明治座
この二、三日は馬鹿に寒い。けさは手水鉢に厚い氷を見た。
午前八時頃に十番の通りへ出てみると、末広座の前にはアーチを作っている。劇場の内にも大勢の職人が忙がしそうに働いている。震災以来、破損のままで捨て置かれたのであるが、来年の一月からは明治座と改称して松竹合名会社の手で開場し、左団次一座が出演することになったので、俄かに修繕工事に取りかかったのである。今までは繁華の町のまんなかに、死んだ物のように寂寞として横たわっていた建物が、急に生き返って動き出したかとも見えて、あたりが明るくなったように活気を生じた。焚火の烟りが威勢よく舞いあがっている前に、ゆうべは夜明かしであったと笑いながら話している職人もある。立ち停まって珍しそうにそれを眺めている人たちもある。
足場をかけてある座の正面には、正月二日開場の口上看板がもう揚がっている。二部興行で、昼の部は忠信の道行、躄の仇討、鳥辺山心中、夜の部は信長記、浪華の春雨、双面という番組も大きく貼り出してある。
左団次一座が麻布の劇場に出勤するのは今度が初めである上に、震災以後東京で興行するのもこれが初めであるから、その前景気は甚だ盛んで、麻布十番の繁昌にまた一層の光彩を添えた観がある。どの人も浮かれたような心持で、劇場の前に群れ集まって来て、なにを見るとも無しにたたずんでいるのである。
私もその一人であるが、浮かれたような心持は他の人々に倍していることを自覚していた。明治座が開場のことも、左団次一座が出演のことも、又その上演の番組のことも、わたしは疾うから承知しているのではあるが、今やこの小さい新装の劇場の前に立った時に、復興とか復活とか云うような、新しく勇ましい心持が胸いっぱいに漲るのを覚えた。
わたしの脚本が舞台に上演されたのは、東京だけでもすでに百数十回にのぼっているのと、もう一つには私自身の性格の然らしむるところとで、わたしは従来自分の作物の上演ということに就いては余りに敏感でない方である。勿論、不愉快なことではないが、又さのみに愉快とも感じていないのであった。それが今日にかぎって一種の昂奮を感じるように覚えるのは、単にその上演目録のうちに鳥辺山心中と、信長記と、浪華の春雨と、わたしの作物が三種までも加わっていると云うばかりでなく、震災のために自分の物いっさいを失ったように感じていた私に取って、自分はやはり何物をか失わずにいたと云うことを心強く感じさせたからである。以上の三種が自分の作として、得意の物であるか不得意の物であるかを考えている暇はない。わたしは焼け跡の灰の中から自分の財を拾い出したように感じたのであった。
「お正月から芝居がはじまる……。左団次が出る……。」と、そこらに群がっている人の口から、一種の待つある如きさざめきが伝えられている。
わたしは愉快にそれを聴いた。私もそれを待っているのである。少年時代のむかしに復って、春を待つという若やいだ心が私の胸に浮き立った。幸か不幸か、これも震災の賜物である。
「いや、まだほかにもある。」
こう気がついて、わたしは劇場の前を離れた。横町はまだ滑りそうに凍っているその細い路を、わたしの下駄はカチカチと踏んで急いだ。家へ帰ると、すぐに書斎の戸棚から古いバスケットを取り出した。
震災の当時、蔵書も原稿もみな焼かれてしまったのであるが、それでもいよいよ立ち退くというまぎわに、書斎の戸棚の片隅に押し込んである雑誌や新聞の切抜きを手あたり次第にバスケットへつかみ込んで来た。それから紀尾井町、目白、麻布と転々する間に、そのバスケットの底を丁寧に調べてみる気も起らなかったが、麻布にひとまず落着いて、はじめてそれを検査すると、幾束かの切抜きがあらわれた。それは何かの参考のために諸新聞や雑誌を切り抜いて保存して置いたもので、自分自身の書いたものは二束に過ぎないばかりか、戯曲や小説のたぐいは一つもない、すべてが随筆めいた雑文ばかりである。その随筆も勿論全部ではない、おそらく三分の一か四分の一ぐらいでもあろうかと思われた。
それだけでも掴み出して来たのは、せめてもの幸いであったと思うにつけて、一種の記念としてそれらを一冊に纏めてみようかと思い立ったが、何かと多忙に取りまぎれて、きょうまで其の儘になっていたのである。これも失われずに残されている物であると思うと、わたしは急になつかしくなって、その切抜きをいちいちにひろげて読みかえした。
