四
万事の設備不完全なるは、一々数え立てるまでもないが、肝腎の風呂場とても今日のようなタイル張りや人造石の建築は見られない。どこの風呂場も板張りである。普通の銭湯とちがって温泉であるから、板の間がとかくにぬらぬらする。近来は千人風呂とかプールとか唱えて、競って浴槽を大きく作る傾きがあるが、むかしの浴槽はみな狭い。畢竟、浴客の少なかった為でもあろうが、どこの浴槽も比較的に狭いので、多人数がこみ合った場合には頗る窮屈であった。
電燈のない時代は勿論、その設備が出来てからでも、地方の電燈は電力が十分でないと見えて、夜の風呂場などは濛々たる湯烟にとざされて、人の顔さえもよく見えないくらいである。まして電燈のない温泉場で、うす暗いランプのひかりをたよりに、夜ふけの風呂などに入っていると、山風の声、谷川の音、なんだか薄気味の悪いように感じられることもあった。今日でも地方の山奥の温泉場などへ行けば、こんなところが無いでもないが、以前は東京近傍の温泉場も皆こんな有様であったのであるから、現在の繁華に比較して実に隔世の感に堪えない。したがって、昔から温泉場には怪談が多い。そのなかでやや異色のものを左に一つ紹介する。
柳里恭の「雲萍雑志」のうちに、こんな話がある。
「有馬に湯あみせし時、日くれて湯桁のうちに、耳目鼻のなき痩法師の、ひとりほと/\と入りたるを見て、余は大いに驚き、物かげよりうかゞふうち、早々湯あみして出でゆく姿、骸骨の絵にたがふところなし。狐狸どもの我をたぶらかすにやと、その夜は湯にもいらで臥しぬ。夜あけて、この事を家あるじに語りければ、それこそ折ふしは来り給ふ人なり。かの女尼は大坂の唐物商人伏見屋てふ家のむすめにて、しかも美人の聞えありけれども、姑の病みておはせし時、隣より失火ありて、火の早く病床にせまりしかど、助け出さん人もなければ、かの尼とびいりて抱へ出しまゐらせしなり。そのとき焼けたゞれたる傷にて、目は豆粒ばかりに明きて物見え、口は五分ほどあれど食ふに事足り、今年はや七十歳ばかりと聞けりといへるに、いと有難き人とおもひて、後も折ふしは人に語りいでぬ。」
これは怪談どころか、一種の美談であるが、その事情をなんにも知らないで、暗い風呂場で突然こんな人物に出逢っては、さすがの柳沢権太夫もぎょっとしたに相違ない。元来、温泉は病人の入浴するところで、そのなかには右のごとき畸形や異形の人もまじっていたであろうから、それを誤り伝えて種々の怪談を生み出した例も少なくないであろう。
五
次に記すのは、ほんとうの怪談らしい話である。
安政三年の初夏である。江戸番町の御厩谷に屋敷を持っている二百石の旗本根津民次郎は箱根へ湯治に行った。根津はその前年十月二日の夜、本所の知人の屋敷を訪問している際に、かのおそろしい大地震に出逢って、幸いに一命に別条はなかったが、左の背から右の腰へかけて打撲傷を負った。
その当時はさしたることでも無いように思っていたが、翌年の春になっても痛みが本当に去らない。それが打ち身のようになって、暑さ寒さに祟られては困るというので、支配頭の許可を得て、箱根の温泉で一ヵ月ばかり療養することになったのである。旗本と云っても小身であるから、伊助という中間ひとりを連れて出た。
道中は別に変ったこともなく、根津の主従は箱根の湯本、塔の沢を通り過ぎて、山の中のある温泉宿に草鞋をぬいだ。その宿の名はわかっているが、今も引きつづいて立派に営業を継続しているから、ここには秘して置く。
宿は大きい家で、ほかにも五、六組の逗留客があった。根津は身体に痛み所があるので下座敷のひと間を借りていた。着いて四日目の晩である。入梅に近いこの頃の空は曇り勝ちで、きょうも宵から細雨が降っていた。夜も四つ(午後十時)に近くなって、根津もそろそろ寝床にはいろうかと思っていると、何か奥の方がさわがしいので、伊助に様子を見せにやると、やがて彼は帰って来て、こんなことを報告した。
「便所に化け物が出たそうです。」
「化け物が出た……。」と、根津は笑った。「どんな物が出た。」
「その姿は見えないのですが……。」
「一体どうしたというのだ。」
その頃の宿屋には二階の便所はないので、逗留客はみな下の奥の便所へ行くことになっている。今夜も二階の女の客がその便所へかよって、そとから第一の便所の戸を開けようとしたが、開かない。さらに第二の便所の戸を開けようとしたが、これも開かない。そればかりでなく、うちからは戸をコツコツと軽く叩いて、うちには人がいると知らせるのである。そこで、しばらく待っているうちに、ほかの客も二、三人来あわせた。いつまで待っても出て来ないので、その一人が待ちかねて戸を開けようとすると、やはり開かない。前とおなじように、うちからは戸を軽く叩くのである。しかも二つの便所とも同様であるので、人々はすこしく不思議を感じて来た。
