雁と蝙蝠
七月二十四日。きのうの雷雨のせいか、きょうは土用に入ってから最も涼しい日であった。昼のうちは陰っていたが、宵には薄月のひかりが洩れて、涼しい夜風がすだれ越しにそよそよと枕元へ流れ込んで来る。
病気から例の神経衰弱を誘い出したのと、連日の暑気と、朝から晩まで寝て暮らしているのとで、毎晩どうも安らかに眠られない。今夜は涼しいから眠られるかと、十時頃から蚊帳を釣らせることにしたが、窓をしめ、雨戸をしめると、やはり蒸し暑い。十一時を過ぎ、十二時を過ぎて、電車の響きもやや絶えだえになった頃から少しうとうとして、やがて再び眼をさますと、襟首には気味のわるい汗がにじんでいる。その汗を拭いて、床の上に起き直って団扇を使っていると、トタン葺きの家根に雨の音がはらはらと聞える。そのあいだに鳥の声が近くきこえた。
それは雁の鳴く声で、お堀の水の上から聞えて来ることを私はすぐに知った。お堀に雁の群れが降りて来るのは珍しくないが、それには時候が早い。土用に入ってまだ幾日も過ぎないのに、雁の来るのはめずらしい。群れに離れた孤雁が何かの途惑いをして迷って来たのかも知れないと思っていると、雁は雨のなかにふた声三声つづけて叫んだ。
しずかにそれを聴いているうちに、私の眼のさきには昔の麹町のすがたが泛かび出した。そこには勿論、自動車などは通らなかった。電車も通らなかった。スレート葺きやトタン葺きの家根も見えなかった。家根といえば瓦葺きか板葺きである。その家々の家根の上を秋風が高く吹いて、ゆう日のひかりが漸く薄れて来るころに、幾羽の雁の群れが列をなして大空を高く低く渡ってゆく。巷に遊んでいる子供たちはそれを仰いで口々に呼ぶのである。
「あとの雁が先になったら、笄取らしょ。」
わたしも大きい口をあいて呼んだ。雁の行は正しいものであるが、時にはその声々に誘われたように後列の雁が翼を振って前列を追いぬけることがある。あるいは野に伏兵ありとでも思うのか、前列後列が俄かに行を乱して翔りゆく時がある。空飛ぶ鳥が地上の人の号令を聞いたかのように感じられた時、子供たちは手を拍って愉快を叫んだ。そうして、その鳥の群れが遠くなるまで見送りながら立ち尽くしていると、秋のゆうぐれの寒さが襟にしみて来る。
秋になると、毎年それをくり返していたので、私に取っては忘れがたい少年時代の思い出の一つとなっているが、この頃では秋になっても東京の空を渡る雁の影も稀になった。まして往来のまんなかに突っ立って、「笄取らしょ。」などと声を嗄らして叫んでいるような子供は一人もないらしい。
雁で思い出したが、蝙蝠も夏の宵の景物の一つであった。
江戸時代の錦絵には、柳の下に蝙蝠の飛んでいるさまを描いてあるのをしばしば見る。粋な芸妓などが柳橋あたりの河岸をあるいている、その背景には柳と蝙蝠を描くのがほとんど紋切り型のようにもなっている。実際、むかしの江戸市中にはたくさん棲んでいたそうで、外国やシナの話にもあるように、化け物屋敷という空家を探険してみたらば、そこに年古る蝙蝠が棲んでいるのを発見したというような実話が幾らも伝えられている。大きい奴になると、不意に飛びかかって人の生き血を吸うのであるから、一種の吸血鬼と云ってもよい。相馬の古御所の破れた翠簾の外に大きい蝙蝠が飛んでいたなどは、確かに一段の鬼気を添えるもので、昔の画家の働きである。
しかし市中に飛んでいる小さい蝙蝠は、鬼気や妖気の問題を離れて、夏柳の下をゆく美人の影を追うにふさわしいものと見なされている。私たちも子供のときには蝙蝠を追いまわした。
夏のゆうぐれ、うす暗い家の奥からは蚊やりの煙りが仄白く流れ出て、家の前には涼み台が持ち出される頃、どこからとも知らず、一匹か二匹の小さい蝙蝠が迷って来て、あるいは街を横切り、あるいは軒端を伝って飛ぶ。蚊喰い鳥という異名の通り、かれらは蚊を追っているのであろう。それをまた追いながら、子供たちは口々に叫ぶのである。
