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綺堂むかし語り(きどうむかしがたり)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-8-27 9:05:51  点击:  切换到繁體中文

底本: 綺堂むかし語り
出版社: 光文社時代小説文庫、光文社
初版発行日: 1995(平成7)年8月20日
入力に使用: 1995(平成7)年8月20日初版1刷

 

目次

※(ローマ数字1、1-13-21) 思い出草
 思い出草
 島原の夢
 昔の小学生より
 三崎町の原
 御堀端三題
 銀座
 夏季雑題
 雷雨
 鳶
 旧東京の歳晩
 新旧東京雑題
 ゆず湯
※(ローマ数字2、1-13-22) 旅つれづれ
 昔の従軍記者
 苦力とシナ兵
 満洲の夏
 仙台五色筆
 秋の修善寺
 春の修善寺
 妙義の山霧
 磯部の若葉
 栗の花
 ランス紀行
 旅すずり
 温泉雑記
※(ローマ数字3、1-13-23) 暮らしの流れ
 素人脚本の歴史
 人形の趣味
 震災の記
 十番雑記
 風呂を買うまで
 郊外生活の一年
 薬前薬後
 私の机
 読書雑感
 回想・半七捕物帳
 歯なしの話
 我が家の園芸
 最後の随筆
[#改丁、ページの左右中央に]

   ※(ローマ数字1、1-13-21) 思い出草
[#改丁]


思い出草


     赤蜻蛉

 私は麹町こうじまち元園町もとぞのちょう一丁目に約三十年も住んでいる。その間に二、三度転宅したが、それは単に番地の変更にとどまって、とにかくに元園町という土地を離れたことはない。このごろ秋晴れの朝、ちまたに立って見渡すと、この町も昔とはずいぶん変ったものである。懐旧の感がむらむらと湧く。
 江戸えど時代に元園町という町はなかった。このあたりは徳川とくがわ幕府の調練場となり、維新後は桑茶栽付所となり、さらにひらかれて町となった。昔は薬園であったので、町名を元園町という。明治八年、父が初めてここに家を建てた時には、百坪の借地料が一円であったそうだ。
 わたしが幼い頃の元園町は家並がまだ整わず、到るところに草原があって、へびが出る、きつねが出る、うざぎが出る、私の家のまわりにも秋の草が一面に咲き乱れていて、姉と一緒にざるを持って花を摘みに行ったことをかすかに記憶している。その草叢くさむらの中には、ところどころに小さい池や溝川どぶがわのようなものもあって、釣りなどをしている人も見えた。
 かに蜻蛉とんぼもたくさんにいた。蝙蝠こうもりの飛ぶのもしばしば見た。夏の夕暮れには、子供が草鞋わらじげて「蝙蝠来い」と呼びながら、蝙蝠を追い廻していたものだが、今は蝙蝠の影など絶えて見ない。秋の赤蜻蛉、これがまた実におびただしいもので、秋晴れの日には小さい竹竿ざおを持って往来に出ると、北の方から無数の赤とんぼがいわゆる雲霞うんかの如くに飛んで来る。これを手当り次第にたたき落すと、五分か十分のあいだにたちまち数十匹の獲物えものがあった。今日こんにちの子供は多寡たかが二ひき三疋の赤蜻蛉を見つけて、珍しそうに五人六人もで追い廻している。
 きょうは例の赤とんぼ日和びよりであるが、ほとんど一疋も見えない。わたしは昔の元園町がありありと眼の先にかんで、年ごとに栄えてゆく此の町がだんだんに詰まらなくなって行くようにも感じた。