かまわないから開けてみろと云うので、男二、三人が協力して無理に第一の戸をこじ開けると、内には誰もいなかった。第二の戸をあけた結果も同様であった。その騒ぎを聞きつけて、ほかの客もあつまって来た。宿の者も出て来た。
「なにぶん山の中でございますから、折りおりにこんなことがございます。」
宿の者はこう云っただけで、その以上の説明を加えなかった。伊助の報告もそれで終った。
その以来、逗留客は奥の客便所へゆくことを嫌って、宿の者の便所へかようことにしたが、根津は血気盛りといい、且は武士という身分の手前、自分だけは相変らず奥の便所へ通っていると、それから二日目の晩にまたもやその戸が開かなくなった。
「畜生、おぼえていろ。」
根津は自分の座敷から脇差を持ち出して再び便所へ行った。戸の板越しに突き透してやろうと思ったのである。彼は片手に脇差をぬき持って、片手で戸を引きあけると、第一の戸も第二の戸も仔細なしにするりと開いた。
「畜生、弱い奴だ。」と根津は笑った。
根津が箱根における化け物話は、それからそれへと伝わった。本人も自慢らしく吹聴していたので、友達らは皆その話を知っていた。
それから十二年の後である。明治元年の七月、越後の長岡城が西軍のために落された時、根津も江戸を脱走して城方に加わっていた。落城の前日、彼は一緒に脱走して来た友達に語った。
「ゆうべは不思議な夢をみたよ。君たちも知っている通り、大地震の翌年に僕は箱根へ湯治に行って宿屋で怪しいことに出逢ったが、ゆうべはそれと同じ夢をみた。場所も同じく、すべてがその通りであったが、ただ変っているのは……僕が思い切ってその便所の戸をあけると、中には人間の首が転がっていた。首は一つで、男の首であった。」
「その首はどんな顔をしていた。」と、友達のひとりが訊いた。
根津はだまって答えなかった。その翌日、彼は城外で戦死した。
六
昔はめったに無かったように聞いているが、温泉場に近年流行するのは心中沙汰である。とりわけて、東京近傍の温泉場は交通便利の関係から、ここに二人の死に場所を選ぶのが多くなった。旅館の迷惑はいうに及ばず、警察もその取締りに苦心しているようであるが、容易にそれを予防し得ない。
心中もその宿を出て、近所の海岸から入水するか、山や森へ入り込んで劇薬自殺を企てるたぐいは、旅館に迷惑をあたえる程度も比較的に軽いが、自分たちの座敷を舞台に使用されると、旅館は少なからぬ迷惑を蒙ることになる。
地名も旅館の名もしばらく秘して置くが、わたしが曾てある温泉旅館に投宿した時、すこし書き物をするのであるから、なるべく静かな座敷を貸してくれというと、二階の奥まった座敷へ案内され、となりへは当分お客を入れない筈であるから、ここは確かに閑静であるという。成程それは好都合であると喜んでいると、三、四日の後、町の挽地物屋へ買物に立ち寄った時、偶然にあることを聞き出した。ひと月ほど以前、わたしの旅館には若い男女の劇薬心中があって、それは二階の何番の座敷であると云うことがわかった。
その何番は私の隣室で、当分お客を入れないといったのも無理はない。そこは幽霊(?)に貸切りになっているらしい。宿へ帰ると、私はすぐに隣り座敷をのぞきに行った。夏のことであるが、人のいない座敷の障子は閉めてある。その障子をあけて窺ったが、別に眼につくような異状もなかった。
その日もやがて夜となって、夏の温泉場は大抵寝鎮まった午後十二時頃になると、隣りの座敷で女の軽い咳の声がきこえる。勿論、気のせいだとは思いながらも、私は起きてのぞきに行った。何事もないのを見さだめて帰って来ると、やがて又その咳の声がきこえる。どうも気になるので、また行ってみた。三度目には座敷のまんなかへ通って、暗い所にしばらく坐っていたが、やはり何事もなかった。
わたしが隣り座敷へ夜中に再三出入りしたことを、どうしてか宿の者に覚られたらしい。その翌日は座敷の畳換えをするという口実のもとに、わたしはここと全く没交渉の下座敷へ移されてしまった。何か詰まらないことを云い触らされては困ると思ったのであろう。しかし女中たちは私にむかって何んにも云わなかった。私も云わなかった。
これは私の若い時のことである。それから三、四年の後に、「金色夜叉」の塩原温泉の件りが読売新聞紙上に掲げられた。それを読みながら、私はかんがえた。私がもし一ヵ月以前にかの旅館に投宿して、間貫一とおなじように、隣り座敷の心中の相談をぬすみ聴いたとしたならば、私はどんな処置を取ったであろうか。貫一のように何千円の金を無雑作に投げ出す力がないとすれば、所詮は宿の者に密告して、ひとまず彼らの命をつなぐというような月並の手段を取るのほかはあるまい。貫一のような金持でなければ、ああいう立派な解決は付けられそうもない。
