綺堂むかし語り |
光文社時代小説文庫、光文社 |
1995(平成7)年8月20日 |
1995(平成7)年8月20日初版1刷 |
目次
思い出草
思い出草
島原の夢
昔の小学生より
三崎町の原
御堀端三題
銀座
夏季雑題
雷雨
鳶
旧東京の歳晩
新旧東京雑題
ゆず湯
旅つれづれ
昔の従軍記者
苦力とシナ兵
満洲の夏
仙台五色筆
秋の修善寺
春の修善寺
妙義の山霧
磯部の若葉
栗の花
ランス紀行
旅すずり
温泉雑記
暮らしの流れ
素人脚本の歴史
人形の趣味
震災の記
十番雑記
風呂を買うまで
郊外生活の一年
薬前薬後
私の机
読書雑感
回想・半七捕物帳
歯なしの話
我が家の園芸
最後の随筆
[#改丁、ページの左右中央に]
思い出草
[#改丁]
思い出草
赤蜻蛉
私は麹町元園町一丁目に約三十年も住んでいる。その間に二、三度転宅したが、それは単に番地の変更にとどまって、とにかくに元園町という土地を離れたことはない。このごろ秋晴れの朝、巷に立って見渡すと、この町も昔とはずいぶん変ったものである。懐旧の感がむらむらと湧く。
江戸時代に元園町という町はなかった。このあたりは徳川幕府の調練場となり、維新後は桑茶栽付所となり、さらに拓かれて町となった。昔は薬園であったので、町名を元園町という。明治八年、父が初めてここに家を建てた時には、百坪の借地料が一円であったそうだ。
わたしが幼い頃の元園町は家並がまだ整わず、到るところに草原があって、蛇が出る、狐が出る、兎が出る、私の家のまわりにも秋の草が一面に咲き乱れていて、姉と一緒に笊を持って花を摘みに行ったことを微かに記憶している。その草叢の中には、ところどころに小さい池や溝川のようなものもあって、釣りなどをしている人も見えた。
蟹や蜻蛉もたくさんにいた。蝙蝠の飛ぶのもしばしば見た。夏の夕暮れには、子供が草鞋を提げて「蝙蝠来い」と呼びながら、蝙蝠を追い廻していたものだが、今は蝙蝠の影など絶えて見ない。秋の赤蜻蛉、これがまた実におびただしいもので、秋晴れの日には小さい竹竿を持って往来に出ると、北の方から無数の赤とんぼがいわゆる雲霞の如くに飛んで来る。これを手当り次第に叩き落すと、五分か十分のあいだに忽ち数十匹の獲物があった。今日の子供は多寡が二疋三疋の赤蜻蛉を見つけて、珍しそうに五人六人もで追い廻している。
きょうは例の赤とんぼ日和であるが、ほとんど一疋も見えない。わたしは昔の元園町がありありと眼の先に泛かんで、年ごとに栄えてゆく此の町がだんだんに詰まらなくなって行くようにも感じた。
茶碗
O君が来て古い番茶茶碗を呉れた。おてつ牡丹餅の茶碗である。
おてつ牡丹餅は維新前から麹町の一名物であった。おてつという美人の娘が評判になったのである。元園町一丁目十九番地の角店で、その地続きが元は徳川幕府の薬園、後には調練場となっていたので、若い侍などが大勢集まって来る。その傍に美しい娘が店を開いていたのであるから、評判になったも無理はない。
おてつの店は明治十八、九年頃まで営業を続けていたかと思う。私の記憶に残っている女主人のおてつは、もう四十くらいであったらしい。眉を落して歯を染めた、小作りの年増であった。聟を貰ったがまた別れたとかいうことで、十一、二の男の児を持っていた。美しい娘も老いておもかげが変ったのであろう、私の稚い眼には格別の美人とも見えなかった。店の入口には小さい庭があって、飛び石伝いに奥へはいるようになっていた。門のきわには高い八つ手が栽えてあって、その葉かげに腰をかがめておてつが毎朝入口を掃いているのを見た。汁粉と牡丹餅とを売っているのであるが、私の知っている頃には店もさびれて、汁粉も牡丹餅も余り旨くはなかったらしい。近所ではあったが、わたしは滅多に食いに行ったことはなかった。
