一層の自然を感じはしまいか。事実のいかんは別問題として、封建時代に生まれた院本作者が、女主人公を忠義の乳母と定めたのは当然のことである。もし其の作者が現代に生まれて筆を執ったらば、おそらく女主人公を慈愛心の深い真実の母と定めたであろう。とにかく嘘でも本当でも構わない、わたしは「伽羅先代萩」でおなじみの局政岡をこの初子という女に決めてしまった。決めてしまっても差支えがない。
仙台市の町はずれには、到るところに杉の木立と槿の籬とが見られる。寺も人家も村落もすべて杉と槿とを背景にしていると云ってもいい。伊達騒動当時の陰謀や暗殺は、すべてこの背景を有する舞台の上に演じられたのであろう。
塩竈神社の神楽
わたしが塩竈の町へ入り込んだのは、松島経営記念大会の第一日であった。碧暗い海の潮を呑んでいる此の町の家々は彩紙で造った花紅葉を軒にかざって、岸につないだ小船も、水に浮かんだ大船も、ことごとく一種の満艦飾を施していた。帆柱には赤、青、黄、紫、その他いろいろの彩紙が一面に懸け渡されて、秋の朝風に飛ぶようにひらめいている。これを七夕の笹のようだと形容しても、どうも不十分のように思われる。解り易く云えば、子供のもてあそぶ千代紙の何百枚を細かく引き裂いて、四方八方へ一度に吹き散らしたという形であった。
「松島行きの乗合船は今出ます。」と、頻りに呼んでいる男がある。呼ばれて値を付けている人も大勢あった。
その混雑の中をくぐって、塩竈神社の石段を登った。ここの名物という塩竈や貝多羅葉樹や、泉の三郎の鉄燈籠や、いずれも昔から同じもので、再遊のわたしには格別の興味を与えなかったが、本社を拝して横手の広場に出ると、大きな神楽堂には笛と太鼓の音が乱れてきこえた。
「面白そうだ。行って見よう。」
同行の麗水・秋皐両君と一緒に、見物人を掻き分けて臆面もなしに前へ出ると、神楽は今や最中であった。果たして神楽というのか、舞楽というのか、わたしにはその区別もよく判らなかったが、とにかくに生まれてから初めてこんなものを見た。
囃子は笛二人、太鼓二人、踊る者は四人で、いずれも鍾馗のような、烏天狗のような、一種不可思議の面を着けていた。袴は普通のもので、めいめいの単衣を袒ぬぎにして腰に垂れ、浅黄または紅で染められた唐草模様の襦袢(?)の上に、舞楽の衣装のようなものを襲ねていた。頭には黒または唐黍色の毛をかぶっていた。腰には一本の塗り鞘の刀を佩していた。
この四人が野蛮人の舞踊のように、円陣を作って踊るのである。笛と太鼓はほとんど休みなしに囃しつづける。踊り手も休み無しにぐるぐる廻っている。しまいには刀を抜いて、飛び違い、行き違いながら烈しく踊る。単に踊ると云っては、詞が不十分であるかも知れない。その手振り足振りは頗る複雑なもので、尋常一様のお神楽のたぐいではない。しかも其の一挙手一投足がちっとも狂わないで、常に楽器と同一の調子を合わせて進行しているのは、よほど練習を積んだものと見える。服装と云い、踊りと云い、普通とは変って頗る古雅なものであった。
かたわらにいる土地の人に訊くと、あれは飯野川の踊りだと云う。飯野川というのは此の附近の村の名である。要するに舞楽を土台にして、これに神楽と盆踊りとを加味したようなものか。わたしは塩竈へ来て、こんな珍しいものを観たのを誇りたい。
私は口をあいて一時間も見物していた。踊り手もまた息もつかずに踊っていた。笛吹けども踊らぬ者に見せてやりたいと私は思った。
孔雀船の舟唄
塩竈から松島へむかう東京の人々は、鳳凰丸と孔雀丸とに乗せられた。われわれの一行は孔雀丸に乗った。
伝え聞く、伊達政宗は松島の風景を愛賞して、船遊びのために二艘の御座船を造らせた。鳳凰丸と孔雀丸とが即ちそれである。風流の仙台太守は更に二十余章の舟唄を作らせた。そのうちには自作もあると云う。爾来、代々の藩侯も同じ雛型に因って同じ船を作らせ、同じ海に浮かんで同じ舟唄を歌わせた。
