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綺堂むかし語り(きどうむかしがたり)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-8-27 9:05:51  点击:  切换到繁體中文



御堀端三題


     一 柳のかげ

 海に山に、涼風に浴した思い出もいろいろあるが、最も忘れ得ないのは少年時代の思い出である。今日こんにちの人はもちろん知るまいが、麹町の桜田門さくらだもん外、地方裁判所の横手、のちに府立第一中学の正門前になった所に、五、六株の大きい柳が繁っていた。
 堀端ほりばたの柳は半蔵門はんぞうもんから日比谷ひびやまで続いているが、此処ここの柳はその反対の側に立っているのである。どういう訳でこれだけの柳が路ばたに取り残されていたのか知らないが、往来のまん中よりもやや南寄りに青い蔭を作っていた。その当時の堀端はすこぶる狭く、路幅はほとんど今日の三分の一にも過ぎなかったであろう。その狭い往来に五、六株の大樹が繁っているのであるから、邪魔といえば邪魔であるが、電車も自動車もない時代にはさのみの邪魔とも思われないばかりか、長い堀端を徒歩する人々にとっては、その地帯が一種のオアシスとなっていたのである。
 冬はともあれ、夏の日盛りになると、往来の人々はこの柳のかげに立ち寄って、大抵はひと休みをする。片肌ぬいで汗を拭いている男もある。蝙蝠傘こうもりがさつえにして小さい扇を使っている女もある。それらの人々を当て込みに甘酒屋が荷をおろしている。小さい氷屋の車屋台くるまやたいが出ている。今日ではまったく見られない堀端の一風景であった。
 それにつづく日比谷公園は長州ちょうしゅう屋敷の跡で、俗に長州ヶ原と呼ばれ、一面の広い草原となって取り残されていた。三宅坂みやけざかの方面から参謀本部の下に沿って流れ落ちる大溝おおどぶは、裁判所の横手から長州ヶ原の外部に続いていて、むかしは河獺かわうそが出るとか云われたそうであるが、その古い溝の石垣のあいだからうなぎが釣れるので、うなぎ屋の印半纏を着た男が小さい岡持おかもちをたずさえて穴釣りをしているのをしばしば見受けた。その穴釣りの鰻屋も、この柳のかげに寄って来て甘酒などを飲んでいることもあった。岡持にはかなり大きい鰻が四、五本ぐらいのたくっているのを、私は見た。
 そのほかには一種の軽子かるこ、いわゆる立ち※[#小書き片仮名ン、47-11]坊も四、五人ぐらいは常に集まっていた。下町から麹町四谷方面の山の手へ登るには、ここらから道路が爪先あがりになる。殊に眼の前には三宅坂がある。この坂も今よりはけわしかった。そこで、下町から重い荷車をいて来た者は、ここから後押あとおしを頼むことになる。立ち※[#小書き片仮名ン、47-14]坊はその後押しを目あてに稼ぎに出ているのであるが、距離の遠近によって二銭三銭、あるいは四銭五銭、それを一日に数回も往復するので、その当時の彼らとしては優に生活が出来たらしい。その立ち※[#小書き片仮名ン、47-16]坊もここで氷水を飲み、あま酒を飲んでいた。
 立ち※[#小書き片仮名ン、47-18]坊といっても、毎日おなじ顔が出ているのである。直ぐわきには桜田門外の派出所もある。したがって、彼らは他の人々に対して、無作法や不穏の言動を試みることはない。ここに休んでいる人々を相手に、いつも愉快に談笑しているのである。私もこの立ち※[#小書き片仮名ン、48-2]坊君を相手にして、しばしば語ったことがある。
 私が最も多くこの柳の蔭に休息して、堀端の涼風の恩恵にあずかったのは、明治二十年から二十二年の頃、すなわち私の十六歳から十八歳に至る頃であった。その当時、府立の一中は築地の河岸、今日の東京劇場所在地に移っていたので、麹町に住んでいる私は毎日この堀端を往来しなければならなかった。朝は登校を急ぐのと、まだそれ程に暑くもないので、この柳を横眼に見るだけで通り過ぎたが、帰り道は午後の日盛りになるので、築地から銀座を横ぎり、数寄屋橋見附すきやばしみつけをはいって有楽町ゆうらくちょうを通り抜けて来ると、ここらが丁度休み場所である。
 日蔭のない堀端の一本道を通って、例のうなぎ釣りなぞをのぞきながら、この柳の下にたどり着くと、そこにはいつでも三、四人、多い時には七、八人が休んでいる。立ち※[#小書き片仮名ン、48-11]坊もまじっている。氷水も甘酒も一杯八りん、その一杯が実に甘露の味であった。
 長い往来は強い日に白く光っている。堀端の柳にはせみの声がきこえる。重い革包カバンを柳の下枝にかけて、帽子をぬいで、洋服のボタンをはずして、額の汗をふきながら一杯八厘の甘露をすすっている時、どこから吹いて来るのか知らないが、一陣の涼風が青い影をゆるがしてさっと通る。まったく文字通りに、涼味骨に透るのであった。
「涼しいなあ。」と、私たちは思わず声をあげて喜んだ。時にはおどりあがって喜んで、周囲の人々に笑われた。私たちばかりでなく、この柳のかげに立ち寄って、この涼風に救われた人々は、毎日何十人、あるいは何百人の多きにのぼったであろう。幾人の立ち※[#小書き片仮名ン、49-1]坊もここを稼ぎ場とし、氷屋も甘酒屋もここで一日の生計を立てていたのである。いかに鬱蒼うっそうというべき大樹であっても、わずかに五株か六株の柳の蔭がこれほどの功徳くどくを施していようとは、交通機関の発達した現代の東京人には思いも及ばぬことであるに相違ない。その昔の江戸時代には、ほかにもこういうオアシスがたくさん見いだされたのであろう。
 少年時代を通り過ぎて、わたしは銀座ぎんざ辺の新聞社に勤めるようになっても、やはり此の堀端を毎日往復した。しかも日が暮れてから帰宅するので、この柳のかげに休息して涼風に浴するの機会がなく、年ごとに繁ってゆく青い蔭をながめて、昔年せきねんの涼味をしのぶに過ぎなかったが、わが国に帝国議会というものが初めて開かれても、ここの柳は伐られなかった。日清戦争が始まっても、ここの柳は伐られなかった。人は昔と違っているであろうが、氷屋や甘酒屋の店も依然として出ていた。立ち※[#小書き片仮名ン、49-11]坊も立っていた。
 その懐かしい少年時代の夢を破る時が遂に来たった。かの長州ヶ原がいよいよ日比谷公園と改名する時代が近づいて、まず其の周囲の整理が行なわれることになった。鰻の釣れるどぶの石垣が先ず破壊された。つづいてかの柳の大樹が次から次へと伐り倒された。それは明治三十四年の秋である。涼しい風が薄寒い秋風に変って、ここの柳の葉もそろそろ散り始める頃、むざんのおののこがこの古木にたたって、浄瑠璃じょうるりに聞き慣れている「丗三間堂棟由来さんじゅうさんげんどうむなぎのゆらい」の悲劇をここに演出した。立ち※[#小書き片仮名ン、49-17]坊もどこへか巣を換えた。氷屋も甘酒屋も影をかくした。
 それから三年目の夏に日比谷公園は開かれた。その冬には半蔵門から数寄屋橋に至る市内電車が開通して、ここらの光景は一変した。その後幾たびの変遷を経て、今日は昔に三倍するの大道となった。街路樹も見ごとに植えられた。昔の涼風は今もその街路樹の梢におとずれているのであろうが、私に涼味を思い起させるのは、やはり昔の柳の風である。

