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綺堂むかし語り(きどうむかしがたり)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-8-27 9:05:51  点击:  切换到繁體中文



我が家の園芸


 上目黒へ移ってから三年目の夏が来るので、彼岸ひがん過ぎから花壇の種蒔たねまきをはじめた。旧市外であるだけに、草花類の生育は悪くない。種をまいて相当の肥料をあたえて置けば、まず普通の花は咲くので、われわれのような素人でも苦労はないわけである。
 そこで、毎年欲張って二十種ないし三十種の種をまいて、庭一面をやぶのようにしているのであるが、それでは藪蚊の棲み家を作るおそれがあるので、今年はあまり多くを蒔かないことにした。それでも糸瓜へちまと百日草だけは必ず栽えようと思っている。
 わたしは昔の人間であるせいか、西洋種の草花はあまり好まない。チューリップ、カンナ、ダリアのたぐいも多少は栽えるが、それに広い地面を分譲しようとは思わない。日本の草花でも優しげな、なよなよしたものは面白くない。桔梗ききょう女郎花おみなえしのたぐいは余り愛らしくない。わたしの最も愛するのは、糸瓜と百日草とすすき、それに次いでは日まわりと鶏頭けいとうである。
 こう列べたら、大抵の園芸家は大きな声で笑い出すであろう。岡本綺堂という奴はよくよくの素人で、とてもお話にはならないと相場を決められてしまうに相違ない。わたしもそれは万々ばんばん承知しているが、心にもない嘘をつくわけには行かないから、正直に告白するのである。まあ、笑わないで聴いて貰いたい。
 まず第一には糸瓜である。私はむかしから糸瓜をおもしろいものとして眺めていたが、自分の庭に栽えるようになったのは十年以来のことで、震災以後、大久保百人町に仮住居かりずまいをしている当時、庭のあき地を利用して、唐蜀黍とうもろこしの畑を作り、糸瓜の棚を作った。その棚はわたし自身が書生を相手にこしらえたもので、素人の作った棚が無事につかといささか不安を感じていたところが、棚はその秋の強い風雨にもつつがなく、糸瓜の蔓も葉も思うさま伸びて拡がって、大きい実が十五、六もぶらりと下がったので、私たちは子供のように手をたたいて嬉しがった。
 その翌年の夏、銀座の天金の主人から、暑中見舞いとして式亭三馬しきていさんば自画讃の大色紙の複製を貰った。それは糸瓜でなく、夕顔の棚の下に農家の夫婦が涼んでいる図で、いわゆる夕顔棚の下涼みであろう。それに三馬自筆の狂歌が書き添えてある。

なりひさご、なりにかまはず、すゞむべい
        風のふくべの木蔭たづねて

 これを見て、わたしは再び糸瓜の棚が恋しくなったが、その頃はもう麹町の旧宅地へ戻っていたので、市内の庭には糸瓜を栽えるほどの余地をあたえられなかった。そのまま幾年を送るうちに、一昨年から上目黒へ移り住むことになったので、今度は本職の植木屋に頼んで相当の棚を作らせると、果たして其の年の成績はよかった。昨年の出来もよかった。
 わたしの家ばかりでなく、ここらには同好の人々が多いとみえて、所々に糸瓜を栽えている。棚を作っているのもあり、あるいは大木にからませているのもあり、軒から家根へ這わせているのもあるから、皆それぞれにおもしろい。由来、糸瓜というものはぶらりと下がっている姿が、なんとなく間が抜けて見えるので、とかくに軽蔑される傾きがあって、人を罵る場合にも「へちま野郎」などと云うが、そのぶらりとしたところに一種の俳味があり、一種の野趣があることを知らなければならない。その実ばかりでなく、大きい葉にも、黄いろい花にも野趣横溢おういつ、静かにそれを眺めていると、まったく都会のちりの浮世を忘れるの感がある。糸瓜を軽蔑する人々こそ却って俗人ではあるまいかと思う。
 次は百日草で、これも野趣に富むがために、一部の人々からは安っぽく見られ易いものである。梅雨のあける頃から花をつけて、十一月の末まで咲きつづけるのであるから、実に百日以上である上に、紅、黄、白などの花が続々と咲き出すのは、なんとなく爽快の感がある。元来が強い草であるから、蒔きさえすれば生える、生えれば伸びる、伸びれば咲く。花壇などには及ばない、垣根の隅でも裏手の空地でも簇々そうそうとして発生する。あまりに強く、あまりに多いために、ややもすれば軽蔑され勝ちの運命にあることは、かの鳳仙花ほうせんかなどと同様であるが、わたしは彼を愛すること甚だ深い。
 炎天の日盛りに、彼を見るのもいいが、秋の露がようやく繁く、こおろぎの声がいよいよ多くなる時、花もますますその色を増して、明るい日光のもとに咲き誇っているのは、いかにもあざやかである。しょせんは野人の籬落まがきに見るべき花で、富貴の庭に見るべきものではあるまいが、われわれの荒庭には欠くべからざる草花の一種である。
 その次はすすきで、これには幾多の種類があるが、普通に見られるのは糸すすき、縞すすき、鷹の羽すすきに過ぎない。しかも私の最も愛好するのは、そこらに野生の薄である。これは宿根しゅっこんの多年草であるが、もとより種まきの世話もなく、年々歳々生い茂って行くばかりである。野生のすすきは到るところに繁茂しているので、ひと口にカヤと呼ばれてほとんど園芸家には顧みられず、人家の庭に栽えるものでは無いとさえも云われているが、絵画や俳句ではなかなか重要の題材と見なされている。

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