「こうもり、こうもり、山椒食わしょ。」
前の雁とは違って、これは手のとどきそうな低いところを舞いあるいているから、何とかして捕えようというのが人情で、ある者は竹竿を持ち出して来るが、相手はひらひらと軽く飛び去って、容易に打ち落すことは出来ない。蝙蝠を捕えるには泥草鞋を投げるがよいと云うことになっているので、往来に落ちている草鞋や馬の沓を拾って来て、「こうもり来い。」と呼びながら投げ付ける。うまくあたって地に落ちて来ることもあるが、又すぐに飛び揚がってしまって、十に一つも子供たちの手には捕えられない。たとい捕え得たところで、どうなるものでもないのであるが、それでも夢中になって追いあるく。
その泥草鞋があやまって、往来の人に打ちあたる場合も少なくない。白地の帷子を着た紳士の胸や、白粉をつけた娘の横面などへ泥草鞋がぽんと飛んで行っても、相手が子供であるから腹も立てない。今日ならば明らかに交通妨害として、警官に叱られるところであろうが、昔のいわゆるお巡りさんは別にそれを咎めなかったので、私たちは泥草鞋をふりまわして夏のゆうぐれの町を騒がしてあるいた。
街路樹に柳を栽えている町はあるが、その青い蔭にも今は蝙蝠の飛ぶを見ない。勿論、泥草鞋や馬の沓などを振りまわしているような馬鹿な子供はいない。
こんなことを考えているうちに、例の馬力が魔の車とでも云いそうな響きを立てて、深夜の町を軋って来た。その昔、京の町を過ぎたという片輪車の怪談を、私は思い出した。
停車場の趣味
以前は人形や玩具に趣味をもって、新古東西の瓦楽多をかなりに蒐集していたが、震災にその全部を灰にしてしまってから、再び蒐集するほどの元気もなくなった。殊に人形や玩具については、これまで新聞雑誌に再三書いたこともあるから、今度は更に他の方面について少しく語りたい。
これは果たして趣味というべきものかどうだか判らないが、とにかく私は汽車の停車場というものに就いてすこぶる興味をもっている。汽車旅行をして駅々の停車場に到着したときに、車窓からその停車場をながめる。それがすこぶるおもしろい。尊い寺は門から知れると云うが、ある意味に於いて停車場は土地そのものの象徴と云ってよい。
そんな理窟はしばらく措いて、停車場として最もわたしの興味をひくのは、小さい停車場か大きい停車場かの二つであって、どちら付かずの中ぐらいの停車場はあまり面白くない。殊におもしろいのは、ひと列車に二、三人か五、六人ぐらいしか乗り降りのないような、寂しい地方の小さい停車場である。そういう停車場はすぐに人家のある町や村へつづいていない所もある。降りても人力車一台も無いようなところもある。停車場の建物も勿論小さい。しかもそこには案外に大きい桜や桃の木などがあって、春は一面に咲きみだれている。小さい建物、大きい桜、その上を越えて遠い近い山々が青く霞んでみえる。停車場のわきには粗末な竹垣などが結ってあって、汽車のひびきに馴れている鶏が平気で垣をくぐって出たりはいったりしている。駅員が慰み半分に作っているらしい小さい菜畑なども見える。
夏から秋にかけては、こういう停車場には大きい百日紅や大きい桐や柳などが眼につくことがある。真紅に咲いた百日紅のかげに小さい休み茶屋の見えるのもある。芒の乱れているのもコスモスの繁っているのも、停車場というものを中心にして皆それぞれの画趣を作っている。駅の附近に草原や畑などが続いていて、停車している汽車の窓にも虫の声々が近く流れ込んで来ることもある。東海道五十三次をかいた広重が今生きていたらば、こうした駅々の停車場の姿をいちいち写生して、おそらく好個の風景画を作り出すであろう。