(昭和12・8「文藝春秋」)


     二 怪談

 お堀端の夜歩きについて、ここに一種の怪談をかく。但し本当の怪談ではないらしい。いや、本当でないに決まっている。
 わたしが二十歳はたちの九月はじめである。夜の九時ごろに銀座から麹町の自宅へ帰る途中、日比谷の堀端にさしかかった。その頃は日比谷にも昔の見附みつけの跡があって、今日の公園は一面の草原であった。電車などはもちろん往来していない時代であるから、このあたりに灯の影の見えるのは桜田門外の派出所だけで、他は真っ暗である。夜に入っては往来も少ない。ときどきに人力車の提灯が人魂ひとだまのように飛んで行くくらいである。
 しかも其の時は二百十日前後の天候不穏、風まじりの細雨こさめの飛ぶ暗い夜であるから、午後七、八時を過ぎるとほとんど人通りがない。わたしは重い雨傘をかたむけて、有楽町から日比谷見附を過ぎて堀端へ来かかると、にわかにうしろから足音が聞えた。足駄あしだの音ではなく、草履ぞうり草鞋わらじであるらしい。その頃は草鞋もめずらしくないので、わたしも別に気に留めなかったが、それが余りに私のうしろに接近して来るので、わたしは何ごころなく振り返ると、直ぐうしろから一人の女があるいて来る。
 傘を傾けているので、女の顔は見えないが、白地に桔梗ききょうを染め出した中形ちゅうがた単衣ひとえものを着ているのが暗いなかにもはっきりと見えたので、私は実にぎょっとした。右にも左にも灯のひかりの無い堀端で、女の着物の染め模様などが判ろう筈がない。幽霊か妖怪か、いずれ唯者ただものではあるまいと私は思った。暗い中で姿の見えるものは妖怪であるという古来の伝説が、わたしを強くおびやかしたのである。
 まさかにきゃっと叫んで逃げる程でもなかったが、わたしは再び振り返る勇気もなく、ただ真っ直ぐに足を早めてゆくと、女もわたしを追うように付いて来る。女の癖になかなか足がはやい。そうなると、私はいよいよ気味が悪くなった。江戸時代には三宅坂下の堀に河獺かわうそが棲んでいて、往来の人をおどしたなどという伝説がある。そんなことも今更に思い出されて、わたしはひどく臆病になった。
 この場合、唯一ゆいいつの救いは桜田門外の派出所である。そこまで行き着けば灯の光があるから、私のあとを付けて来る怪しい女の正体も、ありありと照らし出されるに相違ない。私はいよいよ急いで派出所の前までたどり着いた。ここで大胆に再び振り返ると、女の顔は傘にかくされてやはり見えないが、その着物は確かに白地で、桔梗の中形にも見誤まりはなかった。彼女は痩形やせがたの若い女であるらしかった。
 正体は見届けたが、不安はまだ消えない。私は黙って歩き出すと、女はやはり付いて来た。わたしは気味の悪い道連れ(?)をうしろに背負いながら、とうとう三宅坂下までたどり着いたが、女は河獺にもならなかった。坂上の道はふた筋に分かれて、隼町はやぶさちょうの大通りと半蔵門方面とに通じている。今夜の私は、灯の多い隼町の方角へ、女は半蔵門の方角へ、ここで初めて分かれわかれになった。
 まずほっとして歩きながら、さらに考え直すと、女は何者か知れないが、暗い夜道のひとり歩きがさびしいので、おそらく私のあとに付いて来たのであろう。足の早いのが少し不思議だが、私にはぐれまいとして、若い女が一生懸命に急いで来たのであろう。さらに不思議なのは、彼女は雨の夜に足駄を穿かないで、素足に竹の皮の草履をはいていた事である。しかも着物のすそをも引き揚げないで、湿れるがままにびちゃびちゃと歩いていた。誰かと喧嘩して、台所からでも飛び出して来たのかも知れない。
 もう一つの問題は、女の着物が暗い中ではっきりと見えたことであるが、これは私の眼のせいかも知れない。幻覚や錯覚と違って、本当の姿がそのままに見えたのであるから、私の頭が怪しいという理窟になる。わたしは女を怪しむよりも、自分を怪しまなければならない事になった。
 それを友達に話すと、君は精神病者になるなぞとおどされた。しかもそんな例はあとにも先にもただ一度で、爾来じらい四十余年、幸いに蘆原あしわら将軍の部下にも編入されずにいる。

(昭和11・8「モダン日本」)