「金色夜叉」はやはり小説であると、わたしは思った。
(昭和6・7「朝日新聞」)
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暮らしの流れ
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素人脚本の歴史
雑誌の人が来て、何か脚本の話を書けという。ともかくも安請合いに受け合ったものの、さて何を書いてよいか判らない。現在日本の演劇をどう書いてよいのか、自分も実は宇宙に迷って行き悩んでいるのであるから、とてもここで大きい声で脚本の書き方などを講釈するわけには行かない。何か偉そうなことをうっかり喋べってしまって、その議論が自分自身でも明日はすっかり変ってしまうようなことが無いとも限らない。で、そんな危ないことには手を着けないことにして、ここでは自分がこれまで書いた七、八十種の脚本に就いて、一種の経験談のようなものを書き列べて見ようかとも思ったが、それも長くなるのでやめた。ここではただ、素人の書いた脚本がどうして世に出るようになったかという歴史を少しばかり書く。
わたしはここで自分の自叙伝を書こうとするのではない。しかし自分の関係したことを主題にして何か語ろうという以上、自然に多く自分を説くことになるかも知れない。それはあらかじめお含み置きを願っておきたい。
わたしが脚本というものに筆を染めた処女作は「紫宸殿」という一幕物で、頼政の鵺退治を主題にした史劇であった。後に訂正して、明治二十九年九月の歌舞伎新報に掲載されたが、勿論、どこの劇場でも採用される筈はなかった。その翌年の二月、條野採菊翁が伊井蓉峰君に頼まれて「茲江戸子」という六幕物を書くことになった。故榎本武揚子爵の五稜郭戦争を主題にしたものである。採菊翁は多忙だということで、榎本虎彦君と私とが更に翁の依頼をうけて二幕ずつを分担して執筆することになった。筋は無論、翁から割当てられたもので、自分たち二人はほとんどその口授のままを補綴したに過ぎなかった。劇場は後の宮戸座であった。
それが三月の舞台に上ったのを観ると、わたしは失望した。私が書いた部分はほとんど跡形もないほど変っていた。私はそれを榎本君に話すと、榎本君は笑いながら「それだから僕は観に行かないよ」と云った。榎本君は福地桜痴先生に従って、楽屋の空気にもう馴れている人である。榎本君の眼には、年の若い私の無経験がむしろ可笑く思われたかも知れなかった。採菊翁自身が執筆の部分はどうだか知れないが、榎本君が担当の部分にも余程の大鉈を加えられていたらしかった。勿論、この時代にはそれがむしろ普通のことで、素人――榎本君は素人ではないが、その当時はまだ其の伎倆を認められていなかった――が寄り集まって書いた脚本が、こういう風に鉈を加えられたり、鱠にされたりするのは、あらかじめ覚悟してかからなければならないのであった。わたしが榎本君に対して不平らしい口吻を洩らしたのは、要するに演劇の事情というものに就いて私の盲目を証拠立てているのであった。
「素人の書いたものは演劇にならない。」
それが此の時代に於いては動かすべからざる格言として何人にも信ぜられていた。劇場内部のいわゆる玄人は勿論のこと、外部の素人もみんなそう信じていた。今日の眼から観れば、みずから侮ること甚だしいようにも思われるかも知れないが、なんと理窟を云っても劇場当事者の方で受付けてくれないのであるから、外部の素人は田作の歯ぎしりでどうにもならない。たとい鉈でぶっかかれても鱠にきざまれても、採用されれば非常の仕合せで、鉈にも鱠にも最初から問題にされてはいないのであった。もっとも福地先生はこういうことを云っていられた。
「いくら楽屋の者が威張っても仕方がない。今のままでいれば、やがて素人の世界になるよ。」
しかし、この世界がいつ自分たちの眼の前に開かれるか。ほとんど見当が付かなかった。福地先生は外部から脚本を容れることを拒むような人ではなかった。むしろ大抵の場合には「結構です」と云って推薦するのを例としていた。しかも推薦されるような脚本はちっとも提供されなかった。それには二種の原因があった。第一には、たとい福地先生は何と云おうとも、劇場全体に素人を侮蔑する空気が充満していて、外部から輸入される一切の脚本は先ず敬して遠ざけるという方針が暗々のうちに成立っていたのである。第二には、どんな鉈を受けても、鱠にされても、何でもかでも上場されればいいと云って提出されるような脚本は、実際に於いて其の品質が劣っていた。また、ある程度まで其の品質に見るべきものがあるような脚本を書き得る人は、鉈や鱠の拷問に堪えられなかった。
以上の理由で、どの道、外部から新しい脚本を求めるということは不可能の状態にあった。劇場当事者の方でも強いて求めようとはしなかった。いわゆる玄人と素人との間には大いなる溝があった。