停車場はその土地の象徴であると、わたしは前に云ったが、直接にはその駅長や駅員らの趣味もうかがわれる。ある駅ではその設備や風致にすこぶる注意を払っているらしいのもあるが、その注意があまりに人工的になって、わざとらしく曲がりくねった松を栽えたり、檜葉をまん丸く刈り込んだりしてあるのは、折角ながら却っておもしろくない。やはり周囲の野趣をそのまま取り入れて、あくまでも自然に作った方がおもしろい。長い汽車旅行に疲れた乗客の眼もそれに因っていかに慰められるか判らない。汽車そのものが文明的の交通機関であるからと云って、停車場の風致までを生半可な東京風などに作ろうとするのは考えものである。
大きい停車場は車窓から眺めるよりも、自分が構内の人となった方がよい。勿論、そこには地方の小停車場に見るような詩趣も画趣も見いだせないのであるが、なんとなく一種の雄大な感が湧く。そうして、そこには単なる混雑以外に一種の活気が見いだされる。汽車に乗る人、降りる人、かならずしも活気のある人たちばかりでもあるまい。親や友達の死を聞いて帰る人もあろう。自分の病いのために帰郷する人もあろう。地方で失敗して都会へ職業を求めに来た人もあろう。千差万別、もとより一概には云えないのであるが、その人たちが大きい停車場の混雑した空気につつまれた時、たれもかれも一種の活気を帯びた人のように見られる。単に、あわただしいと云ってしまえばそれ迄であるが、わたしはその間に生き生きした気分を感じて、いつも愉快に思う。
汽車の出たあとの静けさ、殊に夜汽車の汽笛のひびきが遠く消えて、見送りの人々などが静かに帰ってゆく。その寂しいような心持もまたわるくない。
わたしは麹町に長く住んでいるので、秋の宵などには散歩ながら四谷の停車場へ出て行く。この停車場は大でもなく小でもなく、わたしには余り面白くない中くらいのところであるが、それでも汽車の出たあとの静かな気分を味わうことが出来る。堤の松の大樹の上に冴えた月のかかっている夜などは殊によい。若いときは格別、近年は甚だ出不精になって、旅行する機会もだんだんに少なくなったが、停車場という乾燥無味のような言葉も、わたしの耳にはなつかしく聞えるのである。
(大正15・8「時事新報」)
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私の机
ある雑誌社から「あなたの机は」という問合せが来たので、こんな返事をかいて送る。
天神机――今はあと方もなくなってしまいましたが、私が子供の時代には、まだそれが一般に行なわれていて、手習いをする子は皆それに向かったものです。わたしもその一人でした。今でも「寺子屋」の芝居をみると、何だか昔がなつかしいように思われます。
これも今はあまり流行らないようですが、以前は普通に用いる机は桐材が一番よいと云う事になっていました。木肌が柔らかなので、倚りかかる場合その他にも手当りが柔らかでよいと云うのでした。その代りに疵が付き易い。文鎮をおとしてもすぐに疵が付くというわけですから、少し不注意に取扱うと疵だらけになる。それが桐材の欠点で、自然にすたれて来たのでしょう。それから一閑張りの机が一時は流行しました。それも柔らかでよいのと、軽くてよいのと、値段が割合に高くないのとで、一時は非常に持て囃されましたが、何分にも紙を貼ったものであるから傷み易い。水などを零すと、すぐにぶくぶくと膨れる。そんな欠点があるので、これもやがて廃れました。それでもまだ小机やチャブ台用としては幾分か残っているようです。
わたしは十五のときに一円五十銭で買った桐の机を多年使用していました。下宿屋を二、三度持ちあるいたり、三、四度も転居したりしたので、ほとんど完膚なしと云うほどに疵だらけになっていましたが、それが使い馴れていて工合がよいので、ついそのままに使いつづけていました。しかし十五の時に買った机ですから少し小さいのが何分不便で、大きな本など拡げる場合には、机の上をいちいち片付けてかからなければならない。とうとう我慢が出来なくなって、大正十二年の春、近所の家具屋に註文して大きい机を作らせました。木材はなんでもよいと云ったら、
