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綺堂むかし語り(きどうむかしがたり)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-8-27 9:05:51  点击:  切换到繁體中文



震災の記


 なんだか頭がまだほんとうに落着かないので、まとまったことは書けそうもない。
 去年七十七歳で死んだわたしの母は、十歳とおの年に日本橋で安政あんせいおお地震に出逢ったそうで、子供の時からたびたびそのおそろしい昔話を聴かされた。それが幼い頭にしみ込んだせいか、わたしは今でも人一倍の地震ぎらいで、地震と風、この二つを最も恐れている。風の強く吹く日には仕事が出来ない。少し強い地震があると、又そのあとにゆり返しが来はしないかという予覚におびやかされて、やはりどうも落着いていられない。
 わたしが今まで経験したなかで、最も強い地震としていつまでも記憶に残っているのは、明治二十七年六月二十日の強震である。晴れた日の午後一時頃と記憶しているが、これも随分ずいぶんひどい揺れ方で、市内につぶれ家もたくさんあった。百六、七十人の死傷者もあった。それに伴って二、三ヵ所にボヤも起ったが、一軒焼けか二軒焼けぐらいで皆消し止めて、ほとんど火事らしい火事はなかった。多少の軽いゆり返しもあったが、それも二、三日の後には鎮まった。三年まえの尾濃びのう震災におびやかされている東京市内の人々は、一時ぎょうさんにおどろき騒いだが、一日二日と過ぎるうちにそれもおのずと鎮まった。勿論、安政度の大震とはまるで比較にならないくらいの小さいものであったが、ともかくも東京としては安政以来の強震として伝えられた。わたしも生まれてから初めてこれほどの強震に出逢ったので、その災禍のあとをたずねるために、当時すぐに銀座の大通りから、上野へ出て、さらに浅草へまわって、汗をふきながら夕方に帰って来た。そうして、しきりに地震の惨害を吹聴ふいちょうしたのであった。その以来、わたしに取って地震というものが、一層おそろしくなった。わたしはいよいよ地震ぎらいになった。したがって、去年四月の強震のときにも、わたしは書きかけていたペンを捨てて庭先へ逃げ出した。
 こういう私がなんの予覚もなしに大正十二年九月一日を迎えたのであった。この朝は誰も知っている通り、二百十日前後にありがちの何となく穏かならない空模様で、驟雨しゅううが折りおりに見舞って来た。広くもない家のなかはいやに蒸し暑かった。二階の書斎には雨まじりの風が吹き込んで、硝子戸をゆする音がさわがしいので、わたしは雨戸を閉め切って下座敷の八畳に降りて、二、三日まえから取りかかっている週刊朝日の原稿を書きつづけていた。庭の垣根から棚のうえに這いあがった朝顔と糸瓜へちまの長いつるや大きい葉がもつれ合って、雨風にざわざわと乱れてそよいでいるのも、やがて襲ってくる暴風雨あらしを予報するように見えて、わたしの心はなんだか落ちつかなかった。
 勉強して書きつづけて、もう三、四枚で完結するかと思うところへ、国民図書刊行会の広谷君が雨を冒して来て、一時間ほど話して帰った。広谷君は私の家から遠くもない麹町山元町やまもとちょうに住んでいるのである。広谷君の帰る頃には雨もやんで、うす暗い雲の影は溶けるように消えて行った。茶の間で早い午飯ひるめしを食っているうちに、空は青々と高く晴れて、初秋の強い日のひかりが庭一面にさし込んで来た。どこかでせみも鳴き出した。
 わたしははしいてった。天気が直ったらば、仕事場をいつもの書斎に変えようと思って、縁先へ出てまぶしい日を仰いだ。それから書きかけの原稿紙をつかんで、玄関の二畳から二階へ通っている階子段はしごだんを半分以上も昇りかけると、突然に大きい鳥が羽搏はばたきをするような音がきこえた。わたしは大風が吹き出したのかと思った。その途端にわたしの踏んでいる階子がみりみりと鳴って動き出した。壁もふすまも硝子窓も皆それぞれの音を立てて揺れはじめた。
 勿論、わたしはすぐに引っ返して階子をかけ降りた。玄関の電燈は今にも振り落されそうに揺れている。天井から降ってくるらしい一種のほこりが私の眼鼻にしみた。
「地震だ。ひどい地震だ。早く逃げろ。」
