二
家へ帰ってからも、徳さんとお玉さんのことが私の頭にまつわって離れなかった。殊にきょうの柚湯については一つの思い出があった。
わたしは肩揚げが取れてから下町へ出ていて、山の手の実家へは七、八年帰らなかった。それが或る都合で再び帰って住むようになった時には、私ももう昔の子供ではなかった。十二月のある晩に遅く湯に行った。今では代が変っているが、湯屋はやはりおなじ湯屋であった。わたしは夜の湯は嫌いであるが、その日は某所の宴会へ行ったために帰宅が自然遅くなって、よんどころなく夜の十一時頃に湯に行くことになった。その晩も冬至の柚湯で仕舞湯に近い濁った湯風呂の隅には、さんざん煮くたれた柚の白い実が腐った綿のように穢らしく浮いていた。わたしは気味悪そうにからだを縮めてはいっていた。もやもやした白い湯気が瓦斯のひかりを陰らせて、夜ふけの風呂のなかは薄暗かった。
常から主の仇な気を、知っていながら女房に、なって見たいの慾が出て、神や仏をたのまずに、義理もへちまの皮羽織……
少し錆のある声で清元を唄っている人があった。音曲に就いてはまんざらのつんぼうでもない私は、その節廻しの巧いのに驚かされた。じっと耳をかたむけながら其の声の主を湯気のなかに透かしてみると、それはかの徳さんであった。徳さんが唄うことは私も子供のときから知っていたが、こんなにいい喉をもっていようとは思いも付かなかった。琵琶歌や浪花節が無遠慮に方々の湯屋を掻きまわしている世のなかに、清元の神田祭――しかもそれを偏人のように思っていた徳さんの喉から聞こうとは、まったく思いがけないことであった。
私のほかには商家の小僧らしいのが二人はいっているきりであった。徳さんはいい心持そうに続けて唄っていた。しみじみと聴いているうちに、私はなんだか寂しいような暗い気分になって来た。お玉さんの兄妹が今の元園町に孤立しているのも、無理がないようにも思われて来た。
「どうもおやかましゅうございました。」
徳さんはいい加減に唄ってしまうと、誰に云うとも無しに挨拶して、流し場の方へすたすた出て行ってしまった。そうして、手早くからだを拭いて揚がって行った。私もやがてあとから出た。路地へさしかかった時には、徳さんの家はもう雨戸を閉めて燈火のかげも洩れていなかった。霜曇りとも云いそうな夜の空で、弱々しい薄月のひかりが庭の八つ手の葉を寒そうに照らしていた。
わたしは毎日、大抵明るいうちに湯にゆくので、その柚湯の晩ぎりで再び徳さんの唄を聴く機会がなかった。それから半年以上も過ぎた或る夏の晩に又こんなことがあった。わたしが夜の九時頃に涼みから帰ってくると、徳さんの家のなかから劈くような女の声がひびいた。格子の外には通りがかりの人や近所の子供がのぞいていた。
「なんでえ、畜生。ざまあ見やがれ、うぬらのような百姓に判るもんか。」
それはお玉さんの声らしいので、私はびっくりした。なにか兄妹喧嘩でも始めたのかとも思った。店先に涼んでいる八百屋のおかみさんに聞くと、おかみさんは珍しくもないという顔をして笑っていた。
「ええ、気ちがいがまたあばれ出したんですよ。急に暑くなったんで逆上せたんでしょう。」
「お玉さんですか。」
「もう五、六年まえから可怪いんですよ。」
わたしは思わず戦慄した。わたしにはそれが初耳であった。お玉さんはわたしが下町へ行っているあいだに、いつか気ちがいになっていたのであった。私が八百屋のおかみさんと話しているうちにも、お玉さんはなにかしきりに呶鳴っていた。息もつかずに「べらぼう、畜生」などと罵っていた。徳さんの声はちっとも聞こえなかった。
家へ帰って其の話をすると、家の者もみんな知っていた。お玉さんの気ちがいと云うことは町内に隠れもない事実であったが、その原因は誰にも判らなかった。しかし別に乱暴を働くと云うのでもなく、夏も冬も長火鉢の前に坐って、死んだように鬱いでいるかと思うと、時々だしぬけに破れるような大きい声を出して、誰を相手にするとも無しに「なんでえ、畜生、べらぼう、百姓」などと罵りはじめるのであった。兄の徳さんも近頃は馴れたとみえて、別に取り鎮めようともしない。気のおかしい妹一人に留守番をさせて、平気で仕事に出てゆく。近所でも初めは不安に思ったが、これもしまいには馴れてしまって別に気に止める者もなくなった。
お玉さんは自分で髪を結う、行水をつかう、気分のよい時には針仕事などもしている。そんな時にはなんにも変ったことはないのであるが、ひと月かふた月に一遍ぐらい急にむらむらとなって例の「畜生、べらぼう」を呶鳴り始める。それが済むと、狐が落ちたようにけろりとしているのであった。気ちがいというほどのことではない、一種のヒステリーだろうと私は思っていた。気ちがいにしても、ヒステリーにしても、一人の妹があの始末ではさぞ困ることだろうと、わたしは徳さんに同情した。ゆず湯で清元を聴かされて以来、わたしは徳さんの一家を掩っている暗い影を、悼ましく眺めるようになって来た。
「畜生……べらぼう」
お玉さんはなにを罵っているのであろう、誰を呪っているのであろう。進んでゆく世間と懸けはなれて、自分たちの周囲に対して無意味の反抗をつづけながら、自然にほろびてゆく、いわゆる江戸っ児の運命をわたしは悲しく思いやった。お祭りの乞食芝居を痛罵した阿母さんは、鬼ばばァと謳われながら死んだ。清元の上手な徳さんもお玉さんも、不幸な母と同じ路をあゆんでゆくらしく思われた。取り分けてお玉さんは可哀そうでならなかった。母は鬼婆、娘は狂女、よくよく呪われている母子だと思った。
お玉さんは一人も友達をもっていなかったが、私の知っているところでは徳さんには三人の友達があった。一人は地主の長左衛門さんで、もう七十に近い老人であった。格別に親しく往来をする様子もなかったが、徳さんもお玉さんもこの地主さまにはいつも丁寧に頭をさげていた。長左衛門さんの方でもこの兄妹の顔をみれば打ち解けて話などをしていた。