もう一つには、団菊左と云うような諸名優が舞台を踏まえていて、たとい脚本そのものはどうであろうとも、これらの技芸に対する世間の信仰が相当の観客を引き寄せるに何らの不便を感ぜしめなかったからである。こういう種々の原因が絡み合って、内部と外部との中間には、袖萩が取りつくろっている小柴垣よりも大きい関が据えられて、戸を叩くにも叩かれぬ鉄の門が高く鎖ざされていたのであった。
「どうぞお慈悲にただ一言……。」
お君の袖乞いことばを真似るのが忌な者は、黙って門の外に立っているよりほかはなかった。
ところが、やがて其の厳しい門を押し破って、和田合戦の板額のように闖入した勇者があらわれた。その闖入者は松居松葉君であった。この門破りが今日の人の想像するような、決して容易なものではない。松葉君の悪戦は実に想像するに余りある位で、彼はブラツデーネスになったに相違ない。そうして明治三十二年の秋に、明治座で史劇「悪源太」を上場することになった。俳優は初代の左団次一座であった。続いて三十四年の秋に、同じく明治座で「源三位」を書いた。つづいて「後藤又兵衛」や「敵国降伏」や「ヱルナニー」が出た。
「素人の書いたものでも商売になる。」
こういう理屈がいくらか劇場内部の人たちにも理解されるようになって来た。わたしは松葉君よりも足かけ四年おくれて、明治三十五年の歌舞伎座一月興行に「金鯱噂高浪」という四幕物を上場することになった。これに就いては岡鬼太郎君が大いに力がある。その春興行には五世菊五郎が出勤する筈であったが、病気で急に欠勤することになって、一座は芝翫(後の歌右衛門)、梅幸、八百蔵(後の中車)、松助、家橘(後の羽左衛門)、染五郎(後の幸四郎)というような顔触れで、二番目は円朝物の「荻江の一節」と内定していたのであるが、それも余り思わしくないと云うので、当時の歌舞伎座専務の井上竹二郎氏から何か新しいものはあるまいかと鬼太郎君に相談をかけると、鬼太郎君は引受けた。かねて條野採菊翁と私の三人合作で書いてみようと云っていた「金鯱」というものがあるので、鬼太郎君は其の筋立てをすぐに話すと、井上氏はそれを書いて見せてくれと云った。
それはかの柿の木金助が紙鳶に乗って、名古屋の城の金の鯱鉾を盗むという事実を仕組んだもので、鬼太郎君は序幕と三幕目を書いた。三幕目は金助が鯱鉾を盗むところで、家橘の金助が常磐津を遣って奴凧の浄瑠璃めいた空中の振事を見せるのであった。わたしは二幕目の金助の家を書いた。ここはチョボ入りの世話場であった。採菊翁は最後の四幕目を書く筈であったが、半途で病気のために筆を執ることが出来なくなったので、私が年末の急稿でそのあとを綴じ合せた。
この脚本を上演するに就いては、内部では相当に苦情があったらしく聞いている。俳優側からも種々の訂正が持ち出されたらしい。しかし井上氏は頑として受付けなかった。この二番目の脚本にはいっさい手を着けてはならないと云い渡した。そうして、とうとうそれを押し通してしまった。
井上氏はその当時にあって、実に偉い人であったと思う。
その演劇は正月の八日が初日であったように記憶している。その前年の暮れに、私が途中で榎本君に逢うと、彼は笑いながら「君、怒っちゃいけないよ」と云った。果たして稽古の際に楽屋へ行くと、我々の不愉快を誘い出すようなことが少なくなかった。手を着けてはならないと井上氏が宣告して置いたにも拘らず、俳優や座付作者たちから種々の訂正を命ぜられた。我々もよんどころなく承諾した。三幕目の常磐津は座の都合で長唄に変更することになったのは我々もかねて承知していたが、狂言作者の一人は脚本を持って来て「これをどうぞ長唄にすぐ書き直してください」と、皮肉らしく云った。つまりお前たちに常磐津と長唄とが書き分けられるかと云う肚であったらしい。我々も意地になって承知した。その場で鬼太郎君が筆を執って、私も多少の助言をして、二十分ばかりでともかくも其の唄の件だけを全部書き直して渡した。すると、つづいて番附のカタリをすぐに書いてくれと云った。そうして「これは立作者の役ですから」と、おなじく皮肉らしく云った。我々はすぐにカタリを書いて渡した。すると、先に渡した唄をまた持って来て一、二ヵ所の訂正を求めた。
「こんなべらぼうな文句じゃ踊れないと橘屋が云いますから」と、その作者はべらぼうという詞に力を入れて云った。
金助を勤める家橘が果たしてそう云ったかどうだか知らないが、ともかくも其の作者は家橘がそう云った事として我々に取次いだ。べらぼうと云われて、我々もさすがにむっとした。榎本君に注意されたのはここだなと私は思った。いっそ脚本を取り返して帰ろうかと二人は相談したが、その時は鬼太郎君よりも私は軟派であった。もう一つには、榎本君の注意が頭に泌みているせいでもあろう。結局、鬼太郎君を宥めてべらぼうの屈辱を甘んじて受けることになった。そうして、先方の註文通りに再び訂正することになった。