 妻や女中に注意をあたえながら、ありあわせた下駄を突っかけて、沓脱くつぬぎから硝子戸の外へ飛び出すと、碧桐あおぎりの枯葉がばさばさと落ちて来た。門の外へ出ると、妻もつづいて出て来た。女中も裏口から出て来た。震動はまだやまない。私たちはまっすぐに立っているに堪えられないで、門柱に身を寄せて取りすがっていると、向うのA氏の家からも細君や娘さんや女中たちが逃げ出して来た。わたしの家の門構えは比較的堅固に出来ている上に、門の家根が大きくて瓦の墜落を避ける便宜があるので、A氏の家族は皆わたしの門前に集まって来た。となりのM氏の家族も来た。大勢おおぜいが門柱にすがって揺られているうちに、第一回の震動がようやくに鎮まった。ほっと一息ついて、わたしはともかくも内へ引っ返してみると、家内には何の被害もないらしかった。掛時計の針も止まらないで、十二時五分を指していた。二度のゆり返しを恐れながら、急いで二階へあがって窺うと、棚いっぱいに飾ってある人形はみな無難であるらしかったが、ただ一つ博多人形の夜叉王やしゃおうがうつ向きに倒れて、その首がいたましく砕けて落ちているのがわたしの心を寂しくさせた。
 と思う間もなしに、第二回の烈震がまた起ったので、わたしは転げるように階子をかけ降りて再び門柱に取りすがった。それがやむと、少しの間を置いて更に第三第四の震動がくり返された。A氏の家根瓦がばらばらと揺れ落された。横町の角にある玉突場の高い家根からつづいて震い落される瓦の黒い影がからすの飛ぶようにみだれて見えた。
 こうして震動をくり返すからは、おそらく第一回以上の烈震はあるまいという安心と、我れも人も幾らか震動に馴れて来たのと、震動がだんだんに長い間隔を置いて来たのとで、近所の人たちも少しく落着いたらしく、思い思いに椅子いす床几しょうぎ花筵はなむしろなどを持ち出して来て、門のまえに一時の避難所を作った。わたしの家でも床几を持ち出した。その時には、赤坂の方面に黒い煙りがむくむくとうずまき※(「風+昜」、第3水準1-94-7)あがっていた。三番町の方角にも煙りがみえた。取分けて下町したまち方面の青空に大きい入道雲のようなものが真っ白にあがっているのが私の注意をひいた。雲か煙りか、晴天にこの一種の怪物の出現を仰ぎみた時に、わたしは云い知れない恐怖を感じた。
 そのうちに見舞の人たちがだんだんに駈けつけて来てくれた。その人たちの口から神田方面の焼けていることも聞いた。銀座通りの焼けていることも聞いた。警視庁が燃えあがって、その火先が今や帝劇を襲おうとしていることも聞いた。
「しかしここらは無難で仕合せでした。ほとんど被害がないと云ってもいいくらいです。」と、どの人も云った。まったくわたしの附近では、家根瓦をふるい落された家があるくらいのことで、いちじるしい損害はないらしかった。わたしの家でも眼に立つほどの被害は見いだされなかった。番町方面の煙りはまだ消えなかったが、そのあいだに相当の距離があるのと、こっちが風上かざかみに位しているのとで、誰もさほどの危険を感じていなかった。それでもこの場合、個々に分かれているのは心さびしいので、近所の人たちは私の門前を中心として、椅子や床几や花むしろを一つところに寄せあつめた。ある家からは茶やビスケットを持ち出して来た。ビールやサイダーのびんを運び出すのもあった。わたしの家からもなしを持ち出した。一種の路上茶話会がここに開かれて、諸家の見舞人が続々もたらしてくる各種の報告に耳をかたむけていた。そのあいだにも大地の震動は幾たびか繰り返された。わたしば花むしろのうえに坐って、「地震加藤かとう」の舞台を考えたりしていた。
 こうしているうちに、日はまったく暮れ切って、電燈のつかない町は暗くなった。あたりがだんだんに暗くなるに連れて、一種の不安と恐怖とがめいめいの胸を強く圧して来た。各方面の夜の空が真紅まっかにあぶられているのが鮮やかにみえて、時どきにすさまじい爆音もきこえた。南は赤坂から芝の方面、東は下町方面、北は番町方面、それからそれへと続いて、ただ一面にあかく焼けていた。震動がようやく衰えてくると反対に、火の手はだんだんに燃えひろがってゆくらしく、わずかにあますところは西口の四谷方面だけで、私たちの三方は猛火に囲まれているのである。茶話会の群れのうちから若い人はひとりち、ふたり起って、番町方面の状況を偵察に出かけた。しかしどの人の報告も火先が東にむかっているから、南の方の元園町方面はおそらく安全であろうということに一致していたので、どこの家でも避難の準備に取りかかろうとはしなかった。