     三 三宅坂

 次は怪談ではなく、一種の遭難談である。読者には余り面白くないかも知れない。
 話はかなりに遠い昔、明治三十年五月一日、わたしが二十六歳の初夏の出来事である。その日の午前九時ごろ、わたしは人力車に乗って、半蔵門外の堀端を通った。去年の秋、京橋に住む知人の家に男の児が生まれて、この五月ははつの節句であると云うので、私は祝い物の人形をとどけに行くのであった。わたしは金太郎の人形と飾り馬との二箱を風呂敷につつんで抱えていた。
 わたしの車の前を一台の車が走って行く。それには陸軍の軍医が乗っていた。今日こんにちの人はあまり気の付かないことであるが、人力車の多い時代には、客を乗せた車夫がとかくに自分の前をゆく車のあとに付いて走る習慣があった。前の車のあとに付いてゆけば、前方の危険を避ける心配が無いからである。しかもそれがために、却って危険を招くおそれがある。わたしの車なども其の一例であった。
 前は軍医、あとは私、二台の車が前後して走るうちに、三宅坂上の陸軍衛戍えいじゅ病院の前に来かかった時、前の車夫は突然に梶棒かじぼうを右へ向けた。軍医は病院の門に入るのである。今日と違って、その当時の衛戍病院の入口は、往来よりも少しく高い所にあって、さしたる勾配こうばいでもないが一種の坂路をなしていた。
 その坂路にかかって、車夫が梶棒を急転した為に、車はずるりと後戻りをして、そのあとに付いて来た私の車の右側に衝突すると、はずみは怖ろしいもので、双方の車はたちまち顛覆てんぷくした。軍医殿も私も路上に投げ出された。
 ぞっとしたのは、その一刹那である。単に投げ出されただけならば、まだしも災難が軽いのであるが、私の車のまたあとから外国人を乗せた二頭立ての馬車が走って来たのである。軍医殿は幸いに反対の方へ落ちたが、私は路上に落ちると共に、その馬車が乗りかかって来た。私ははっと思った。それを見た往来の人たちも思わずあっと叫んだ。私のからだは完全に馬車の下敷きになったのである。
 馬車に乗っていたのは若い外国婦人で、これもきぬを裂くような声をあげた。私をいたと思ったからである。私も無論に轢かれるものと覚悟した。馬車の馬丁ばていもあわてて手綱をひき留めようとしたが、走りつづけて来た二頭の馬は急に止まることが出来ないで、私の上をズルズルと通り過ぎてしまった。馬車がようよう止まると、馬丁は馭者ぎょしゃ台から飛び降りて来た。外国婦人も降りて来た。私たちの車夫も駈け寄った。往来の人もあつまって来た。
 誰の考えにも、私は轢かれたと思ったのであろう。しかも天佑というのか、好運というのか、私は無事に起き上がったので、人々はまたおどろいた。私は馬にも踏まれず、車輪にも触れず、身には微傷だも負わなかったのである。その仔細は、私のからだがたてに倒れたからで、もし横に倒れたならば、首か胸か足かを車輪に轢かれたに相違なかった。私が縦に倒れた上を馬車が真っ直ぐに通過したのみならず、馬のひづめも私を踏まずに飛び越えたので、何事も無しに済んだのである。奇蹟的という程ではないかも知れないが、私は我れながら不思議に感じた。他の人々も、「運が好かったなあ。」と口々に云った。
 この当時のことを追想すると、私は今でもぞっとする。このごろの新聞紙上で交通事故の多いのを知るごとに、私は三十数年前の出来事を想いおこさずにはいられない。シナにこんな話がある。大勢の集まったところで虎の話が始まると、その中の一人がひどく顔の色を変えた。聞いてみると、その人はかつて虎に出逢って危うくも逃れた経験を有していたのである。私も馬車に轢かれそうになった経験があるので、交通事故には人一倍のショックを感じられてならない。
 そのとき私のからだは無事であったが、抱えていた五月人形の箱は無論投げ出されて、金太郎も飾り馬もメチャメチャに毀れた。よんどころなく銀座へ行って、再び同じような物を買って持参したが、先方へ行っては途中の出来事を話さなかった。初の節句の祝い物が途中で毀れたなどと云っては、先方の人たちが心持を悪くするかも知れないと思ったからである。その男の児は成人に到らずして死んだ。

(昭和10・8「文藝春秋」)

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銀座


 わたしは明治二十五年から二十八年まで満三年間、正しく云えば京橋区三十間堀さんじっけんぼり一丁目三番地、俗にいえば銀座の東仲ひがしなか通りに住んでいたので、その当時の銀座の事ならば先ずひと通りは心得ている。すなわち今から四十余年前の銀座である。その記憶を一々ならべ立ててもいられないから、ここでは歳末年始の風景その他を語ることにする。
 由来、銀座の大通りに夜店の出るのは、夏の七月、八月、冬の十二月、この三ヵ月に限られていて、その以外の月には夜店を出さないのが其の当時の習わしであったから、初秋の夜風が氷屋の暖簾のれんに訪ずれる頃になると、さすがの大通りも宵から寂寥せきりょう、勿論そぞろ歩きの人影は見えず、所用ある人々が足早に通りすぎるに過ぎない。商店は電燈をつけてはいたが、今から思えば夜と昼との相違で、名物の柳の木蔭などは薄暗かった。裏通りはほとんどみな住宅で、どこの家でもランプを用いていたから、往来はいっそう暗かった。
 その薄暗い銀座も十二月に入ると、急に明るくなる。大通りの東側は勿論、西側にも露店がいっぱいに列ぶこと、今日の歳末と同様である。尾張町おわりちょうの角や、京橋のきわには、としいち商人の小屋も掛けられ、その他の角々にも紙鳶たこや羽子板などを売る店も出た。この一ヵ月間は実に繁昌で、いわゆる押すな押すなの混雑である。二十日はつか過ぎからはいよいよ混雑で、二十七、八日ごろからは、夜の十時、十一時ごろまで露店の灯が消えない。大晦日おおみそかは十二時過ぎるまで賑わっていた。
 但しその賑わいは大晦日かぎりで、一夜明ければ元の寂寥にかえる。さすがに新年早々はどこの店でも門松かどまつを立て、国旗をかかげ、回礼者の往来もしげく、鉄道馬車は満員の客を乗せて走る。いかにも春の銀座らしい風景ではあるが、その銀座の歩道で、追い羽根をしている娘たちがある。小さい紙鳶をあげている子供がある。それを咎める者もなく、さのみ往来の妨害にもならなかったのを考えると、新年の混雑も今日とは全然比較にならない事がよく判るであろう。大通りでさえ其の通りであるから、裏通りや河岸通りは追い羽根と紙鳶の遊び場所で、そのあいだを万歳まんざいや獅子舞がしばしば通る。その当時の銀座界隈には、まだ江戸の春のおもかげが残っていた。
 新年の賑わいは昼間だけのことで、日が暮れると寂しくなる。露店も元日以後は一軒も出ない。商店も早く戸を閉める。年始帰りの酔っ払いがふらふら迷い歩いている位のもので、午後七、八時を過ぎると、大通りは暗いまちになって、その暗いなかに鉄道馬車の音がひびくだけである。
 今日と違って、その頃は年賀郵便などと云うものもなく、大抵は正直に年始まわりに出歩いたのであるから、正月も十日過ぎまでは大通りに回礼者の影を絶たず、昼は毎日賑わっていたが、日が暮れると前に云った通りの寂寥、露店も出なければ散歩の人も出ず、寒い夜風のなかに暗い町の灯が沈んで見える。今日では郊外の新開地へ行っても、こんなに暗い寂しい新年の宵の風景は見いだされまい。東京の繁華の中心という銀座通りが此の始末であるから、他は察すべしである。
 その頃、銀座通りの飲食店といえば、東側に松田という料理屋がある。それを筆頭として天ぷら屋の大新、同じく天虎、藪蕎麦やぶそば、牛肉屋の古川、鳥屋の大黒屋ぐらいに過ぎず、西側では料理屋の千歳、そば屋の福寿庵、横町へはいって例の天金、西洋料埋の清新軒。まずザッとこんなものであるから、今日のカフェーのように遊び半分にはいるという店は皆無で、まじめに飲むか食うかのほかはない。吉川のおますさんという娘が評判で、それが幾らか若い客を呼んだという位のことで、他に色っぽい噂はなかった。したがって、どこの飲食店も春は多少賑わうと云う以外に、春らしい気分も漂っていなかった。こう云うと、甚だ荒涼寂寥たるものであるが、飲食店のねえさん達も春は小綺麗な着物に新しいたすきでも掛けている。それを眺めて、その当時の人々は春だと思っていたのである。
 その正月も過ぎ、二月も過ぎ、三月も過ぎ、大通りの柳は日ましに青くなって、世間は四月の春になっても、銀座の町の灯は依然として生暖かい靄の底に沈んでいるばかりで、夜はそぞろ歩きの人もない。ただ賑わうのは毎月三回、出世地蔵の縁日の宵だけであるが、それとても交通不便の時代、遠方から来る人もなく、往来のまん中で犬ころが遊んでいた。
 今日の銀座が突然ダーク・チェンジになって、四十余年前の銀座を現出したら、銀ブラ党は定めて驚くことであろう。