われわれが今度乗せられた新しい二艘の船も、むかしの雛型に寸分たがわずに造らせたものだそうで、ただ出来を急いだ為に船べりに黒漆を施すの暇がなかったと云う。船には七人の老人が羽織袴で行儀よく坐っていた。わたしも初めはこの人々を何者とも知らなかった、また別に何の注意をも払わなかった。
船が松の青い島々をめぐって行くうちに、同船の森知事が起って、かの老人たちを紹介した。今日この孔雀丸を浮かべるに就いて、旧藩時代の御座船の船頭を探し求めたが、その多数は既に死に絶えて、僅かに生き残っているのは此の数人に過ぎない。どうか此の人々の口から政宗公以来伝わって来た舟唄の一節を聴いて貰いたいとのことであった。
素朴の老人たちは袴の膝に手を置いて、粛然と坐っていた。私はこれまでにも多くの人に接した、今後もまた多くの人に接するであろうが、かくの如き敬虔の態度を取る人々はしばしば見られるものではあるまいと思った。わたしも覚えず襟を正しゆうして向き直った。この人々の顔は赭かった、頭の髪は白かった。いずれも白扇を取り直して、やや伏目になって一斉に歌い始めた。唄は「鎧口説き」と云うので、藩祖政宗が最も愛賞したものだとか伝えられている。
やら目出たやな。初春の好き日をとしの
着長は、えい、小桜をどしとなりにける。えい、さて又夏は卯の花の、えい、垣根の水にあらひ革。秋になりての其色は、いつも
軍に
勝色の、えい、紅葉にまがふ錦革。冬は雪げの空晴れて、えい、
冑の星の菊の座も、えい、華やかにこそ
威毛の、思ふ
仇を打ち取りて、えい、わが名を高くあげまくも、えい、
剣は箱に納め置く、弓矢ふくろを出さずして、えい、富貴の国とぞなりにける。やんら……。
わたしらはこの歌の全部を聴き取るほどの耳をもたなかった。勿論、その巧拙などの判ろう筈はない。塩竈神社の神楽を観た時と同じような感じを以って、ただ一種の古雅なるものとして耳を傾けたに過ぎなかった。しかしその唄の節よりも、文句よりも、いちじるしく私の心を動かしたのは、歌う人々の態度であったことを繰り返して云いたい。
政宗以来、孔雀丸は松島の海に浮かべられた。この老人たちも封建時代の最後の藩侯に仕えて、御座船の御用を勤めたに相違ない。孔雀丸のまんなかには藩侯が乗っていた。その左右には美しい小姓どもが控えていた。末座には大勢の家来どもが居列んでいた。船には竹に雀の紋をつけた幔幕が張り廻されていた。海の波は畳のように平らかであった。この老人たちは艫をあやつりながら、声を揃えてかの舟唄を歌った。
それから幾十年の後に、この人々はふたたび孔雀丸に乗った。老いたるかれらはみずから艫擢を把らなかったが、旧主君の前にあると同一の態度を以って謹んで歌った。かれらの眼の前には裃も見えなかった、大小も見えなかった。異人のかぶった山高帽子や、フロックコートがたくさんに列んでいた。この老人たちは恐らくこの奇異なる対照と変化とを意識しないであろう、また意識する必要も認めまい。かれらは幾十年前の旧い美しい夢を頭に描きながら、幾十年前の旧い唄を歌っているのである。かれらの老いたる眼に映るものは、裃である、大小である、竹に雀の御紋である。山高帽やフロックコートなどは眼にはいろう筈がない。
私はこの老人たちに対して、一種尊敬の念の湧くを禁じ得なかった。勿論その尊敬は、悲壮と云うような観念から惹き起される一種の尊敬心で、例えば頽廃した古廟に白髪の伶人が端坐して簫の秘曲を奏している、それとこれと同じような感があった。わたしは巻煙草をくわえながら此の唄を聴くに忍びなかった。