おてつ牡丹餅の跡へは、万屋という酒屋が移って来て、家屋も全部新築して今日まで繁昌している。おてつ親子は麻布の方へ引っ越したとか聞いているが、その後の消息は絶えてしまった。
わたしの貰った茶碗はそのおてつの形見である。O君の阿父さんは近所に住んでいて、昔からおてつの家とは懇意にしていた。維新の当時、おてつ牡丹餅は一時閉店するつもりで、その形見と云ったような心持で、店の土瓶や茶碗などを知己の人々に分配した。O君の阿父さんも貰った。ところが、何かの都合からおてつは依然その営業をつづけていて、私の知っている頃までやはりおてつ牡丹餅の看板を懸けていたのである。
汁粉屋の茶碗と云うけれども、さすがに維新前に出来たものだけに、焼きも薬も悪くない。平仮名でおてつと大きく書いてある。わたしは今これを自分の茶碗に遣っている。しかし此の茶碗には幾人の唇が触れたであろう。
今この茶碗で番茶をすすっていると、江戸時代の麹町が湯気のあいだから蜃気楼のように朦朧と現われて来る。店の八つ手はその頃も青かった。文金高島田にやの字の帯を締めた武家の娘が、供の女を連れて徐かにはいって来た。娘の長い袂は八つ手の葉に触れた。娘は奥へ通って、小さい白扇を遣っていた。
この二人の姿が消えると、芝居で観る久松のような丁稚がはいって来た。丁稚は大きい風呂敷包みをおろして縁に腰をかけた。どこへか使いに行く途中と見える。彼は人に見られるのを恐れるように、なるたけ顔を隠して先ず牡丹餅を食った。それから汁粉を食った。銭を払って、前垂れで口を拭いて、逃げるようにこそこそと出て行った。
講武所ふうの髷に結って、黒木綿の紋付、小倉の馬乗り袴、朱鞘の大小の長いのをぶっ込んで、朴歯の高い下駄をがらつかせた若侍が、大手を振ってはいって来た。彼は鉄扇を持っていた。悠々と蒲団の上にすわって、角細工の骸骨を根付にした煙草入れを取り出した。彼は煙りを強く吹きながら、帳場に働くおてつの白い横顔を眺めた。そうして、低い声で頼山陽の詩を吟じた。
町の女房らしい二人連れが日傘を持ってはいって来た。かれらも煙草入れを取り出して、鉄漿を着けた口から白い煙りを軽く吹いた。山の手へ上って来るのはなかなかくたびれると云った。帰りには平河の天神さまへも参詣して行こうと云った。
おてつと大きく書かれた番茶茶碗は、これらの人々の前に置かれた。調練場の方ではどッと云う鬨の声が揚がった。焙烙調練が始まったらしい。
わたしは巻煙草を喫みながら、椅子に寄りかかって、今この茶碗を眺めている。かつてこの茶碗に唇を触れた武士も町人も美人も、皆それぞれの運命に従って、落着く所へ落着いてしまったのであろう。
芸妓
有名なおてつ牡丹餅の店が私の町内の角に存していたころ、その頃の元園町には料理屋も待合も貸席もあった。元園町と接近した麹町四丁目には芸妓屋もあった。わたしが名を覚えているのは、玉吉、小浪などという芸妓で、小浪は死んだ。玉吉は吉原に巣を替えたとか聞いた。むかしの元園町は、今のような野暮な町では無かったらしい。
また、その頃のことで私がよく記憶しているのは、道路のおびただしく悪いことで、これは確かに今の方がよい。下町は知らず、われわれの住む山の手では、商家でも店でこそランプを用いたれ、奥の住居ではたいてい行燈をとぼしていた。家によっては、店先にも旧式のカンテラを用いていたのもある。往来に瓦斯燈もない、電燈もない、軒ランプなども無論なかった。したがって、夜の暗いことはほとんど今の人の想像の及ばないくらいで、湯に行くにも提灯を持ってゆく。寄席に行くにも提灯を持ってゆく。おまけに路がわるい。雪どけの時などには、夜はうっかり歩けないくらいであった。しかし今日のように追剥ぎや出歯亀の噂などは甚だ稀であった。
遊芸の稽古所と云うものもいちじるしく減じた。私の子供の頃には、元園町一丁目だけでも長唄の師匠が二、三軒、常磐津の師匠が三、四軒もあったように記憶しているが、今ではほとんど一軒もない。湯帰りに師匠のところへ行って、一番唸ろうという若い衆も、今では五十銭均一か何かで新宿へ繰り込む。かくの如くにして、江戸っ子は次第に亡びてゆく。浪花節の寄席が繁昌する。