(昭和11・1「文藝春秋」)

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夏季雑題


     市中の夏

 市中に生まれて市中に暮らして来た私たちは、繁華熱鬧はんかねつとうのあいだにもおのずからなる涼味を見いだすことに多年馴らされている。したがって、盛夏の市中生活も遠い山村水郷は勿論、近い郊外に住んでいる人々が想像するほどに苦しいものではないのである。
 地方の都市は知らず、東京の市中では朝早くから朝顔あさがお売りや草花売りが来る。郊外にも売りに来るが、朝顔売りなどはやはり市中のもので、ほとんど一坪の庭をも持たないような家つづきの狭い町々を背景として、かれらが売り物とする幾鉢かの白や紅やむらさきの花の色が初めてあざやかに浮き出して来るのである。郊外の朝顔売りは絵にならない。夏のあかつきの薄いもやがようやくげて、一町内の家々が大戸おおどをあける。店を飾り付ける。水をまく。そうして、きょう一日の活動に取りかかろうとする時、かの朝顔売りや草花売りが早くも車いっぱいの花を運んで来る。花も葉もまだ朝の露が乾かない。それを見て一味いちみの涼を感じないであろうか。
 売りに来るものもあれば、無論、買う者もある。買われたひと鉢あるいはふた鉢は、店の主人または娘などに手入れをされて、それから幾日、長ければひと月ふた月のあいだも彼らの店先を飾って、朝夕の涼味を漂わしている。近ごろは店の前の街路樹を利用して、この周囲に小さい花壇を作って、そこに白粉おしろいや朝鮮朝顔や鳳仙花ほうせんかのたぐいを栽えているのもある。
 釣荵つりしのぶは風流に似て俗であるが、東京の夏の景物として詩趣と画趣と涼味とを多分に併せ持っているのは、かの虎耳草ゆきのしたであることを記憶しなければならない。村園にあれば勿論、たとい市中にあってもそれが人家の庭園に叢生そうせいする場合には、格別の値いあるものとして観賞されないらしいが、ひとたびあわびの貝に養われて人家の軒にかけられた時、俄かに風趣を添うること幾層倍である。鮑の貝と虎耳草、富貴の家にはほとんど縁のないもので、いわゆる裏店うらだなに於いてのみそれを見るようであるが、その裏長屋の古い軒先に吊るされて、こけの生えそうな古い鮑の貝から長い蔓は垂れ、白い花はこぼれかかっているのを仰ぎ視れば、誰でも涼しいという心持を誘い出されるに相違ない。周囲がきたなければ穢ないほど、花の涼しげなのがいよいよ眼立ってみえる。いつの頃に誰がかんがえ出したのか知らないが、おそらく遠い江戸の昔、うら長屋の奥にも無名の詩人が住んでいて、かかる風流を諸人に教え伝えたのであろう。
 虫の声、それを村園や郊外の庭に聴く時、たしかに幽寂ゆうじゃくの感をひくが、それが一つならず、二つならず、無数の秋虫一度にみだれむせんで、いわゆる「虫声満地」とか「虫声如雨」とかいうきょうに至ると、身にしみるような涼しさは掻き消されてしまう憾みがある。むしろ白日炎天に汗をふきながら下町の横町を通った時、どこかの窓の虫籠できりぎりすの声がひと声、ふた声、土用どようのうちの日盛りにも秋をおぼえしめるのは、まさにこの声ではあるまいか。
 秋虫一度にみだれ鳴くのは却って涼味を消すものであると、私は前に云った。しかもその騒がしい虫の声を市中の虫売りの家台やたいのうちに聴く場合には、まったくその趣をことにするのである。夜涼をたずねる市中の人は、往来の少ない幽暗の地を選ばないで、却って燈火のあかるい雑沓ざっとうの巷へ迷ってゆく。そこにはさまざまの露店が押し合って列んでいる。人もまた押し合って通る。その混雑のあいだに一軒の虫売りが市松障子いちまつしょうじの家台をおろしている。松虫、鈴虫、草雲雀くさひばりのたぐいが掛行燈かけあんどうの下に声をそろえて鳴く。ガチャガチャ虫がひときわ高く鳴き立てている。周囲がそうぞうしい為であるかも知れないが、この時この声はちっとも騒がしくないばかりか、昼のように明るい夜の町のまんなかで俄かに武蔵野の秋を見いだしたかのようにも感じられて、思わずその店先に足を停めるものは子供ばかりではあるまい。楊誠斎ようせいさいの詩に「時に微涼あり、是れ風ならず。」とあるのは、こういう場合にも適応されると思う。
 夏の夜店で見るから涼しげなものは西瓜すいかち売りである。衛生上の見地からは別に説明する人があろう。私たちは子供のときから何十たびか夜店の西瓜を買って食ったが、幸いに赤痢せきりにもチブスにもならないで、この年まで生きて来た。夜の灯に照らされた西瓜の色は、物の色の涼しげなる標本と云ってもよい。唐蜀黍とうもろこしの付け焼きも夏の夜店にふさわしいものである。強い火に焼いて売るのであるから、本来は暑苦しそうな筈であるが、街路樹などの葉蔭に小さい店を出して唐もろこしを焼いているのを見れば、決して暑い感じは起らない。却ってこれも秋らしい感じをあたえるものである。
 金魚も肩にかついで売りあるくよりも、夜店に金魚おけをならべて見るべきものであろう。幾つもの桶をならべて、緋鯉ひごい、金魚、目高のたぐいがそれぞれの桶のなかに群がり遊んでいるのを、夜の灯にみると一層涼しく美しい。一緒に大きい亀の子などを売っていれば、更におもしろい。
 こんなことを一々かぞえたてていたら際限がない。
 心頭しんとうを滅却すれば火もおのずから涼し。――そんなむずかしいさとりを開くまでもなく、誰でもおのずから暑中の涼味を見いだすことを知っている。とりわけて市中に住むものは、山によらず、水に依らずして、到るところに涼味を見いだすことを最もよく知っているのである。
 わたしは滅多に避暑旅行などをしたことは無い。