 最後の見舞に来てくれたのは演芸画報社の市村いちむら君で、その住居は土手どて三番町であるが、火先がほかへそれたので幸いに難をまぬかれた。京橋の本社は焼けたろうと思うが、とても近寄ることが出来ないとのことであった。市村君は一時間ほども話して帰った。番町方面の火勢はすこし弱ったと伝えられた。
 十二時半頃になると、近所が又さわがしくなって来て、火の手が再びさかんになったという。それでも、まだまだと油断して、わたしの横町ではどこでも荷ごしらえをするらしい様子もみえなかった。午前一時頃、わたしは麹町の大通りに出てみると、電車みちは押し返されないような混雑で、自動車が走る、自転車が走る。荷車を押してくる。荷物をかついでくる。馬が駆ける。提灯が飛ぶ。いろいろのいでたちをした男や女が気ちがいまなこでかけあるく。英国大使館まえの千鳥ヶ淵ちどりがふち公園附近に逃げあつまっていた番町方面の避難者は、そこも火の粉がふりかかって来るのにうろたえて、さらに一方口の四谷方面にその逃げ路を求めようとするらしく、人なだれを打って押し寄せてくる。
 うっかりしていると、突き倒され、踏みにじられるのは知れているので、わたしは早々に引っ返して、さらに町内の酒屋の角に立って見わたすと、番町の火は今や五味坂ごみざか上の三井みつい邸のうしろに迫って、怒涛どとうのように暴れ狂うほのおのなかに西洋館の高い建物がはっきりと浮き出して白くみえた。
 迂回うかいしてゆけば格別、さし渡しにすれば私の家から一町あまりに過ぎない。風上であるの、風向きが違うのと、今まで多寡たかをくくっていたのは油断であった。――こう思いながら私は無意識にそこにある長床几に腰をかけた。床几のまわりには酒屋の店の者や近所の人たちが大勢寄りあつまって、いずれも一心に火をながめていた。
「三井さんが焼け落ちれば、もういけない。」
 あの高い建物が焼け落ちれば、火の粉はここまでかぶってくるに相違ない。わたしは床几をたちあがると、その眼のまえには広い青い草原が横たわっているのを見た。それは明治十年前後の元園町の姿であった。そこにはまばらに人家が立っていた。わたしが今立っている酒屋のところには、おてつ牡丹餅の店があった。そこらには茶畑もあった。草原にはところどころに小さい水が流れていた。五つ六つの男の児が肩もかくれるような夏草をかき分けて、しきりにばったを探していた。そういう少年時代の思い出がそれからそれへと活動写真のようにわたしの眼の前にあらわれた。
「旦那。もうあぶのうございますぜ。」
 誰が云ったのか知らないが、その声に気がついて、わたしはすぐに自分の家へ駈けて帰ると、横町の人たちももう危険の迫って来たのを覚ったらしく、路上の茶話会はいつか解散して、どこの家でもにわかに荷ごしらえを始め出した。わたしの家の暗いなかにも一本の蝋燭ろうそくの火がかすかにゆれて、妻と女中と手伝いの人があわただしく荷作りをしていた。どの人も黙っていた。
 万一の場合には紀尾井町きおいちょう小林蹴月こばやししゅうげつ君のところへ立ち退くことに決めてあるので、私たちは差しあたりゆく先に迷うようなことはなかったが、そこへも火の手が追って来たらば、更にどこへ逃げてゆくか、そこまで考えている余裕はなかった。この際、いくら欲張ったところでどうにも仕様はないので、私たちはめいめいの両手に持ち得るだけの荷物を持ち出すことにした。わたしは週刊朝日の原稿をふところにじ込んで、バスケットと旅行用の鞄とを引っさげて出ると、地面がまた大きく揺らいだ。
「火の粉が来るよう。」
 どこかの暗い家根のうえで呼ぶ声が遠くきこえた。庭の隅にはこおろぎの声がさびしく聞えた。蝋燭をふき消した私の家のなかは闇になった。
 わたしの横町一円が火に焼かれたのは、それから一時間の後であった。小林君の家へゆき着いてから、わたしは宇治拾遺うじしゅうい物語にあった絵仏師の話を思い出した。彼は芸術的満足を以って、わが家の焼けるのを笑いながちながめていたと云うことである。わたしはその烟りさえも見ようとはしなかった。

