お里の利溌を余計愛してゐた宗右衛門が、今はお里が誰よりも怖ろしくなつた。やがてそれがいくらかの憎しみともなつた。小夜が不憫で、うつかり離れ家へ向けようとした足も、お里を考へてぎつくりと止まる。商売の算段もなまり、倉々を見廻る眼力もにぶつたが、人知れず遠くから離れ家を見詰める宗右衛門の眼の色は、異様に光つた。美しいゆゑに余計に醜い娘達の異形が、追々宗右衛門の不思議な苦難の妄執となつて附纏つた。
或る夜も宗右衛門は眼を覚した。広い十畳の間にひとり宗右衛門は寝てゐたのである。宵に降つた雨の名残の木雫が、ぽたり/\と屋根を打つてゐた。蒸し暑いので宗右衛門は夜具をかいのけ、煙草を喫はうとして起き上つた。床の上に座つて枕元の煙管をとりあげた。引き寄せて見ると生憎、煙草盆の埋火が消えてゐたので、行燈の方へ膝を向けた――自然、まつすぐに離れ家の方を彼は向いてしまつたのである。――
(しまつた!)
彼は喉元で自分を叱つた。宗右衛門にとつては最早や此頃の二人の娘は妄鬼であつた。離れ家はまさしく妄者の棲家であつた。またしても、お小夜とお里と、それに時たまの例となつて、死んだお辻さへ異形のなかの一例となつて宗右衛門の眼前をぐる/\とめぐつた。
宗右衛門は煙草を置いて、夏のはじめ泰松寺の老師から伝授されたうろ覚えの懺悔文をあわてゝ中音に唱へ始めた。
我昔所造諸悪業 皆由無始貪瞋痴
従身語意之所生 一切我今皆懺悔
この口唱が一しきり済んで、娘達のまぼろしの一めぐりしたあとへ、屋敷内のありとあらゆる倉々の俤が彼の眼の前で躍り始めた。黒塗りに光る醤油倉、腰板鎧の味噌倉、そのほか厳丈な石作りの米倉、豆倉。
彼は、今度は少し大きな声で経を誦し続けた。だが、まばたき一つで、また娘達のまぼろしがかへつて来た。
読経の声が、ずつと高くなると娘達の姿はかき消えて、今度は店の番頭小僧、はした達のまぼろしがぞろ/\眼の前をとほり始めた。
瞼をべつかつこうした小僧もあり、平身低頭の老番頭、そのかげから、昔、かけ先きの間違ひで無体に解雇した中年の男のうらめしさうな顔も出る。
宗右衛門はふら/\と起き上ると、あやふくのめりさうになつた。が、辛うじて足を踏みしめて再び蒲団の上にかしこまつた。そしてすつかり正式の読経の姿勢になつた。前の懺悔文を立てつゞけに誦し続けた。
宗右衛門は夏の始めから、泰松寺の仏弟子となつてゐた。お辻が死んで一ヶ月程たつてからである。或日宗右衛門は生来の我慢を折つて、泰松寺の老師の膝下にひざまづいたのであつた。彼は突然、信仰心を起したといふわけではなかつた。彼が寂しさ苦しさのあまり、自分を救ふ何等かの手段を、衆生済度僧たる老師が持ち合せるであらうといふ一面功利的な思ひつきからでもあつた。その時、老師は、梅雨の晴れ上つた午後の日ざしがあかるくさした障子をうしろに端座してゐた。中庭には芍薬が見事に咲き盛つてゐた。宗右衛門はお辻の葬式以来、ます/\老師のにび色姿が尊く思へた。今日は一層、その念を深めた。が、直ぐさま自分の心持ちも言ひ出せなかつた。老師は宗右衛門の娘達の不幸を先づ頭に思ひ浮べた。次に彼の妻お辻の死を思つた。
「まあ、あなたの心は、大抵、わしにも判る。時々来て見なされ」
老師は、にこやかに言つて小僧に茶を運ばせた。
それ以来、宗右衛門の泰松寺通ひの噂が添田家の内外に高くなつた。宗右衛門は商売も追々番頭にまかせ勝ちになつて行つた。
夏もだん/\ふけて行つた。仏教の初歩の因果応報説が極くわづかに宗右衛門の耳に這入つて来た。過去の悪業が、かりに娘の異状となつて現はれたと観念することは出来ぬかと老師は宗右衛門に問ふてみた。
「めつさうなこと、私は人の命をあやめたことも、人の品物をかすめた覚えもありません」
宗右衛門は不断の剛情を思はず出して殆ど老師に反抗的な口調で言つた。老師は手を振つて静かに説いた。
「それは違ふ、眼にも見えず、形にもあらはれぬ業といふ重荷を、われ/\はどれほど過ぎ来しかたに人にも自身にも荷はせてゐるか知れぬ」
老師の重々しい口調の下に宗右衛門はうちひしがれた。
「さうで御座いませうかなあ。私が剛情者といふことは自分でもはつきり判ります。が、それでまたあの身代をこしらへましたので、剛情も別に悪いことゝは思ひませんでしたが」
「ではあなたは、なぜあの身代だけで満足しなさらぬな、娘衆がどうならうと、妻女がその為めに死になさらうと……」
宗右衛門は、はつと頭を下げた。
「では、御老師、私はどういたしたらその業とやらが果せませうか」
