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籠釣瓶(かごつるべ)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-8-27 8:58:24  点击:  切换到繁體中文


     七

 治六が心配するまでもなく、これから先きをどうするかということは、次郎左衛門の胸を強くおしつけている問題であった。治六や佐野屋の亭主は、金のあるうちにどうにかしろと言うけれども、次郎左衛門はそれと反対に、金のあるうちはどうすることも出来ないと思っていた。彼は同時に二つの仕事を抱えるほどの余裕をもたなかった。金のあるあいだは八橋に逢うのが唯一(ゆいいつ)の仕事で、とてもほかの仕事に取りかかれそうもなかった。金のあるあいだは何を考えても無駄なことだと、彼は自分で見切りを付けていた。
 その金がいよいよなくなったらどうする――その時になったら初めてなんとか考えよう、又なんとかいい考えも出るだろうと、彼は努めてなんにも考えないようにしていた。
「治六の馬鹿野郎」
 それにつけても腹立たしいのはゆうべの治六であった。八橋を身請けするほどならば、あいつらの知恵を借りるまでもなく、おれが自分から進んで立派に身請けをする。それがもう出来ないのを知っているから、今もこうして通いつづけている。その入り訳はきのうも宿で言い聞かせてあるのに、うっかりと詰まらないことを浮橋に言い出して、それが八橋の耳へもはいって、おれはいい恥を掻かなければならない事になった。佐野の大尽ともあるべき者が、多寡(たか)が四百両や五百両で大兵庫屋の花魁を請け出そうとした――そんなことが世間へきこえたら廓じゅうの笑い草になる。自分ばかりではない、八橋の恥にもなる。それを思うと、彼は胸が煮え返るように腹立たしかった。
「一年まえのおれだったら、治六の奴め、生かして置くものか」と、彼はいきまいた。
 まったく一年まえの彼であったら、憎い治六の襟髪を掴(つか)んで、大道(だいどう)へ引き摺り出して踏み殺すか。又は身を放さない村正の一刀を引き抜いて、彼をまっ二つに断ちはなすか。二つに一つの成敗(せいばい)を猶予するような次郎左衛門ではなかった。十両の金をくれて長(なが)の暇(いとま)は、この主人としては勿体ないほどに有難い慈悲の捌(さば)きであった。
 もうこうなったら男の意地としても、彼は八橋を請け出さなければ顔が立たないように思われた。いかにあせってもその金はもう出来ないと思うと、次郎左衛門はなんだか悲しくなった。現にゆうべも八橋から、身請けをするならばするようにしてくれと口説かれた。自分もこんな所に永くいたいことはない。まったく自分を請け出してくれる料簡があるならば、たとい立派というほどでなくとも、人並の引祝いをして廓を出られるようにしてくれと、彼女はしみじみ言った。
 これには次郎左衛門も返事に困った。今の身の上でとてもそんなことの出来そうな筈はないので、彼もなま返事をしてその場はいい加減に切り抜けたが、これも畢竟(ひっきょう)は治六の奴めが詰まらないことをしゃべったからである。彼はどう考えても治六が憎かった。
 日が暮れると、彼はふらふら[#「ふらふら」に傍点]と宿を出た。今夜は駕籠に乗らずに北をむいて歩いた。憎い奴だとは思いながらも、治六に離れて彼は心さびしかった。並木の通りには宵の灯がちらちら[#「ちらちら」に傍点]と揺れて、二十五日の暗い空は正面の観音堂の甍(いらか)の上に落ちかかるように垂れていた。風のない夜であったが、人のからだは霜を浴びているように寒かった。近いうちに雪が降るかも知れないと次郎左衛門は思った。