それは暮れの二十七日で、二人が歌舞伎座を出たのは夜の八時過ぎであった。晴れた晩で、銀座の町は人が押し合うように賑わっていたが、わたしは何だか心寂しかった。銀座で鬼太郎君に別れた。その頃はまだ電車が無いので、私は暗い寒い堀端を徒歩で麹町へ帰った。前に云った宮戸座の時は、ほんの助手に過ぎないのであって、曲がりなりにも自分たちが本当に書いたものを上場されるのは今度が初めてである。私は嬉しい筈であった。嬉しいと感じるのが当り前だと思った。しかし私はなんだか寂しかった。いっそ脚本を撤回してしまえばよかったなどとも考えた。
「もう脚本は書くまい。」
わたしはお堀の暗い水の上で啼いている雁の声を聴きながら、そう思った。
正月になって、歌舞伎座がいよいよ開場すると、我々の二番目もさのみ不評ではなかった。勿論、こんにちから観れば冷汗が出るほどに、俗受けを狙った甘いものであるから、ひどい間違いはなかったらしい。評判が悪くないので、わたしはお堀の雁の声をもう忘れてしまって、つづけて何か書こうかなどと鬼太郎君とも相談したことがあった。しかし、そうは問屋で卸さなかった。鉄の門は再び閉められてしまった。我々は再びもとの袖萩になってしまった。なんでも我々の脚本を上場したと云うことが作者部屋の問題になって、外部の素人の作を上場するほどなら、自分たちの作も続々上場して貰いたいとか云う要求を提出されて、井上氏もその鎮圧に苦しんだとか聞いている。そんな事情で、われら素人の脚本はもう歌舞伎座で上演される見込みは絶えてしまった。
その当時に帝国劇場はなかった。新富座はたしか芝鶴が持主で、又五郎などの一座で興行をつづけていて、ここではとても新しい脚本などを受付けそうもなかった。
「差当り芝居を書く見込みはない。」
わたしは一旦あきらめた。その頃は雑誌でも脚本を歓迎してくれなかった。いよいよ上演と決まった脚本でなければ掲載してくれなかった。どっちを向いても、脚本を書くなどと云うことは無駄な努力であるらしく思われた。私も脚本を断念して、小説を書こうと思い立った。
明治三十六年に菊五郎と団十郎とが年を同じゅうして死んだ。これで劇界は少しく動揺するだろうと窺っていると、内部はともあれ、表面にはやはりいちじるしい波紋を起さなかった。私はいよいよ失望した。三十七年には日露戦争が始まった。その四月に歌舞伎座で森鴎外博士の「日蓮辻説法」が上場された。恐らくそれは舎弟の三木竹二君の斡旋に因るものであろうが、劇界では破天荒の問題として世間の注目を惹いた。戦争中にも拘らず、それが一つの呼物になったのは事実であった。
その頃から私は従軍記者として満洲へ出張していたので、内地の劇界の消息に就いてはなんにも耳にする機会がなかった。その年の八月に左団次の死んだことを新聞紙上で僅かに知ったに過ぎなかった。実際、軍国の劇壇には余りいちじるしい出来事も無かったらしかった。
明治三十八年五月、わたしが戦地から帰った後に、各新聞社の演劇担当記者らが集まって、若葉会という文士劇を催した。今日では別に珍しい事件でも何でもないが、その当時にあっては、これは相当に世間の注目を惹くべき出来事であった。第一回は歌舞伎座で開かれて、わたしが第一の史劇「天目山」二幕を書いた。そのほかには、かの「日蓮辻説法」も上演された。これが私の劇作の舞台に上せられた第二回目で、作者自身が武田勝頼に扮するつもりであったが、その当時わたしは東京日日新聞社に籍を置いていたので、社内からは種々の苦情が出たのに辟易して、急に鬼太郎君に代って貰うことにした。
山崎紫紅君の「上杉謙信」が世に出たのも此の年であったと記憶している。舞台は真砂座で伊井蓉峰君が謙信に扮したのである。これが好評で、紫紅君は明くる三十九年の秋に『七つ桔梗』という史劇集を公けにした。松葉君はこの年の四月、演劇研究のために洋行した。文芸協会はこの年の十一月、歌舞伎座で坪内逍遥博士の「桐一葉」を上演した。
若葉会は更に東京毎日新聞社演劇会と変って、同じ年の十二月、明治座で第一回を開演することになったので、私は史劇「新羅三郎」二幕を書いた。つづいて翌四十年七月の第二回(新富座)には「阿新丸」二幕を書いた。同年十月の第三回(東京座)には「十津川戦記」三幕を書いた。同時に紫紅君の「甕破柴田」一幕を上場した。勿論、これらはいずれも一種の素人芝居に過ぎないので、普通の劇場とは没交渉のものであったが、それでもたび重なるに連れて、いわゆる素人の書いた演劇というものが玄人の眼にも、だんだんに泌みて来たと見えて、その年の十二月、紫紅君は新派の河合武雄君に頼まれて史劇「みだれ笹」一幕(市村座)を書いた。山岸荷葉君もこの年、小団次君らのために「ハムレット」の翻訳史劇(明治座)を書いた。