     夏の食いもの

 ひろく夏の食いものと云えば格別、それを食卓の上にのみ限る場合には、その範囲がよほど狭くなるようである。
 勿論、コールドビーフやハムサラダでビールを一杯飲むのもいい。日本流の洗肉あらい水貝みずがいも悪くない。果物にパンぐらいで、あっさりと冷やし紅茶を飲むのもいい。
 その人の趣味や生活状態によって、食い物などはいろいろの相違のあるものであるから、もちろん一概には云えないことであるが、旧東京に生長した私たちは、やはり昔風の食い物の方が何だか夏らしく感じられる。とりわけて、夏の暑い時節にはその感が多いようである。
 今日の衛生論から云うと余り感心しないものであろうが、かの冷奴ひややっこなるものは夏の食い物の大関である。奴豆腐を冷たい水にひたして、どんぶりに盛る。氷のぶっ掻きでも入れれば猶さら贅沢ぜいたくである。別に一種の薬味として青紫蘇あおじそ茗荷みょうがの子を細かに刻んだのを用意して置いて、鰹節かつおぶしをたくさんにかき込んで生醤油きじょうゆにそれを混ぜて、冷え切った豆腐に付けて食う。しょせんは湯豆腐を冷たくしたものに過ぎないが、冬の湯豆腐よりも夏の冷奴の方が感じがいい。湯豆腐から受取る温か味よりも、冷奴から受取る涼し味の方がはるかに多い。樋口一葉ひぐちいちよう女史の「にごり江」のうちにも、源七げんしちの家の夏のゆう飯に、冷奴に紫蘇の香たかく盛り出すというくだりが書いてあって、その場の情景が浮き出していたように記憶している。
「夕顔や一丁残る夏豆腐」許六きょろくの句である。
 ある人は洒落しゃれて「水貝」などと呼んでいるが、もとより上等の食いものではない。しかもほんとうの水貝に比較すれば、その価がやすくて、夏向きで、いかにも民衆的であるところが此の「水貝」の生命で、いつの時代に誰が考え出したのか知らないが、江戸以来何百年のあいだ、ほとんど無数の民衆が夏の一日の汗を行水ぎょうずいに洗い流した後、ゆう飯のぜんの上にならべられた冷奴の白い肌に一味いちみの清涼を感じたであろうことを思う時、今日ラッパを吹いて来る豆腐屋の声にも一種のなつかしさを感ぜずにはいられない。現にわたしなども、この「水貝」で育てられて来たのである。但し近年は胃腸を弱くしているので、冬の湯豆腐に箸を付けることはあっても、夏の「水貝」の方は残念ながら遠慮している。
 冷奴の平民的なるに対して、貴族的なるはうなぎ蒲焼かばやきである。前者ぜんしゃの甚だ淡泊なるに対して、後者こうしゃは甚だ濃厚なるものであるが、いずれも夏向きの食い物の両大関である。むかしは鰻を食うのと駕籠かごに乗るのとを平民の贅沢と称していたという。今はさすがにそれほどでもないが、鰻を食ったり自動車に乗ったりするのは、懐中の冷たい時にはやはりむずかしい。国学者の斎藤彦麿さいとうひこまろ翁はその著「神代余波」のうちに、盛んに蒲焼の美味を説いて、「一天四海に比類あるべからず」と云い、「われ六、七歳のころより好みくひて、八十歳まで無病なるはこの霊薬の効験にして、草根木皮そうこんぼくひのおよぶ所にあらず」とも云っている。今日でも彦麿翁の流れを汲んで、長生きの霊薬として鰻を食う人があるらしい。それほどの霊薬かどうかは知らないが、「一天四海に比類あるべからず」だけは私も同感である。しかもそれは昔のことで、江戸前ようやくに亡び絶えて、旅うなぎや養魚場生まれの鰻公まんこうが到るところにのたくる当世と相成っては、「比類あるべからず」も余ほど割引きをしなければならないことになった。
 次にうりである。夏の野菜はたくさんあるが、そのうちでも代表的なのは瓜と枝豆であろう。青々した枝豆の塩ゆでも悪くない。しかも見るから夏らしい感じをあたえるものは、胡瓜きゅうりと白瓜である。胡瓜は漬け物のほかに、胡瓜みという夏向きの旨い調理法がむかしから工夫されていて、かの冷奴と共に夏季の食膳の上には欠くべからざる民衆的の食い物となっている。白瓜は漬け物のほかに使い道はないようであるが、それだけでも十分にその役目を果たしているではないか。そのほかに茄子なす生姜しょうがのたぐいがあるとしても、夏の漬け物はやはり瓜である。茄子のむらさき、生姜の薄くれない、皆それぞれに美しい色彩に富んでいるが、青く白く、見るから清々すがすがしいのは瓜の色におよぶものはない。味はすこしく茄子に劣るが、その淡い味がいかにも夏のものである。
 百人一首の一人、中納言朝忠あさただ卿は干瓜を山のごとくに積んで、水漬けの飯をしたたかに食って人をおどろかしたと云うが、その干瓜というのは、かの雷干かみなりぼしのたぐいかも知れない。白瓜をいて炎天に干すのを雷干という。食ってはさのみ旨いものでもないが、一種の俳味のあるもので、誰が云い出したか雷干とは面白い名をつけたものだと思う。