わたしは今まで随分たくさんの雑文をかいている。その全部のなかから撰み出したらば、いくらか見られるものも出来るかと思うのであるが、前にもいう通り、手あたり次第にバスケットへつかみ込んで来たのであるから、なかには書き捨ての反古同様なものもある。その反古も今のわたしにはまた捨て難い形見のようにも思われるので、なんでもかまわずに掻きあつめることにした。
こうなると、急に気ぜわしくなって、すぐにその整理に取りかかると、冬の日は短い。おまけに午後には二、三人の来客があったので、一向に仕事は捗取らず、どうにか斯うにか片付いたのは夜の九時頃である。それでも門前には往来の足音が忙がしそうに聞える。北の窓をあけて見ると、大通りの空は灯のひかりで一面に明るい。明治座は今夜も夜業をしているのであろうなどとも思った。
さて纏まったこの雑文集の名をなんと云っていいか判らない。今の仮住居の地名をそのままに、仮に『十番随筆』ということにして置いた。これもまた記念の意味にほかならない。
(昭和12・10刊『思い出草』所収)
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風呂を買うまで
わたしは入浴が好きで、大正八年の秋以来あさ湯の廃止されたのを悲しんでいる一人である。浅草千束町辺の湯屋では依然として朝湯を焚くという話をきいて、山の手から遠くそれを羨んでいたのであるが、そこも震災後はどうなったか知らない。
わたしが多年ゆき馴れた麹町の湯屋の主人は、あさ湯廃止、湯銭値上げなどという問題について、いつも真っさきに立って運動する一人であるという噂を聞いて、どうもよくない男だとわたしは自分勝手に彼を呪っていたのであるが、呪われた彼も、呪ったわたしも、時をおなじゅうして震災の火に焼かれてしまった。その後わたしは目白に一旦立ち退いて、雑司ヶ谷の鬼子母神附近の湯屋にゆくことになった。震災後どこの湯屋も一週間ないし十日間休業したが、各組合で申し合せでもしたのか知れない、再び開業するときには大抵その初日と二日目とを無料入浴デーにしたのが多い。わたしも雑司ヶ谷の御園湯という湯屋でその二日間無料の恩恵を蒙った。恩恵に浴すとはまったく此の事であろう。それから十月の初めまで私は毎日この湯にかよっていた。九月二十五日は旧暦の十五夜で、わたしはこの湯屋の前で薄を持っている若い婦人に出逢った。その婦人もこの近所に避難している人であることを予て知っているので、薄ら寒い秋風に靡いているその薄の葉摺れが、わたしの暗いこころをひとしお寂しくさせたことを記憶している。
わたしはそれから河野義博君の世話で麻布の十番に近いところに貸家を見つけて、どうにか先ず新世帯を持つことになった。十番は平生でも繁昌している土地であるが、震災後の繁昌と混雑はまた一層甚だしいものであった。ここらにも避難者がたくさん集まっているので、どこの湯屋も少しおくれて行くと、芋を洗うような雑沓で、入浴する方が却って不潔ではないかと思われるくらいであったが、わたしはやはり毎日かかさずに入浴した。ここでは越の湯と日の出湯というのにかよって、十二月二十二、二十三の両日は日の出湯で柚湯にはいった。わたしは二十何年ぶりで、ほかの土地のゆず湯を浴びたのである。柚湯、菖蒲湯、なんとなく江戸らしいような気分を誘い出すもので、わたしは「本日ゆず湯」のビラをなつかしく眺めながら、湯屋の新しい硝子戸をくぐった。
宿無しも今日はゆず湯の男哉
二十二日は寒い雨が降った。二十三日は日曜日で晴れていた。どの日もわたしは早く行ったので、風呂のなかはさのみに混雑していなかったが、ゆず湯というのは名ばかりで、湯に浮かんでいる柚の数のあまりに少ないのにやや失望させられた。それでも新しい湯にほんのりと匂う柚の香は、この頃とかくに尖り勝ちなわたしの神経を不思議にやわらげて、震災以来初めてほんとうに入浴したような、安らかな爽かな気分になった。