「さあ、眼にも見ず、形の上でも犯さぬ業ならば、やつぱり心の上で、徐々に返すよりほかはあるまい――まづこの呪文を暇のある毎に唱へなさい。心からこれを唱へれば、懺悔の心がいつか自分の過去現在未来に渡つて泌み入り、悪業が自然と滅して行く」
宗右衛門は、いつか眼に見えぬ形をなさぬ業因を自分の過去に探り初めてゐた。
宗右衛門の父祖は北国の或藩の重職にあつた。が、その藩が一不祥事の為め瓦解に逢ふや、草深い武蔵野の貧農となつて身を晦ました。宗右衛門の両親は、その不遇の為めに早世した。武家へ生れても孤児の宗右衛門は何の躾も薫育も授からず、その部落の同情で辛うじて八九歳までの寿命を延ばしたに過ぎない。そして江戸の或る御用商人の小僧にやられた。覇気と頑強と、精力的なので多少主人を顰蹙させ、朋輩達に憎がられはしても、どんどん彼は他を抜いて行つた。こんな具合で彼は二十歳をあまり過ぎなくて最早や出入りの諸大名の用人達に彼の非凡な商才と勤勉とを認められた。それのみならず、争はれぬ血統からとでも言はうか、彼は無学頑強なうちにも、おのづからなる折目躾を持ち、武家への応待に一種の才能をさへ持つてゐた。今や彼は衆を圧し、老練な一番々頭をまで抜いて店の主権をかち得ようとした。その時、突然、主人夫妻は、流行の悪疫で同時に死んで行つてしまつたのである。店は間もなく瓦解した。多くの奉公人達も自然と離散した。が殆どその時の店の中心であつた彼は単純に身を退くわけには行かなかつた。主人が独り遺した娘のお辻は、自然と彼の手中に来て、彼の妻となり、老齢で隠居した一番々頭の外に、主人の得意を譲りうけるものはなかつたので、その結果も自然と彼の処へ来た。
江戸の西郊、彼の卜した地の利も彼に幸ひした。彼のその精力と頑強と覇気とを余すところなく発揮した。主人から譲り受けた出入り先きの五倍、七倍、十倍、年と共に得意の大名の数を増し、二十余台の馬力車は彼の広大な屋敷内に羅列する幾十の倉々から荷を載せて毎日、江戸へ向けて出発した。江戸へ三里の往還には、いつの日もその積荷の影を絶たなかつた。彼の身辺には江戸近郷、遠くは北国西国の果からまで、何百人かの男女の雇人が密集した。彼は健康で年寄ることも忘れてゐた。妻は従順であり娘達は美しく育つた……。
彼は自分の発展と幸福の順路を、彼の三十余年間の勤勉と律気から得た当然の報酬としか、どうしても考へられない。彼は懺悔文の一札を手にして、いくらかの不平をさへ感じた――もつとも彼は妻の葬儀の時、妻に対していくらかの悔と憐憫は感じた。が、その程度の償ひとして充分あの時追悼はしてやつた――彼はまた幾らか奉公人に酷な所もなかつたかと省みられる節もないではない。しかし、それも結局、やくざ者を用捨なく解雇し、懲戒するだけであつて、その償ひは質の好い使用人を優待することで充分償はれてゐる筈であるが……はて何であらう、何が斯うまで酷く自分の今の運命に祟つて来た業因であらう
「まあ何でもよい、あまりな、その一念を、ひとつ所に凝らさぬがよい。凝つて凝り過ぎると必ずそこに妄想をひく、娘衆が妄者に見えても困るではないか。何も忘れてな、暫らく暢気にしてゐたが宜い。そしてあんまり気が腐つたら、あの懺悔文を読むことぢや」
老師はこれ以上難かしい教理など言つて聞かしても、なか/\判りさうもない宗右衛門を、ひたすら現在のまゝでなだめた。
宗右衛門は、一時は自分から進んで難かしい経典などに親しみ、早く何事かを探り当て、どうにかして救はれようとあせつた。しかし彼には徒らに判読しがたい文字の羅列であつた。現在の彼の悩みをさそくに救つて呉れなかつた。家に居れば彼は離れ家のことばかり気になつてゐた。二人の娘に対しての無沙汰がいつも彼は気がゝりであつた。素気ない此頃の父に対する二人の娘の思はくが一通りならぬ彼のなやみの種であつた。しかし、それよりも彼を恐怖の頂上に引き上げるものは、何といつても二人の娘の異形を見なければならないことであつた。
二人は全然、離れ家から出て来なかつた。それでも彼は、家に居れば直ぐ近くに離れ家のけはひを感じた。奥庭の小径の奥筑波井の向うの梔の隙、低い風流な離れ家の棟。それが何度一日に彼の目につくことであらう。結局彼はいつとはなしに娘達と遠ざかつて行つてしまつた。最早や娘達に弁解の言葉も尽きた。彼の病的に弱つた神経がだん/\娘達への見栄や虚構の力をも失つて行つた。離れ家の方から使ひに来る下婢達の姿にも顔をそむけるやうに彼はなつた。
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