     花火

 俳諧はいかいでは花火を秋の季に組み入れているが、どうもこれは夏のものらしい。少なくとも東京では夏の宵の景物けいぶつである。
 哀えたと云っても、両国の川開きに江戸以来の花火のおもかげは幾分か残っている。しかし私は川開き式の大花火をあまり好まない。由来、どこの土地でも大仕掛けの花火を誇りとする傾きがあるらしいが、いたずらに大仕掛けを競うものには、どうも風趣が乏しいようである。花火はむしろ子供たちがもてあそぶ細い筒の火にかぎるように私は思う。
 わたしの子供の頃には、花火をあげて遊ぶ子供たちが多かった。夏の長い日もようやく暮れて、家々の水撒みずまきもひと通り済んで、町の灯がまばらにきらめいてくると、子供たちは細い筒の花火を持ち出して往来に出る。そこらの涼み台では団扇うちわの音や話し声がきこえる。子供たちは往来のまん中に出るのもある、うす暗い立木のかげにあつまるものもある。そうして、思い思いに花火をうち揚げる。もとより細い筒であるから、火は高くあがらない。せいぜいが二階家の屋根を越えるくらいで、ぽんと揚がるかと思うと、すぐに開いて直ぐに落ちる。まことに単純な、まことに呆気あっけないものではあるが、うす暗い町で其処そこにも此処ここにもこの小さい火の飛ぶ影をみるのは、一種の涼しげな気分を誘い出すものであった。
 白地の浴衣ゆかたを着た若い娘が虫籠をさげて夜の町をゆく。子供の小さい花火は、その行く手を照らすかのように低く飛んでいる。――こう書くと、それは絵であるというかも知れない。しかし私たちの子供のときには、こういう絵のような風情はめずらしくなかった。絵としてはもちろん月並つきなみの画題でもあろうが、さて実際にそういう風情をみせられると、決して悪くは感じない。まわり燈籠、組みあげ燈籠、虫籠、蚊いぶしの煙り、西瓜の截ち売り、こうしたものが都会の夏の夜らしい気分を作り出すとすれば、子供たちの打ち揚げる小さい花火もたしかにその一部を担任していなければならない。
 花火は普通の打ち揚げのほかに、鼠花火、線香花火のあることは説明するまでもあるまい。鼠花火はいたずら者が人をおどしてよろこぶのである。線香花火は小さい児や女の児をよろこばせるのである。そのほかに幽霊花火というのもあった。これはお化け花火とも云って、鬼火のような青い火がただトロトロと燃えて落ちるだけであるが、いたずら者は暗い板塀や土蔵の白壁のかげにかくれて、蚊に食われながらその鬼火を燃やして、臆病者の通りかかるのを待っているのであった。
 学校の暑中休暇中の仕事は、勉強するのでもない、避暑旅行に出るのでもない、活動写真にゆくのでもない。昼は泳ぎにゆくか、蝉やとんぼを追いまわしに出る。そうして、夜はきっと花火をあげに出る。いわゆる悪戯いたずらとして育てられた自分たちの少年時代を追懐して、わたしは決してそれをくやもうとは思わない。
 その時代にくらべると、今は世の中がまったく変ってしまった。大通りには電車が通る。横町にも自動車や自転車が駆け込んでくる。警察官は道路の取締りにいそがしい。春の紙鳶も、夏の花火も、秋の独楽こまも、だんだんに子供の手から奪われてしまった。今でも場末のさびしい薄暗い町を通ると、ときどきに昔なつかしい子供の花火をみることもある。神経のとがった現代の子供たちはおそらくこの花火に対して、その昔の私たちほどの興味を持っていないであろうと思われる。「花火間もなき光かな」などと云って、むかしから花火は果敢はかないものにうたわれているが、その果敢ないものの果敢ない運命もやがては全くほろび尽くして、花火といえば両国りょうごく式の大仕掛けの物ばかりであると思われるような時代が来るであろう。どんなに精巧な螺旋ぜんまい仕掛けのおもちゃが出来ても、あの粗末な細い竹筒が割れて、あかい火の光がぽんとあがるのを眺めていた昔の子供たちの愉快と幸福とを想像することは出来まい。
 花火は夏のものであると私は云った。しかし、秋の宵の花火もまた一種の風趣がないでもない。鉢の朝顔の蔓がだんだんに伸びて、あさ夕はもう涼風が単衣ひとえものの襟にしみる頃、まだ今年の夏を忘れ得ない子供たちが夜露のおりた町に出て、未練らしく花火をあげているのもある。勿論、その火の数は夏の頃ほどに多くない。秋の蛍――そうした寂しさを思わせるような火の光がところどころに揚がっていると、暗い空から弱い稲妻がときどきに落ちて来て、その光を奪いながら共に消えてゆく。子供心にも云い知れない淡い哀愁を誘い出されるのは、こういう秋の宵であった。

(大正14・5「週刊朝日」)