(大正1210「婦人公論」)

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十番雑記


 昭和十二年八月三十一日、火曜日。午前は陰、午後は晴れて暑い。
 虫干しながらの書庫の整理も、連日の秋暑に疲れ勝ちでとかくに捗取はかどらない。いよいよ晦日みそかであるから、思い切って今日じゅうに片付けてしまおうと、汗をふきながら整理をつづけていると、手文庫の中から書きさしの原稿類を相当に見いだした。いずれも書き捨ての反古ほご同様のものであったが、その中に「十番雑記」というのがある。私は大正十二年の震災に麹町の家を焼かれて、その十月から翌年の三月まで麻布の十番に仮寓かぐうしていた。唯今見いだしたのは、その当時の雑記である。
 わたしは麻布にある間に『十番随筆』という随筆集を発表している。その後にも『猫柳ねこやなぎ』という随筆集を出した。しかも「十番雑記」の一文はどれにも編入されていない。傾きかかった古家の薄暗い窓のもとで、師走の夜の寒さにすくみながら、当時の所懐と所見とを書き捨てたままで別にそれを発表しようとも思わず、文庫の底に押込んでしまったのであろう。自分も今まで全く忘れていたのを、十四年後のきょう偶然発見して、いわゆる懐旧の情に堪えなかった。それと同時に、今更のように思い浮かんだのは震災十四周年の当日である。
「あしたは九月一日だ。」
 その前日に、その当時の形見ともいうべき「十番雑記」を発見したのは、偶然とはいいながら一種の因縁がないでも無いように思われて、なんだか捨て難い気にもなったので、その夜の灯のもとで再読、この随筆集に挿入することにした。