「吉原へ行こうか、行くまいか」と、彼は立ち停まって思案した。雷門はもう眼の前に立っていた。
 今夜行ったら八橋がまたゆうべの身請け話をくりかえすかも知れない。いつもいつも曖昧な返事ばかりもしていられない。治六のお蔭で自分はどうにもこうにもならないことになった。いっそ正直に今の身の上を打明けて、とても人並の身請けなどはできないと断わろうか。それが潔白で一番いいのであるが、それを聴いて八橋がなんと思うか、次郎左衛門はすこぶる不安心であった。彼は八橋にこんなことを聞かせたくなかった。ふところに金のある間は、なるべく佐野の大尽で押し通していたかった。
 彼は酒が飲みたくなった。今夜は宿屋で夕飯の膳に徳利(とくり)の乗っていないのを発見したが、彼は酒を持って来いとも言わなかった。宿の亭主もなんだか治六の味方をしているらしいのが、彼の癪にさわっていたからであった。どこへ行っても酒は飲めると、彼は碌々(ろくろく)に飯も食わずに宿を飛び出してしまったのであった。吉原へ行けばなんでも勝手なものが食える――それを知りながら彼は並木通りの小さな茶漬屋の暖簾(のれん)をくぐった。吉原へ行こうか、行くまいか、分別がまだ確かに決まらないからであった。
 田楽豆腐と香の物で彼はさびしく酒を飲んでいた。今夜に限って、吉原へ行くのがなんだか気が進まなかった。八橋から又ぞろ身請け話を持ち出されるのが何分つらいからであった。
「おれは男らしくない」
 こう思いながらも、彼は八橋の前で何もかも男らしく白状する勇気がなかった。八橋がどれほどに自分を思っていてくれるか、実はその見当がはっきり付いていないからであった。八橋は自分を嫌っていないものと彼は信じていた。しかしどれほどに自分を愛しているか、その寸法を測るべき物指しを彼はもっていなかった。自分が故郷を立ち退いて、今は一種の無宿者同様になっていることを知ったあかつきに、八橋はどんな態度を取るか。それは彼にも確かな想像はつかなかった。
 もし八橋が心底(しんそこ)から自分を思っていてくれるとしたら、彼は今更こんなことを言い出して、彼女の心を傷つけるに忍びなかった。もし又それほどに自分を思っていないとしたら、なまじいのことを言い出して、彼女の冷たい心の底を見せつけられるのも怖ろしかった。彼は男らしくないということを十分に意識していながらも、八橋に対しては、どうしても男らしい態度を取り得なかった。
 今夜は酒を飲んでもいい心持ちに酔えなかった。ほかに二、三人の客がはいって来て、何かいそがしそうに話していたが、それも次郎左衛門の耳へははいらなかった。彼は自分でも不思議なくらいに今夜は寂しく感じた。それはなぜだか判らなかった。
 彼は子供の時のことをふと思い出した。それは歳暮にでも持って行くらしい紙鳶(たこ)をぶらさげた職人の客がはいって来たからであった。彼は故郷の広い野原で紙鳶をあげた昔の春がそぞろに恋しくなった。その頃の喧嘩友達の名なども急に思い出された。
「治六がいなくなったせいではない」
 しいてそう思いながらも、やはり治六に離れたのが寂しかった。宿の亭主も自分の味方ではないらしかった。そんなことを考えると、彼は我ながら意気地がないと思うほどに寂しかった。いつもの彼の魂はどこへか抜け出してしまったように思われた。碌に酔いもしないで茶漬屋を出た彼は、これからどうしようかとまた迷った。吉原へ行くのはどうも気おくれがした。さりとてこのまま宿屋へ帰る気にもなれなかった。彼はただ無暗に寂しかった。この遣る瀬ない寂しさを打ち消すには、理屈も人情もない、なにか非常手段を取らなければならないように思われた。
「栄之丞の所へ行って見ようか」