で作って来たので、非常に重い上に実用専一のすこぶる殺風景なものが出来あがりました。その代り、机の上が俄かに広くなったので、仕事をするときに参考書などを幾冊も拡げて置くには便利になった。
さりとて、三十七、八年も親しんでいた古机を古道具屋の手にわたすにも忍びないので、そのまま戸棚の奥に押し込んで置くと、その年の九月が例の震災で、新旧の机とも灰となってしまいました。新の方に未練はなかったが、旧の方は久しい友達で、若いときからその机の上でいろいろのものを書いた思い出――誰でもそうであろうが、取り分けわれわれのような者は机というものに対していろいろの思い出が多いので、それが灰になってしまったと云うことは、かなりに私のこころを寂しくさせました。
震災の後、目白の額田六福の家に立ち退いているあいだは、そこの小机を借りて使っていましたが、十月になって麻布へ移転する時、何を措いても机はすぐに入用であるので、高田の四つ家町へ行って家具屋をあさり歩きました。勿論、その当時のことであるから択り好みは云っていられない。なんでも机の形をしていれば好いぐらいの考えで、十二円五十銭の机を買って来た。これも材質は
で、それにラックスを塗ったもので、すこぶる頑丈に出来ているのです。もう少し体裁のよいのもあったのですが、私は背が高いので机の脚も高くなければ困る。そういう都合で、脚の高いのを取得に先ずそれを買い込んで、そのまま今日まで使っているわけです。その後にいくらか優しの机を見つけないでもありませんが、震災以来、三度も居所を変えて、いまだに仮越しの不安定の生活をつづけているのですから、震災記念の安机が丁度相当かとも思って、現にこの原稿もその机の上で書いているような次第です。
わたしは近眼のせいもありましょうが、机は明るいところに据えなければ、読むことも書くことも出来ません。光線の強いのを嫌う人もありますが、わたしは薄暗いようなところでは何だか頼りないような気がして落着かれません。それですから、一日のうちに幾度も机の位置をかえることがあります。したがって、余りに重い机は持ち運ぶに困るのですが、机にむかった感じを云えば、どうも重くて大きい方がドッシリとして落着かれるようです。チャブ台の上などで原稿をかく人がありますが、私には全然できません。それがために、旅行などをして困ることがあります。
もう一つ、これは年来の習慣でしょうが、わたしは自宅にいる場合、飯を食うときのほかは机の前を離れたことはほとんどありません。読書するとか原稿を書くとか云うのでなく、ただぼんやりとしているときでも必ず机の前に坐っています。鳥で云えば一種の止まり木とでも云うのでしょう。机の前を離れると、なんだかぐら付いているようで、自分のからだを持て余してしまうのです。妙な習慣が付いたものです。
(大正14・9「婦人公論」)
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読書雑感
なんと云っても此の頃は読書子に取っては恵まれた時代である。円本は勿論、改造文庫、岩波文庫、春陽堂文庫のたぐい、二十銭か三十銭で自分の読みたい本が自由に読まれるというのは、どう考えても有難いことである。
趣味から云えば、廉価版の安っぽい書物は感じが悪いという。それも一応は尤もであるが、読書趣味の普及された時代、本を読みたくても金が無いという人々に取っては、廉価版は確かに必要である。また、著者としても、豪華版を作って少数の人に読まれるよりも、廉価版を作って多数の人に読まれた方がよい。五百人六百人に読まれるよりも、一万人二万人に読まれた方が、著者としては本懐でなければならない。