麻布で今年の正月をむかえたわたしは、その十五日に再びかなりの強震に逢った。去年の大震で傷んでいる家屋が更に破損して、長く住むには堪えられなくなった。家主も建て直したいというので、いよいよ三月なかばにここを立ち退いて、さらに現在の大久保百人町に移転することになった。いわゆる東移西転、どこにどう落着くか判らない不安をいだきながら、ともかくもここを仮りの宿りと定めているうちに、庭の桜はあわただしく散って、ここらの躑躅の咲きほこる五月となった。その四日と五日は菖蒲湯である。ここでは都湯というのに毎日かよっていたが、麻布のゆず湯とは違って、ここの菖蒲は風呂いっぱいに青い葉をうかべているのが見るから快かった。大かた子供たちの仕事であろうが、青々とぬれた菖蒲の幾束が小桶に挿してあったのも、なんとなく田舎めいて面白かった。四日も五日もあいにくに陰っていたが、これで湯あがりに仰ぎ視る大空も青々と晴れていたら、さらに爽快であろうと思われた。
湯屋は大久保駅の近所にあって、わたしの家からは少し遠いので、真夏になってから困ることが出来た。日盛りに行っては往復がなにぶんにも暑い。ここらは勤め人が多いので、夕方から夜にかけては湯屋がひどく混雑する。
わたしの家に湯殿はあるが、据風呂がないので内湯を焚くわけに行かない。幸いに井戸の水は良いので、七月から湯殿で行水を使うことにした。大盥に湯をなみなみと湛えさせて、遠慮なしにざぶざぶ浴びてみたが、どうも思うように行かない。行水――これも一種の俳味を帯びているものには相違ないので、わたしは行水にちなんだ古人の俳句をそれからそれへと繰り出して、努めて俳味をよび起そうとした。わたしの家の畑には唐もろこしもある、小さい夕顔棚もある、虫の声もきこえる。月並ながらも行水というものに相当した季題の道具立てはまずひと通り揃っているのであるが、どうも一向に俳味も俳趣も泛かび出さない。
行水をつかって、唐もろこしの青い葉が夕風にほの白くみだれているのを見て、わたしは日露戦争の当時、満洲で野天風呂を浴びたことを思い出した。海城、遼陽その他の城内にシナ人の湯屋があるが、城から遠い村落に湯屋というものはない。幸いに大抵の民家には大きい甕が一つ二つは据えてあるので、その甕を畑のなかへ持ち出して、高梁を焚いて湯を沸かした。満洲の空は高い、月は鏡のように澄んでいる。畑には西瓜や唐茄子が蔓を這わせて転がっている。そのなかで甕から首を出して鼻唄を歌っていると、まるで狐に化かされたような形であるが、それも陣中の一興として、その愉快は今でも忘れない。甕は焼き物であるから、湯があまりに沸き過ぎた時、うかつにその縁などに手足を触れると、火傷をしそうな熱さで思わず飛びあがることもあった。
しかしそれは二十年のむかしである。今のわたしは野天風呂で鼻唄をうたっている勇気はない。行水も思ったほどに風流でない。狭くても窮屈でも、やはり据風呂を買おうかと思っている。そこでまた宿無しが一句うかんだ。
宿無しが風呂桶を買ふ暑さ哉
(大正13・7「読売新聞」)
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郊外生活の一年
震災以来、諸方を流転して、おちつかない日を送ること一年九ヵ月で、月並の文句ではあるが光陰流水の感に堪えない。大久保へ流れ込んで来たのは十三年の三月で、もう一年以上になる。東京市内に生まれて、東京市内に生活して、郊外というところは友人の家をたずねるか、あるいは春秋の天気のよい日に散歩にでも出かける所であると思っていた者が、測らずも郊外生活一年の経験を積むことを得たのは、これも震災の賜物と云っていいかも知れない。勿論、その賜物に対してかなりの高価を支払ってはいるが……。
はじめてここへ移って来たのは、三月の春寒がまだ去りやらない頃で、その月末の二十五、二十六、二十七の三日間は毎日つづいて寒い雨が降った。二十八日も朝から陰って、ときどきに雪を飛ばした。わたしの家の裏庭から北に見渡される戸山ヶ原には、春らしい青い色はちっとも見えなかった。尾州侯の山荘以来の遺物かと思われる古木が、なんの風情も無しに大きい枯れ枝を突き出しているのと、陸軍科学研究所の四角張った赤煉瓦の建築と、東洋製菓会社の工場に聳えている大煙突と、風の吹く日には原一面に白く巻きあがる砂煙りと、これだけの道具を列べただけでも大抵は想像が付くであろう。実に荒涼索莫、わたしは遠い昔にさまよい歩いた満洲の冬を思い出して、今年の春の寒さがひとしお身にしみるように感じた。