 八橋の情夫(おとこ)という宝生栄之丞に逢って、八橋が身請けのことを掛け合って見たいような気になって、彼はまっすぐに大音寺前の方へ足を向けた。田舎みちに馴れている彼は、暗い田圃(たんぼ)を行くのはさのみ苦にもならなかった。彼はまばらな星明かりを頼りにして、方角をよく知らない田圃みちをさまよいながら、どうにかこうにか大音寺前まで辿(たど)って行った。

     八

 思いもつかない客におそわれて、栄之丞はどぎまぎしながら挨拶した。
「こんな所がよくお判りになりました」
「ここらだろうと思ってうろうろしていると、お前さんらしい謡(うた)いの声がきこえましたので……」と、次郎左衛門は笑いながら坐った。
 栄之丞も無理に笑顔を粧(つく)った。
「お独りですか」と、彼はまた訊いた。
「妹がおりましたが、一両日前にほかへやりました」と、栄之丞は火鉢に粉炭(こなずみ)をつぎながら答えた。
「おかたづきになりましたか」
「いえ、奉公に出しまして……」と、栄之丞はきまりが悪そうにうつむいた。
 思ったよりも侘びしげな暮らしの有様を見て、次郎左衛門は可哀そうになった。大兵庫屋の八橋の情夫はこんなにおちぶれているのかと思うと、彼は可哀そうを通り越して、栄之丞を軽蔑するような心持ちの方が強くなって来た。自分の従弟――八橋はそう言っている――が不自由な暮らしをしているという事は、かねて彼女からも聞かされていたが、まさかこれ程とは思っていなかった。
 かすかな火種では容易に火が起らないらしく、栄之丞は破れた扇で頻(しき)りに炭を煽いでいた。
「こっちへ来たらば、一度はお訪ね申そうと思いながら、いつも御無沙汰をしていました。八橋に聞きましたら、この頃はちっとも廓(なか)の方へもお出でがないそうで……」
 栄之丞は蒼白い顔を少し紅くした。次郎左衛門が今夜なにしに来たのか、彼は一種の不安に囚われて碌々に返事もできなかった。
「私はこのあいだ雷門でお目にかかってから、ゆうべまで続けて八橋の所へまいりました」と、次郎左衛門はにこにこ[#「にこにこ」に傍点]しながら言い出した。「今夜も行こうかと思って宿を出ましたが、途中でなんだか寂しくなったので、ふい[#「ふい」に傍点]とこちらへ伺おうと思い立ちました」
 吉原へ行くのがなぜさびしいか、それは栄之丞には判らなかった。彼は黙っておとなしく聴いていた。
「奉公人が詰まらないことをしゃべったもんですから、八橋はわたくしに身請けをしてくれと言うのです」
 八橋と自分との仲をうすうす覚った彼は、八橋を請け出すについて後日(ごにち)の苦情のないように縁切りの掛け合いに来たのであろうと、栄之丞は推量した。近頃はなるべく八橋と遠ざかるように心がけてはいたものの、彼女が自分には一言の相談もなしに次郎左衛門と身請けの話をすすめているかと思うと、栄之丞は決していい心持ちがしなかった。彼は火をあおいでいる扇の手を休めて、客の方に向き直った。
「ですが、わたくしに請け出されたら、栄之丞さん、八橋はお前さんをどうする気でしょう。いや、お隠しなさるには及びません。お前さんと八橋のことはもう知っています。それでも私はお前さんを正直な善い人だと思っています。わたくしはお前さんと喧嘩をする気にはなれない。いつまでも仲好くおつきあいをしていたいと思っている位です。そこで、お前さんに少し御相談があるんですが、聞いて下さいましょうか」
 いよいよ本文(ほんもん)にはいって来たなと栄之丞は思った。そうして、胸のうちでその返事の仕様をあれかこれかと臆病らしく考えていた。
「実はわたくしには身請けの金がないのです」と、次郎左衛門は思い切って言った。
 少し拍子抜けがした気味で、栄之丞は相手の顔をぼんやりと眺めていた。
「わたくしはもう昔の次郎左衛門ではございません」
 身代をつぶして故郷の佐野を立ち退いて来たことを彼は残らず打明けた。