それに付けても、わたしたちの若い時代に比べると、当世の若い人たちは確かに恵まれていると思う。わたしは明治五年の生まれで、十七、八歳すなわち明治二十一、二年頃から、三十歳前後すなわち明治三十四、五年頃までが、最も多くの書を読んだ時代であったが、その頃にはもちろん廉価版などというものは無い。第一に古書の翻刻が甚だ少ない。
したがって、古書を読もうとするには江戸時代の原本を尋ねなければならない。
その原本は少ない上に、価も廉くない。わたしは神田の三久(三河屋久兵衛)という古本屋へしばしばひやかしに行ったが、貧乏書生の悲しさ、読みたい本を見付けても容易に買うことが出来ないのであった。金さえあれば、おれも学者になれるのだと思ったが、それがどうにもならなかった。
私にかぎらず、原本は容易に獲られず、その価もまた廉くない関係から、その時代には書物の借覧ということが行なわれた。蔵書家に就いてその蔵書を借り出して来るのである。ところが、蔵書家には門外不出を標榜している人が多く、自宅へ来て読むというならば読ませてやるが、貸出しはいっさい断わるというのである。そうなると、その家を訪問して読ませて貰うのほかは無い。
日曜日のほかに余暇のないわたしは、それからそれへと紹介を求めて諸家を訪問することになったが、それが随分難儀な仕事であった。由来、蔵書家というような人たちは、東京のまん中に余り多く住んでいない。大抵は場末の不便なところに住んでいる。電車の便などのない時代に、本郷小石川や本所深川辺まで尋ねて行くことになると、その往復だけでも相当の時間を費してしまうので、肝腎の読書の時間が案外に少ないことになるにはすこぶる困った。
なにしろ馴染みの浅い家へ行って、悠々と坐り込んで書物を読んでいるのは心苦しいことである。蔵書家と云っても、広い家に住んでいるとは限らないから、時には玄関の二畳ぐらいの処に坐って読まされる。時にはまた、立派な座敷へ通されて恐縮することもある。腰弁当で出かけても、碌々に茶も飲ませてくれない家がある。そうかと思うと、茶や菓子を出して、おまけに鰻飯などを食わせてくれる家がある。その待遇は千差万別で、冷遇はいささか不平であるが、優待もあまりに気の毒でたびたび出かけるのを遠慮するようにもなる。冷遇も困るが、優待も困る。そこの加減がどうもむずかしいのであった。
そのあいだには、上野の図書館へも通ったが、やはり特別の書物を読もうとすると、蔵書家をたずねる必要が生ずるので、わたしは前に云うような冷遇と優待を受けながら、根よく方々をたずね廻った。ただ読んでいるばかりでは済まない。時には抜書きをすることもある。万年筆などの無い時代であるから、矢立と罫紙を持参で出かける。そうした思い出のある抜書き類も、先年の震災でみな灰となってしまった。
そういう時代に、博文館から日本文字全書、温知叢書、帝国文庫などの翻刻物を出してくれたのは、われわれに取って一種の福音であった。勿論、ありふれた物ばかりで、別に珍奇の書は見いだされなかったが、それらの書物を自分の座右に備え付けて置かれるというだけでも、確かに有難いことであった。
その後、古書の翻刻も続々行なわれ、わたしの懐ろにも幾分の余裕が出来て、買いたい本はどうにか買えるようにもなったが、その昔の読書の苦しみは身にしみて覚えている。わたしはその経験があるだけに、書物の装幀などには余り重きを置かない。なんでも廉く買えて、それを自分の手もとに置くことの出来るのを第一義としている。
前にもいう通り、わたしが矢立と罫紙を持って、風雨を冒して郊外の蔵書家を訪問して、一生懸命に筆写して来た書物が、今日では何々文庫として二十銭か三十銭で容易に手に入れることが出来るのは、読書子に取って実に幸福であると云わなければならない。廉価版が善いの悪いのと贅沢をいうべきでは無い。