もう一人は上田屋という貸本屋の主人であった。上田屋は江戸時代からの貸本屋で、番町一円の屋敷町を得意にして、昔はなかなか繁昌したものだと伝えられている。わたしが知ってからでも、土蔵付きの大きい角店で、見るからに基礎のしっかりとしているらしい家構えであった。わたしの家でも此処からいろいろの小説などを借りたことがあった。わたしが初めて読んだ里見八犬伝もここの本であった。活版本がだんだんに行なわれるに付けて、むかしの貸本屋もだんだんに亡びてしまうので、上田屋もとうとう見切りをつけて、日清戦争前後に店をやめてしまった。しかしほかにも家作などをもっているので、店は他人にゆずって、自分たちは近所でしもた家暮らしをすることになった。ここの主人ももう六十を越えていた。徳さんの兄妹は時々ここへ遊びに行くらしかった。もう一人はさっき湯で逢った建具屋のおじいさんであった。この建具屋の店にも徳さんが腰をかけている姿を折りおりに見た。
こう列べて見渡したところで、徳さんの友達には一人も若い人はなかった。地主の長左衛門さんも、上田屋の主人も、徳さんとほとんど親子ほども歳が違っていた。建具屋の親方も十五、六の歳上であった。したがって、これらの老いたる友達は、頼りない徳さんをだんだんに振り捨てて、別の世界へ行ってしまった。上田屋の主人が一番さきに死んだ。長左衛門さんも死んだ。今生き残っているのは建具屋のおじいさん一人であった。
三
わたしの家では父が死んだのちに、おなじ路地のなかで南側の二階家にひき移って、わたしの家の水口がお玉さんの庭の板塀と丁度むかい合いになった。わたしの家の者が徳さんと顔を見合せる機会が多くなった。それでも両方ながら別に挨拶もしなかった。その時はわたしが徳さんの清元を聴いてからもう四、五年も過ぎていた。
その年の秋に強い風雨があって、わたしの家の壁に雨漏りの汚点が出た。たいした仕事でもないから近所の人に頼もうと云うことになって、早速徳さんを呼びにやると、徳さんは快く来てくれた。多年近所に住んでいながら、わたしの家で徳さんに仕事を頼むのはこれが初めてであった。わたしはこの時はじめて徳さんと正面にむき合って、親しく彼と会話を交換したのであった。
徳さんはもう四十を三つ四つ越えているらしかった。髪の毛の薄い、色の蒼黒い、眼の嶮しい、頤の尖った、見るから神経質らしい男で、手足は職人に不似合いなくらいに繊細くみえた。紺の匂いの新しい印半纏をきて、彼は行儀よくかしこまっていた。私から繕いの注文をいちいち聞いて、徳さんは丁寧に、はきはきと答えた。
「あんな人がなぜ近所と折合いが悪いんだろう。」
徳さんの帰ったあとで、家内の者はみんな不思議がっていた。あくる日は朝早くから仕事に来て、徳さんは一日黙って働いていた。その働き振りのいかにも親切なのが嬉しかった。今どきの職人にはめずらしいと家内の評判はますますよかった。多寡が壁の繕いであったから、仕事は三日ばかりで済んでしまった。
徳さんは勘定を受取りにくる時に、庭の青柿の枝をたくさん切って来てくれて、「渋くってとても食べられません、花活けへでもお挿しください。」と云った。
なるほど粒は大きいが渋くって食えなかった。わたしは床の間の花瓶に挿した。
「妹はこの頃どんな塩梅ですね。」と、そのとき私はふいと訊いてみた。
「お蔭さまでこの頃はだいぶ落ちついているようですが、あいつのこってすから何時あばれ出すか知れやあしません。しかしあいつも我儘者ですから、なまじっかの所へ嫁なんぞに行って苦労するよりも、ああやって家で精いっぱい威張り散らして終る方が、仕合せかも知れませんよ。」と、徳さんは寂しく笑った。「おふくろも丁度あんな人間ですから、みんな血を引いているんでしょうよ。」
それからだんだんに話してみると、徳さんは妹のことをさのみ苦労にしてもいないらしかった。気のおかしくなるのは当り前だぐらいに思っているらしかった。時どきに大きな声などを出して呶鳴ったり騒いだりしても、近所に対して気の毒だとも思っていないらしかった。しかし徳さんが妹を可愛がっていることは私にもよく判った。かれは妹が可哀そうだから、自分もこの歳まで独身でいると云った。その代りに少しは道楽もしましたと笑っていた。
これが縁になって、徳さんは私たちとも口を利くようになった。途中で会っても彼は丁寧に時候の挨拶などをした。わたしの家へ仕事に来てから半月ばかりも後のことであったろう、私がある日の夕方銀座から帰ってくると、町内の酒屋の角で徳さんに逢った。
徳さんも仕事の帰りであるらしく、印半纏を着て手には薄のひと束を持っていた。十月の日はめっきり詰まって、酒屋の軒ランプにはもう灯がはいっていた。徳さんの持っている薄の穂が夕闇のなかに仄白くみえた。
「今夜は十三夜ですか。」と、私はふと思い出して云った。
「へえ、片月見になるのも忌ですから。」
徳さんは笑いながら薄をみせた。二人は云い合わしたように暗い空をみあげた。後の月は雨に隠れそうな雲の色であった。私はさびしい心持で徳さんと並んであるいた。袷でももう薄ら寒いような心細い秋風が、すすきの白い穂をそよそよと吹いていた。
路地の入口へ来ると、あかりもまだつけない家の奥で、お玉さんの尖った声がひびいた。
「なんでえ、なに云ってやあがるんでえ。畜生。馬鹿野郎。」
お玉さんがまた狂い出したかと思うと、私はいよいよ寂しい心持になった。もう珍しくもないので、薄暗い表には誰も覗いている者もなかった。徳さんは黙って私に会釈して格子をあけてはいった。格子のあく音がきこえると同時に、南向きの窓が内からがらりと明いた。前にも云った通り、窓は南に向いているので、路地を通っている私は丁度その窓から出た女の顔と斜めに向き合った。女の歯の白いのがまず眼について物凄かった。