 そこで、ふところに金のある間は今までの通りに華やかな遊びをして、金がなくなったら又なんとか考えようと、たった今までは平気で落ち着いていたが、なんだか急に心寂しくなって、どうもこの儘(まま)ではいられないような不安な心持ちになって来た。といって、わたくしが八橋を請け出すことになれば、どうしても千両以上の金がいる。その金はない。しかしお前さんから八橋に話をして、お前さんが請け出すという事になれば、親許身請けとでも何とでも名をつけて、その半額か或いは五百両下(した)で埒が明くことと思われる。わたくしは今ここに遣い残りの金を六百五十両ほど持っているから、みんなそれをお前さんに差し上げる。お前さんの掛け合い次第で、五百両で身請けができれば百五十両、四百両で話がまとまれば、二百五十両、その残りの金はみんなお前さんに差し上げるから、どうか八橋と縁を切ってもらいたい。むかしの次郎左衛門ならば、そんなさもしいことは言わない。千両箱を積んで八橋を請け出して、お前さんの眼の前にも手切れ金の四百両、五百両をならべて見せるが、それが出来ない今の身の上となっては、こんな手前勝手なことを言うよりほかはない。どうか悪しからず思ってくれと、彼は頼むように言った。
 次郎左衛門が自分にむかってこんなことを言い出すのはよくよくのことであろうと、栄之丞は気の毒でもあり、薄気味悪くもなって来た。実をいえば、自分も八橋を次郎左衛門に譲り渡して、その係り合いをぬけたいと考えている折柄であるから、八橋さえ納得すればそうしてもいいと彼は素直に考えた。たとい多少の不満足があるとしても、この場合、彼は眼のまえで次郎左衛門に反抗する力はなかった。
 そこで、彼はこう答えた。
「お話はよく判りました。出来ることやら出来ないことやら確かには判りませんが、身請けの儀は早速相談いたして見ましょう。但しその余分の金は、いかほどであろうとも手前が頂戴いたすわけには参りませんから、それは前もってお断わり申しておきます」
「ごもっともでございます。それはその時に又あらためて御相談をいたしましょう。まことに我儘(わがまま)なことばかり申し上げて相済みません」
 まったく我儘な申し分であった。自分が身請けをしたいのであるが、それだけの金がないから、お前の方から金のかからないように請け出してくれ。そうして、女はこっちへ渡せというのである。それも本当の親兄弟か親類ならば格別、その女の情夫ということを承知の上で頼むのである。栄之丞としては見くびられたとも貶(おと)しめられたとも、言いようのない侮蔑(ぶべつ)を蒙(こうむ)ったように感じた。
 それでも彼は争わなかった。争っても勝てないのを自覚しているのと、これまでこの人を欺(だま)していたのが、なんだか怖ろしいようにも思われるのと、この二つが彼の不満をおさえ付けて、容易に頭をもたげさせなかった。彼は忠実な奴僕(しもべ)のように次郎左衛門の前にひれ伏してしまった。
 浅草寺(せんそうじ)の五つ(午後八時)の鐘を聴いてから、次郎左衛門は暇を告げて出た。出るとやはり吉原が恋しくなった。
 彼は大音寺前の細い路をつたって、堤(どて)の方へ暗いなかを急いで行った。
 威勢のいい四手(よつで)駕籠が次郎左衛門を追い越して飛んで行った。その提灯の灯が七、八間も行き過ぎたと思う頃に、足早に次郎左衛門の後をつけて来た者があった。と思うと、抜打ちの太刀風に彼は早くも身をかわした。武芸の心得のある彼は路ばたの立ち木をうしろにして、闇(やみ)を睨んで叫んだ。
「人違いでございましょう」
 まったく人違いであったのか、あるいはこっちに心得があると思ったためか、相手は無言で刃(やいば)を引いて、もと来た方へ一散に駈けて行ってしまった。

     九