半鐘の火の見梯子と云うものは、今は市中に跡を絶ったが、わたしの町内にも高い梯子があった。或る年の秋、大嵐のために折れて倒れて、凄まじい響きに近所を驚かした。翌る朝、私が行ってみると、梯子は根もとから見事に折れて、その隣りの垣を倒していた。その頃には烏瓜が真っ赤に熟して、蔓や葉が搦み合ったままで、長い梯子と共に横たわっていた。その以来、わたしの町内に火の見梯子は廃せられ、そのあとに、関運漕店の旗竿が高く樹っていたが、それも他に移って、今では立派な紳士の邸宅になっている。
西郷星
かの西南戦役は、わたしの幼い頃のことで何んにも知らないが、絵草紙屋の店にいろいろの戦争絵のあったのを記憶している。いずれも三枚続きで、五銭くらい。また、そのころ流行った唄に、
紅い
帽子は兵隊さん、西郷に追われて、
トッピキピーノピー。
今思えば十一年八月二十三日の夜であった。夜半に近所の人がみな起きた。私の家でも起きて戸を明けると、何か知らないがポンポンパチパチいう音がきこえる。父は鉄砲の音だと云う。母は心配する、姉は泣き出す。父は表へ見に出たが、やがて帰って来て、「なんでも竹橋内で騒動が起きたらしい。時どきに流れだまが飛んで来るから戸を閉めて置け。」と云う。わたしは衾をかぶって蚊帳の中に小さくなっていると、暫くしてパチパチの音も止んだ。これは近衛兵の一部が西南役の論功行賞に不平を懐いて、突然暴挙を企てたものと後に判った。
やはり其の年の秋と記憶している。毎夜東の空に当って箒星が見えた。誰が云い出したか知らないが、これを西郷星と呼んで、さき頃のハレー彗星のような騒ぎであった。しまいには錦絵まで出来て、西郷桐野篠原らが雲の中に現われている図などが多かった。
また、その頃に西郷鍋というものを売る商人が来た。怪しげな洋服に金紙を着けて金モールと見せ、附け髭をして西郷の如く拵え、竹の皮で作った船のような形の鍋を売る、一個一銭。勿論、一種の玩具に過ぎないのであるが、なにしろ西郷というのが呼び物で、大繁昌であった。私などは母にせがんで幾度も買った。
そのほかにも西郷糖という菓子を売りに来たが、「あんな物を食っては毒だ。」と叱られたので、買わずにしまった。
湯屋
湯屋の二階というものは、明治十八、九年の頃まで残っていたと思う。わたしが毎日入浴する麹町四丁目の湯屋にも二階があって、若い小綺麗な姐さんが二、三人居た。
わたしが七つか八つの頃、叔父に連れられて一度その二階に上がったことがある。火鉢に大きな薬罐が掛けてあって、そのわきには菓子の箱が列べてある。のちに思えば例の三馬の「浮世風呂」をその儘で、茶を飲みながら将棋をさしている人もあった。
時はちょうど五月の初めで、おきよさんという十五、六の娘が、菖蒲を花瓶に挿していたのを記憶している。松平紀義のお茶の水事件で有名な御世梅お此という女も、かつてこの二階にいたと云うことを、十幾年の後に知った。
その頃の湯風呂には、旧式の石榴口と云うものがあって、夜などは湯煙が濛々として内は真っ暗。しかもその風呂が高く出来ているので、男女ともに中途の階段を登ってはいる。石榴口には花鳥風月もしくは武者絵などが画いてあって、私のゆく四丁目の湯では、男湯の石榴口に水滸伝の花和尚と九紋龍、女湯の石榴口には例の西郷桐野篠原の画像が掲げられてあった。
男湯と女湯とのあいだは硝子戸で見透かすことが出来た。これを禁止されたのはやはり十八、九年の頃であろう。今も昔も変らないのは番台の拍子木の音。
[1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8] [9] [10] ... 下一页 >> 尾页