わたしは毎朝家を出て、夕方でなければ帰って来ない。お玉さんは滅多に外へ出たことはない。お玉さんがこのごろ幽霊のように窶れているということは、家の者の話には聞いていたが、わたしは直接にその変った姿をみる機会がなくて過ぎた。それを今夜初めて見たのである。お玉さんの平べったい顔は削られたように痩せて尖って、櫛巻にしているらしい髪の毛は一本も乱さずに掻き上げられていた。その顔の色は気味の悪いほどに白かった。
「旦那、旦那。」と、お玉さんはひどく若々しい声で呼んだ。
私も呼ばれて立ちどまった。
「あなたは洋服を着ているんですか。」
その時、私は和服を着ていたので、わたしは黙って蝙蝠のように両袖をひろげて見せた。お玉さんはかの白い歯をむき出してにやにやと笑った。
「洋服を着て通りゃあがると、あたまから水をぶっ掛けるぞ。気をつけやあがれ。」
窓はぴっしゃり閉められた。お玉さんの顔は消えてしまった。私は物に魘われたような心持で早々に家へ帰った。その当時、わたしは毎日出勤するのに、和服を着て出ることもあれば、洋服を着て出ることもあった。お玉さんから恐ろしい宣告を受けて以来、わたしは洋服を着るのを一時見合せたが、そうばかりもゆかない事情があるので、よんどころなく洋服を着て出る場合には、なるべく足音をぬすんでお玉さんの窓の下をそっと通り抜けるようにしていた。
それからひと月ばかり経って、寒い雨の降る日であった。わたしは雨傘をかたむけてお玉さんの窓ぎわを通ると、さながら待ち設けていたかのように、窓が不意に明いたかと思うと、柄杓の水がわたしの傘の上にざぶりと降って来た。幸いに傘をかたむけていたので、さしたることも無かったが、その時わたしは和服を着ていたにも拘らず、こういう不意討ちの難に出会ったのであった。その以来、自分はもちろん、家内の者にも注意して、お玉さんの窓の下はいつも忍び足で通ることにしていた。それでも時どきに内から鋭い声で叱り付けられた。
「馬鹿野郎。百姓。水をぶっかけるぞ。しっかりしろ。」
口で云うばかりでない、実際に水の降って来ることがたびたびあった。酒屋の小さい御用聞きなどは寒中に頭から水を浴びせられて泣いて逃げた。近所の子供などは口惜しがって、窓へ石を投げ込むのもあった。お玉さんも負けずに何か罵りながら、内から頻りに水を振りまいた。石と水との闘いが時どきにこの狭い路地のなかで演ぜられた。
そのうちにお玉さんの家は路地のそばを三尺通り切り縮められることになった。それは路地の奥の土蔵付きの家へ新しく越して来た某実業家の妾が、人力車の自由に出入りのできるだけに路地の幅をひろげて貰いたいと地主に交渉の結果、路地の入口にあるお玉さんの家をどうしても三尺ほどそぎ取らなければならないことになったのである。こういう手前勝手の要求を提出した人は、地主に対しても無論に高い地代を払うことになったに相違なかった。お玉さんの家の修繕費用も先方で全部負担すると云った。
「長左衛門さんがおいでなら、わたくしも申すこともありますが、今はもう仕様がありません。」と、徳さんは若い地主からその相談を受けた時に、存外素直に承知した。しかし修繕の費用などは一銭も要らないと、きっぱり撥ね付けた。
それからひと月の後に路地は広くなった。お玉さんの家はそれだけ痩せてしまった。その年の夏も暑かったが、お玉さんの家の窓は夜も昼も雨戸を閉めたままであった。お玉さんの乱暴があまり激しくなったので、徳さんは妹が窓から危険な物を投げ出さない用心に、路地にむかった窓の雨戸を釘付けにしてしまったのであった。お玉さんは内から窓をたたいて何か呶鳴っていた。
暑さが募るにつれて、お玉さんの病気もいよいよ募って来たらしかった。この頃では家のなかで鉄瓶や土瓶を投げ出すような音もきこえた。ときどきには跣足で表へ飛び出すこともあった。建具屋のおじいさんももう見ていられなくなって、無理に徳さんをすすめて妹を巣鴨の病院へ入れさせることにした。今の徳さんには入院料を支弁する力もない。さりとて仮りにも一戸を持っている者の家族には施療を許されない規定になっているので、徳さんはとうとうその家を売ることになった。そうして、建具屋のおじいさんの尽力で、お玉さんはいよいよ巣鴨へ送られた。それは九月はじめの陰った日で、お玉さんはこの家を出ることを非常に拒んだ。ようように宥めて人力車に乗せると、お玉さんは幌をかけることを嫌った。
「畜生。べらぼう。百姓。ざまあ見やがれ。」
お玉さんは町じゅうの人を呪うように大きな声で叫びつづけながら、傲然として人力車にゆられて行った。わたしは路地の口に立って見送った。建具屋のおじいさんと徳さんとは人力車のあとに付いて行った。
「妹もながなが御厄介になりました。」
巣鴨から帰って来て、徳さんは近所へいちいち挨拶にまわった。そうして、その晩のうちに世帯をたたんで、元の貸本屋の上田屋の二階に同居した。そのあとへは更に手入れをして質屋の隠居さんが越して来た。近所ではあるが町内が違うので、わたしはその後徳さんの姿を見かけることはほとんど無かった。
それからまた二年過ぎた。そうして、柚湯の日に徳さんの死を突然きいたのである。徳さんの末路は悲惨であった。しかし徳さんもお玉さんもあくまで周囲の人間を土百姓と罵って、自分たちだけがほんとうの江戸っ児であると誇りつつ、長い一生を強情に押し通して行ったかと思うと、単に悲惨というよりも、むしろ悲壮の感がないでもない。
そのあくる日の午後にわたしは再び建具屋のおじいさんに湯屋で逢った。おじいさんは徳さんの葬式から今帰ったところだと云った。