「郊外はいやですね。」と、市内に住み馴れている家内の女たちは云った。
「むむ。どうも思ったほどによくないな。」と、わたしも少しく顔をしかめた。
省線電車や貨物列車のひびきも愉快ではなかった。陸軍の射的場のひびきも随分騒がしかった。戸山ヶ原で夜間演習のときは、小銃を乱射するにも驚かされた。湯屋の遠いことや、買物の不便なことや、いちいち数え立てたらいろいろあるので、わたしも此処まで引っ込んで来たのを悔むような気にもなったが、馴れたらどうにかなるだろうと思っているうちに、郊外にも四月の春が来て、庭にある桜の大木二本が満開になった。枝は低い生垣を越えて往来へ高く突き出しているので、外から遠く見あげると、その花の下かげに小さく横たわっている私の家は絵のようにみえた。戸山ヶ原にも春の草が萌え出して、その青々とした原の上に、市内ではこのごろ滅多に見られない大きい鳶が悠々と高く舞っていた。
「郊外も悪くないな。」と、わたしはまた思い直した。
五月になると、大久保名物の躑躅の色がここら一円を俄かに明るくした。躑躅園は一軒も残っていないが、今もその名所のなごりをとどめて、少しでも庭のあるところに躑躅の花を見ないことはない。元来の地味がこの花に適しているのであろうが、大きい木にも小さい株にも皆めざましい花を付けていた。わたしの庭にも紅白は勿論、むらさきや樺色の変り種も乱れて咲き出した。わたしは急に眼がさめたような心持になって、自分の庭のうちを散歩するばかりでなく、暇さえあれば近所をうろついて、そこらの家々の垣根のあいだを覗きあるいた。
庭の広いのと空地の多いのとを利用して、わたしも近所の人真似に花壇や畑を作った。花壇には和洋の草花の種をめちゃくちゃにまいた。畑には唐蜀黍や夏大根の種をまき、茄子や瓜の苗を植えた。ゆうがおの種も播き、へちまの棚も作った。不精者のわたしに取っては、それらの世話がなかなかの面倒であったが、いやしくも郊外に住む以上、それが当然の仕事のようにも思われて、わたしは朝晩の泥いじりを厭わなかった。六月の梅雨のころになると、花壇や畑には茎や蔓がのび、葉や枝がひろがって、庭一面に濡れていた。
夏になって、わたしを少しく失望させたのは、蛙の一向に鳴かないことであった。筋向うの家の土手下の溝で、二、三度その鳴き声を聴いたことがあったが、そのほかにはほとんど聞えなかった。麹町辺でも震災前には随分その声を聴いたものであるが、郊外のここらでどうして鳴かないのかと、わたしは案外に思った。蛍も飛ばなかった。よそから貰った蛍を庭に放したが、そのひかりはひと晩ぎりで皆どこへか消え失せてしまった。さみだれの夜に、しずかに蛙を聴き、ほたるを眺めようとしていた私の期待は裏切られた。その代りに犬は多い。飼い犬と野良犬がしきりに吠えている。
幾月か住んでいるうちに、買物の不便にも馴れた。電車や鉄砲の音にも驚かなくなった。湯屋が遠いので、自宅で風呂を焚くことにした。風呂の話は別に書いたが、ゆうぐれの涼しい風にみだれる唐蜀黍の花や葉をながめながら、小さい風呂にゆっくりと浸っているのも、いわゆる郊外気分というのであろうと、暢気に悟るようにもなった。しかもそう暢気に構えてばかりもいられない時が来た。八月になると旱つづきで、さなきだに水に乏しいここら一帯の居住者は、水を憂いずにはいられなくなった。どこの家でも井戸の底を覗くようになって、わたしの家主の親類の家などでは、駅を越えた遠方から私の井戸の水を貰いに来た。この井戸は水の質も良く、水の量も比較的に多いので、覿面に苦しむほどのことはなかったが、一日のうちで二時間ないし三時間は汲めないような日もあった。庭の撒水を倹約する日もあった。折角の風呂も休まなければならないような日もあった。わたしも一日に一度ずつは井戸をのぞきに行った。夏ばかりでなく、冬でも少し照りつづくと、ここらは水切れに脅かされるのであると、土地の人は話した。
蛙や蛍とおなじように、ここでは虫の声もあまり多く聞かれなかった。全然鳴かないと云うのではないが、思ったほどには鳴かなかった。麹町にいた時には、秋の初めになると機織虫などが無暗に飛び込んで来たものであるが、ここではその鳴く声さえも聴いたことはなかった。庭も広く、草も深いのに、秋の虫が多く聴かれないのは、わたしの心を寂しくさせた。虫が少ないと共に、藪蚊も案外に少なかった。わたしの家で蚊やりを焚いたのは、前後ふた月に過ぎなかったように記憶している。