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雷雨


 夏季に入っていつも感じるのは、夕立ゆうだちと雷鳴の少なくなったことである。私たちの少年時代から青年時代にかけては、夕立と雷鳴がずいぶん多く、いわゆる雷嫌いをおびやかしたものであるが、明治末期から次第に減じた。時平公しへいこうの子孫万歳である。
 地方は知らず、都会は周囲が開けて来る関係上、気圧や気流にも変化を生じたとみえて、東京などは近年たしかに雷雨が少なくなった。第一に夕立の降り方までが違って来た。むかしの夕立は、今までカンカン天気であったかと思うと、俄かに蝉の声がやむ、頭の上が暗くなる。おやッと思う間に、一朶いちだの黒雲が青空に拡がって、文字通りの驟雨沛然しゅううはいぜん、水けむりを立てて瀧のように降って来る。
 往来の人々はあわてて逃げる。家々ではあわてて雨戸をしめる、干物ほしものを片付ける。周章狼狽しゅうしょうろうばい、いやもう乱痴気騒ぎであるが、その夕立も一時間とはつづかず、せいぜい二十分か三十分でカラリと晴れて、夕日がかっと照る、蝉がまた啼き出すという始末。急がずば湿れざらましを旅人の、あとより晴るる野路の村雨むらさめ――太田道灌おおたどうかんよく詠んだとは、まったく此の事であった。近年こんな夕立はめったにない。
 空がだんだんに曇って来て、今に降るかと用意していても、この頃の雷雨は待機の姿勢を取って容易に動かない。三、四十分ないし一時間の余裕をあたえて、それからポツポツ降り出して来るという順序で、昔のような不意撃ちを食わせない。いわんや青天せいてん霹靂へきれきなどは絶無である。その代りに揚がりぎわもよくない。雷も遠くなり、雨もやむかと見えながら、まだ思い切りの悪いようにビショビショと降っている。むかしの夕立の男性的なるに引きかえて、このごろの夕立は女性的である。雷雨一過の後もさわやかな涼気を感ずる場合が少なく、いつまでもジメジメして、蒸し暑く、陰鬱で、こんな夕立ならば降らないほうがしだと思うことがしばしばある。
 こう云うと、ひどく江戸っ子で威勢がいいようであるが、正直をいえば私はあまり雷を好まない。いわゆる雷嫌いという程でもないが、聞かずに済むならば聞きたくない方で、電光がピカリピカリ、雷鳴がゴロゴロなどは、どうも愉快に感じられない。しかも夕立には雷電を伴うのが普通であるから、自然に夕立をも好まないようになる。殊に近年の夕立のように、雨後の気分がよくないならば、降ってくれない方が仕合せである。雷ばかりでなく、わたしは風も嫌いである。夏の雷、冬の風、いずれも私の平和を破ること少なくない。
 むかしの子供は雷を呼んでゴロゴロ様とか、かみなり様とか云っていたが、わたしが初めてかみなり様とお近付き(?)になったのは、六歳の七月、日は記憶しないが、途方もなく暑い日であった。わたしの家は麹町の元園町にあったが、その頃の麹町辺は今日こんにちの旧郊外よりもさびしく、どこの家も庭が広くて、家の周囲にも空地あきちが多かった。
 わたしの家と西隣りの家とのあいだにも、五、六間の空地があって、隣りの家には枸杞くこ生垣いけがきが青々と結いまわしてあった。わたしはその枸杞の実を食べたこともあった。その生垣の外にひと株の大きい柳が立っている。それが自然の野生であるか、あるいは隣りの家の所有であるか、そんなこともよく判らなかったが、ともかくも相当の大木で、夏から秋にかけては油蝉やミンミンやカナカナや、あらん限りの蝉が来てそうぞうしく啼いた。柳の近所にはモチ竿や紙袋を持った子供のすがたが絶えなかった。前にいう七月のある日、なんでも午後の三時頃であったらしい。大夕立の真っ最中、その柳に落雷したのである。
 雷雨を恐れて、わたしの家では雨戸をことごとく閉じていたので、落雷当時のありさまは知らない。ただすさまじい雷鳴と共に、家内が俄かに明るくなったように感じただけであったが、雨が晴れてから出てみると、かの柳は真っ黒にげて、大木の幹が半分ほども裂けていた。わたしは子供心に戦慄せんりつした。その以来、わたしはかみなり様が嫌いになった。
 それでも幸いに、ひどい雷嫌いにもならなかったが、さりとて平然と落着いているような勇士にはなれなかった。雷鳴を不愉快に感ずることは、昔も今も変りがない。その私が暴雷におびやかされた例が三回ある。
 その一は、明治三十七年の九月八日か九日の夜とおぼえている。わたしは東京日日新聞の従軍記者として満洲の戦地にあって、遼陽りょうよう陥落の後、半月ほどは南門外の迎陽子という村落の民家に止宿していたが、そのあいだの事である。これは夕立というのではなく、午後二時頃からシトシトと降り出した雨が、暮るると共にはげしく降りしきって、九時を過ぎる頃から大雷雨となった。
 雷光は青く、白く、あるいはあかく、あるいは紫に、みだれて裂けて、乱れて飛んで、暗い村落をいろいろに照らしている。雨はごうごうと降っている。雷はすさまじく鳴りはためいて、地震のような大きい地ひびきがする。それが夜の白らむまで、八、九時間も小歇こやみなしに続いたのであるから、実に驚いた。大袈裟おおげさにいえば、最後の審判の日が来たのかと思われる程であった。もちろん眠られる筈もない。わたしは頭から毛布を引っかぶって、小さくなって一夜をあかした。
「毎日大砲の音を聞き慣れている者が、雷なんぞを恐れるものか。」
 こんなことを云って強がっていた連中も、仕舞いにはみんな降参したらしく、夜の明けるまで安眠した者は一人もなかった。夜が明けて、雨が晴れて、ほっとすると共にがっかりした。
 その二は、明治四十一年の七月である。午後八時を過ぎる頃、わたしは雨をいて根岸ねぎし方面から麹町へ帰った。普通はいけはたから本郷台へ昇ってゆくのであるが、今夜の車夫は上野うえの広小路ひろこうじから電車線路をまっすぐに神田にむかって走った。御成おなり街道へさしかかる頃から、雷鳴と電光が強くなって来たので、臆病な私は用心して眼鏡めがねをはずした。
 もう神田区へ踏み込んだと思う頃には、雷雨はいよいよ強くなった。まだ宵ながら往来も途絶えて、時どきに電車が通るだけである。眼の先もみえないように降りしきるので、車夫も思うようには進まれない。ようように五軒町ごけんちょう附近まで来かかった時、ゆく先がぱっと明るくなって、がんというような霹靂一声、車夫はたちまちに膝を突いた。車はほろのままで横に倒れた。わたしも一緒に投げ出された。幌が深いので、車外へは転げ出さなかったが、ともかくもはっと思う間にわたしの体は横倒しになっていた。二、三丁さきの旅籠町はたごちょう辺の往来のまんなかに落雷したのである。
 わたしは別に怪我けがもなかった。車夫も膝がしらを少し擦りいたぐらいで、さしたる怪我もなかった。落雷が大地にひびいて、思わず膝を折ってしまったと、車夫は話した。しかし大難が小難で済んだわけで、もし私の車がもう一、二丁も南へ進んでいたら、どんなわざわいをこうむったか判らない。二人はたがいに無事を祝して、豪雨のなかをまた急いだ。
 その三は、大正二年の九月、仙台せんだい塩竃しおがまから金華山きんかざん参詣の小蒸汽船に乗って行って、島内の社務所に一泊した夜である。午後十時頃から山もくずれるような大雷雨となった。
「なに、直ぐに晴れます。」
 社務所の人は慰めてくれたが、なにしろ場所が場所である。孤島の雷雨はいよいよ凄愴せいそうの感が深い。あたまの上の山からは瀧のように水が落ちて来る、海はどうどうと鳴っている。雷は縦横無尽に駈けめぐってガラガラとひびいている。文字通りの天地震動である。こんなありさまで、あしたは無事に帰られるかと危ぶまれた。天候の悪いときには幾日も帰られないこともあるが、社務所の倉には十分の食料がたくわえてあるから、決して心配には及ばないと云い聞かされて、心細いなかにも少しく意を強うした。
 社務所の人の話に嘘はなかった。さすがの雷雨も十二時を過ぎる頃からだんだんに衰えて、枕もとの時計が一時を知らせる頃には、山のあたりで鹿の鳴く声がきこえた。喜んで窓をあけて見ると、空はぬぐったように晴れ渡って、旧暦八月の月が昼のように明るく照らしていた。私はあしたの天気を楽しみながら、窓にってしずかに鹿の声を聞いた。そのさわやかな心持は今も忘れないが、その夜の雷雨のおそろしさも、おなじく忘れ得ない。
 白柳秀湖しらやなぎしゅうこ氏の研究によると、東京で最も雷雨の多いのは杉並すぎなみのあたりであると云う。わたしの知る限りでも、東京で雷雨の多いのは北多摩たま郡の武蔵野町から杉並区の荻窪おぎくぼ阿佐ヶ谷あさがやのあたりであるらしい。甲信こうしん盆地で発生した雷雲が武蔵野の空を通過して、房総ぼうそうの沖へ流れ去る。その通路があたかも杉並辺の上空にあたり、下町方面へ進行するにしたがって雷雲も次第に稀薄になるように思われる。但し俗に「北鳴り」と称して、日光にっこう方面から押し込んで来る雷雲は別物である。