博文館以外にも、その当時に古書を翻刻してくれた人々は、その目的が那辺にあろうとも、われわれに取ってはみな忘れ難い恩人であった。その人々も今は大かた此の世にいないであろう。その書物も次第に堙滅して、今は古本屋の店頭にもその形をとどめなくなった。私もその翻刻書類を随分蒐集していたが、それもみな震災の犠牲になってしまったのは残り惜しい。
わたしは比較的に好運の人間で、これまでに余りひどい目に逢ったことも無かったが、震災のために、多年の日記、雑記帳、原稿のたぐいから蔵書一切を焼き失ったのは、一生一度の償い難き災禍であった。この恨みは綿々として尽きない。
(昭和8・3「書物展望」)
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回想・半七捕物帳
捕物帳の成り立ち
初めて「半七捕物帳」を書こうと思い付いたのは、大正五年の四月頃とおぼえています。その頃わたしはコナン・ドイルのシャーロック・ホームズを飛びとびに読んでいたが、全部を通読したことが無いので、丸善へ行ったついでに、シャーロック・ホームズのアドヴェンチュアとメモヤーとレターンの三種を買って来て、一気に引きつづいて三冊を読み終えると、探偵物語に対する興味が油然と湧き起って、自分もなにか探偵物語を書いてみようという気になったのです。勿論、その前にもヒュームなどの作も読んでいましたが、わたしを刺戟したのはやはりドイルの作です。
しかしまだ直ぐには取りかかれないので、さらにドイルの作を獲って、かのラスト・ギャリーや、グリーン・フラダや、爐畔物語や、それらの短篇集を片っ端から読み始めました。しかし一方に自分の仕事があって、その頃は時事新報の連載小説の準備もしなければならなかったので、読書もなかなか捗取らず、最初からでは約ひと月を費して、五月下旬にようやく以上の諸作を読み終りました。
そこで、いざ書くという段になって考えたのは、今までに江戸時代の探偵物語というものが無い。大岡政談や板倉政談はむしろ裁判を主としたものであるから、新たに探偵を主としたものを書いてみたら面白かろうと思ったのです。もう一つには、現代の探偵物語を書くと、どうしても西洋の模倣に陥り易い虞れがあるので、いっそ純江戸式に書いたならば一種の変った味のものが出来るかも知れないと思ったからでした。幸いに自分は江戸時代の風俗、習慣、法令や、町奉行、与力、同心、岡っ引などの生活に就いても、ひと通りの予備知識を持っているので、まあ何とかなるだろうという自信もあったのです。
その年の六月三日から、まず「お文の魂」四十三枚をかき、それから「石燈籠」四十枚をかき、更に「勘平の死」四十一枚を書くと、八月から国民新聞の連載小説を引き受けなければならない事になりました。時事と国民、この二つの新聞小説を同時に書いているので、捕物帳はしばらく中止の形になっていると、そのころ文芸倶楽部の編集主任をしていた森暁紅君から何か連載物を寄稿しろという注文があったので、「半七捕物帳」という題名の下にまず前記の三種を提出し、それが大正六年の新年号から掲載され始めたので、引きつづいてその一月から「湯屋の二階」「お化師匠」「半鐘の怪」「奥女中」を書きつづけました。雑誌の上では新年号から七月号にわたって連載されたのです。
そういうわけで、探偵物語の創作はこれが序開きであるので、自分ながら覚束ない手探りの形でしたが、どうやら人気になったと云うので、更に森君から続篇をかけと注文され、翌年の一月から六月にわたって又もや六回の捕物帳を書きました。その後も諸雑誌や新聞の注文をうけて、それからそれへと書きつづけたので、捕物帳も案外多量の物となって、今まで発表した物話は四十数篇あります。