     仮住居

 十月十二日の時雨しぐれふる朝に、私たちは目白めじろ額田六福ぬかだろっぷく方を立ち退いて、麻布宮村町みやむらちょうへ引き移ることになった。日蓮宗の寺の門前で、玄関が三畳、茶の間が六畳、座敷六畳、書斎が四畳半、女中部屋が二畳で、家賃四十五円の貸家である。裏は高いがけになっていて、南向きの庭には崖の裾の草堤が斜めに押し寄せていた。
 崖下の家はあまり嬉しくないなどと贅沢を云っている場合でない。なにしろ大震災の後、どこにも滅多めったに空家のあろう筈はなく、さんざんに探し抜いた揚句の果てに、河野義博こうのよしひろ君の紹介でようよう此処ここに落着くことになったのは、まだしもの幸いであると云わなければなるまい。これでともかくも一時の居どころは定まったが、心はまだ本当に定まらない。文字通りに、箸一つ持たない丸焼けの一家族であるから、たとい仮住居にしても一戸を持つとなれば、何かと面倒なことが多い。ふだんでも冬の設けに忙がしい時節であるのに、新世帯もちの我々はいよいよ心ぜわしい日を送らねばならなかった。
 今度の家は元来が新しい建物でない上に、震災以来ほとんどそのままになっていたので、壁はところどころ崩れ落ちていた。障子も破れていた。ふすまいたんでいた。庭には秋草が一面に生いしげっていた。移転の日に若い人たちがあつまって、庭の草はどうにか綺麗に刈り取ってくれた。壁の崩れたところも一部分は貼ってくれた。襖だけは家主から経師屋きょうじやの職人をよこして応急の修繕をしてくれたが、それも一度ぎりで姿をみせないので、家内総がかりで貼り残しの壁を貼ることにした。幸いに女中が器用なので、まず日本紙で下貼りをして、その上を新聞紙で貼りつめて、さらに壁紙で上貼りをして、これもどうにかうにか見苦しくないようになった。そのあくる日には障子も貼りかえた。
 その傍らに、わたしは自分の机や書棚やインクスタンドや原稿紙のたぐいを買いあるいた。妻や女中は火鉢やたらいやバケツや七輪しちりんのたぐいを毎日買いあるいた。これで先ず不完全ながらも文房具や世帯道具がひと通り整うと、今度は冬の近いのにおびやかされなければならなかった。一枚の冬着さえ持たない我々は、どんな粗末なものでもいから寒さを防ぐ準備をしなければならない。夜具の類は出来合いを買って間にあわせることにしたが、一家内の者の羽織や綿入れや襦袢じゅばんや、その針仕事に女たちはまた忙がしく追い使われた。
 目白に避難の当時、それぞれに見舞いの品を贈ってくれた人もあった。ここに移転してからも、わざわざ祝いに来てくれた人もあった。それらの人々に対して、妻とわたしとが代るがわるに答礼に行かなければならなかった。市内の電車は車台の多数を焼失したので、運転系統がいろいろに変更して、以前ならば一直線にゆかれたところも、今では飛んでもない方角を迂回して行かなければならない。十分か二十分でゆかれたところも、三十分五十分を要することになる。勿論どの電車も満員で容易に乗ることは出来ない。市内の電車がこのありさまであるから、それに連れて省線の電車がまた未曾有みぞうの混雑を来たしている。それらの不便のために、一日いらいらながら駈けあるいても、わずかに二軒か三軒しか廻り切れないような時もある。又そのあいだには旧宅の焼け跡の整理もしなければならない。震災に因って生じたもろもろの事件の始末も付けなければならない。こうして私も妻も女中らも無暗むやみにあわただしい日を送っているうちに、大正十二年も暮れて行くのである。