(昭和11・7「サンデー毎日」)

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 去年の十月頃の新聞を見た人々は記憶しているであろう。日本橋蠣殻町にほんばしかきがらちょうのある商家の物干へ一羽の大きいとびが舞い降りたのを店員大勢が捕獲して、警察署へ届け出たというのである。ある新聞には、その鳶の写真まで掲げてあった。
 そのとき私が感じたのは、鳶という鳥がそれほど世間から珍しがられるようになった事である。今から三、四十年前であったら、鳶なぞがそこらに舞っていても、降りていても、誰も見返る者もあるまい。云わばからすすずめも同様で、それを捕獲して警察署へ届け出る者もあるまい。鳶は現在保護鳥の一種になっているから、それで届け出たのかも知れないが、昔なら恐らくそれを捕獲しようと考える者もあるまい。それほどに鳶は普通平凡の鳥類と見なされていたのである。
 私は山の手の麹町に生長したせいか、子供の時から鳶なぞは毎日のように見ている。天気晴朗の日には一羽や二羽はかならず大空に舞っていた。トロトロトロと云うような鳴き声も常に聞き慣れていた。鳶が鳴くから天気がよくなるだろうなぞと云った。
 鳶に油揚あぶらげさらわれると云うのは嘘ではない。子供が豆腐屋へ使いに行ってざる味噌みそこしに油揚を入れて帰ると、その途中で鳶に攫って行かれる事はしばしばあった。油揚ばかりでなく、魚屋さかなやが人家の前に盤台はんだいをおろして魚をこしらえている処へ、鳶が突然にサッと舞いくだって来て、その盤台の魚や魚のはらわたなぞを引っ掴んで、あれという間に虚空こくう遥かに飛び去ることも珍しくなかった。わしが子供を攫って行くのも恐らくうであろうかと、私たちも小さいきもをおびやかされたが、それも幾たびか見慣れると、やあまた攫われたなぞと面白がって眺めているようになった。往来で白昼掻っ払いを働く奴を東京では「昼とんび」と云った。
 小石川こいしかわ富坂町とみざかまちというのがある。富坂はトビ坂から転じたので、昔はここらの森にたくさんの鳶が棲んでいた為であるという。してみると、江戸時代には更にたくさんの鳶が飛んでいたに相違ない。鳶ばかりでなく、つるも飛んでいたのである。明治以後、鶴を見たことはないが、鳶は前に云う通り、毎日のように東京の空を飛び廻っていたのである。
 鳶も鷲と同様に、いわゆる鷙鳥しちょうとか猛禽もうきんとか云うものにかぞえられ、前に云ったようなわるいたずらをも働くのであるが、鷲のように人間から憎まれ恐れられていないのは、平生から人家に近く棲んでいるのと、鷲ほどの兇暴をあえてしない為であろう。子供の飛ばすたこは鳶から思い付いたもので、日本ではトンビ凧といい、漢字では紙鳶と書く。英語でも凧をカイトという。すなわち鳶と同じことである。それを見ても、遠い昔から人間と鳶とは余ほどの親しみを持っていたらしいが、文明の進むに連れて、人間と鳶との縁がだんだんに遠くなった。
 日露戦争前と記憶している。麹町の英国大使館の旗竿に一羽の大きい鳶が止まっているのを見付けて、英国人の館員や留学生がうれしがって眺めていた。留学生の一人が私に云った。
「鳶は男らしくていい鳥です。しかし、ロンドン附近ではもう見られません。」
 まだ其の頃の東京には鳶のすがたが相当に見られたので、英国人はそんなに鳶を珍しがったり、嬉しがったりするのかと、私は心ひそかに可笑おかしく思った位であったが、その鳶もいつか保護鳥になった。東京人もロンドン人と同じように、鳶を珍しがる時代が来たのである。もちろん鳶に限ったことではなく、大都会に近いところでは、鳥類、虫類、魚類が年々に亡びて行く。それは余儀なき自然の運命であるから、特に鳶に対して感傷的の詠嘆を洩らすにも及ばないが、初春の空にかのトンビ凧を飛ばしたり、大きな口をあいて「トンビ、トロロ」と歌った少年時代を追懐すると、鳶の衰滅に対して一種の悲哀を感ぜずにはいられない。
 むかしは矢羽根にきじまたは山鳥のはねを用いたが、それらは多く得られないので、下等の矢には鳶の羽を用いた。その鳶の羽すらも払底ふっていになった頃には、矢はすたれて鉄砲となった。そこにも需要と供給の変遷が見られる。
 私はこのごろ上目黒かみめぐろに住んでいるが、ここらにはまだ鳶が棲んでいて、晴れた日には大きい翼をひろげて悠々と舞っている。雨のふる日でもトロトロと鳴いている。私は旧友に逢ったような懐かしい心持で、その鳶が輪を作って飛ぶ影をみあげている。鳶はわが巣を人に見せないという俗説があるが、私の家のあたりへ飛んで来る鳶は近所の西郷山に巣を作っているらしい。その西郷山もおいおいにひらかれて分譲地となりつつあるから、やがてはここらにも鳶の棲家を失うことになるかも知れない。いかに保護されても、鳶は次第に大東京から追いやらるるのほかはあるまい。
 私はよく知らないが、金鵄きんし勲章の鵄は鳶のたぐいであると云う。然らば、たとい鳶がいずこの果てへ追いやられても、あるいはその種族が絶滅にひんしても、その雄姿はさんとして永久に輝いているのである。鳶よ、憂うるなかれ、悲しむ勿れと云いたくもなる。
 きょうも暮春の晴れた空に、二羽の鳶が舞っている。折りから一台の飛行機が飛んで来たが、かれらはそれに驚かされたような気色けしきも見せないで、やはり悠々として大きい翼を空中に浮かべていた。

(昭和11・5「政界往来」)

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