 次郎左衛門を驚かしたのは、そのころ折りおりに行なわれる辻斬りであった。意趣(いしゅ)も遺恨(いこん)もない通りがかりの人間を斬り倒して、刀の斬れ味を試すという乱暴な侍のいたずらであった。一刀で斬り損じるか、もしくは相手が少し手ごわいと見れば、すぐに刃を引いて逃げるのが彼等の習いであった、次郎左衛門もそれを知っていた。
「辻斬りか、栄之丞か」
 彼は立ち停まって考えた。しかし場合が場合だけに、彼は栄之丞を疑った。うわべは素直に何もかも承知しておいて、あとから付けて来ておれを闇撃(やみう)ちにする――どうもそれらしく思われてならなかった。
 もともと今夜の相談は自分の方が少し無理である。無理は自分も万々承知している。しかし無理ならば無理で、なぜ面とむかって不承知を言わない。おとなしそうな顔をして万事呑み込んでおきながら、暗い所でおれを亡(な)い者にしようとする。どう考えても面白くない奴だ。弱い奴だ、卑怯な奴だ、憎い奴だと、次郎左衛門は腹立たしくなった。
「よし、これからもう一度引っ返して行って、あいつの素(そ)っ首を叩き落してやろう」
 彼はむらむら[#「むらむら」に傍点]として、ふた足三足行きかけたが又かんがえた。あんな意気地のない奴でも人ひとりを殺せば、こっちも罪をきなければならない。罪人になったら八橋にも、もう逢えまい。こう思うと彼の張り詰めた気もまたくじけた。忌々(いまいま)しいが我慢する方が無事であろう、打っちゃって置いたところで、あんな意気地なしがこの後なにをなし得るものでもないと、彼は多寡をくくって胸をさすった。
 真っ暗な枯れ田の上を雁が啼(な)いて通った。ここらへ来ると、夜風が真っ北から吹きおろして来て、次郎左衛門は顫(ふる)えあがるほど寒くなった。つい目の前の廓では二挺鼓(にちょうつづみ)の音が賑やかにきこえた。次郎左衛門はもう何も考えずに、まっすぐに吉原の方へむいて行った。
 いつもの通りに立花屋から送られて、彼は兵庫屋の客となった。その晩、座敷が引けてから次郎左衛門は八橋になにげなく訊いた。
「栄之丞さんはこの頃ちっとも見えないのか」
「ちっともたよりはありんせん」と、八橋は冷やかに答えた。
「なぜだろう」
「なぜか知りんせんが、あんな不実な人はどうなっても構いいせん」と、八橋はさらに罵(ののし)るように言った。
 親身の従弟(いとこ)と思えばこそ、自分もこれまでに随分面倒も見てやった。それにこの頃は何のたよりもしない、顔も見せない。あんな不人情な人はどうなっても構わない、一生逢わないでも構わないと、八橋はさもさも見限ったように言った。嘘とほんとうが半分ずつまじっているこの話を、次郎左衛門は一種の興味をもって聴いていた。
 それからだんだん捜(さぐ)りを入れて見ると、八橋はまったく栄之丞に愛想をつかしているらしく思われた。あんな不実な奴はどうなっても構わないと、本当に思っているらしかった。
 そこへ新造の浮橋が来て、今夜はどうして治六を連れて来ないかと訊いた。あいつは勘当したと次郎左衛門は正直に答えると、二人の女は黙って顔を見合せていた。治六の噂がいとぐちになって、又ぞろゆうべの身請けの話が出た。
「三月になると国へ一度帰る。そうして、金を持って来るから待ってくれ」
 次郎左衛門もよんどころなしに一時のがれの嘘を言った。浮橋が出て行ったあとで、八橋は急に泣き出した。
「堪忍しておくんなんし」