「徳の野郎、あいつは不思議な奴ですよ。なんだか貧乏しているようでしたけれど、いよいよ死んでから其の葛籠をあらためると、小新しい双子の綿入れが三枚と羽織が三枚、銘仙の着物と羽織の揃ったのが一組、帯が三本、印半纏が四枚、ほかに浴衣が五枚と、それから現金が七十円ほどありましたよ。ところが、今までめったに寄り付いたことのねえ奴らが、やれ姪だの従弟だのと云って方々からあつまって来て、片っ端からみんな持って行ってしまいましたよ。世の中は薄情に出来てますね。なるほど徳の野郎が今の奴らと附き合わなかった筈ですよ。」
わたしは黙って聴いていた。そうして、お玉さんは此の頃どうしているかと訊いた。
「お玉は病院へ行ってから、からだはますます丈夫になって、まるで大道臼のように肥ってしまいましたよ。」
「病気の方はどうなんです。」
「いけませんね。もうどうしても癒らないでしょうよ。まあ、あすこで一生を終るんですね。」と、おじいさんは溜息をついた。「だが、当人としたら其の方が仕合せかも知れませんよ。」
「そうかも知れませんね。」
二人はそれぎり黙って風呂へはいった。
(掲載誌不詳、『十番随筆』所収)
[#改丁、ページの左右中央に]
旅つれづれ
[#改丁]
昔の従軍記者
*
××さん。
仰せの通り、今回の事変(支那事変)について、北支方面に、上海方面に、従軍記者諸君や写真班諸君の活動は実にめざましいもので、毎日の新聞を見るたびに、他人事とは思われないように胸を打たれます。取分けて私などは自分の経験があるだけに、人一倍にその労苦が思いやられます。
その折柄、あたかもあなたから「昔の従軍記者」に就いておたずねがありましたので、自分が記憶しているだけの事を左にお答え申します。御承知の通り、日露戦争の当時、わたしは東京日日新聞社に籍を置いていて、従軍新聞記者として満洲の戦地に派遣されましたので、なんと云っても其の当時のことが最も多く記憶に残っていますが、お話の順序として、まず日清戦争当時のことから申上げましょう。
日清戦争当時は初めての対外戦争であり、従軍記者というものの待遇や取締りについても、一定の規律はありませんでした。朝鮮に東学党の乱が起って、清国がまず出兵する、日本でも出兵して、二十七年六月十二日には第五師団の混成旅団が仁川に上陸する。こうなると、鶏林(朝鮮の異称)の風雲おだやかならずと云うので、東京大阪の新聞社からも記者を派遣することになりましたが、まだ其の時は従軍記者というわけではなく、各社から思い思いに通信員を送り出したというに過ぎないので、直接には軍隊とは何の関係もありませんでした。
そのうちに事態いよいよ危急に迫って、七月二十九日には成歓牙山のシナ兵を撃ち攘うことになる。この前後から朝鮮にある各新聞記者は我が軍隊に附属して、初めて従軍記者ということになりました。戦局がますます拡大するに従って、内地の本社からは第二第三の従軍記者を送って来る。これらはみな陸軍省の許可を受けて、最初から従軍新聞記者と名乗って渡航したのでした。
これらの従軍記者は宇品から御用船に乗り込んで、朝鮮の釜山または仁川に送られたのですが、前にもいう通り、何分にも初めての事で、従軍記者に対する規律というものが無いので、その扮装も思い思いでした。どの人もみな洋服を着ていましたが、腰に白木綿の上帯を締めて、長い日本刀を携えているのがある。槍を持っているのがある。仕込杖をたずさえているのがある。今から思えば嘘のようですが、その当時の従軍記者としては、戦地へ渡った暁に軍隊がどの程度まで保護してくれるか判らない。万一負け軍とでもなった場合には、自衛行動をも執らなければならない。非戦闘員とて油断は出来ない。まかり間違えばシナ兵と一騎討ちをするくらいの覚悟が無ければならないので、いずれも厳重に武装して出かけたわけです。実際、その当時はシナ兵ばかりでなく、朝鮮人だって油断は出来ないのですから、この位の威容を示す必要もあったのです。軍隊の方でも別にそれを咎めませんでした。
*
前にもいう通り、従軍新聞記者に対する待遇や規定がハッキリしていないので、その配属部隊の待遇がまちまちで、非常に優遇するのもあれば、邪魔物扱いにするのもある。記者の方にも、おれは軍人でないから軍隊の拘束を受けない、と云ったような心持があって、めいめいが自由行動を執るという風がある。軍隊の方でも余りやかましく云うわけにも行かない。それがために、軍隊側にも困ることがあり、記者側にも困ることがあり、陣中におけるいろいろの挿話が生み出されたようでした。
明治三十三年の北清事件当時にも、各新聞社から従軍記者を派出しましたが、これは戦争というほどの事でもないので、やはり日清戦争当時と同様、特に規律とか規定とか云うようなものも設けられませんでした。
次は三十七、八年の日露戦争で、この時から従軍新聞記者に対する待遇その他が一定されました。従軍記者は大尉相当の待遇を受ける。その代りに軍人と同様、軍隊の規律にいっさい服従すべしと云うことになりました。もう一つ、従軍記者は一社一人に限るというのです。こうなると、画家も写真班も同行することを許されないわけです。
これには新聞社も困りました。画家や写真班はともあれ、記者一人ではどうにもなりません。軍の方では第一軍、第二軍、第三軍、第四軍を編成して、それが別々の方面へ向って出動するのに、一人の記者が掛持をすることは出来ません。そこで、まず自分の社から一人の従軍願いを出して置いて、さらに他の新聞社の名儀を借りるという方法を案出しました。
京阪は勿論、地方でも有力の新聞社はみな従軍願いを出していますが、地方の小さい新聞社では従軍記者を出さないのがある。その新聞社の名儀で出願すれば、一社一人は許されるので、東京の新聞社は争って地方の新聞社に交渉することになりました。東京日日新聞社からは黒田甲子郎君がすでに従軍願いを出して、第一軍配属と決定しているので、わたしは東京通信社の名をもって許可を受けました。