半七老人は実在の人か――それに就いてしばしば問い合せを受けます。勿論、多少のモデルが無いでもありませんが、大体に於いて架空の人物であると御承知ください。おれは半七を知っているとか、半七のせがれは歯医者であるとか、或いは時計屋であるとか、甚だしいのはおれが半七であると自称している人もあるそうですが、それは恐らく、同名異人で、わたしの捕物帳の半七老人とは全然無関係であることを断わっておきます。
前にも云った通り、捕物帳が初めて文芸倶楽部に掲載されたのは大正六年の一月で、今から振り返ると十年余りになります。その文芸倶楽部の誌上に思い出話を書くにつけて、今更のように月日の早いのに驚かされます。
(昭和2・8「文芸倶楽部」)
半七招介状
明治二十四年四月第二日曜日、若い新聞記者が浅草公園弁天山の惣菜(岡田)へ午飯を食いにはいった。花盛りの日曜日であるから、混雑は云うまでも無い。客と客とが押し合うほどに混み合っていた。
その記者の隣りに膳をならべているのは、六十前後の、見るから元気のよい老人であった。なにしろ客が立て込んでいるので、女中が時どきにお待遠さまの挨拶をして行くだけで、注文の料理はなかなか運ばれて来ない。記者は酒を飲まない。隣りの老人は一本の徳利を前に置いているが、これも深くは飲まないとみえて、退屈しのぎに猪口をなめている形である。
花どきであるから他のお客様はみな景気がいい。酔っている男、笑っている女、賑やかを通り越して騒々しい位であるが、そのなかで酒も飲まず、しかも独りぼっちの若い記者は唯ぼんやりと坐っているのである。隣りの老人にも連れはない。注文の料理を待っているあいだに、老人は記者に話しかけた。
「どうも賑やかですね。」
「賑やかです。きょうは日曜で天気もよし、花も盛りですから。」と、記者は答えた。
「あなたは酒を飲みませんか。」
「飲みません。」
「わたくしも若いときには少し飲みましたが、年を取っては一向いけません。この徳利も退屈しのぎに列べてあるだけで……。」
「ふだんはともあれ、花見の時に下戸はいけませんね。」
「そうかも知れません。」と、老人は笑った。
「だが、芝居でも御覧なさい。花見の場で酔っ払っているような奴は、大抵お腰元なんぞに嫌われる敵役で、白塗りの色男はみんな素面ですよ。あなたなんぞも二枚目だから、顔を赤くしていないんでしょう。あははははは。」
こんなことから話はほぐれて、隣り同士が心安くなった。老人がむかしの浅草の話などを始めた。老人は痩せぎすの中背で、小粋な風采といい、流暢な江戸弁といい、紛れもない下町の人種である。その頃には、こういう老人がしばしば見受けられた。
「お住居は下町ですか。」と、記者は訊いた。
「いえ、新宿の先で……。以前は神田に住んでいましたが、十四五年前から山の手の場末へ引っ込んでしまいまして……。馬子唄で幕を明けるようになっちゃあ、江戸っ子も型なしです。」と、老人はまた笑った。
だんだん話しているうちに、この老人は文政六年未年の生まれで、ことし六十九歳であるというのを知って、記者はその若いのに驚かされた。
「いえ、若くもありませんよ。」と、老人は云った。「なにしろ若い時分から体に無理をしているので、年を取るとがっくり弱ります。もう意気地はありません。でも、まあ仕合せに、口と足だけは達者で、杖も突かずに山の手から観音さままで御参詣に出て来られます。などと云うと、観音さまの罰が中る。御参詣は附けたりで、実はわたくしもお花見の方ですからね。」
話しながら飯を食って、ふたりは一緒にここを出ると、老人はうららかな空をみあげた。
「ああ、いい天気だ。こんな花見日和は珍らしい。わたくしはこれから向島へ廻ろうと思うのですが、御迷惑でなければ一緒にお出でになりませんか。たまには年寄りのお附合いもするものですよ。」
「はあ、お供しましょう。」