この唄は、この老人たちの生命と共に、次第に亡びて行くのであろう。松島の海の上でこの唄の声を聴くのは、あるいはこれが終りの日であるかも知れない。わたしはそぞろに悲しくなった。
しかし仙台の国歌とも云うべき「さんさ時雨」が、芸妓の生鈍い肉声に歌われて、いわゆる緑酒紅燈の濁った空気の中に、何の威厳もなく、何の情趣も無しに迷っているのに較べると、この唄はむしろこの人々と共に亡びてしまう方が優かも知れない。この人々のうちの最年長者は、七十五歳であると聞いた。
金華山の一夜
金華山は登り二十余町、さのみ嶮峻な山ではない、むしろ美しい青い山である。しかも茫々たる大海のうちに屹立しているので、その眼界はすこぶる闊い、眺望雄大と云ってよい。わたしが九月二十四日の午後この山に登った時には、麓の霧は山腹の細雨となって、頂上へ来ると西の空に大きな虹が横たわっていた。
海中の孤島、黄金山神社のほかには、人家も無い。参詣の者はみな社務所に宿を借るのである。わたしも泊まった。夜が更けると、雨が瀧のように降って来た。山を震わすように雷が鳴った。稲妻が飛んだ。
「この天気では、あしたの船が出るか知ら。」と、わたしは寝ながら考えた。
これを案じているのは私ばかりではあるまい。今夜この社務所には百五十余人の参詣者が泊まっているという。この人々も同じ思いでこの雨を聴いているのであろうと思った。しかも今日では種々の準備が整っている。海が幾日も暴れて、山中の食料がつきた場合には、対岸の牡鹿半島にむかって合図の鐘を撞くと、半島の南端、鮎川村の忠実なる漁民は、いかなる暴風雨の日でも約二十八丁の山雉の渡しを乗っ切って、必ず救助の船を寄せることになっている。
こう決まっているから、たとい幾日この島に閉じ籠められても、別に心配することも無い。わたしは平気で寝ていられるのだ。が、昔はどうであったろう。この社の創建は遠い上代のことで、その年時も明らかでないと云う。尤もその頃は牡鹿半島と陸続きであったろうと思われるが、とにかく斯ういう場所を撰んで、神を勧請したという昔の人の聡明に驚かざるを得ない。ここには限らず、古来著名の神社仏閣が多くは風光明媚の地、もしくは山谷嶮峻の地を相して建てられていると云う意味を、今更のようにつくづく感じた。これと同時に、古来人間の信仰の力というものを怖ろしいほどに思い知った。海陸ともに交通不便の昔から年々幾千万の人間は木の葉のような小さい舟に生命を托して、この絶島に信仰の歩みを運んで来たのである。ある場合には十日も二十日も風浪に阻められて、ほとんど流人同様の艱難を嘗めたこともあったろう。ある場合には破船して、千尋の浪の底に葬られたこともあったろう。昔の人はちっともそんなことを怖れなかった。
今の信仰の薄い人――少なくとも今のわたしは、ほとんど保険付きともいうべき大きな汽船に乗って来て、しかも食料欠乏の憂いは決して無いという確信を持っていながら、一夜の雷雨にたちまち不安の念をきざすのである。こんなことで、どうして世の中に生きていられるだろう。考えると、何だか悲しくなって来た。
雷雨は漸くやんだ。山の方では鹿の声が遠くきこえた。あわれな無信仰者は初めて平和の眠りに就いた。枕もとの時計はもう一時を過ぎていた。
(大正2・10「やまと新聞」)
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秋の修善寺
(一)
(明治四十一年)九月の末におくればせの暑中休暇を得て、伊豆の修善寺温泉に浴し、養気館の新井方にとどまる。所作為のないままに、毎日こんなことを書く。
二十六日。きのうは雨にふり暮らされて、宵から早く寝床にはいったせいか、今朝は五時というのにもう眼が醒めた。よんどころなく煙草をくゆらしながら、襖にかいた墨絵の雁と相対すること約半時間。おちこちに鶏が勇ましく啼いて、庭の流れに家鴨も啼いている。水の音はひびくが雨の音はきこえない。