翌四十一年の正月、左団次君が洋行帰りの第一回興行を明治座で開演して、松葉君が史劇「袈裟と盛遠」二幕を書いた。三月の第二回興行には紫紅君の「歌舞伎物語」四幕が上場された。その年の七月、かの川上音二郎君が私をたずねて来て、新たに革新興行の旗揚げをするに就いて、維新当時の史劇を書いてくれと云った。私は承知してすぐに「維新前後」(奇兵隊と白虎隊)六幕を書いた。前の奇兵隊の方は現存の関係者が多いので、すこぶる執筆の自由を妨げられたが、後の白虎隊の方は勝手に書くことが出来た。それは九月の明治座で上演された。
もう此の後は新しいことであるから、くだくだしく云うまでもない。要するに茲らが先ずひとくぎりで、四十二年以来は素人の脚本を上場することが別に何らの問題にもならなくなった。鉄の扉もだんだんに弛んで、いつとは無しに開かれて来た。勿論、全然開放とまでは行かないが、潜り門ぐらいはどうやらこうやら押せば明くようになって来た。
普通の劇場は一般の観客を相手の営利事業であるから、芸術本位の脚本を容れると云うまでにはまだ相当の時間を要するに相違ないが、ともかくも商売になりそうな脚本ならば、それが誰の作であろうとも、あまり躊躇しないで受取るようになったのは事実である。一方には文芸協会その他の新劇団が簇出して、競って新脚本を上演して、外部から彼らを刺戟したのも無論あずかって力がある。又それに連れて、この数年来、幾多の新しい劇作家があらわれたのは誰しも知っているところである。
新進気鋭の演劇研究者の眼から観たらば、わが劇壇の進歩は実に遅々たるもので、実際歯がゆいに相違ない。しかし公平に観たところを云えば、成程それは兎の如くに歩んではいないが、確実に亀の如くには歩んでいると思われる。亀の歩みも焦ったいには相違ないが、それでも一つ処に停止していないのは事実である。十六年前に、わたしがお堀端で雁の声を聴いた時にくらべると、表面はともあれ、内部は驚かれるほどに変っている。更に十年の後には、どんなに変るかも知れないと思っている。その当時、自分がひどく悲観した経験があるだけに、現在の状態もあながちに悲観するには及ばない。たとい亀の歩みでも、牛の歩みでも、歩一歩ずつ進んでいるには相違ないと云うことだけは信じている。ただ、焦ったい。しかしそれも已むを得ない。
これまで書いて来たことは、専ら歌舞伎劇の方面を主にして語ったものである。新派の方は当座の必要上、昔から新作のみを上場していたのは云うまでもない。しかし、その新派の方に却ってこの頃は鉄の扉が閉じられて来たらしく、いつもいつも同じような物を繰り返しているようになって来た。今のありさまで押して行くと、歌舞伎の門の方が早く開放されるらしい。私はその時節の来るのを待っている。
(大正7・11「新演芸」)
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人形の趣味
××さん。
どこでお聞きになったのか知りませんが、わたしに何か人形の話をしろという御註文でしたが、実のところ、わたしは何も専門的に玩具や人形を研究したり蒐集したりしているわけではないのです。しかし私がおもちゃを好み、ことに人形を可愛がっているのは事実です。
勿論、人に吹聴するような珍しいものもないせいでもありますが、わたしはこれまで自分が人形を可愛がると云うようなことを、あまり吹聴したことはありません。竹田出雲は机のうえに人形をならべて浄瑠璃をかいたと伝えられています。イプセンのデスクの傍にも、熊が踊ったり、猫がオルガンを弾いたりしている人形が控えていたと云います。そんな先例が幾らもあるだけに、わたしも何んだかそれらの大家の真似をしているように思われるのも忌ですから、なるべく人にも吹聴しないようにしていたのですが、書棚などの上にいっぱい列べてある人形が自然に人の眼について、二、三の雑誌にも玩具の話を書かされたことがあります。しかしそんなわけですから、わたしは単に人形の愛好者というだけのことで、人形の研究者や蒐集家でないことを最初にくれぐれもお断わり申して置きます。したがって、人形や玩具などに就いてなにかの通をならべるような資格はありません。