 今までお前を欺していたが、栄之丞は自分の従弟(いとこ)ではない、実は自分の情夫(おとこ)であるということを、八橋は泣いて白状した。いくらこっちでばかり親切を運んでも、むこうではなんとも思ってくれないで、この頃はなるたけ逃げようとしている。現に達者で雷門を歩いていながら、病気だといって廓へは寄り付かない。そんな不人情な男はわたしもすっぱりと思い切った。あきらめてしまった。さてそうなると、こうして廓にいてもなんの望みもない、楽しみもない、一日も早く苦界(くがい)をぬけたい。今のわたしが杖柱(つえはしら)と取りすがるのは、お前ばかりである。一つには不実な男の顔を見返すためと、二つには廓の苦を逃がれるために、どうぞわたしを請け出してくれと、彼女は繰り返して頼んだ。
「今まで欺していたのが憎いと思いんすなら、請け出して三日でも女房にした上で、突くとも斬るとも勝手にしておくんなんし」
 彼女は次郎左衛門の前にからだを投げ出した。栄之丞のことはとうの昔から承知しているので、今この白状を聴いても次郎左衛門は別に驚きもしなかった。むしろ八橋の口からこの正直な白状を聴いたのをこころよく思った。よく白状してくれたと嬉しく思った。しかも悲しいことには、今の自分にはその願いを肯(き)き入れるだけの力がない。千両に足りない金で八橋のからだをどうすることも出来ないのは判り切っていた。
「八橋も白状した。おれも男らしく白状しようか」
 相手が正直に何もかも白状した上は、自分も今の身の上を正直に白状すべきである。折角の頼みではあるが、今の次郎左衛門としてはお前をどうすることも出来ないと、彼は正直に打明けなければならないと思った。しかし彼は自分でも歯がゆいほどに男らしくなかった。女の前で宿なし同様の今の身分を明かすのは如何にも辛かった。彼の胸の底には、やはり佐野のお大尽で押し通していたいという果敢(はか)ない虚栄(みえ)があった。
「治六がゆうべどんなことを言ったのだ」と、彼はまた捜りを入れた。
 あるいは無考えの治六めが今の境界をべらべらしゃべっているのではないかという不安もあった。八橋の口ぶりによると、治六もさすがにそんなことは口外しなかったらしく思われたので、次郎左衛門もまず安心したが、それにしても乗りかかった舟の楫(かじ)を右へも左へも向けることは出来なかった。彼はどこまでも嘘で押し通すよりほかはないので、苦しいながらも前の誓い――偽りの誓いをまた繰り返した。
「さっきもいう通り、来年の三月には国へ帰って身請けの金を持って来る」
「ほんとうざますか」
「嘘はつかない」
 次郎左衛門は息が詰まるほどに苦しくなった。今までは八橋が自分をだましていたのであるが、今は自分が八橋をだましているのである。だまされている身よりも、だましている身の方がどのくらい切(せつ)ないか判らないと、彼はつくづく情けなくなった。彼は夜の明けないうちに逃げ出したくなって来た。
 八橋の方では容易に帰そうとはしなかった。彼女は全く栄之丞を見捨てた証拠だといって、掛守(かけまもり)の中から男の起請(きしょう)を出して見せた。
「この通り、よく見ておくんなんし」
 彼女はその起請をずたずた[#「ずたずた」に傍点]に引き裂いて、行燈の火にあてると、紅い小さい焔がへらへら[#「へらへら」に傍点]と燃えあがった。彼女は更にその火を枕もとの手あぶりに投げ込むと、焔(ほのお)はぱっと大きく燃えて、見る見るうちに薄白い灰となった。
 恋の果てはこうしたものかと思うと、次郎左衛門はなんだか果敢ないような心持ちにもなった。それと同時に子供が蟻(あり)やみみずを踏み殺した時のような、一種の残忍な愉快と誇りを感じた。弱い栄之丞はおれの足の下に踏みにじられてしまったのだと思った。
 その灰の中から栄之丞の蒼白い顔が浮き出したかのように、八橋は眼を据えて煙りのゆくえをじっと見つめていた。彼女の顔も物凄いほどに蒼白かった。やがて彼女は次郎左衛門の方をしずかに見かえった。二人は黙ってほほえんだ。

 あくる朝、次郎左衛門が帰る時にも、八橋は茶屋まで送って来て、身請けのことをくれぐれも頼んだ。