「こんな年は早く過ぎてしまう方がいい。」
 まあ、こんなことでも云うよりほかはない。なにしろ余ほどの老人でない限りは、生まれて初めてこんな目に出逢ったのであるから、狼狽混乱、どうにも仕様のないのが当りまえであるかも知れないが、罹災りさい以来そのあと始末に四ヵ月を費して、まだほんとうに落着かないのは、まったく困ったことである。年があらたまったと云って、すぐに世のなかが改まるわけでないのは判り切っているが、それでも年があらたまったらば、心持だけでも何とか新しくなり得るかと思うが故に、こんな不祥ふしょうな年は早く送ってしまいたいと云うのも普通の人情かも知れない。
 今はまだ十二年の末であるから、新しい十三年がどんな年で現われてくるか判らない。元旦も晴か雨か、風か雪か、それすらもまだ判らない位であるから、今から何も云うことは出来ないが、いずれにしても私はこの仮住居で新しい年を迎えなければならない。それでもバラックに住む人たちのことを思えば何でもない。たとい家を焼かれても、家財と蔵書いっさいをうしなっても、わたしの一家は他に比較してまだまだ幸福であると云わなければならない。わたしは今までにも奢侈おごりの生活を送っていなかったのであるから、今後も特に節約をしようとも思わない。しかし今度の震災のために直接間接に多大の損害をうけているから、その幾分を回復するべく大いに働かなければならない。まず第一に書庫の復興を計らなければならない。
 父祖の代から伝わっている刊本写本五十余種、その大部分は回収の見込みはない。父が晩年の日記十二冊、わたし自身が十七歳の春から書きはじめた日記三十五冊、これらは勿論あきらめるよりほかはない。そのほかにも私が随時に記入していた雑記帳、随筆、書抜き帳、おぼえ帳のたぐい三十余冊、これも自分としてはすこぶる大切なものであるが、今さら悔むのは愚痴である。せめてはその他の刊本写本だけでもだんだんに買い戻したいと念じているが、その三分の一も容易に回収は覚束なそうである。この頃になって書棚の寂しいのがひどく眼についてならない。諸君が汲々きゅうきゅうとして帝都復興の策を講じているあいだに、わたしも勉強して書庫の復興を計らなければならない。それがやはりなんらかの意義、なんらかの形式に於いて、帝都復興の上にも貢献するところがあろうと信じている。
 わたしの家では、これまでも余り正月らしい設備をしたこともないのであるから、この際とても特に例年と変ったことはない。年賀状は廃するつもりであったが、さりとて平生懇親にしている人々に対して全然無沙汰で打ち過ぎるのも何だか心苦しいので、震災後まだほんとうに一身一家の安定を得ないので歳末年始の礼を欠くことを葉書にしたためて、年内に発送することにした。そのほかには、春に対する準備もない。
 わたしの庭には大きい紅梅がある。家主の話によると、非常に美事な花をつけると云うことであるが、元日までには恐らく咲くまい。