人形に限らず、わたしもすべて玩具のたぐいが子供のときから大好きで、縁日などへゆくと択り取りの二銭八厘の玩具をむやみに買いあつめて来たものでした。二銭八厘――なんだか奇妙な勘定ですが、わたしの子供の頃、明治十八、九年頃までは、どういう勘定から割り出して来たものか、縁日などで売っている安い玩具は、大抵二銭八厘と相場が決まっていたものでした。更に廉いのは一銭というのもありました。勿論、それより高価のもありましたが、われわれは大抵二銭八厘から五銭ぐらいの安物をよろこんで買いあつめました。今の子供たちにくらべると、これがほんとうの「幼稚」と云うのかも知れません。しかし其の頃のおもちゃは大方すたれてしまって、たまたま縁日の夜店の前などに立っても、もう少年時代のむかしを偲ぶよすがはありません。とにかく子供のときからそんな習慣が付いているので、わたしは幾つになっても玩具や人形のたぐいに親しみをもっていて、十九や二十歳の大供になってもやはり玩具屋を覗く癖が失せませんでした。
そんな関係から、原稿などをかく場合にも、机の上に人形をならべるという習慣が自然に付きはじめたので、別に深い理屈があるわけでもなかったのです。しかし習慣というものは怖ろしいもので、それがだんだんに年を経るにしたがって、机の上に人形がないと何んだか物足らないような気分で、ひどく心さびしく感じられるようになってしまいました。それも二つや三つ列べるならばまだいいのですが、どうもそれでは物足らない。少なくも七つ八つ、十五か十六も雑然と陳列させるのですから、机の上の混雑はお話になりません。最初の頃は、脚本などをかく場合には、半紙の上に粗末な舞台面の図をかいて、俳優の代りにその人形をならべて、その位置や出入りなどを考えながら書いたものですが、今ではそんなことをしません。しかし何かしら人形が控えていないと、なんだか極まりが付かないようで、どうも落ちついた気分になれません。小説をかく場合でもそうです。脚本にしろ、小説にしろ、なにかの原稿を書いていて、ひどく行き詰まったような場合には、棚から手あたり次第に人形をおろして来て、机の上に一面ならべます。自分の書いている原稿紙の上にまでごたごたと陳列します。そうすると、不思議にどうにかこうにか「窮すれば通ず」というようなことになりますから、どうしてもお人形さんに対して敬意を表さなければならないことになるのです。旅行をする場合でも、出先で仕事をすると判っている時にはかならず相当の人形を鞄に入れて同道して行きます。
人形とわたしとの関係はそういうわけでありますから、仮りにも人形と名のつくものならば何んでもいいので、別に故事来歴などを詮議しているのではありません。要するに店仕舞いのおもちゃ屋という格で、二足三文の瓦楽多がただ雑然と押し合っているだけのことですから、何かおめずらしい人形がありますかなどと訊かれると、早速返事に困ります。それでたびたび赤面したことがあります。おもちゃ箱を引っくり返したようだというのは、全くわたしの書棚で、初めて来た人に、「お子供衆が余程たくさんおありですか」などと訊かれて、いよいよ赤面することがあります。
その瓦楽多のなかでも、わたしが一番可愛がっているのは、シナのあやつり人形の首で、これはちょっと面白いものです。先年三越呉服店で開かれた「劇に関する展覧会」にも出品したことがありました。この人形の首をはじめて見たのは、わたしが日露戦争に従軍した時、満洲の海城の城外に老子の廟があって、その祭日に人形をまわしに来たシナの芸人の箱のなかでした。わたしは例の癖がむらむらと起ったので、そのシナ人に談判して、五つ六つある首のなかから二つだけを無理に売って貰いました。なにしろ土焼きですから、よほど丁寧に保管していたのですが、戦場ではなかなか保護が届かないので、とうとう二つながら毀れてしまいました。がっかりしたが仕方がないので、そのまま東京へ帰って来ますと、それから二年ほどたって、「木太刀」の星野麦人君の手を経て、神戸の堀江君という未見の人からシナの操り人形の首を十二個送られました。これも三つばかりは毀れていましたが、南京で買ったのだとか云うことで、わたしが満洲で見たものとちっとも変りませんでした。わたしは一旦紛失したお家の宝物を再びたずね出したように喜んで、もろもろの瓦楽多のなかでも上坐に押し据えて、今でも最も敬意を表しています。殊にそのなかの孫悟空は、わたしが申歳の生まれである因縁から、取分けて寵愛しているわけです。
そのほかの人形は――京、伏見、奈良、博多、伊勢、秋田、山形など、どなたも御存知のものばかりで、例の今戸焼もたくさんあります。シナ、シャム、インド、イギリス、フランスなども少しばかりあります。人形ではやはり伏見が面白いと思うのですが、近年は彩色などがだんだんに悪くなって来たようです。伏見の饅頭人形などは取分けて面白いと思います。伊勢の生子人形も古風で雅味があります。庄内の小芥子人形は遠い土地だけに余り世間に知られていないようですが、木製の至極粗末な人形で、赤ん坊のおしゃぶりのようなものですが、その裳の方を持って肩をたたくと、その人形の首が丁度いい工合に肩の骨にコツコツとあたります。勿論、非常に小さいものもありますから、肩を叩くのが本来の目的ではありますまいが、その地方では大人でも湯治などに出かける時には持ってゆくと云います。こんなたぐいを穿索したら、各地方にいろいろの面白いものがありましょう。