二人は吾妻橋を渡って向島へゆくと、ここもおびただしい人出である。その混雑をくぐって、二人は話しながら歩いた。自分はたんとも食わないのであるが、若い道連れに奢ってくれる積りらしく、老人は言問団子に休んで茶を飲んだ。この老人はまったく足が達者で、記者はとうとう梅若まで連れて行かれた。
「どうです、くたびれましたか。年寄りのお供は余計にくたびれるもので、わたしも若いときに覚えがありますよ。」
長い堤を引返して、二人は元の浅草へ出ると、老人は辞退する道連れを誘って、奴うなぎの二階へあがった。蒲焼で夕飯を食ってここを出ると、広小路の春の灯は薄い靄のなかに沈んでいた。
「さあ、入相がボーンと来る。これからがあなたがたの世界でしょう。年寄りはここでお別れ申します。」
「いいえ、わたしも真直ぐに帰ります。」
老人の家は新宿のはずれである。記者の家も麹町である。同じ方角へ帰る二人は、門跡前から相乗りの人力車に乗った。車の上でも話しながら帰って、記者は半蔵門のあたりで老人に別れた。
言問では団子の馳走になり、奴では鰻の馳走になり、帰りの車代も老人に払わせたのであるから、若い記者はそのままでは済まされないと思って、次の日曜に心ばかりの手みやげを持って老人をたずねた。その家のありかは、新宿といってもやがて淀橋に近いところで、その頃はまったくの田舎であった。先日聞いておいた番地をたよりに、尋ねたずねて行き着くと、庭は相当に広いが、四間ばかりの小さな家に、老人は老婢と二人で閑静に暮らしているのであった。
「やあ、よくおいでなすった。こんな処は堀の内のお祖師さまへでも行く時のほかは、あんまり用のない所で……。」と、老人は喜んで記者を迎えてくれた。
それが縁となって、記者はしばしばこの老人の家を尋ねることになった。老人は若い記者にむかって、いろいろのむかし話を語った。老人は江戸以来、神田に久しく住んでいたが、女房に死に別れてからここに引込んだのであるという。養子が横浜で売込商のようなことをやっているので、その仕送りで気楽に暮らしているらしい。江戸時代には建具屋を商売にしていたと、自分では説明していたが、その過去に就いては多く語らなかった。
老人の友達のうちに町奉行所の捕方すなわち岡っ引の一人があったので、それからいろいろの捕物の話を聞かされたと云うのである。
「これは受け売りですよ。」
こう断わって、老人は「半七捕物帳」の材料を幾つも話して聞かせた。若い記者はいちいちそれを手帳に書き留めた。――ここまで語れば大抵判るであろうが、その記者はわたしである。但し、老人の本名は半七ではない。
老人の話が果たして受け売りか、あるいは他人に托して自己を語っているのか、おそらく後者であるらしく想像されたが、彼はあくまでも受け売りを主張していた。老人は八十二歳の長命で、明治三十七年の秋に世を去った。その当時、わたしは日露戦争の従軍新聞記者として満洲に出征していたので、帰京の後にその訃を知ったのは残念であった。
「半七捕物帳」の半七老人は実在の人物であるか無いかという質問に、わたしはしばしば出逢うのであるが、有るとも無いとも判然と答え得ないのは右の事情に因るのである。前にも云う通り、かの老人の話が果たして受け売りであれば、半七のモデルは他にある筈である。もし彼が本人であるならば、半七は実在の人物であるとも云い得る。いずれにしても、わたしはかの老人をモデルにして半七を書いている。住所その他は私の都合で勝手に変更した。
但し「捕物帳」のストーリー全部が、かの老人の口から語られたのではない。他の人々から聞かされた話もまじっている。その話し手をいちいち紹介してはいられないから、ここでは半七のモデルとなった老人を紹介するにとどめて置く。
(昭和11・8「サンデー毎日」)
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