「ほんとうざますか」と、彼女はここでも念を押した。
「嘘はつかない」と、次郎左衛門も同じ誓いをくりかえして別れた。
 仲の町には冬の霜が一面に白かった。次郎左衛門を乗せた駕籠が大門(おおもん)を出ると、枝ばかりの見返り柳が師走の朝風に痩せた影をふるわせていた。垂れをおろしている駕籠の中も寒かった。茶屋で一杯飲んだ朝酒ももう醒めて、次郎左衛門は幾たびか身ぶるいした。
 初めから相手に足らないやつとは思っていたが、それでも栄之丞を見事に蹴倒してしまったということは、次郎左衛門に言い知れぬ満足を与えた。ゆうべの闇撃(やみう)ち以来、にわかに栄之丞を憎むようになった彼に取っては、殊にそれがこころよく感じられた。八橋が栄之丞を見限ったということが嬉しかった。
「八橋はもうおれの物ときまった」
 それに付けても、彼は八橋を欺(あざむ)いているのが気にかかった。いっそこれから廓へ引っ返して、自分が今の境遇をあからさまに打明けようかとも思ったが、彼はやはり臆病であった。いよいよどん底へ落ちるまでは、あくまでも嘘をつき通していたかった。その三月が来たらどうする。その三月が来るまでに、ふところの金がもう尽きてしまったらどうする。次郎左衛門は努めてそんなことを考えまいとしていた。
 栄之丞を弱いやつだと笑ったおれも、やっぱり弱い奴であった。栄之丞を卑怯な奴だと罵ったおれも、やっぱり卑怯者であった。そう思いながらも、彼は自分を自分でどうすることも出来なかった。歯がゆいような、情けないような、辛いような、こぐらかった思いに責められて、彼は一人でいらいら[#「いらいら」に傍点]していた。
 次郎左衛門はその後も八橋のところに入りびたっていた。暮れから春の七草までに彼は四百両あまりの金を振り撒いてしまった。どこまでも佐野のお大尽で押し通そうという見得(みえ)が手伝って、彼はむやみに金をつかった。自分の内幕を八橋に覚られまいという懸念から、彼はいつもよりも金づかいをあらくして見せた。ほかの客はみんな蹴散らされた。
 栄之丞は踏みつぶしてしまった。ほかの客は蹴散らしてしまった。次郎左衛門は今が得意の絶頂であった。彼は天下を取った将軍のようにも感じた。しかもその肚(はら)の底には抑え切れない寂しさがひしひしと迫って来た。
 芸妓や幇間(たいこ)が囃(はや)し立てて、兵庫屋の二階じゅうが崩れるような騒ぎのあいだにも、彼はときどきに涙ぐまれるほど寂しいことがあった。治六のことが思い出されたりした。元日から七草まで流連(いつづけ)をして、八日の午(ひる)頃に初めて馬喰町の宿へ帰ると、治六は帳場の前に坐って亭主と話していた。
「旦那さま。おめでとうござります」
 治六はもとの主人の前にうやうやしく手をついた。
「お帰んなさいまし」と、亭主も会釈した。
 それらを耳にも掛けないように、次郎左衛門は二階へすたすた[#「すたすた」に傍点]昇って行った。
 さすがに遊び疲れたような心持ちで次郎左衛門はぼんやりと角火鉢の前に坐ると、亭主は自分で土瓶(どびん)と茶碗とを運んで来た。
「松の内もいいあんばいにお天気がつづきました」
 彼は手ずから茶をついで出した。それは治六が帰参の訴訟に来たものと次郎左衛門も直ぐにさとった。彼はわざと苦(にが)い顔をして黙っていると、果たして亭主はそれを言い出した。
「治六さんもしきりに頼んでおります。わたくしも共どもにお詫びをいたしますから、どうか幾重にも御料簡を……」
 次郎左衛門は顔をそむけて聴かないふうをしていた。離れていると何だか寂しいようにも思いながら、顔を見ると彼はやっぱり治六が憎くてならなかった。

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