東京通信社などはいい方で、そんな新聞があるか無いか判らないような、遠い地方の新聞社員と称して、従軍願いを出す者が続々あらわれる。陸軍省でその新聞社の所在地を訊かれても、御本人はハッキリと答えることが出来ないと云うような滑稽もありました。陸軍側でもその魂胆を承知していたでしょうが、一社一人の規定に触れない限りは、いずれも許可してくれました。それで東京の各新聞社も少なきは二、三人、多きは五、六人の従軍記者を送り出すことが出来たのでした。
勿論、それは内地を出発するまでのことで、戦地へ行き着くと皆それぞれに正体をあらわして、自分は朝日だとか日日だとか名乗って通る。配属部隊の方でも怪しみませんでした。しかし袖印だけは届け出での社名を用いることになっていて、わたしもカーキー服の左の腕に東京通信社と紅く縫った帛を巻いていました。日清戦争当時と違って、槍や刀などを携帯することはいっさい許されません。武器はピストルだけを許されていたので、私たちは腰にピストルを着けていました。
*
従軍記者の携帯品は、ピストルのほかに雨具、雑嚢または背嚢、飯盒、水筒、望遠鏡で、通信用具は雑嚢か背嚢に入れるだけですから、たくさんに用意して行くことが出来ないので困りました。万年筆はまだ汎く行なわれない時代で、万年筆を持っている者は一人もありませんでした。鉛筆は折れ易くて不便であるので、どの人も小さい毛筆を用いていました。従って、矢立を持つ者もあり、小さい硯と墨を使っている者もあり、今から思えばずいぶん不便でした。
しかしまた、一利一害の道理で、われわれは机にむかって通信を書く場合はほとんど無い。シナ家屋のアンペラの上に俯伏して書くか、或いは地面に腹這いながら書くのですから、ペンや鉛筆では却って不便で、むしろ柔かい毛筆を用いた方が便利だと云う場合もありました。紙は原稿紙などを用いず、巻紙に細かく書きつづけるのが普通でした。
宿舎は隊の方から指定してくれた所に宿泊することになっていて、妄りに宿所を更えることは出来ません。大抵は村落の農家でした。しかし戦闘継続中は隊の方でもそんな世話を焼いていられないので、私たちは勝手に宿所を探さなければなりません。空家へはいったり、古廟に泊まったり、時には野宿することもありました。草原や畑に野宿していると、夜半から寒い雨がビショビショ降り出して来て、あわてて雨具をかぶって寝る。こうなると、少々心細くなります。鬼が出るという古廟に泊まると、その夜なかに寝相の悪い一人が関羽の木像を蹴倒して、みんなを驚かせましたが、ほかには怪しい事もありませんでした。鬼が出るなどと云い触らして、土地のごろつきどもの賭場になっていたらしいのです。
食事は監理部へ貰いに行って、米は一人について一日分が六合、ほかに罐詰などの副食物をくれるのですが、時には生きた鷄や生の野菜をくれることがある。米は焚かなければならず、鷄や野菜は調理しなければならず、三度の食事の世話もなかなか面倒でした。私たちは七人が一組で、二人の苦力を雇っていましたが、シナの苦力は日本の料理法を知らないので、七人の中から一人の炊事当番をこしらえて、毎日交代で食事の監督をしていました。煮物をするにはシナの塩を用い、或いは醤油エキスを水に溶かして用いました。砂糖は監理部で呉れることもあり、私たちが町のある所へ行って買うこともありました。
苦力の日給は五十銭でしたが、みな喜んで忠実に働いてくれました。一人は高秀庭、一人は丁禹良というのでしたが、そんなむずかしい名を一々呼ぶのは面倒なので、わたしの考案で一人を十郎、他を五郎という事にしました。この二人が「新聞記者雇苦力、十郎、五郎」と大きく書いた白布を胸に縫い付けているので、誰の眼にも着き易く、往来の兵士らが面白半分に「十郎、五郎」と呼ぶので、二人もいちいちその返事をするのに困っているようでした。苦力の曾我兄弟はまったく珍しかったかも知れません。
東京へ帰ってから聞きますと、伊井蓉峰の新派一座が中洲の真砂座で日露戦争の狂言を上演、曾我兄弟が苦力に姿をやつして満洲の戦地へ乗り込み、父の仇の露国将校を討ち取るという筋であったそうで、苦力の五郎十郎が暗合しているには驚きました。但し私たちの五郎十郎は正真正銘の苦力で、かたき討などという芝居はありませんでした。
*
「なにか旨い物が食いたいなあ。」
そんな贅沢を云っているのは、駐屯無事の時で、ひとたび戦闘が開始すると、飯どころの騒ぎでなく、時には唐蜀黍を焼いて食ったり、時には生玉子二個で一日の命を繋いだこともありました。沙河会戦中には、農家へはいって一椀の水を貰ったきりで、朝から晩まで飲まず食わずの日もありました。不眠不休の上に飲まず食わずで、よくも達者に駈け廻られたものだと思いますが、非常の場合にはおのずから非常の勇気が出るものです。そんな場合でも露西亜兵携帯の黒パンはどうしても喉に通りませんでした。シナ人が常食の高梁も再三試食したことがありますが、これは食えない事もありませんでした。戦闘が始まると、シナ人はみな避難してしまうので、その高梁飯も戦闘中には求めることが出来ず、空腹をかかえて駈けまわることになるのです。
燈火は蝋燭か火縄で、物をかく時は蝋燭を用い、暗夜に外出する時には火縄を用いるのですが、この火縄を振るのが案外にむずかしく、緩く振れば消えてしまい、強く振れば振り消すと云うわけで、五段目の勘平のような器用なお芝居は出来ません。今日ならば懐中電燈もあるのですが、不便なことの多い時代、殊に戦地ですから已むを得ないのです。火縄を振るのは路を照らす為ばかりでなく、野犬を防ぐためです。満洲の野原には獰猛な野犬の群れが出没するので困りました。殊にその野犬は戦場の血を嘗めているので、ますます獰猛、ほとんど狼にひとしいので、我々を恐れさせました。そのほかには、蝎、南京虫、虱など、いずれも夜となく、昼となく、我々を悩ませました。蝎に螫されると命を失うと云うので、虱や南京虫に無神経の苦力らも、蝎と聞くと顔の色を変えました。