(大正十二年十二月二十日)


     えびらの梅

狸坂くらやみ坂や秋の暮


 これは私がここへ移転当時の句である。わたしの門前は東西に通ずる横町の細路で、その両端には南へ登る長い坂がある。東の坂はくらやみ坂、西の坂は狸坂と呼ばれている。今でもかなりに高い、薄暗いような坂路であるから、昔はさこそと推し量られて、狸坂くらやみ坂の名も偶然でないことを思わせた。時は晩秋、今のわたしの身に取っては、この二つの坂の名がいっそう幽暗の感を深うしたのであった。
 坂の名ばかりでなく、土地の売り物にも狸羊羹、狸せんべいなどがある。カフェー・たぬきと云うのも出来た。子供たちも「麻布十番狸が通る」などと歌っている。狸はここらの名物であるらしい。地形から考えても、今は格別、むかし狐や狸の巣窟そうくつであったらしく思われる。私もここに長く住むようならば、綺堂をあらためて狸堂とか狐堂とか云わなければなるまいかなどとも考える。それと同時に、「狐に穴あり、人の子は枕する所無し」が、今の場合まったく痛切に感じられた。
 しかし私の横町にも人家が軒なみに建ち続いているばかりか、横町から一歩ふみ出せば、麻布第一の繁華の地と称せらるる十番の大通りが眼の前に拡がっている。ここらは震災の被害も少なく、もちろん火災にも逢わなかったのであるから、この頃は私たちのような避難者がおびただしく流れ込んで来て、平常よりも更に幾層の繁昌をましている。殊に歳の暮れに押し詰まって、ここらの繁昌と混雑はひと通りでない。余り広くもない往来の両側に、居付きの商店と大道の露店とが二重に隙間もなくならんでいるあいだを、大勢の人が押し合って通る。又そのなかを自動車、自転車、人力車、荷車が絶えず往来するのであるから、油断をすれば車輪にかれるか、路ばたの大溝おおどぶへでも転げ落ちないとも限らない。実に物凄いほどの混雑で、麻布十番狸が通るなどは、まさに数百年のむかしの夢である。
「震災を無事にのがれた者が、ここへ来て怪我をしては詰まらないから、気をつけろ。」と、わたしは家内の者にむかって注意している。
 そうは云っても、買物が種々あるというので、家内の者はたびたび出てゆく。わたしもやはり出て行く。そうして、何かしら買って帰るのである。震災に懲りたのと、経済上の都合とで、無用の品物はいっさい買い込まないことに決めているのであるが、それでも当然買わなければ済まないような必要品が次から次へと現われて来て、いつまで経っても果てしが無いように思われる。ひと口に瓦楽多がらくたというが、その瓦楽多道具をよほどたくさんに貯えなければ、人間の家一戸を支えて行かれないものであると云うことを、この頃になってつくづくさとった。私たちばかりでなく、すべての罹災者は皆どこかで此の失費と面倒とを繰り返しているのであろう。どう考えても、怖るべき禍いであった。
 その鬱憤うっぷんをここに洩らすわけではないが、十番の大通りはひどく路の悪い所である。震災以後、路普請なども何分手廻り兼ねるのであろうが、雨が降ったが最後、そこらは見渡す限り一面の泥濘ぬかるみで、ほとんど足の踏みどころもないと云ってよい。その泥濘のなかにも露店が出る、買物の人も出る。売る人も、買う人も、足もとの悪いなどには頓着していられないのであろうが、私のような気の弱い者はその泥濘におびやかされて、途中からむなしく引っ返して来ることがしばしばある。
 しかも今夜は勇気をふるい起して、そのぬかるみを踏み、その混雑を冒して、やや無用に類するものを買って来た。わたしの外套の袖の下に忍ばせている梅の枝と寒菊の花がそれである。移転以来、花を生けて眺めるという気分にもなれず、花を生けるような物も具えていないので、さきごろの天長てんちょう祝日に町内の青年団から避難者に対して戸毎に菊の花を分配してくれた時にも、その厚意を感謝しながらも、花束のままで庭の土に挿し込んで置くに過ぎなかった。それがどういう気まぐれか、二、三日前に古道具屋の店先で徳利のような花瓶を見つけて、ふとそれを買い込んで来たのが始まりで、急に花を生けて見たくなったのである。
 庭の紅梅はまだなかなか咲きそうもないので、灯ともし頃にようやく書き終った原稿をポストに入れながら、夜の七時半頃に十番の通りへ出てゆくと、きのう一日降り暮らした後であるから、予想以上に路が悪い。師走しわすもだんだんにかぞに迫ったので、混雑もまた予想以上である。そのあいだをどうにかうにか潜りぬけて、夜店の切花屋で梅と寒菊とを買うには買ったが、それを無事に保護して帰るのがすこぶる困難であった。甲の男のかかえて来るチャブ台に突き当るやら、乙の女の提げてくる風呂敷づつみに擦れ合うやら、ようようのことで安田銀行支店の角まで帰り着いて、人通りのやや少ないところで袖の下からかの花をり出して、電燈のひかりに照らしてみると、寒菊はまず無難であったが、梅は小枝の折れたのもあるばかりか、花もつぼみもかなりに傷められて、梶原源太かじわらげんたが「えびらの梅」という形になっていた。
「こんなことなら、あしたの朝にすればよかった。」
 この源太は二度の駆けをする勇気もないので、寒菊の無難をせめてもの幸いに、箙の梅をたずさえて今夜はそのまま帰ってくると、家には中嶋俊雄なかじまとしおが来て待っていた。
渋谷しぶや道玄坂どうげんざか辺は大変な繁昌で、どうして、どうして、この辺どころじゃありませんよ。」と、彼は云った。
「なんと云っても、焼けない土地は仕合せだな。」
 こう云いながら、わたしは梅と寒菊とを書斎の花瓶にさした。底冷えのする宵である。

(十二月二十三日)

 

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