秋になっては、コスモスと紫苑がわたしの庭を賑わした。夏の日ざかりに向日葵が軒を越えるほど高く大きく咲いたのも愉快であったが、紫苑が枝や葉をひろげて高く咲き誇ったのも私をよろこばせた。紫苑といえば、いかにも秋らしい弱々しい姿をのみ描かれているが、それが十分に生長して、五株六株あるいは十株も叢をなしているときは、かの向日葵などと一様に、むしろ男性的の雄大な趣を示すものである。薄むらさきの小さい花が一つにかたまって、青い大きい葉の蔭から雲のようにたなびき出ているのを遠く眺めると、さながら松のあいだから桜を望むようにも感じられる。世間一般からは余りに高く評価されない花ではあるが、ここへ来てから私はこの紫苑がひどく好きになった。どこへ行っても、わたしは紫苑を栽えたいと思っている。
唐蜀黍もよく熟したが、その当時わたしは胃腸を害していたので、それを焼く煙りを唯ながめているばかりであった。糸瓜も大きいのが七、八本ぶらさがって、そのなかには二尺を越えたのもあった。
郊外の冬はあわれである。山里は冬ぞ寂しさまさりける――まさかにそれほどでもないが、庭の枯れ芒が木枯らしを恐れるようになると、再びかの荒涼索莫がくり返されて、宵々ごとに一種の霜気が圧して来る。朝々ごとに庭の霜柱が深くなる。晴れた日にも珍しい小鳥がさえずって来ない。戸山ヶ原は青い衣をはがれて、古木もその葉をふるい落すと、わずかに生き残った枯れ草が北風と砂煙りに悼ましくむせんで、かの科学研究所の煉瓦や製菓会社の煙突が再び眼立って来る。夜は火の廻りの柝の音が絶えずきこえて、霜に吠える家々の犬の声がけわしくなる。朝夕の寒気は市内よりも確かに強いので、感冒にかかり易いわたしは大いに用心しなければならなかった。
郊外に盗難の多いのはしばしば聞くことであるが、ここらも用心のよい方ではない。わたしの横町にも二、三回の被害があって、その賊は密行の刑事巡査に捕えられたが、それから間もなく、わたしの家でも窃盗に見舞われた。夜が明けてから発見したのであるが、賊はなぜか一物をも奪い取らないで、新しいメリンスの覆面頭巾を残して立ち去った。一応それを届けて置くと、警察からは幾人の刑事巡査が来て丁寧に現場を調べて行ったが、賊は不良青年の群れで、その後に中野の町で捕われたように聞いた。わたしの家の女中のひとりが午後十時ごろに外から帰って来る途中、横町の暗いところで例の痴漢に襲われかかったが、折りよく巡査が巡回して来たので救われた。とかくにこの種の痴漢が出没するから婦人の夜間外出は注意しろと、町内の組合からも謄写版の通知書をまわして来たことがある。わたしの住んでいる百人町には幸いに火災はないが、淀橋辺には頻繁の火事沙汰がある。こうした事件は冬の初めが最も多い。
「郊外と市内と、どちらが好うございます。」
私はたびたびこう訊かれることがある。それに対して、どちらも同じことですねと私は答えている。郊外生活と市内生活と、所詮は一長一短で、公平に云えば、どちらも住みにくいと云うのほかはない。その住みにくいのを忍ぶとすれば、郊外か市内か、おのおのその好むところに従えばよいのである。
(大正14・4「読売新聞」)
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薬前薬後
草花と果物
盂蘭盆の迎い火を焚くという七月十三日のゆう方に、わたしは突然に強い差込みに襲われて仆れた。急性の胃痙攣である。医師の応急手当てで痙攣の苦痛は比較的に早く救われたが、元来胃腸を害しているというので、それから引きつづいて薬を飲む、粥を啜る、おなじような養生法を半月以上も繰り返して、八月の一日からともかくも病床をぬけ出すことになった。病人によい時季と云うのもあるまいが、暑中の病人は一層難儀である。わたしはかなりに疲労してしまった。今でも机にむかって、まだ本当に物を書くほどの気力がない。