「新聞記者に危険はありませんか。」
これはしばしばたずねられますが、決して危険がないとは云えません。従軍記者も安全の場所にばかり引き籠っていては、新しい報告も得られず、生きた材料も得られませんから、危険を冒して奔走しなければなりません。文字通りに、砲烟弾雨の中をくぐることもしばしばあります。日清戦争には二六新報の遠藤君が威海衛で戦死しました。日露戦争には松本日報の川島君が沙河で戦死しました。川島君は砲弾の破片に撃たれたのです。私もその時、小銃弾に帽子を撃ち落されましたが、幸いに無事でした。その弾丸がもう一寸と下がっていたら、唯今こんなお話をしてはいられますまい。私のほかにも、こういう危険に遭遇して、危く免れた人々は幾らもあります。殊に今日は空爆ということもありますから、いよいよ油断はなりません。
今度の事変にも、北支に、上海に、もう幾人かの死傷者を出したようです。この事変がどこまで拡大するか知れませんが、従軍記者諸君のあいだに此の以上の犠牲者を出さないようにと、心から祈って居ります。
(昭和12・8稿・『思ひ出草』所収)
[#改ページ]
苦力とシナ兵
一
昨今は到るところで満洲の話が出るので、わたしも在満当時のむかしが思い出されて、いわゆる今昔の感が無いでもない。それは文字通りの今昔で、今から約三十年の昔、私は東京日日新聞の従軍記者として、日露戦争当時の満洲を奔走していたのである。
それについての思い出話を新聞紙上にも書いたが、それからそれへと繰り出して考えると、まだ云い残したことが随分ある。そのなかで苦力のことを少しばかり書いてみる。
シナの苦力は世界的に有名なもので、それがどんなものであるかは誰でも知っているのであるから、今あらためてその生活などに就いて語ろうとするのではない。ただ、ひと口に苦力といえば、最も下等な人間で、横着で、狡猾で、吝嗇で、不潔で、ほとんど始末の付かない者のように認められているらしいが、必ずしもそんな人間ばかりで無いと云うことを、私の実験によって語りたいと思うのである。
私が戦地にある間に、前後三人の苦力を雇った。最初は王福、次は高秀庭、次は丁禹良というのであった。
最初の王福は一番若かった。彼は二十歳で、金州の生まれであると云った。戦時であるから、かれらも用心しているのかも知れないが、極めて柔順で、よく働いた。一日の賃銀は五十銭であったが、彼は朝から晩まで実によく働いて、われわれ一行七人の炊事から洗濯その他の雑用を、何から何まで彼一人で取り賄ってくれた。
彼は煙草をのむので、私があるとき菊世界という巻莨一袋をやると、彼は拝して受取ったが、それを喫まなかった。自分の兄は日本軍の管理部に雇われているから、あしたの朝これを持って行ってやりたいと云うのである。われわれの宿所から管理部までは十町ほども距れている。彼は翌朝、忙がしい用事の隙をみて、その莨を管理部の兄のところへ届けに行った。
それから二、三日の後、私が近所を散歩していると、彼は他の苦力と二人づれで、路ばたの露店の饅頭を食っていたが、私の姿をみると直ぐに駈けて来た。連れの苦力は彼の兄であった。兄は私にむかって、丁寧に先日の莨の礼を述べた。いかに相手が苦力でも、一袋の莨のために兄弟から代るがわるに礼を云われて、私はいささか極まりが悪かった。
その後、注意して見ると、彼は時どきに兄をたずねて、二人が連れ立って何か食いに行くらしい。どちらが金を払うのか知らないが、兄弟仲のいいことは明らかに認められた。私は兄の顔をみると、莨をやることにしていたが、二、三回の後に兄はことわった。
大人の莨の乏しいことは私たちも知っていると、彼は云うのである。実際、戦地では莨に不自由している。彼はさらに片言の日本語で、こんな意味のことを云った。
「管理部の人、みな莨に困っています。この莨、わたくしに呉れるよりも、管理部の人にやってください。」
私は無言でその顔をながめた。勿論、多少のお世辞もまじっているであろうが、苦力の口から斯ういう言葉を聞こうとは思わなかったのである。これまでとかくに彼らを侮っていたことを、私は心ひそかに恥じた。
金州の母が病気だという知らせを聞いて、王の兄弟は暇を取って郷里に帰った。帰る時に、兄も暇乞いに来たが、兄は特に私にむかって、大人はからだが弱そうであるから、秋になったらば用心しろと注意して別れた。
王福の次に雇われて来たのが、高秀庭である。高は苦力の本場の山東省の生まれであるが、年は二十二歳、これまで上海に働いていたそうで、ブロークンながらも少しく英語を話すので調法であった。これも極めて柔順で、すこぶる怜悧な人間であった。
高を雇い入れてから半月ほどの後に、遼陽攻撃戦が始まったので、私たちは自分の身に着けられるだけの荷物を身に着けた。残る荷物はふた包みにして、高が天秤棒で肩にかついだ。そうして、軍の移動と共に前進していたのであるが、この戦争が始まると、雨は毎日降りつづいた。満洲の秋は寒い。八月の末でも、夜は焚火がほしい位である。その寒い雨に夜も昼も濡れていた為に、一行のうちに風邪をひく者が多かった。私もその一人で、鞍山店附近にさしかかった時には九度二分の熱になってしまった。
他の人々も私の病気を心配して、このままで雨に晒されているのは良くあるまいというので、苦力の高を添えて私を途中にとどめ、他の人々は前進することになった。鞍山店は相当に繁昌している土地らしいが、ここらの村落の農家はみな何処へか避難して、どの家にも人の影はみえない。高は雨の中を奔走して、比較的に綺麗な一軒のあき家を見つけて来てくれた。そこへ私を連れ込んで、彼は直ぐに高梁を焚いて湯を沸かした。珈琲に砂糖を入れて飲ませてくれた。前方では大砲や小銃の音が絶え間なしにきこえる。雨はいよいよ降りしきる。こうして半日を寝て暮らすうちに、その日もいつか夜になった。高は蝋燭をとぼして、夕飯の支度にかかった。