     茶碗

 O君が来て古い番茶茶碗をれた。おてつ牡丹餅ぼたもちの茶碗である。
 おてつ牡丹餅は維新前から麹町の一名物であった。おてつという美人の娘が評判になったのである。元園町一丁目十九番地の角店かどみせで、その地続きが元は徳川幕府の薬園、後には調練場となっていたので、若い侍などが大勢おおぜい集まって来る。そのわきに美しい娘が店を開いていたのであるから、評判になったも無理はない。
 おてつの店は明治十八、九年頃まで営業を続けていたかと思う。私の記憶に残っている女主人のおてつは、もう四十くらいであったらしい。まゆを落して歯を染めた、小作りの年増としまであった。むこもらったがまた別れたとかいうことで、十一、二の男のを持っていた。美しい娘も老いておもかげが変ったのであろう、私のおさない眼には格別の美人とも見えなかった。店の入口には小さい庭があって、飛び石伝いに奥へはいるようになっていた。門のきわには高い八つ手がえてあって、その葉かげに腰をかがめておてつが毎朝入口をいているのを見た。汁粉しること牡丹餅とを売っているのであるが、私の知っている頃には店もさびれて、汁粉も牡丹餅も余りうまくはなかったらしい。近所ではあったが、わたしは滅多めったに食いに行ったことはなかった。
 おてつ牡丹餅の跡へは、万屋よろずやという酒屋が移って来て、家屋も全部新築して今日まで繁昌はんじょうしている。おてつ親子は麻布あざぶの方へ引っ越したとか聞いているが、その後の消息は絶えてしまった。
 わたしのもらった茶碗はそのおてつの形見である。O君の阿父おとっさんは近所に住んでいて、昔からおてつの家とは懇意こんいにしていた。維新の当時、おてつ牡丹餅は一時閉店するつもりで、その形見と云ったような心持で、店の土瓶どびんや茶碗などを知己しるべの人々に分配した。O君の阿父おとっさんも貰った。ところが、何かの都合からおてつは依然その営業をつづけていて、私の知っている頃までやはりおてつ牡丹餅の看板を懸けていたのである。
 汁粉屋の茶碗と云うけれども、さすがに維新前に出来たものだけに、焼きも薬も悪くない。平仮名でおてつと大きく書いてある。わたしは今これを自分の茶碗につかっている。しかしの茶碗には幾人のくちびるが触れたであろう。
 今この茶碗で番茶をすすっていると、江戸時代の麹町が湯気のあいだから蜃気楼しんきろうのように朦朧もうろうと現われて来る。店の八つ手はその頃も青かった。文金ぶんきん高島田にの字の帯を締めた武家の娘が、供の女を連れてしずかにはいって来た。娘の長いたもとは八つ手の葉に触れた。娘は奥へ通って、小さい白扇を遣っていた。
 この二人の姿が消えると、芝居で観る久松ひさまつのような丁稚でっちがはいって来た。丁稚は大きい風呂敷包みをおろしてえんに腰をかけた。どこへか使いに行く途中と見える。彼は人に見られるのを恐れるように、なるたけ顔を隠してず牡丹餅を食った。それから汁粉を食った。銭を払って、前垂れで口をいて、逃げるようにこそこそと出て行った。
 講武所こうぶしょふうのまげって、黒木綿もめんの紋付、小倉こくらの馬乗りばかま朱鞘しゅざやの大小の長いのをぶっ込んで、朴歯ほおばの高い下駄をがらつかせた若侍が、大手を振ってはいって来た。彼は鉄扇てっせんを持っていた。悠々と蒲団ふとんの上にすわって、つの細工の骸骨がいこつ根付ねつけにした煙草たばこ入れを取り出した。彼は煙りを強く吹きながら、帳場に働くおてつの白い横顔を眺めた。そうして、低い声で頼山陽らいさんようの詩を吟じた。
 町の女房らしい二人連れが日傘を持ってはいって来た。かれらも煙草入れを取り出して、鉄漿おはぐろを着けた口から白い煙りを軽く吹いた。山の手へのぼって来るのはなかなかくたびれると云った。帰りには平河ひらかわの天神さまへも参詣して行こうと云った。
 おてつと大きく書かれた番茶茶碗は、これらの人々の前に置かれた。調練場の方ではどッと云うときの声が揚がった。焙烙ほうろく調練が始まったらしい。
 わたしは巻煙草をみながら、椅子いすに寄りかかって、今この茶碗を眺めている。かつてこの茶碗にくちびるを触れた武士も町人も美人も、皆それぞれの運命に従って、落着く所へ落着いてしまったのであろう。

     芸妓

 有名なおてつ牡丹餅の店が私の町内の角に存していたころ、その頃の元園町には料理屋も待合も貸席もあった。元園町と接近した麹町四丁目には芸妓屋げいしゃやもあった。わたしが名を覚えているのは、玉吉、小浪などという芸妓で、小浪は死んだ。玉吉は吉原よしわらに巣を替えたとか聞いた。むかしの元園町は、今のような野暮やぼな町では無かったらしい。
 また、その頃のことで私がよく記憶しているのは、道路のおびただしく悪いことで、これは確かに今の方がよい。下町したまちは知らず、われわれの住む山の手では、商家でも店でこそランプをもちいたれ、奥の住居すまいではたいてい行燈あんどうをとぼしていた。家によっては、店先にも旧式のカンテラを用いていたのもある。往来に瓦斯ガス燈もない、電燈もない、軒ランプなども無論なかった。したがって、夜の暗いことはほとんど今の人の想像の及ばないくらいで、湯に行くにも提灯ちょうちんを持ってゆく。寄席よせに行くにも提灯を持ってゆく。おまけに路がわるい。雪どけの時などには、夜はうっかり歩けないくらいであった。しかし今日こんにちのように追剥おいはぎや出歯亀でばかめうわさなどははなはまれであった。
 遊芸の稽古けいこ所と云うものもいちじるしく減じた。私の子供の頃には、元園町一丁目だけでも長唄の師匠が二、三軒、常磐津ときわづの師匠が三、四軒もあったように記憶しているが、今ではほとんど一軒もない。湯帰りに師匠のところへ行って、一番うなろうという若い衆も、今では五十銭均一か何かで新宿しんじゅくへ繰り込む。かくの如くにして、江戸っ子は次第にほろびてゆく。浪花節の寄席が繁昌はんじょうする。
 半鐘はんしょうの火の見梯子ばしごと云うものは、今は市中に跡を絶ったが、わたしの町内にも高い梯子があった。或る年の秋、大嵐のために折れて倒れて、凄まじい響きに近所を驚かした。あくる朝、私が行ってみると、梯子は根もとから見事に折れて、その隣りの垣を倒していた。その頃には烏瓜からすうりが真っ赤に熟して、つるや葉がからみ合ったままで、長い梯子と共に横たわっていた。その以来、わたしの町内に火の見梯子は廃せられ、そのあとに、せき運漕店の旗竿が高くっていたが、それも他に移って、今では立派な紳士の邸宅になっている。