六時、入浴。その途中に裏二階から見おろすと、台所口とも思われる流れの末に長さ三尺ほどの蓮根をひたしてあるのが眼についた。湯は菖蒲の湯で、伝説にいう、源三位頼政の室菖蒲の前は豆州長岡に生まれたので、頼政滅亡の後、かれは故郷に帰って河内村の禅長寺に身をよせていた。そのあいだに折りおりここへ来て入浴したので、遂にその湯もあやめの名を呼ばれる事になったのであると。もし果たしてそうであるならば、猪早太ほどにもない雑兵葉武者のわれわれ風情が、遠慮なしに頭からざぶざぶ浴びるなどは、遠つ昔の上臈の手前、いささか恐れ多き次第だとも思った。おいおいに朝湯の客がはいって来て、「好い天気になって結構です。」と口々に云う。なにさま外は晴れて水は澄んでいる。硝子戸越しに水中の魚の遊ぶのがあざやかにみえた。
朝飯をすました後、例の範頼の墓に参詣した。墓は宿から西北へ五、六丁、小山というところにある。稲田や芋畑のあいだを縫いながら、雨後のぬかるみを右へ幾曲がりして登ってゆくと、その間には紅い彼岸花がおびただしく咲いていた。墓は思うにもまして哀れなものであった。片手でも押し倒せそうな小さい仮家で、柊や柘植などの下枝に掩われながら、南向きに寂しく立っていた。秋の虫は墓にのぼって頻りに鳴いていた。
この時、この場合、何人も恍として鎌倉時代の人となるであろう。これを雨月物語式につづれば、範頼の亡霊がここへ現われて、「汝、見よ。源氏の運も久しからじ。」などと、恐ろしい呪いの声を放つところであろう。思いなしか、晴れた朝がまた陰って来た。
拝し終って墓畔の茶屋に休むと、おかみさんは大いに修善寺の繁昌を説き誇った。あながちに笑うべきでない。人情として土地自慢は無理もないことである。とこうするあいだに空はふたたび晴れた。きのうまではフランネルに袷羽織を着るほどであったが、晴れると俄かにまた暑くなる。芭蕉翁は「木曾殿と背中あはせの寒さ哉」と云ったそうだが、わたしは蒲殿と背中あわせの暑さにおどろいて、羽織をぬぎに宿に帰ると、あたかも午前十時。
午後、東京へ送る書信二、三通をしたためて、また入浴。欄干に倚って見あげると、東南につらなる塔の峰や観音山などが、きょうは俄かに押し寄せたように近く迫って、秋の青空がいっそう高く仰がれた。庭の柿の実はやや黄ばんで来た。真向うの下座敷では義太夫の三味線がきこえた。
宿の主人が来て語る。主人は頗る劇通であった。午後三時ふたたび出て修禅寺に参詣した。名刺を通じて古宝物の一覧を請うと、宝物は火災をおそれて倉庫に秘めてあるから容易に取出すことは出来ない。しかも、ここ両三日は法要で取込んでいるから、どうぞその後にお越し下されたいと慇懃に断わられた。
去って日枝神社に詣でると、境内に老杉多く、あわれ幾百年を経たかと見えるのもあった。石段の下に修善寺駐在所がある。範頼が火を放って自害した真光院というのは、今の駐在所のあたりにあったと云い伝えられている。して見ると、この老いたる杉のうちには、ほろびてゆく源氏の運命を眼のあたりに見たのもあろう。いわゆる故国は喬木あるの謂にあらずと、唐土の賢人は云ったそうだが、やはり故国の喬木はなつかしい。
挽物細工の玩具などを買って帰ろうとすると、町の中ほどで赤い旗をたてた楽隊に行きあった。活動写真の広告である。山のふところに抱かれた町は早く暮れかかって、桂川の水のうえには薄い靄が這っている。
修善寺がよいの乗合馬車は、いそがしそうに鈴を鳴らして川下の方から駆けて来た。
夜は机にむかって原稿などをかく、今夜は大湯換えに付き入浴八時かぎりと触れ渡された。
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