日が暮れると共に、わたしは一種の不安を感じ始めた。以前の王福の正直は私もよく知っていたが、今度の高秀庭の性質はまだ本当にわからない。私の荷物は勿論、一行諸君の荷物もひと纏めにして、彼がみな預かっているのである。私が病人であるのを幸いに、夜なかに持ち逃げでもされては大変である。九度以上の熱があろうが、苦しかろうが、今夜は迂濶に眠られないと、私は思った。
そうは思いながらも、高の煮てくれた粥を食って、用意の薬を飲むと、なんだかうとうとと眠くなって来た。ふと気が付くと、枕もとの蝋燭が消えている。マッチを擦って時計をみると、今夜はもう九時半を過ぎている、高の姿はみえない。はっと思って、私は直ぐに飛び起きた。
しかし荷物の包みはそのままになっている。調べてみると、品物には異状はないらしい。それでやや安心したが、それにしても彼はどこへ行ったのであろう。二、三度呼んでみたが返事もない。台所の土間にも姿はみえない。この雨の夜にどこへも行くはずはない、あるいは何かの事情で私を置き去りにして行ったのかとも思った。なにしろ、これだけの荷物がある以上、油断してはいられないと思ったので、私は毛布を着て起き直った。砲声はやや衰えたが、雨の音は止まない。夜の寒さは身にしみて来た。
それから二時間ほどの後である。高は濡れて帰って来た。彼は一枚の毛布を油紙のようなものに包んで抱えていた。
これで事情は判明した。彼は昼間から私の容体を案じていたのであるが、日が暮れていよいよ寒くなって来たので、彼は私のために更に一枚の毛布を工面に行ったのである。われわれの食物その他はすべて管理部で支給されるのであるから、彼は管理部をたずねて行った。戦闘開始中は管理部も後方に引き下がっているのであるから、彼は暗い寒い雨の夜に一里余の路を引返して、ようように管理部のありかを探し当てたが、管理部でも毛布までは支給されないという。第一、余分の毛布もないのである。それでも彼はいろいろに事情を訴えて、一枚の古毛布を借りて来て、病める岡大人――岡本の一字を略して云う――に着せてくれる事になったのである。
私は感謝を通り越して、なんだか悲しいような心持になった。前にもいう通り、私たちはとかくに苦力らを侮蔑する心持がある。その誤りをさきに王福の兄弟に教えられ、今はまた、高秀庭に教えられた。いたずらに皮相を観て其の人を侮蔑する――自分はそんな卑しい、浅はかな心の所有者であるかと思うと、私は涙ぐましくなった。その涙は感激の涙でなく、一種の自責の涙であった。
私は高のなさけに因って、その夜は二枚の毛布をかさねて眠った。あくる朝は一度ほども熱が下がったのと、前方の戦闘がいよいよ激烈になって来たのとで、私は病いを努めて前進することにした。高は彼の古毛布を斜めに背負って、天秤の荷物をかついで、私のあとに続いて来た。雨はまだやまなかった。
最後の丁禹良はやや魯鈍に近い人間で、特に取立てて語るほどの事もなかったが、いわゆる馬鹿正直のたぐいで、これも忠実勤勉であった。それでも「わたしも今に高のようになりたい」などと云っていた。高秀庭はその勤勉が管理部の眼にもとまり、私たちの方でも推薦して苦力頭の一人に採用されたからである。苦力頭は軍隊使用の苦力らの取締役のようなもので、胸には徽章をつけ、手には紫の総の付いている鞭を持っている。丁のような人の眼にも、それが羨ましく見えたのであろう。
彼らに就いては、まだ語ることもあるが、余り長くなるからこの位にとどめて置く。いずれにしても、私たちの周囲にいた苦力らは前に云ったような次第で、ことごとく忠実善良の人間ばかりであった。私たちの運がよかったのかも知れないが、あながちにそうばかりとも思われない。
多数のなかには、横着な者も狡猾な者もいるには相違ないが、苦力といえば一概に劣等の人間と決めてしまうのは、正しい観察ではないと思われる。それと反対に、私は苦力という言葉を聞くと、王福の兄弟や、高秀庭や、丁禹良らの姿が眼に浮かんで、苦力はみな善良の人間のように思われてならない。これも勿論、正しい観察ではあるまいが――。
二
今度は少しくシナの兵士について語りたい。
シナの兵隊も苦力と共に甚だ評判の悪いものである。シナ兵は怯懦である、曰く何、曰く何、一つとしてよいことは無いように云われている。しかも彼らの無規律であり怯懦であるのは、根本の軍隊組織や制度が悪いためであって、彼らの罪ではない。
現在のシナのような、軍隊組織や制度の下にあっては、いかなる兵でも恐らく勇敢には戦い得まいと思う。個人としてのシナ兵が弱いのではなく、根本の制度が悪いのである。新たに建設された満洲国はどんな兵制を設けるか知らないが、在来の制度や組織を変革して、よく教えよく戦わしむれば、十分に国防の任務を果たし得る筈である。
それよりも更に変革しなければならないのは、軍隊に対する一般国民の観念である。由来、文を重んずるはシナの国風であるが、それが余りに偏重し過ぎていて、文を重んずると反対に武を嫌い、武を憎むように慣らされている。シナの人民が兵を軽蔑し憎悪することは、実に我々の想像以上である。
「好漢不当兵」とは昔から云うことであるが、いやしくも兵と名が付けば、好漢どころか、悪漢、無頼漢を通り越して、ほとんど盗賊類似のように考えられている。そういう国民のあいだから忠勇の兵士を生み出すことの出来ないのは判り切っている。
私は遼陽城外の劉という家に二十日余り滞在していたことがある。農であるが、先ずここらでは相当の大家であるらしく、男の雇人が十数人も働いていた。そのなかに二十五、六の若い男があって、やはり他の雇人と同じ服装をして同じように働いているが、その人柄がどこやら他の朋輩と違っていて、私たちに対しても特に丁寧に挨拶する。私たちのそばへ寄って来て特に親しく話しかけたりする。すべてが人を恋しがるような風が見えて、時には何となく可哀そうなように感じられることがある。早く云えば、継子が他人を慕うというような風である。