     西郷星

 かの西南戦役せんえきは、わたしの幼い頃のことで何んにも知らないが、絵草紙屋えぞうしやの店にいろいろの戦争絵のあったのを記憶している。いずれも三枚続きで、五銭くらい。また、そのころ流行はやった唄に、

※(歌記号、1-3-28)あか帽子シャッポは兵隊さん、西郷に追われて、
 トッピキピーノピー。

 今思えば十一年八月二十三日の夜であった。夜半よなかに近所の人がみな起きた。私の家でも起きて戸を明けると、何か知らないがポンポンパチパチいう音がきこえる。父は鉄砲の音だと云う。母は心配する、姉は泣き出す。父は表へ見に出たが、やがて帰って来て、「なんでも竹橋たけばし内で騒動が起きたらしい。時どきに流れだまが飛んで来るから戸を閉めて置け。」と云う。わたしはよぎをかぶって蚊帳かやの中に小さくなっていると、しばらくくしてパチパチの音もんだ。これは近衛このえ兵の一部が西南えき論功行賞ろんこうこうしょうに不平をいだいて、突然暴挙を企てたものと後に判った。
 やはり其の年の秋と記憶している。毎夜東の空に当って箒星ほうきぼしが見えた。誰が云い出したか知らないが、これを西郷星さいごうぼしと呼んで、さき頃のハレー彗星すいせいのような騒ぎであった。しまいには錦絵まで出来て、西郷桐野きりの篠原しのはららが雲の中に現われている図などが多かった。
 また、その頃に西郷鍋というものを売る商人が来た。怪しげな洋服に金紙きんがみを着けて金モールと見せ、附けひげをして西郷の如くこしらえ、竹の皮で作った船のような形の鍋を売る、一個一銭。勿論もちろん、一種の玩具おもちゃに過ぎないのであるが、なにしろ西郷というのが呼び物で、大繁昌であった。私などは母にせがんで幾度も買った。
 そのほかにも西郷糖という菓子を売りに来たが、「あんな物を食っては毒だ。」としかられたので、買わずにしまった。

     湯屋

 湯屋ゆうやの二階というものは、明治十八、九年の頃まで残っていたと思う。わたしが毎日入浴する麹町四丁目の湯屋にも二階があって、若い小綺麗こぎれいねえさんが二、三人居た。
 わたしが七つか八つの頃、叔父に連れられて一度その二階に上がったことがある。火鉢に大きな薬罐やかんが掛けてあって、そのわきには菓子の箱がならべてある。のちに思えば例の三馬さんばの「浮世風呂」をそのままで、茶を飲みながら将棋をさしている人もあった。
 時はちょうど五月の初めで、おきよさんという十五、六の娘が、菖蒲しょうぶ花瓶かびんしていたのを記憶している。松平紀義まつだいらのりよしのおちゃみず事件で有名な御世梅ごせめこのという女も、かつてこの二階にいたと云うことを、十幾年の後に知った。
 その頃の湯風呂には、旧式の石榴口ざくろぐちと云うものがあって、夜などは湯煙ゆげ濛々もうもうとして内は真っ暗。しかもその風呂が高く出来ているので、男女ともに中途の階段を登ってはいる。石榴口には花鳥風月もしくは武者絵などがいてあって、私のゆく四丁目の湯では、男湯の石榴口に水滸伝すいこでん花和尚かおしょう九紋龍くもんりゅう、女湯の石榴口には例の西郷桐野篠原の画像が掲げられてあった。
 男湯と女湯とのあいだは硝子ガラス戸で見透かすことが出来た。これを禁止されたのはやはり十八、九年の頃であろう。今も昔も変らないのは番台の拍子木の音。

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