病臥中、はじめの一週間ほどは努めて安静を守っていたが、日がだんだんに経つにつれて、気分のよい日の朝晩には縁側へ出て小さい庭をながめることもある。わたしが現在住んでいるのは半蔵門に近いバラック建の二階家で、家も小さいが庭は更に小さく、わずかに八坪余りのところへ一面に草花を栽えている。
若い書生が勤勉に手入れをしてくれるので、わたしの病臥中にも花壇はちっとも狼藉たる姿をみせていない。夏の花、秋の草、みな恙なく生長している。これほどの狭い庭に幾種の草花類が栽えられてあるかと試みにかぞえてみると、ダリヤ、カンナ、コスモス、百合、撫子、石竹、桔梗、矢車草、風露草、金魚草、月見草、おいらん草、孔雀草、黄蜀葵、女郎花、男郎花、秋海棠、水引、鶏頭、葉鶏頭、白粉、鳳仙花、紫苑、萩、芒、日まわり、姫日まわり、夏菊と秋の菊数種、ほかに朝顔十四鉢――まずザッとこんなもので、一種が一株というわけではなく、一種で十余株の多きに上っているのもあるから、いかによく整理されていたところで、その枝や葉や花がそれからそれへと掩い重なって、歌によむ「八重葎しげれる宿」と云いそうな姿である。
そのほかにも桐や松や、柿や、椿、木犀、山茶花、八つ手、躑躅、山吹のたぐいも雑然と栽えてあるので草木繁茂、枝や葉をかき分けなければ歩くことは出来ない。
「狭いところへよくも栽え込んだものだな。」と、わたしは自分ながら感心した。
狭い庭を藪にして、好んで藪蚊の棲み家を作っている自分の物好きを笑うよりも、こうして僅かに無趣味と殺風景から救われようと努めているバラック生活の寂しさを、今更のように考えさせられた。
わたしの家ばかりでなく、近所の住居といわず、商店といわず、バラックの家々ではみな草花を栽えている。二尺か三尺の空地にもダリヤ、コスモス、白まわり、白粉のたぐいが必ず栽えてあるのは、震災以前にかつて見なかったことである。われわれは斯うして救われるのほかはないのであろうか。
わたしの現在の住宅は、麹町通りの電車道に平行した北側の裏通りに面しているので、朝は五時頃から割引きの電車がひびく。夜は十二時半頃まで各方面からのぼって来る終電車の音がきこえる。それも勿論そうぞうしいには相違ないが、私の枕を最も強くゆすぶるものは貨物自動車と馬力である。これらの車は電車通りの比較的に狭いのを避けて、いずれもわたしの家の前の裏通りを通り抜けることにしているので、昼間はともあれ、夜はその車輪の音が枕の上にいっそう強く響いて来るのである。
病中不眠勝ちのわたしは此の頃その響きをいよいよ強く感じるようになった。夜も宵のあいだはまだよい。終電車もみな通り過ぎてしまって、世間が初めてひっそりと鎮まって、いわゆる草木も眠るという午前二時三時の頃に、ガタガタといい、ガラガラという響きを立てて、ほとんど絶え間も無しに通り過ぎるトラックと馬力の音、殊に馬力は速力が遅く、且は幾台もつながって通るので、枕にひびいている時間が長い。
病中わたしに取って更に不幸というべきは、この夜半の馬力が暑いあいだ最も多く通行することである。なんでも多摩川のあたりから水蜜桃や梨などの果物の籠を満載して、神田の青物市場へ送って行くので、この時刻に積荷を運び込むと、あたかも朝市に間に合うのだそうである。その馬力が五台、七台、ないし十余台もつながって行くのは、途中で奪われない用心であると云う。いずれにしても、それが此の頃のわたしを悩ますことはひと通りでない。
「これほどに私を苦しめて行くあの果物が、どこの食卓を賑わして、誰の口にはいるか。」
私は寝ながらそんなことを考えた。それに付けて思い出されるのは、わたしが巴里に滞在していた頃、夏のあかつきの深い靄が一面にとざしている大きい並木の街に、馬の鈴の音がシャンシャン聞える。靄に隠されて、馬も人も車もみえない。ただ鈴の音が遠く近くきこえるばかりである。それは近在から野菜や果物を送って来る車で、このごろは桜ん坊が最も多いということであった。その以来わたしは桜ん坊を食うたびに、並木の靄のうちに聞える鈴の音を思い出して、一種の詩情の湧いて来るのを禁じることが出来ない。
おなじ果物を運びながらも、東京の馬力では詩趣も無い、詩情も起らない。いたずらに人の神経を苛立たせるばかりである。
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