これには何か仔細があるかと思って、あるとき他の雇人に訊いてみると、果たして仔細がある。彼はこの家の次男で、本来ならば相当の土地を分配されて、相当の嫁を貰って、立派に一家の旦那様で世を送られる身の上であるが、若気の誤まり――と、他の雇人は云った。――十五、六歳の頃から棒を習った。それまではまだ好いのであるが、それから更に進んで兵となって、奉天歩隊に編入された。所詮、両親も兄も許す筈はないから、彼は無断で実家を飛び出して行ったのである。
それから二、三年の後、彼は伍長か何かに昇進して、軍服をつけて、赤い毛を垂れた軍帽をかぶって、久しぶりで実家をおとずれると、両親も兄も逢わなかった。雇人らに命じて、彼を門外へ追い出させた。さらに転じて近所の親類をたずねると、どこの家でも門を閉じて入れなかった。彼はすごすごと立ち去った。
それからまた二、三年、前後五、六年の軍隊生活を送った後に、彼は兵に倦きたか、故郷が恋しくなったか、軍服をぬいで実家へ帰って来たが、実家では入れなかった。親類も相手にしなかった。それでも土地の二、三人が彼を憫れんで、彼のために実家や親類に嘆願して、今後は必ず改心するという誓言の下に、両親や兄のもとに復帰することを許された。先ず勘当が赦されたという形である。
しかも彼は直ちに劉家の次男たる待遇を受けることを許されなかった。帰参は叶ったというものの、当分は他の雇人と同格の待遇で、雇人同様に立ち働かなければならなかった。彼はその命令に服従して、朝から晩まで泥だらけになって働いているのである。当分と云っても、もう二年以上になるが、彼はまだ本当の赦免に逢わない。彼は今年二十六歳であるが、恐らく三十歳になるまではそのままであろうという。
その話を聞かされて、私はいよいよ可哀そうになった。いかに国風とは云いながら、兵になったと云うことがそれ程の罪であろうか。それに伴って、何か他に悪事でも働いたというならば格別、単に軍服を身に纏ったと云うだけのことで、これほどの仕置を加えるのは余りに残酷であると思った。彼が肩身を狭くして、一種の継子のような風をして、他国人の私たちを恋しがるのも無理はない。その以来、私は努めて彼に対して親しい態度を執るようにすると、彼もよろこんで私に接近して来た。
ある日、私が城内へ買物にゆくと、その帰り途で彼に逢った。彼も何か買物にやられたとみえて、大きい包みをかついでいた。それでも直ぐに私のそばへ駈け寄って来て、私の荷物を持ってくれた。一緒に帰る途中、私は彼にむかって「お前も骨が折れるだろう。」と慰めるように云うと、彼は「私が悪いのだ。」と答えた。彼自身も飛んだ心得違いをしたように後悔しているらしかった。
これはほんの一例に過ぎないが、良家の子が兵となれば、結局こんなことになるのである。入営の送迎に旗を立ててゆく我が国風とは、あまりに相違しているではないか。いかなる名将勇士でも、国民の後援がなければ思うようの働きは出来ない。その国民がこの如くに兵を嫌い兵を憎むようでは、士気の振わないのも当然であるばかりか、まじめな人間は兵にならない。兵の素質の劣悪もまた当然であると云うことを、私はつくづく感じた。
平和を愛するのはいい。しかしこれほどに武を憎む国民は世界の優勝国民になり得ない。シナはあまりに文弱であり過ぎる。これと反対の一例を私が実験しているだけに、この際いよいよその感を深うしたのである。
劉家へ来るひと月ほど以前に、私は海城北方の李家屯という所に四日ばかり滞在したことがある。これも相当の大家であったが、私が宿泊の第一日には家人は全く姿をみせず、老年の雇人ひとりが来て形式的の挨拶をしただけで、万事の待遇が甚だ冷淡であった。
その第二日に、その家の息子らしい十二、三歳の少年が私の居室の前に遊んでいた。彼は私の持っている扇をみて、しきりに欲しそうな顔をしているので、私はその白扇に漢詩の絶句をかいてやると、彼はよろこんで貰って行った。すると、一時間あまりの後に、その家の長男という二十二、三歳の青年が衣服をあらためて挨拶に来て、先刻の扇の礼を云った。青年は相当の教育を受けているらしく、自由に筆談が出来るので、だんだん話し合ってみると、この一家の人々は私がカーキー服を来て半武装をしているのを見て、やはり軍人であると思っていたらしい。しかも白扇の題詩を見るに及んで、私が軍人でないことを知ったというのである。日本の軍人に漢詩を作る人はたくさんあるが、シナにはないと見える。
ともかくも私が文字の人であることを知ると共に、一家内の待遇が一変した。長男が去ると、やがてまた入れ代って主人が挨拶に来た。日が暮れる頃には酒と肉を贈って来た。他の雇人らも私をみるといちいち丁寧に挨拶するようになった。長男の青年は毎朝かならず挨拶に来て、何か御用は無いかと云った。私がいよいよ出発する時には、主人や息子たちは衣服をあらためて門前まで送って来た。他の雇人らも総出で私に敬礼した。
敬意を表されて腹の立つ者はない。私もその当時は内々得意であったが、後に遼陽城外の劉家に来て、かの奉天歩隊の勘当息子をみるに及んで、彼らが余りに文を重んじ、武を軽んずるの甚しきを憐れむような心持にもなって来た。これではシナの兵は弱い筈である。
多年の因習、一朝に一洗することは不可能であるとしても、新興国の当路者がここに意を致すことなくんば、富国はともあれ、強兵の実は遂に挙がるまいと思われる。
(昭和8・1「文藝春秋」)
[#改ページ]
上一页 [1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8] [9] [10] ... 下一页 >> 尾页