広東製の竹彫りの人形にもなかなか精巧に出来たのがあります。一つの竹の根でいろいろのものを彫り出すのですから、ずいぶん面倒なものであろうかと思いやられますが、わたしの持っているなかでは、蝦蟆仙人が最も器用に出来ています。先年外国へ行った時にも、なにか面白いものはないかと方々探しあるきましたが、どうもこれはと云うほどのものを見当りませんでした。戦争のために玩具の製造などはほとんど中止されてしまって、どこのおもちゃ屋にも日本製品が跋扈しているというありさまで、うっかりすると外国からわざわざ日本製を買い込んで来ることになるので、わたしもひどく失望しました。フランスでちっとばかり買って来ましたけれど、取り立てて申し上げるほどのものではありません。
なにか特別の理由があって、一つの人形を大切にする人、または家重代というようなわけで古い人形を保存する人、一種の骨董趣味で古い人形をあつめる人、ただ何が無しに人形というものに趣味をもって、新古を問わずにあつめる人、かぞえたらばいろいろの種類があることでしょうが、わたしは勿論、その最後の種類に属すべきものです。で、甚だ我田引水のようですが、特別の知識をもって秩序的に研究する人は格別、単にその年代が古いとか、世間にめずらしい品であるとか云うので、特殊の人形を珍重する人はほんとうの人形好きとは云われまいかと思われます。そういう意味で人形を愛するのは、単に一種の骨董癖に過ぎないので、古い硯を愛するのも、古い徳利を愛するのも、所詮は同じことになってしまいます。人形はやはりどこまでも人形として可愛がってやらなければなりません。その意味に於いて、人形の新古や、値の高下や、そんなことを論ずるのはそもそも末で、どんな粗製の今戸焼でもどこかに可愛らしいとか面白いとかいう点を発見したならば、連れて帰って可愛がってやることです。
舞楽の面を毎日眺めていて、とうとう有名な人相見になったとかいう話を聴いていますが、実際いろいろの人形をながめていると、人間というものに就いてなにか悟るところがあるようにも思われます。少なくも美しい人形や、可愛らしい人形を眺めていると、こっちの心もおのずとやわらげられるのは事実です。わたしは何か気分がむしゃくしゃするような時には、伏見人形の鬼や、今戸焼の狸などを机のうえに列べます。そうして、その鬼や狸の滑稽な顔をつくづく眺めていると、自然に頭がくつろいで来るように思われます。
くどくも云う通り、人形といえば相当に年代の古いものとか、精巧に出来ているものとか、値段の高いものとか、いちいちそういうむずかしい註文を持出すから面倒になるので、わたしから云えばそれらは真の人形好きではありません。勿論、わたしのように瓦楽多をむやみに陳列するには及びませんが、たとい二つ三つでも自分の気に入った人形を机や書棚のうえに飾って、朝夕に愛玩するのは決して悪いことではないと思います。人形を愛するの心は、すなわち人を愛するの心であります。品の新しいとか古いとか、値の高いとか廉いとかいうことは問題ではありません。なんでも自分の気に入ったものでさえあればいいのです。廉いものを飾って置いては見っともないなどと云っているようでは、倶に人形の趣味を語るに足らないと思います。廉い人形でよろしい、せいぜい三十銭か五十銭のものでよろしい、その数も二つか三つでもよろしい。それを坐右に飾って朝夕に愛玩することを、わたしは皆さんにお勧め申したいと思います。
不良少年を感化するために、園芸に従事させて花卉に親しませるという方法が近年行なわれて来たようです。わたしは非常によいことだと思います。それとおなじ意味で、世間一般の少年少女にも努めて人形を愛玩させる習慣を作らせたいと思っています。単に不良少女ばかりでなく、大人の方たちにもこれをお勧め申したいと思っています。なんの木偶の坊――とひと口に云ってしまえばそれ迄ですが、生きた人間にも木偶の坊に劣ったのがないとは云えません。魂のない木偶の坊から、われわれは却って生きた魂を伝えられることがないとも限りません。
我田引水と云われるのを承知の上で、私はここに人形趣味を大いに鼓吹するのであります。
(大正9・10「新家庭」)
この稿をかいたのは、足かけ四年の昔で、それら幾百の人形は大正十二年九月一日をなごりに私と長い別れを告げてしまった。かれらは焼けて砕けて、もとの土に帰ったのである。九月八日、焼け跡の灰かきに行った人たちが、わずかに五つ六つの焦げた人形を掘り出して来てくれた。
わびしさや袖の焦げたる秋の雛
(『十番随筆』所収)
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